2018年9月11日火曜日

〈天叢雲剣〉の出現 Ⅱ

―― 昨日引用した文章中に、

「天子の気」とは王者たるものが発散する一種の気体、むろん特定のものにしか見えない(本冊「項羽本紀」四六ページ参照)。

というのがあったけれど、まずその「項羽本紀」の参照ページを、追加して引用しておこう。

『史記』楚漢篇 より

當是時。項羽兵四十萬。在新豐鴻門。沛公兵十萬。在覇上。范增說項羽曰。沛公居山東時。貪於財貨。好美姬。今入關。財物無所取。婦女無所幸。此其志不在小。吾令人望共氣。皆爲龍虎成五采。此天子氣也。急擊勿失。
是[こ]の時に当り、項羽の兵は四十万、新豊[しんぽう]の鴻門[こうもん]に在り。沛公の兵は十万、覇上[はじょう]に在り。范増[はんぞう]、項羽に説きて曰く、「沛公の山東に居りし時は、財貨に貪[たん]にして、美姫を好[この]めり。今、関を入りては、財物も取る所なく、婦女も幸する所なし。此れ其の志、小に在らざるなり。吾[われ]、人をして其の気を望ましむるに、皆竜虎と為[な]り、五采を成す。此れ天子の気なり。急ぎ撃ちて失う勿[なか]れ」と。
〔朝日選書『史記』中 楚漢篇「項羽本紀」(pp. 46-47)

―― これが天子の気の説明となる。また、

『大系本 古事記』は八岐大蛇を斬った「この剣は最初からクサナギという名であった」とする。

と書いたのは、『大系本 古事記』(日本古典文学大系『古事記 祝詞』)の頭注にそのように記されている、ということで、なぜわざわざそう注釈されているのか、今回の最後に謎解きとなる。問題はなぜ、日本書紀が割注に「一書云」として、〈天叢雲劒〉の名を記したのか、ということなのだ。
 訓み下し文では、次のように記述されていた。

草薙劒、此をば倶娑那伎能都留伎と云ふ。一書に云はく、本の名は天叢雲劒。蓋し大蛇居る上に、常に雲氣有り。
〔日本古典文学大系『日本書紀 上』(p. 122) より〕

 さて、昨日の続き。

スサノヲが蛇を斬った剣の名称は

〈韓鋤剣〉とも伝えられる


○ 中国の『三国志』に残された記録で、当時の、朝鮮半島の情勢がうかがえる。

『正史 三国志 4』 「魏書 Ⅳ」 烏丸鮮卑東夷伝 第三十 〔東夷伝〕より
 辰韓[しんかん]は、馬韓の東方に位置する。その地の古老たちが代々いい伝えるところでは、自分たちは古[いにしえ]の逃亡者の子孫で、秦の労役をのがれて韓の国へやって来たとき、馬韓がその東部の土地を割[さ]いて与えてくれたのだ、とのことである。…… 現在でも彼らのことを秦韓と呼ぶものがいる。もともと六国であったが、だんだんと分かれて十二国になった。
 弁辰[べんしん]も十二国からなり、さらにいくつかの地方的な小さな中心地があって、それぞれに渠帥[きょすい](首領)がいる。…… 弁韓と辰韓とで合わせて二十四国、大きな国は四、五千家からなり、小さな国は六、七百家からなって、あわせて四、五万戸がある。そのうちの十二国は辰王に属している。辰王の王位は、かつて馬韓の者が即[つ]くことになって以来、代々ずっとそのままで来た。辰王の位は〔馬韓にかぎられていて、辰韓のものが〕自ら王位に即くことはできない〔一〕。
 土地は肥えていて、五穀や稲を植えるのに適し、人々は蚕桑の業に通じて、縑布[かとりぎぬ]を織る。牛や馬に乗ったり車を引かせたりする。婚姻の礼には、男女ではっきりとした区別がある。大きな鳥の羽根を死者に随葬するが、死者に天高く飛んで行かせようと意図してそうするのである〔二〕。この国は鉄を産し、韓・濊・倭はそれぞれここから鉄を手に入れている。物の交易にはすべて鉄を用いて、ちょうど中国で銭を用いるようであり、またその鉄を楽浪と帯方の二郡にも供給している。……
〔一〕『魏略』にいう。確かに彼らが流亡の民であればこそ、馬韓の支配下にあるのである。
〔二〕『魏略』にいう。その国で建物を作る時には、木材を横につみ重ねて作る。牢獄のような格好である。
〔『正史 三国志 4』(pp. 467-469)

