2018年12月14日金曜日

若草山に見られる野火の記憶

火は、土地を豊穣にし、やがて、鉄を精錬するに至る。

〈草薙剣〉の説話は国家権力によって、〈天叢雲剣〉へと変貌していき、
その剣の記念碑は、鳥取県と島根県の県境に聳える〈船通山〉の山頂に建っている。

―― と、前回の最後に書いた。
 製鉄以前の火の操作にかかわる、野焼きと、土器の製作は、日本ではともに縄文時代からの文化とされる。

◎ 人類にとっておそらく、発展的な火を制御する技術は、土器に始まったのではなく、もっと大規模な、山火事から派生した野火だったろう。

 現在でも「野火(のび)」の日本語は、「春に野山の草を焼く火」のことであり、古来それは年ごとに行なわれる「野焼きの火」であった。
―― 奈良市東部の春日山北西の丘にある、若草山嫩草山(わかくさやま)で、現在は毎年 1 月に行なわれている山焼きは、1950 年以前は 2 月 11 日の行事であったという。

 中国の歴史書に〝火耕〟という言葉がある。
 野焼き・山焼きのあとに採取される山菜は、まさに実践された火耕の成果ともいえようか。
 火が、土地を活性化することを知った人類はやがて、山地に農耕のため開墾地を求めた際にまず火耕 ―― 伐採の後の山焼き ―― を行なっただろうことは、容易に想像できる。
 そして記録に残るところでは、休耕地に、榛木(はんのき)が植樹された事例は多いようだ。ハリノキが転訛してハンノキと呼ばれたらしい。

 ○ ハイバラとも読まれる「榛原」は、もともと「榛原(ハリハラ)」であったろうし、また、野本寛一氏の著作である次の文献によれば「榛の木」は「墾の木」であるともいわれる。

『焼畑民俗文化論』

Ⅱ 焼畑系基層民俗文化の実際
 8 焼畑の循環と植物移植

 (pp. 151-152)

  1 榛

 中尾佐助氏は、ネパールでは「焼畑のあとにハンノキを植えますが、これは、空中窒素の固定をやり、土地を肥やすんです。ヒマラヤからアッサムまでの焼畑は、ハンノキ(ネパールハンノキ、ネパール名はユッティス)を使うというかなり高度な技術に達していた。台湾山地民もタイワンハンノキを使う」と述べておられる(『続・照葉樹林文化』中公新書)。
 榛の根に共生する根瘤菌が空中の窒素を蛋白質と化し、それが肥料となるともいわれ、多くの放線菌は細菌・カビ・原虫などにたいする抗生物質を生産するともいわれている。わが国の焼畑農民も経験的に榛の効用を伝承しており、榛の生えているところは焼畑に適していると伝えている。たとえば、石川県白峰村では、太い榛の木(オバル)があれば、その周囲一〇〇メートル四方は土が肥えているといい伝え、杉の植林にさいしても、初期には榛の木を伐らずに杉を植える習慣があった。……
 (pp. 153-154)
   (1) 榛と猪垣
 榛の木の苗を他の山から取ってきて、焼畑輪作の終了したところに二間間隔ほどに植え、二〇年から三〇年放置し、「アラス」と称した。二~三〇年たってふたたび焼畑にするときには、太いものは径一尺にも及んでいた。秋、木の葉のあるうちに木に登り、まず枝をおろし、幹はそのまま立てておいて焼いた。この残った幹のことを「ツモッ木」と称した。ツモッ木は春伐って、椎茸小屋で椎茸を乾燥させる燃料として利用した。さらに興味深いことに、この地では、秋、焼畑の収穫物に害を与える猪を防ぐために「せき」と呼ばれる木柵で焼畑地を囲んだのであるが、それをこの榛の木で作ったのである。……
 (p. 155)
   (2) 榛[ハリ]と墾[ハリ]
引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに(『万葉集』五七)
白菅の真野の榛原心ゆも思はぬわれし衣に摺りつ(『万葉集』一三五四)
などと「榛原」は歌にも詠まれ、大和の榛原、遠州の榛原など古い地名として残っている。「榛」は、「はん」または「はり」と読まれており、静岡市大間ではいまでも「はり」といっている。「新墾[にいはり]」「墾間[はりま]」「墾道[はりみち]」など、わが国では開墾のことを「はり」と呼んでいるのであるが、榛の木の生えているところを好んで農地として開墾し、また、時に、新開の焼畑地の輪作を終えてアラす場合、榛の木を植える習慣があったことを考えると、「榛の木」が「墾の木」であったことが考えられるのである。榛は開墾と深くかかわった植物であった。
 静岡市日向では茶畑のなかに榛の木を植え、その説明として、昔、山犬(狼)に追われたとき、この榛の木に登って難を逃れるよう工夫したものだと語り伝えられている。『古事記』に、雄略天皇が葛城山で大猪に追われたとき、榛の木に登って難を逃れたという伝承が記されている。静岡市大間で猪垣に榛の木が用いられたことと脈絡があるのだろうか。大地を肥やし、染色の原料ともなるこの木に、一種の呪力をみてきたことはたしかであろう。

