2018年9月23日日曜日

トリカミの峰 / ヒノカハの上

―― 古事記に、

出雲國之肥河上、名鳥髮地。

日本書紀には新羅の国を経由して、

是時、素戔嗚尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰、此地吾不欲居、遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。

と、書かれた「鳥上之峯(鳥上の峰)」は、そのあとに成立した出雲国風土記では「鳥上山」と記録されている。
 現在の地名で、鳥上山は「船通山(せんつうざん)」と呼ばれる。神話によると新羅からの渡航に際し、スサノヲが乗ってきたのは土で作った舟なので、だからこそ、尋常ではない威力で苦もなく山にまで登るのだろう。

越の国のこと


 出雲国風土記の冒頭に描かれた〝国引き神話〟には「高志」の名が書き留められていた〔日本古典文学大系『風土記』「出雲國風土記 意宇郡」(pp. 100-103) 参照〕。それによれば、美保関はもともと北陸地方の一部だった。続いて「意宇郡 母理郷」の条には〈越八口〉を平定した説話がありその直後に〝国譲り〟の記録が続いている。出雲国風土記に残された「越(高志・古志)」に関する記述は数多い。―― 加えて、これはあとで松前健氏の著書からの引用文にも出てくるけれど、〈クシイナダ〉の名をもつ姫も「飯石郡 熊谷郷」の条に登場する。

 ○ 出雲国風土記では最初に〈志羅紀〉すなわち新羅がやってくる。「鳥上山」の記述は仁多郡にある。

日本古典文学大系『風土記』「出雲國風土記」

 意宇郡
[原文] 所以號意宇者 國引坐八束水臣津野命詔 八雲立出雲國者 狹布之稚國在哉 初國小所作 故將作縫詔而 栲衾志羅紀乃三埼矣 國之餘有耶見者 國之餘有詔而 童女胸鉏所取而 大魚之支太衝別而 波多須々支穗振別而 三身之綱打挂而 霜黑葛闇々耶々爾 河船之毛々曾々呂々爾 國々來々引來縫國者 自去豆乃折絶而 八穗爾支豆支乃御埼 以此而 堅立加志者 石見國與出雲國之堺有 名佐比賣山是也
[訓み下し文] 意宇と號くる所以は、國引きましし八束水臣津野命、詔りたまひしく、「八雲立つ出雲の國は、狹布の稚國なるかも。初國小さく作らせり。故、作り縫はな」と詔りたまひて、「栲衾、志羅紀の三埼を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり」と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穗振り別けて、三身の綱うち挂けて、霜黑葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、國來々々と引き來縫へる國は、去豆の折絶より、八穗爾支豆支の御埼なり。此くて、堅め立てし加志は、石見の國と出雲の國との堺なる、名は佐比賣山、是なり。
(おうとなづくるゆゑは、くにひきまししやつかみづおみつののみこと、のりたまひしく、「やくもたついづものくには、さののわかくになるかも。はつくにちさくつくらせり。かれ、つくりぬはな」とのりたまひて、「たくぶすま、しらぎのみさきを、くにのあまりありやとみれば、くにのあまりあり」とのりたまひて、をとめのむなすきとらして、おふをのきだつきわけて、はたすすきほふりわけて、みつみのつなうちかけて、しもつづらくるやくるやに、かはふねのもそろもそろに、くにこくにことひききぬへるくには、こづのをりたえより、やほにきづきのみさきなり。かくて、かためたてしかしは、いはみのくにといづものくにとのさかひなる、なはさひめやま、これなり。)

 仁多郡
[原文] 鳥上山 郡家東南卅五里 〔伯耆與出雲之堺 有鹽味葛〕
(頭注)
鳥上山 船通山(一一四二米)。鳥上村の南境にある。
[訓み下し文] 鳥上山 郡家の東南のかた卅五里なり。〔伯耆と出雲との堺なり。鹽味葛あり。〕
(とりかみやま こほりのみやけのたつみのかた35さとなり。〔ははきといづもとのさかひなり。えびかづらあり。〕)
〔日本古典文学大系『風土記』「出雲國風土記」 (pp. 98-101, pp. 228-229)

境界線の向こう側


 さて、記紀(古事記と日本書紀)の出雲神話は、〝スサノヲの〈鳥上之峯〉降臨〟に始まるといっていいだろうが、その記述内容は、出雲国風土記の記録と大きく異なる。
 それゆえに「出雲神話」を出雲国風土記の神話に限定し、記紀の神話を「いわゆる出雲神話」と、区別して取り扱う必要性も出てくるという。

