2018年12月27日木曜日

穴師塚は 横枕火葬墓群の 約 600 メートル西にある

 夏ごろに検討を開始してもはや年末なのだけれど、「穴師塚」の場所について推定座標の決着をつけたい。
 まず地名辞書にも出てくる「穴師山」なのだがこれは「巻向山」なのだと、書いてある。

『角川日本地名大辞典』 29 奈良県

 あなしじんじゃ 穴師神社〈桜井市〉

桜井市穴師字宮浦にある神社。旧県社。当社は「延喜式」の神名上に見える穴師坐兵主神社・穴師大兵主神社・巻向坐若御魂神社の 3 社を合祀したもので、穴師神社はその総称である。当社はもと上社と下社に分かれ、下社が穴師大兵主神社で現在地に鎮座、上社は穴師坐兵主神社で巻向山中にあったが、応仁の乱の頃に焼失したので、御神体を下社に合祀し、同時に同じく山中に鎮座していた巻向坐若御魂神社も下社に合祀されたという(穴師坐兵主神社明細帳・大和志料)。現社殿 3 棟の中央社殿が穴師坐兵主神社、左殿が穴師大兵主神社、右殿が巻向坐若御魂神社。穴師坐兵主神社はもと巻向山(穴師山)にあり、垂仁天皇 2 年に鎮祭されたと伝える(穴師坐兵主神社明細帳)。……
〔『角川日本地名大辞典』 29 奈良県 (p. 96)

 この穴師山とは、現在は三角点が設定されている〈基準点名「穴師」標高 409m 地点〉と推定される。また、同じく巻向山中にあり応仁の乱の頃に焼失したと伝えられる巻向坐若御魂神社のかつての所在地は、小川光三氏の『大和の原像』に記された、穴師塚のある場所なのであろうと思われるのである。
 小川光三氏の『大和の原像』の 127 ページに、こう記述されている。

 このあたりには、現在大兵主神社に合祀されている「若御魂[わかみむすび]神社」があったという伝承がある。

―― 小川氏がその伝承に基づいて現地を歩き、そして地元のひとびとに取材した記録が、続いて次のようにつづられている。

 以前に面識のあった元区長の N 氏を訪れると、私の目差すあたりの山中に詳しいという T 翁を紹介された。幸い在宅中の翁は突然の申し出に快く応じて、座敷に広げた地図に私が指差す地点をしばらく見守っていたが、「ふうん、横枕[よこまくら]の先の方やと穴師塚やな」。低いがはっきりした声でそう言い切った。地図を覗き込んでいた同行の O 君が、思わずニヤッとして私の顔を見上げたが、私は期待していた言葉とはいえ、こうはっきりと開かされると思わずハッとして翁の口元を見詰めた。しばらくして再び口を開いた翁は、この山の南山麓に「都谷[みやこだに]」の地名がありこれは穴師社のあったことに由来すること、そこに小祠があってこの山の方角を拝むようになっていたこと、元檜原は都谷のあたりらしいこと、更にこの山の東方約六百メートルに横枕という所があり、ここから石帯・和同開珎のつまった壺、そのほか多数の土器類・骨壺等が出土したことなどをゆっくりした口調で話してくれた。これで B 点には穴師上社(兵主神社)の父神という若御魂社があったらしいことがほぼ明らかにすることが出来たわけだが、考えてみると、御食津神の父神という伝承はまことに奇妙ではないか。これが何を意味し、何に由来するのかという手がかりは全く無く、大兵主神社にその伝承について尋ねてみたが、ただそのように伝えられているというのみで、古文書がすべて散逸した今は詳しいことがわからぬとのことであった。父神というのは、新宮[にいみや]に対する本宮[もとみや]の意味なのか、単なる奥の院的なものなのかは不明である。だが、もし前者の意味があるとすれば、この上の郷一帯に注目する必要がある。
〔小川光三/著『大和の原像』 (pp. 128-130)


―― さてこの内容から推定される座標を記録しておこう。東から、次の通り。

横枕火葬墓群」標高 500.5 m 地点 (34.556720, 135.884930 )
巻向坐若御魂神社跡穴師塚」標高 500.0 m 地点 (34.556459, 135.877737)