 14 野焼きの民俗
  二 野焼きの実際

  1 若草山の山焼き

 (p. 236)
 一月十五日は奈良若草山の山焼きである。この日、午前中から若草山の麓にある、春日大社摂社の野上神社をはじめ、山の周囲では山焼きの準備がすすめられる。野上神社の祠の背後には高さ一メートル、径一・五メートルほどの真ん中が割れた石があり、この石が野上神社の磐座であることがはっきりとわかる。野上は「野神」で、野焼きの行われる野の神であったことが推察される。……
 (p. 237)
 標高三四二メートル、三三万平方メートルの若草山にいっせいに点じられた火は瞬時に紅蓮の炎となり、蛇のように這い、驚くべき早さで闇のなかにひろがっていった。そして約三〇分後に火は鎮まっていた。昼みると、白味を帯びた黄土色に蔽われた萱山が炎となり、やがて夜が明ければ黒褐色に変じているのである。
 一般に、若草山の山焼きの起源は、興福寺と東大寺の境界争いに由来すると説かれているが、実際の起源は食用野草の採集や草の獲得にあったものと考えられる。そして、この山焼きは大和盆地周辺の草山焼きの象徴的残存でもあった。「若草山」という名もゆかしく、遠く菜摘みの習俗とのかかわりをも思わせる。奈良公園の茶店で売られている「ワラビ餅」の発生も、広大な若草山の野焼きと無関係ではなかったはずである。
〔野本寛一/著『焼畑民俗文化論』より〕

 ○ 山口隆治氏による『加賀藩林野制度の研究』では、焼畑用地が「あらし」等と呼ばれることに関しても詳細な研究がなされている。その考察がまとめられて記述された個所から参照してみたい。

『加賀藩林野制度の研究』

第七章 白山麓の「むつし」

 一 白山麓の焼畑

 加賀藩の焼畑名称について、前記「耕稼春秋」には金沢付近の山間部で「薙畑」と称したことを記す。…… 能登国羽咋郡続きの越中国射水郡三尾・床鍋両村では「薙畑」または「ノウ(11)」、飛騨国境に位置した新川郡東猪谷村や礪波郡五箇山では「薙畑」と呼称した(12)。つまり、加賀国の山間部では焼畑を「薙畑」、能登国鳳至・羽咋両郡および越中国射水郡の一部では「薙野」または「ノウ」とそれぞれ呼称していた。このように、焼畑を「薙畑」「薙」と呼称したのは、雑木・柴草を薙ぎ倒して焼くためであったという。したがって、焼畑のため雑木・柴草を伐採することを「薙苅り」といい、火入れすることを「薙焼き」といった(13)。……
…………
白山麓では焼畑を「薙畑」または「山畑」、その用地を「むつし」または「あらし」と呼称した。前述のごとく、「薙畑」の名称は山地斜面の草木を「薙ぐ」ことから始まったもので、草木の伐採を「薙刈り」、火入れを「薙焼き」と称した。また、火入れ初年目の畑地を「新畑[あらばた]」、地力が減退したそれを「古畑[ふるばた]」と呼称した。薙畑には稗を初年目作物とする「稗薙」、蕎麦を初年目作物とする「蕎麦薙」、大根を初年目作物とする「菜薙」の三種類があり、伐採や火入れの時期、二年目以後に栽培される作物の種類、経営される面積などに若干の差異がみられた(19)
 焼畑は入会山を原則とした百姓持山で行われたが、これは農民の持高に応じて山割し、個人所有として利用する場合もあった。白山麓の村々では、各村近くの山林に大なり小なり私有地を有していた。……