 スサノヲが降り立った土地は、古事記では「出雲國之肥河上、名鳥髮地。」と表現され、日本書紀では「出雲國簸川上所在、鳥上之峯。」であった。
 川上(かはかみ)は、すなわち川の上であり、〝川の上〟は〝かはのへ〟と読める。「へ」を古語辞典で調べると、「上」を筆頭に「辺・瓮・家・戸・舳・艏・綜・言」という漢字が続く。どうやら「へ」という発音のイメージは古来、〝舟の舳先(へさき)〟のような「先端部のライン」を基本としているようなのだ。

 ○ 川の上(川上)とは、古代に何を意味していたのか。

『谷蟆考 ―― 古代人と自然』 〔『中西進 日本文化をよむ 三』所収〕
川をさかのぼる 〔初出:「ヤママユ」昭和五十五年八月〕

 川をさかのぼると異界に出る。時として、そこからは姿をかえた異類の者が下界に流れくだってきて、川下の人間との間に異類結婚が行なわれた。―― そう語るのが古代人であり、この川をめぐる観想は十分に幻想的で美しかったろう。ロマンにみちてもいるが、しかし異類との相婚を畏れる心情も一方にあった。……
〔『中西進 日本文化をよむ 三』 (p. 245)

 ○ 肥後和男氏の〈ヤマタノヲロチ〉論を参照しよう。

日本歴史新書『神話時代』「五 八岐の大蛇」

 この話は昔は有名なものでしたが、今はどうでしょうか。神話が作り話だということを誰もが知るようになった今日では、誰も驚きませんが、昔の学者はこの解釈に苦労したものでした。
………………
 明治以後の学者はこれが神話であることを知りましたが、さてこれを何と解釈するか、学説も出ない中に山田新一郎氏が、八岐大蛇は出雲の鉄山族であるという白石流の見解を提供しました。この人は島根県知事をし、後に北野神社の宮司になった人ですが、あの地方が砂鉄の産地であるところから思いついたもので、私もその人にあったこともありますが得意の説でした。こうした白石流の考え方はもとより学界に受け入れられず、研究はそれと別の方向に発展しました。津田左右吉博士が「神代史の研究」の中で「其の最も古い意味は恐らく地の精霊たる蛇と処女との結合から生ずる生殖作用によって穀物の豊饒を促す呪術であったらしく、此の物語に於いて処女の名がイナダヒメとなってゐることも、其の思想の痕跡として見るべきものではあるまいか。毎年蛇が処女をとりに来るというのも、年々の呪術に基づいた話だとすれば、よく了解せられよう」とのべられたのはまことに卓見でした。たしかにこれはそうした呪術から形成された話にちがいありません。
〔日本歴史新書『神話時代』 (p. 156, pp. 157-158)

皇太子の「山陰道行啓」のこと


◎ 引用文中に山田新一郎氏が「島根県知事」をしたという記述があるが、鳥取県の記録によると 12 代鳥取県知事(明治 39 年~明治 41 年)に「山田新一郎」の名がある。
 氏が鳥取県知事を拝命した翌年の明治 40 年 5 月には、当時は皇太子であったのちの大正天皇が、山陰鉄道の開通記念に〝風土記の時代には夜見島であった〟境港から上陸して鳥取県に来訪、米子・倉吉・鳥取に宿泊しつつ、鳥取県を東西に往復する鉄道の旅程を無事に終えて、その後、出雲大社のある島根県を訪問している。
 旅の途中鳥取市に宿泊した折には、〈印賀鋼〉を鉄材として、刀工日置兼次による刀鍛冶の実演が、皇太子の前で披露された。その刀剣の銘は「明治四十年五月吉日久松山麓に於て兼次作」と切られたと記録されている〔『山陰道行啓錄』「鳥取縣」(p. 74) 参照(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)〕。

〖 ※ 日置兼次は、20 年前の明治 20 年 2 月 28 日、伊勢神宮の宝剣鍛造のために通勤していた靖国神社の鍛錬場にて鍛えた八寸五分の短刀一口「因幡兼光十二代日置兼次作」を皇太子(当時数え年九歳)に奉献した刀工である。〗

◎ ところで、かつて判明したところによれば、「米子製鋼所の鋼は、少なくとも明治 41 年から大阪造幣局の貨幣極印用として買上げられてきた」のだった〔〈印賀鋼〉最強伝説 のページ 参照〕。