―― 上記の弁辰の条に記述されているごとく、3 世紀当時に、倭(ヤマト)も鉄を持ち帰っていたようだ。

○ 古代の朝鮮半島の製鉄技術に関する情報は、『朝鮮古代中世科学技術史研究』に収録された論文に詳しい。

康忠熙「古代朝鮮の製鉄技術」
 (p. 77)
 朝鮮における鉄生産がいつから始まったかを正確にすることはむずかしいことであるが、朝鮮西北地方と遼東地方で、青銅器冶金が盛んであった BC8~7 世紀頃、既に、鴨緑江中上流と豆満江流域では錬鉄が生産されていたことがわかった。また、BC7~5 世紀頃と推定される茂山虎谷遺跡第 5 文化層から出土した鉄斧の分析結果は、それが完全に溶けた銑鉄から鋳造されたものであることもわかった。
 同じく、BC4~3 世紀のものと思われる同じ遺跡の第 6 文化層と慈江道魯南里、豊清里、土城里、平安北道細竹里など BC2 世紀前後の遺跡から出土した鉄器の分析結果によると、銑鉄製品とともに鋼の製品もあることが確認された。これらのことから朝鮮で銑鉄が生産され始めた時期は BC6 世紀前後で、銑鉄から鋼を生産したのは BC3 世紀頃と推定される。
 (p. 80)
 鋼製品の遺物としては斧、槍、小刀、鉄片などが出ているが年代としては BC3 世紀から紀元前後の時期に属する。
 (pp. 81-82)
 朝鮮の古代製鉄技術発展のなかでもう一つ注目されることは、鋼材の質を高めるための熱処理がなされていたことである。豊清里から出土した斧は袋の部分を左右に重ねて鍛造したもので、その金属組織はフェライト・パーライトで結晶粒が非常に微細なことから充分に鍛錬されたものであったことがわかる。
 また、虎谷の斧などの組織は頭部と刃の部分が異なっていて、頭部はパーライト・セメンタイトで刃部は粒状パーライトのみで組織は緻密である。熱処理が施されたものとしては BC3~2 世紀のものと思われる細竹里遺跡の鋼製品でも見られる。とくに注目されるのは小刀で鋼質は炭素工具鋼で、焼入れ焼き戻しが行われたと思われることである。その顕微鏡組織観察では表面が青みを帯びていて、高い温度で焼き戻しされていたものと判断される。
…………
 古代の製鉄・製鋼技術を考察するのに欠かせない製鉄炉跡について見ることにする。これまで判明した最も古い製鉄炉の一つとして慈江道魯南里の第二文化層のものを上げることができる。BC2 世紀頃のものと思われる匚型の溶湯設備の備わった製鉄跡である。表土を除去した後に現れた製鉄跡は長さ 1.5 m、巾 1.2 m 程度の石積みが残っていて、破壊された後の炉の一部と判断される。溶湯設備が一辺 2 m にもなることから、元の炉は現在残っている石積みよりはるかに大きかったと思われ、製鉄初期の製鉄炉ではないと判断される。炉の遺物の様子から、完全な溶融状態の鋼鉄を生産する炉であったろうと推測される。
〔『朝鮮古代中世科学技術史研究』より〕

―― 興味深いことには、77 ページに、

朝鮮で銑鉄が生産され始めた時期は BC6 世紀前後で、銑鉄から鋼を生産したのは BC3 世紀頃と推定される。

と記述されている。

 銑鉄(せんてつ)を辞書〔たとえば『広辞苑』など〕で参照すると、「鉄鉱石から直接に製造された鉄で、不純物が多い。製鋼用と鋳物用に大別」されるという。
 鋼鉄(こうてつ)は「鋼(こう)に同じ」とあり、(こう)は「きたえた鉄。はがね。鉄と炭素との合金。広義には他の諸元素を添加した特殊鋼をも含み、炭素だけを含むものは炭素鋼または普通鋼という。」と説明されている。
 また、鋳鉄(ちゅうてつ)は「鋼に比し機械的強さは劣るが融けやすく鋳造が容易。耐摩耗性・切削性などに優れる。」とある。