(11) 『とやま民俗・24号』(富山民俗の会)四七頁
(12) 『旧白萩村の民俗』(東洋大学民俗研究会)五二頁および『越中五箇山の民俗』(富山県教育委員会)六二頁
(13) 野本寛一氏は、焼畑呼称を「火・焼地名」「輪作地名」「循環地名」「伐採形状地名」「その他」に分類し、「薙畑」とは「薙ぐ」という動詞の連用形「薙ぎ」が名詞化したもので、「伐採形状地名」に属すると考えた(前掲『焼畑民俗文化論』三〇三~三〇九頁)。
(19) 『尾口村史・資料編第二巻』一七九~一八一頁。
〔山口隆治/著『加賀藩林野制度の研究』(p. 313, p. 317) 〕

The End of Takechan

◎ 人類は、草を焼き、土を焼き、やがて土塊(つちくれ)から、金属を得た。

 日本で縄文時代から弥生時代へと移行する頃、大陸では、すでに鉄の時代が始まっていたようだ。
 稲作と、青銅と鉄の文化が、日本列島に同時に入ってきたのだ。

 それから数世紀を経て、日本で〔全文が現存する〕歴史書が成立した西暦 700 年代。
 なぜ、古事記と日本書紀はともに、伯耆国と出雲国の国境にある鳥上の峰 ―― 鳥上之峯 ―― すなわち船通山(せんつうざん)を舞台とする戦闘神話を記録に残し、その地からの戦利品として、日本書紀にいう〈天叢雲剣〉すなわち〈草薙剣〉―― 古事記原文では〈草那藝之大刀〉―― をスサノヲによって、獲得させるという、出雲国重視の物語構成にいたったのか。
 のみならず、古事記には「其所神避之伊邪那美神者、葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也。」という記述があって、

其の神避りし伊邪那美の神は、出雲の國と伯伎の國との堺の比婆の山に葬りき。
(そのかむさりしいざなみのかみは、いづものくにとははきのくにとのさかひのひばのやまにはふりき。)

ここにも、出雲国と伯耆国との国境が登場し、大地母神の墓所として〈比婆之山〉が記録される。

 船通山の北東に位置する伯耆大山の山麓には、鳥取大学の山本定博氏によって、「鳥取県内の黒ボク土腐植もその黒さはわが国でも第一級である」と評される黒ボク土がある。

 その黒ボク土は、おそらく数千年にわたって毎年焼かれ続けた、野火の記憶だろうと、推察されるのである。
 そして、そもそも戦闘は、新墾(あらき)もしくは、すでに開墾された土地を巡って繰り返されたはずだ。
 播磨国風土記によって、渡来の神との戦闘の神話が、現代にまで伝承されている。自然の災害に強い、豊饒な大地が、権力者の求めたものであったろう。
 敵対者や、反乱軍に遭遇することのない、広大で豊かな土地を、我が物と宣言したかったのだ。
 必然として。―― 権力者は、同時に、武力を欲したのだった。


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榛原(ハリハラ)・墾間(ハリマ)
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/harima

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

榛原(ハリハラ)・墾間(ハリマ) バックアップ・ページ
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