―― そのような記録をたどれば、山田新一郎氏が鳥取県知事の職にあった時期はちょうど、鉄製品で、鳥取県の技術が日本一になる出来事が進行していたという、時代の流れを捉えることもできよう。

 ○ 『日本の歴代知事』には、その任期は「明治三十九年(一九〇六)七月二十八日~四十一年三月二十七日」(1906.07.28 ~ 1908.03.27) と記録されている。評価はどのようであったのか、一部を抜粋する。

『日本の歴代知事』より

 山田知事は四十一年三月の地方官更迭で休職になったが、一年七カ月の在任中、境・賀露両港をはじめ県下各港湾の浚渫、農業試験場における採種試験などを行い、高く評価されている。
 さて、明治四十年になると山陰線上井-鳥取間が開通、鳥取地方の交通事情が一変してしまった。この交通の変化は経済、文化にも影響を与え、電灯、電話もこの年に開通したのである。この恩恵をこうむることになる鳥取市民の喜びようは、熱狂的と形容するのにふさわしいものだったといわれる。
〔『日本の歴代知事』 第三巻(上)(p. 149)

◎ 明治 40 年には、山陰鉄道の「上井-鳥取間(倉吉-鳥取間)」が開通した。そうでなければ、その年に皇太子は、米子から東進して、鳥取までの山陰鉄道の旅程を完遂することができなかったはずだ。しかしながら、場合によって「倉吉-鳥取間」の鉄道の開通は明治 41 年と記録されている。
―― このことについて調べてみると、皇太子が「鳥取」で下車したのは、「古海(ふるみ)」に設けられた臨時の停車場で、それは「千代川(せんだいがわ)」の西岸にあった。現在の「鳥取駅」は、そこから千代川を東に渡った先にある。ようするに明治 40 年の皇太子行啓には千代川を渡る鉄橋の完成が間に合わなかったのだ。
 鳥取県庁や鳥取城跡のある久松山(きゅうしょうざん)〔敷地内の屋敷で刀鍛冶が披露された皇太子の宿泊先の「仁風閣」は久松山の麓にある〕を含む鳥取市街地は、千代川を渡った東側、鳥取駅の北に位置するので、つまり「倉吉-鳥取間」の鉄道の完全開通は千代川の鉄橋が開通した明治 41 年ということになるらしい。

※ 仁風閣の名称は皇太子に随行していた東郷平八郎によって命名された。余話として、現在は国の重要文化財となっている仁風閣の敷地内で、映画「るろうに剣心」の戦闘シーンを伴う撮影が 2011 年 9 月に行なわれた。

 山田新一郎氏は「神代史と中国鉄山」という論を雑誌『歴史地理』に連載したことがある。
 国立国会図書館のデジタルコレクションに『歴史地理』の該当号は 4 点含まれているのだけれど、残念ながら、いまのところ外部から閲覧することができない。
 鳥取県立図書館にも関連図書の蔵書はなく、山田新一郎氏の論が収録された資料の収集を担当者に何度かお願いしたのだが残念ながら図書館としては資料的な優先度が低いらしく、未だ所蔵されるに至っていない。

◎ 国立国会図書館のデータによってまとめると『歴史地理』に連載されたタイトルは次のとおりである。
◎ 連載第二回分のデータは欠落している。

山田新一郎「神代史と中国鉄山」収録分

『歴史地理』
日本歴史地理学会/編
吉川弘文館/発行

1917年03月 29(3)(210)

  • 歴史地理 神代史と中國鐵山――(一) / 山田新一郞 / p33~44

1917年06月 29(6)(213)

  • 歴史地理 神代史と中國鐵山――(三) / 山田新一郞 / p18~30

1917年07月 30(1)(214)

  • 神代史と中國鐵山――(四) / 山田新一郞 / p20~31

1917年08月 30(2)(215)

  • 神代史と中國鐵山――(五完) / 山田新一郞 / p11~16


〈都牟刈之大刀〉と アヂスキタカヒコネの〈大葉刈〉


―― ちなみに、西暦で 1917 年というのは、大正 6 年で、ちょうど柳田国男氏の「一目小僧の話」が『東京日日新聞』に連載(新聞連載は 8 月 14 日~ 9 月 6 日の間)されたのと同じ年となる。その半世紀以上ののち、谷川健一氏の『青銅の神の足跡』(1979) によって、新しい視点からの論述が展開された。