穴師山と思われる山頂は、基準点名「穴師」標高 409m 地点 (34.548149, 135.867378 )

である。これらの所在地が、以前(2018年7月23日月曜日)に検討した「箸墓古墳」と「天神社」および「天神山」とを結んだ〝ほぼ直角三角形〟とどのような位置関係にあるのかも、以下に書いておこう。
 ちなみに、「箸墓古墳の中軸線が示す方角」(2018年7月25日水曜日)では、次に示す引用文を説明の一部に用いていた。

 ○ さて、北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』の 159 ページには、次のように書かれている。

箸墓古墳の軸線と弓月岳 409 m ピークは 0.1° (6′) の誤差をもち、西山古墳の軸線と高橋山 704 m ピークは 0.4° (24′) の誤差をもつ。これが資料の実態であるから、この誤差ゆえに私の主張する事実関係には厳密さが伴わないとの批判もありうることである。しかしこの程度の誤差は許容される範囲内だと私は判断するが、そのいっぽうで、纒向石塚古墳の場合には検討が必要である。その前方部は三輪山山頂を向くと判断できるか否かであるが、本古墳にたいする私の築造企画復元案では、3.2° の振れ幅をもって三輪山山頂方向に軸線を向けることになり、それを意味のある事実とみなすか単なる偶然とみなすべきかの判断は微妙である。
〔『古墳の方位と太陽』「第 5 章 大和東南部古墳群」 (p. 159)

 北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』(pp. 159-160) では、箸墓古墳の中軸線は 22.3 度と示されているので、自前の計算による弓月岳に向かうラインの角度 22.38 度とは、約 0.1 度の誤差が発生することになる。
 そして、その日の出の角度というのはおおよそ五月の中旬頃になるのであるが、奈良県のホームページなどでも、それは「田植えの始まる時期」だと記述されていることを、「箸墓古墳から夕月岳へのライン」(2018年7月28日土曜日)で確認したのだった。

 今回、改めてそれらの座標を示しておこう。

箸墓古墳」(34.53929, 135.84125)
天神社」(34.57365, 135.91587)
基準点名「天神山」標高 455.06 m 地点 (34.539126, 135.914891)


―― 自前の計算式で座標間の計算を行なったその他の結果は次の通り。

● ここで「横枕火葬墓群」(34.556720, 135.884930) を A 地点として、
● さらに「穴師塚」(34.556459, 135.877737) を B 地点として、

設定すれば、A 地点は角度にして 2.52 度、 B 地点よりも北にあって、

○ A - B 間の〔水平〕距離は、0.659 ㎞ と、計算された。

 これらの数値が何を意味するのかそれとも何も意味しないのかは、さっぱりわからない。

「箸墓古墳」から東北東に 29.21 度で「天神社」に到達し、その距離は、7.824 ㎞ である。
「箸墓古墳」から東北東に 29.74 度で「穴師塚」に到達し、その距離は、3.846 ㎞ であるので、
「箸墓古墳」から「天神社」に至るほぼ中間点に「穴師塚/巻向坐若御魂神社跡」は所在するといえる。

 また一方で、横枕の火葬墳墓は、龍王山 (34.561491, 135.874389) から東南東、約 30 度で天神山に向かうライン上に、ほぼ位置する。

「龍王山」から、東南東に 33.84 度で「天神山」に到達し、その距離は、4.462 ㎞ である。
「龍王山」から、東南東に 28.79 度で「横枕火葬墓群」に到達し、その距離は、1.101 ㎞ である。

 これらの数値が何を意味するのか何も意味しないのかは、やっぱりわからない。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

穴師塚: 夕月岳 / 穴師坐兵主神社
https://sites.google.com/view/geshi-lines/hijiri/anashi

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

穴師塚: 夕月岳 / 穴師坐兵主神社 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hijiri/anashi.html


座標間の水平距離と角度は、以下のページの座標データに基づいて計算しています。

修正版 一覧表データの座標間の距離と角度を計算するページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hijiri/nCoord.html

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