 これらの鉄材が、紀元前の朝鮮半島で製造されており、さらには鋼材の質を高めるための熱処理がなされていた(p. 81) と、いうのだ。

 半島渡来の鋼鉄で鍛造された切れ味鋭い剣が、日本で武力を象徴するものだったとしても、不思議はない。

―― 歴史書などによれば、日本は任那(みまな)を足掛かりとして朝鮮半島へと進出したが、任那は 562 年に新羅に併合され亡んだ。日本書紀「欽明天皇二十三年」の冒頭に、次のように記されている。

廿三年春正月、新羅打滅任那官家。

 任那というのは、伽耶諸国のうち金官国の別称らしいけれども、当時の日本では新羅に滅ぼされた朝鮮半島南部の諸国を総称していたようだ。

◎ さらに 663 年には、朝鮮半島の南西、錦江河口の〝白村江(はくすきのえ・はくそんこう)〟で、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との間に海戦が行なわれ、日本は敗れて百済は滅亡した。

◎ 日本が朝鮮半島への足場を失ったこの戦闘を〝白村江の戦(はくそんこうのたたかい)〟という。
―― 古事記が撰録・献上される、半世紀前のことだ。


〈八岐大蛇〉と スサノヲの〈韓鋤剣〉のこと


○ 八岐大蛇(ヤマタノヲロチ)の原義を、韓鋤剣(カラサヒノツルギ)と関連づける論がある。

三品彰英「出雲神話異伝考」
第一節 ヤマタノオロチ退治 【付記】
ヤマタノオロチ ヤマタについて「書紀」本文に「頭尾各八岐[やまた]あり」と述べているが、八乙女に対するヤマタであり、八は本来神事的な満数ないしは聖数と解してよい。世界的に広く分布する怪物退治物語にはその怪物が多頭であり、最も多くは七つの頭を持つ話が多い。日本では民族の数観念或いは数信仰から八に変化していると考えてよかろう。オロチのオロは朝鮮語の泉・井の古訓 ŏr (ɔl) と同語、チも日本・朝鮮共通の古語で神霊を意味している。新羅の始祖が降臨した神井を奈乙 (na-ŏr) すなわち「みあれ (na) の井 (ŏr) 」と呼び、そこに始祖廟が建てられていた。ヤマタノオロチを斬った剣が韓鋤剣[からさひのつるぎ](サヒは朝鮮語の鋤・刃物を意味する sap )と呼ばれているところからしても、オロチの原義を右のように語釈してもよいであろう。すなわちオロチは水霊・河神の意であり、ミヅチと同意語である。オロチの姿について「八丘八谷[やをやたに]の間にはひわたれり」(「紀」)と説明しているのは、谷川の神霊にふさわしい形容である。
〔三品彰英『建国神話の諸問題』(pp. 36-37)

 ようするに、オロチのオロは朝鮮語の泉・井の古訓に同じであり、チも日本・朝鮮共通の古語で神霊を意味しているので、すなわちオロチは水霊・河神の意であり、ミヅチと同意語であるという。
―― また八は本来神事的な満数ないしは聖数と解してよいという見解は、この論稿が最初ではない。

○ 次に参照する「水の女」の稿は『折口信夫全集 2 古代研究(民俗学篇 1 )』に収録されているものだ。

折口信夫「水の女」(昭和二年九月、三年一月「民族」第二巻第六号、第三巻第二号)
九 兄媛弟媛
 やをとめを説かぬ記・紀にも、二人以上の多人数を承認している。神女の人数を、七[ナヽ]処女・八[ヤ]処女・九[コヽノ]の処女などと勘定している。これは、多数を凡[おおよ]そ示す数詞が変化していったためである。それとともに実数の上に固定を来[きた]した場合もあった。まず七処女が古く、八処女がそれに替って勢力を得た。これは、神あそびの舞人の数が、支那式の「佾[イツ]」を単位とする風に、もっとも叶うものと考えられだしたからだ。ただの神女群遊には、七処女を言い、遊舞[アソビ]には八処女を多く用いる。現に、八処女の出処[でどころ]比沼山にすら、真名井の水を浴びたのは、七処女としている。だから、七[ナヽ] ―― 古くは八処女の八も ―― が、正確に七の数詞と定まるまでには、不定多数を言い、次には、多数詞と序数詞との二用語例を生じ、ついに、常の数詞と定まった。この間に、伝承の上の矛盾ができたのである。
〔折口信夫『古代研究Ⅰ』 ― 祭りの発生 (p. 99)