 ○ ここで『青銅の神の足跡』を、全集版から引用しておこう。

『谷川健一全集 9』より
『青銅の神の足跡』〔初出:1979年06月20日 集英社発行〕
第一章 銅を吹く人

 伊福部氏は雷神として祀られる
 (pp. 62-63)
 アジアにかぎらず、ギリシア神話の単眼の巨人キクロオペが、ゼウスの雷電をきたえる鍛冶屋であることは名高い話である。わが伊福部氏にもそのような伝承がまつわりついていたのであったろう。それの傍証に、アジスキタカヒコネが天若日子[あめのわかひこ]の葬儀の弔問にやってきたとき、自分を死人の天若日子とまちがえられ激怒したという話が『記紀』にある。

「時に味耜高彦根神、忿りて曰はく、『朋友喪亡せたり。故、吾即ち来弔ふ。如何ぞ死人を我に誤つや』といひて、乃ち十握劒を抜きて、喪屋を斫り倒す。其の屋堕ちて山と成る。此則ち美濃国の喪山、是なり。……
(ときにあぢすきたかひこねのかみ、いかりていはく、『ともがきうせたり。かれ、われすなはちきとぶらふ。いかにぞしにたるひとをわれにあやまつや』といひて、すなはちとつかのつるぎをぬきて、もやをきりたふす。そのやおちてやまとなる。これすなはちみののくにのもやま、これなり。)」

 これは『日本書紀』の文章である。ここにいう美濃国喪山というのは二説あって、一説は岐阜県武儀[むぎ]郡藍見[あいみ]村(現在の美濃市極楽寺付近)という。もう一つの説は岐阜県不破郡垂井町である。私は後者の説を採りたいが、その理由は、そこに雷神を祀る伊福部氏が居住するからである。垂井町には現に喪山と称するところもある。
 ではアジスキタカヒコネはどのような性格の神であるか。アジは美称であり、スキは鉏の意であるとふつう解されている。すなわちそれは鉄器を人格化し美化したものである。『日本書紀』には、また別の叙述もある。

 (p. 64)
 ここに大葉刈という剣の名が出てくる。これは大きな刃をもつ刀剣と解釈される。朝鮮語では刀をカルという。草薙剣[くさなぎのつるぎ]を都牟刈[つむかり]の大刀ともいう。この刈もまたおなじく刀剣の意である。アジスキタカヒコネは鉄製の利器を所有する神であったことがこれによってもわかる。
 さて、前の引用文では、アジスキタカヒコネは、うるわしい容儀をそなえていて、二つの丘、二つの谷の間に映り渡ったとあり、また、その歌には「み谷二渡[たにふたわた]らす」とある。いくつもの丘や谷に照りかがやく鉄器とは、何を表現する比喩なのであろうか。それは芭蕉の『猿蓑』の中の「たたらの雲のまだ赤き空」という去来の句のように、野だたらの炉の炎が空をこがしているありさまを叙したものではないだろうか。
〔以上『谷川健一全集 9』より〕

風土記と古事記には〈高志〉の記録が複数ある

◉ 八千戈神(やちほこのかみ:大国主神すなわち大穴持命)が、〈高志國之沼河比賣〉に言い寄るシーンが、古事記に描かれている。

日本古典文学大系『古事記 祝詞』

大国主神 4 沼河比売求婚
[原文] 此八千矛神、將婚高志國之沼河比賣、幸行之時、到其沼河比賣之家、歌曰、
[訓み下し文] 此の八千矛の神、高志の國の沼河比賣を婚はむとして、幸行でましし時、其の沼河比賣の家に到りて、歌ひたまひしく、
(ふりがな文) このやちほこのかみ、こしのくにのぬなかはひめをよばはむとして、いでまししとき、そのぬなかはひめのいえにいたりて、うたひたまひしく、

大国主神 6 大国主の神裔
[原文] 故、此大國主神、娶坐胸形奧津宮神、多紀理毘賣命、生子、阿遲 〔二字以音。〕 鉏高日子根神。次妹高比賣命。亦名、下光比賣命。此之阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也。大國主神、亦娶神屋楯比賣命、生子、事代主神。
[訓み下し文] 故、此の大國主の神、胸形の奧津宮に坐す神、多紀理毘賣の命を娶して生める子は、阿遲 〔二字は音を以ゐよ。〕 鉏高日子根の神。次に妹高比賣の命。亦の名は下光比賣の命。此の阿遲鉏高日子根の神は、今、迦毛の大御神と謂ふぞ。大國主の神、亦神屋楯比賣の命を娶して生める子は、事代主の神。
(ふりがな文) かれ、このおほくにぬしのかみ、むなかたのおきつみやにますかみ、たきりびめのみことをめとしてうめるこは、あぢ 〔にじはおとをもちゐよ。〕 すきたかひこねのかみ。つぎにいもたかひめのみこと。またのなはしたてるひめのみこと。このあぢすきたかひこねのかみは、いま、かものおほみかみといふぞ。おほくにぬしのかみ、またかむやたてひめのみことをめとしてうめるこは、ことしろぬしのかみ。
〔日本古典文学大系『古事記 祝詞』(pp. 100-101, pp. 104-105) 〕

◎ このように古事記にも、出雲の神話に関連して「高志」の名称を伴う、複数の記述が認められる。

◎ 出雲国風土記に〈越八口〉を平定した説話があることは先に見た。また、出雲国風土記では〝国引き神話〟にも「高志」の名が書き留められていた〔日本古典文学大系『風土記』「出雲國風土記 意宇郡」(pp. 100-103) 参照〕。それによれば〝美保関はもともと北陸地方の一部だった〟のである。そして「夜見嶋」と「伯耆國火神岳」が、その神話の最後に登場することも見逃せない。

◎ それぞれは断片的な描写ではあるが、出雲と越との強い関係性がうかがえる。加えて、国引き神話成立当時の出雲圏は、その後の伯耆国にまで広がっているようだ。そう考えれば、あるいは …… もしかして高志の国引きの意味するところは、神話に残された〝伯耆大山の麓に越地方からの移住者があった〟ことの記憶なのであろうか。

―― そうなると、志羅紀の〝国引き神話〟は、朝鮮半島からの移住者を物語っていることになる。
  彼らが、紀元前後から、強力な鉄剣を携えて出雲地方へとやってきた可能性については、否定できない。
  言葉の通じない神々は〈韓鋤(からさひ)〉を出雲にもたらしたのだ。それは強靱な〈神の剣〉だった。

◉ ヤマタノヲロチの尾から出てきた〈神剣〉は〈都牟刈之大刀〉ともいわれる

―― 古事記の訓み下し文から引用する。

爾に速須佐之男の命、其の御佩せる十拳劒を拔きて、其の蛇を切り散りたまひしかば、肥の河血に變りて流れき。故、其の中の尾を切りたまひし時、御刀の刃毀けき。爾に怪しと思ほして、御刀の前以ちて刺し割きて見たまへば、都牟刈の大刀在りき。
〔日本古典文学大系『古事記』(p. 87-89) 〕

◎ スサノヲの斬蛇剣には「蛇韓鋤之劒(蛇の韓鋤の剣・をろちのからさひのつるぎ)」の名があった。―― これは朝鮮半島渡来の〈霊剣〉を意味する〔三品彰英『建国神話の諸問題』(pp. 36-37) 参照〕。

 ヤマタノヲロチを斬り殺して〈鳥上之峯・鳥髮地〉で獲得した「都牟刈之大刀(都牟刈の大刀・つむがりのたち)」は、強度においてそれを凌ぐ剛剣だ。
 そして、出雲国風土記「仁多郡 三澤郷」に「大神大穴持命御子 阿遲須枳高日子命」とも記されている、オホクニヌシの息子アヂスキタカヒコネのもつ十握剣〈大葉刈〉の「刈」の音は、〈都牟刈之大刀〉の名辞に含まれる「刈」と同じく、現代韓国語の「剣(칼 ; khal〔カリ・カル〕)」に通じる。
―― 韓国語の「 칼 ; khal ・ 검 ; kɔm 」などの検討は、あとで少しばかり詳しく行なう予定にしている。

◎ 日本書紀には「下照媛」の兄として、
◎ 出雲国風土記に「大神大穴持命御子 阿遲須枳高日子命」
と記録された〈アヂスキタカヒコネ〉は、
◎ 古事記で「阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也」と伝えられている。

その所持する十握剣を〈大葉刈〉といい、また〈神度剣〉ともいう。



Google サイト で、本日「船通山 - 鳥上滝」の地図を追加した、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

鳥上之峯 / 簸川上(トリカミの峰 / ヒノカハの上)
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/torikami

バックアップ・ページでは、見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

鳥上之峯 / 簸川上 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/torikami.html

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