○ さて、神宝としての剣について、稲田智宏氏の『三種の神器』に興味深い考察がある。

「第二章 三種神器の神話的な背景」鏡と剣と玉
天石窟籠もりの以前にも、天照大神と素戔嗚尊による誓約[うけい]神事の際に剣が大きな役割を果たしているように、決して呪具としての価値が低いわけではない。だが記紀の五種類の天石窟神事伝承において、四つの伝承にて鏡と玉がつくられるが剣はなく、一つの伝承のみ、鏡と思われる「神」と日矛とがつくられている。
 諸説あるのは、「天の金山の鉄[まがね]を取りて、鍛人天津麻羅[かぬちあまつまら]を求[ま]ぎて、伊斯許理度売命[いしこりどめのみこと]に科[おほ]せて鏡を作らしめ」という『古事記』の記述に関してで、伊斯許理度売命に鏡をつくらせたのはわかるけれども、天津麻羅に何をさせたのか抜けているように見えるからである。もちろん「鍛人」で鍛冶神だから鉄を鍛えたのだろうが、それを何かの脱落ではなく単に鏡を鋳造するための鉄を精錬したと見るか(新編日本古典文学全集『古事記』頭注)、本居宣長のように『日本書紀』で日矛がつくられた伝承と考え合わせて「此名の下に、矛を作[つくら]しむることの有[あり]しが、脱[おち]たるなるべし」(『古事記伝』)と見るか、あるいは剣をつくらせたという文が落ちたのか(日本古典文学大系『古事記 祝詞』頭注)と分かれる。
 しかしこの場面に関する記紀のすべての伝承で剣は登場しないので、『古事記』のみ文が脱落したのではなく、はじめから剣が必要でない場面だと考えるのが妥当だろうか。先に挙げた神夏磯媛らが掲げた神宝に剣が含まれているのには、武力を天皇に献上する意味がある。一方で、天照大神の復帰を願う高天原の神々はもとから天照大神側の立場なので、剣を捧げる必要はない。もしこの祭祀を主催したのが反省した素戔嗚尊であったなら、自身の剣を捧げていたのだろう。
 あるいは、後に八岐大蛇から出現した草薙剣が天照大神のもとに至り、それが天石窟神事のときの鏡と玉とともに地上に下されるという神話の整合性を保つために、天石窟神事の剣が消されたのかもしれない。草薙剣が大切な神宝として下されるなかに加えられたため、天照大神の復帰に重要な役割を果たしたかもしれない剣は意味を失ってしまったのだと考えられなくもない。
〔稲田智宏『三種の神器』(pp. 142-144)

○ 日本古典文学大系『古事記 祝詞』――『大系本 古事記』の頭注は倉野憲司氏によるが、倉野憲司氏はそれ以前から「剣をつくらせたという文が落ちた」とする考察を展開していたことが、次の資料で知られる。

松前健『出雲神話』4 スサノオの神話
 大蛇[おろち]退治の話が世界大の「ペルセウス型」の人身御供譚であることや、大蛇の尾に剣があることが民譚にもあるらしいことなどから、この話の起源は民間のものであったらしいことはわかるのであるが、最後にその草薙剣[くさなぎのたち]を皇祖神に献じたというモチーフは、もちろん後世的な付加物に違いない。後につづく天孫降臨神話で、皇孫がこの剣を加えた三種の神器をもって天降ることになるから、この献上の話は、天孫降臨の伏線として、置かれたものである。
…………
 ところが、この献上の話が加えられる以前の、いわば「原天石屋[プロトあめのいわや]神話」ともいうべきものには、鏡と玉とだけでなく、剣の製作も語られていたらしい。『古事記』に「天の金山[かなやま]の鉄を取りて、鍛冶天津麻羅[かぬちあまつまら]を求[ま]ぎて、伊斯許理度売命[いしこりどめのみこと]に科[おほ]せて鏡を作らしめ、玉祖命[たまのやのみこと]に科[おほ]せて八尺[やさか]の五百津[いおつ]の御統[みすまる]の珠を作らしめて」とある文には、脱文があったらしい。「天津麻羅を求ぎて」と「伊斯許理度売命に科せて」の間には、「剣を作らしむ」という文があったのを、後に草薙[くさなぎ]剣の献上の話が出てきたため、この場ではこの剣の部分だけ、わざと削り、鏡と玉との二者だけを、岩戸の祭りに登場させたというのが、倉野憲司氏の主張である(『日本神話』)が、おそらく正しい。
 この剣の削除やスサノオの神剣の貢上というモチーフが、出雲神話への橋わたしとなっているのであり、この文筆作業によって、出雲神話が巨大化し、宮廷神話の中枢[ちゅうすう]に割りこませられているのである。こうした文筆作業によって、中央神話に割りこませられた時期は、どう見ても、文筆による削訂作業が行なわれた七、八世紀の記紀編纂時代になると考えられる。
〔『出雲神話』(pp. 82-84)

―― 倉野憲司氏の『日本神話』は、昭和 13 年に初版が刊行されているのであるが、そこでは、中央政権による記録の改変があった可能性が論じられているという。

○ 最後に、参考資料として示された、倉野憲司氏による論述内容を確認しておこう。

倉野憲司『日本神話』
 鎭魂祭に不可缺な天璽の瑞寶十種は、結局鏡・玉・劒・比禮の四種に歸するが、鎭魂祭と關聯のある天石屋戶の條には、鏡・玉・和幣の三種は擧げてゐるが、劒は見えてゐない。これは甚だ怪しむべきことであるが、その理由は極めて簡單である。それは劒の出現は次の大蛇退治の條に語られてゐるからである。併し石屋戶の條に於て、もともと劒の製作が語られてゐたであらうといふ事は、古事記にその痕跡をとゞめてゐる。卽ち、

取天安河之河上之天堅石。取天金山之鐵而。求鍛人天津麻羅而。科伊斯許理度賣命。令作鏡。

の文を仔細に見ると、どうしても文意が通じない。天津麻羅を求ぎての下には脱文があるらしく思はれる。宣長もこれに氣附いて、「鏡をば伊斯許理度賣命に作らしむとあれば、此麻羅を求[マギ]たるは、何物を造ラしめむとてにか、甚[イト]も意得難し。…… 此名の下に、矛を作ラしむることの有しが、脱[オチ]たるなるべし(6)。」と言つてゐる。併し私は矛ではなくて「劒」を作らしむといふやうな文が落ちたのではないかと考へるのである。それも偶然の脱落ではなくして、意識的に削除されたものと考へる。卽ち最初は石屋戶の條に劒の事が語られてゐたのであるが、草薙劒の由來 ―― 熱田神宮の御神體の緣起 ―― を語る大蛇退治の神話が加へられた爲に、劒の事が重複するやうになつた結果、前のを削除したと思はれる。さうして古事記天孫降臨の條に於ける三種の神器に關する記述は、まさに石屋戶の條に鏡・玉・劒の三種が作られたとする原初的な所傳を承けたものに他ならないのである。
 かく見ることによつて、古事記に於ても、天石屋戶神話と天孫降臨神話とが直接に連なつてゐたことが一層明瞭となる。石戶隱れの際に鏡・玉・劒が作られたとすることは、ひとり鎭魂祭に必須な天璽の瑞寶と一致するばかりでなく、一面には大八洲國をしろしめす天つ神の御子たる天皇の御資格をあらはす「アマツシルシ」(天璽)の起原を語るものとして、天孫降臨の神話と符節を合するものである。
註 (6)  古事記傳、卷八
〔『日本神話』(pp. 170-171)

 これが冒頭に予告していた謎解きである。こういうことも関係して、倉野憲司氏による日本古典文学大系『古事記 祝詞』の頭注で、八岐大蛇を斬殺した「この剣は最初からクサナギという名であった」と注釈された理由が、無理なく推察できるのだ。

―― この考察が示唆するのは、どういうことかというと ――
杜撰(ずさん)な辻褄合わせ(つじつまあわせ)を意図した結果、
国家文書の改竄(かいざん)は、古来から連綿と、
安直かつ秘密裡に行なわれていたかもしれない、ということなのだ。

◎ 古事記には、「出雲國之肥河上、名鳥髮地」
◎ 日本書紀に「出雲國簸川上所在、鳥上之峯」
と記録された鳥上の峰 ―― 船通山は、
◎ そのあとに成立した出雲国風土記で、「鳥上山」と伝えられている。



Google サイト で、昨日「伯耆大山 - 慶州」の地図を追加した、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

〈天叢雲剣〉の出現
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/murakumo

バックアップ・ページでは、見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

〈天叢雲剣〉の出現 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/murakumo.html

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