2018年10月25日木曜日

越と出雲と〈ヤツカハギ〉

神魂命十三世孫 八束脛命


 ヤツカハギのことは『新撰姓氏録』に〈天神〉の直系子孫として記録されている。
―― 吉川弘文館より刊行されたその本文の研究と「考証篇」を続けて参照しよう。

『新撰姓氏錄の硏究 本文篇』 〔佐伯有淸/著〕
第二 校訂新撰姓氏錄(左京神別中)
天神
竹田連
神魂命十三世孫八束脛命之後也。
〔『新撰姓氏錄の硏究 本文篇』 (p. 219)

『新撰姓氏錄の硏究 考證篇 第三』 〔佐伯有清/著〕
 竹田連。神魂命の十三世孫、八束脛命の後なり。
(たけたのむらじ。かみむすびのみことのとをあまりみつぎのひこ、やつかはぎのみことのすゑなり。)
八束脛命
 他にみえない。『越後国風土記』逸文に「美麻紀〔崇神〕天皇御世、越国有人、名八掬脛〈其脛長八掬、多力太強、……〉」とみえ、『日本書紀』白雉四年五月壬戌条に「高田首根麻呂〈更名八掬脛。〉」とあって、八束脛命と同名である八掬脛の人名が知られる。
〔『新撰姓氏錄の硏究 考證篇 第三』 (p. 135)

◉ ところで今回のテーマは〈ヤツカハギ〉にまつわる物語なのだが、上の引用文中に、

八束脛命
 他にみえない。『越後国風土記』逸文に「美麻紀〔崇神〕天皇御世、越国有人、名八掬脛〈其脛長八掬、多力太強、……〉」とみえ、『日本書紀』白雉四年五月壬戌条に「高田首根麻呂〈更名八掬脛。〉」とあって、八束脛命と同名である八掬脛の人名が知られる。

とあり、『越後国風土記』逸文の紹介に際しては美麻紀〔崇神〕天皇御世、越国有人、名八掬脛〈其脛長八掬、多力太強、……〉と一部が省略されている。
―― この全文を、国史大系本の「釈日本紀」から引用すれば、

越後國風土記曰。美麻紀天皇御世。越國有人。名八掬脛。(其脛長八掬。多力太强。是出雲之後也。)其屬類多。
〔新訂增補『國史大系 8』「釋日本紀」 (p. 144)

で、是出雲之後也其屬類多の計 10 文字が省略されたことは、容易にわかる。
 ところで岩波書店発行の、日本古典文学大系 67『日本書紀 上』「神武天皇 卽位前紀己未年二月」の記事を補足する「補注3-一七 土蜘蛛(p. 580) では、

越後風土記逸文には土雲

と見えることが、紹介されている。どうやら「釈日本紀」の「出雲」は誤植らしいのであるが ……。寡聞にして国史大系本に、「土雲」の文字もその他の注釈も見ることができない。というわけでさらに文献を参照する。
 新訂增補『國史大系 8』「釋日本紀」の「凡例」に、

舊輯國史大系第七卷には流布刊本に校訂を加へたりしが、幸に前田侯爵家に就き特に同家の秘本を披閲することを得、之を流布刊本と比校せしに、刊本がもと同家秘本を底本としたるものなるに係はらず、誤寫脱字等多く、その舊を損せる甚しきものあり、乃ちこゝに前田侯爵家所藏本を原本とし、「新訂增補國史大系第八卷」に收めて之を公刊す。
〔新訂增補『國史大系 8』「釋日本紀」 (p. 1)

とあったのでそちらも参照したが、国史大系本にはやはりいずれも、該当箇所に、頭注等の注釈はない。

◉ ちなみに流布刊本によったという「舊輯國史大系第七卷」の記述に近い写本が「早稲田大学図書館」の所蔵資料にあり、
『釋日本紀九、十、十一、十二』(PDF ; p.25)
(http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_04819/ri05_04819_0003/ri05_04819_0003.pdf)
の、PDFデータ、および、画像データ
釋日本紀卷第十「以七掬脛爲膳夫」ページ
(http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_04819/ri05_04819_0003/ri05_04819_0003_p0025.jpg)
で、公開されている。

早稲田大学図書館 : https://www.waseda.jp/library/
古典籍総合データベース :
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80

The End of Takechan
日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』補注五「土雲」
 ツチグモについては、神武紀に「又高尾張邑、有土蜘蛛。其為人也、身短而手足長、与侏儒相類。皇軍結葛綱而掩襲殺之。」とあり、常陸風土記茨城郡の条には「昔在国巣。〔俗語曰、都知久母。又曰、夜都賀波岐。〕 山之佐伯、野之佐伯。普置掘土窟、常居穴。有人来、則入窟而竄之。其人去、更出郊以遊之。狼性梟情、鼠窺掠盗、無被招慰、弥阻風俗也。」とある。文化の低い地方の土着民で、その風俗習性を動物的に表象したものである。異民族ではない。
〔日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』 (p. 344)

 日本古典文学大系 67『日本書紀 上』「景行天皇 四十年七月」
[原文] 天皇則命吉備武彥與大伴武日連、令從日本武尊。亦以七掬脛爲膳夫。
[訓み下し文] 天皇、則ち吉備武彥と大伴武日連とに命せたまひて、日本武尊に從はしむ。亦七掬脛を以て膳夫とす。
(ふりがな文) すめらみこと、すなはちきびのたけひことおほとものたけひのむらじとにみことおほせたまひて、やまとたけるのみことにしたがはしむ。またななつかはぎをもてかしはでとす。
(頭注)
七掬脛
 記には「凡此倭建命平国廻行之時、久米直之祖、名七拳脛、恒為膳夫以従仕奉也」とある。七掬脛は、脛の長いことを示したもの。釈紀十所引越後風土記逸文に八掬脛に関する所伝がみえ、白雉四年五月条([下]三一九頁二行)に「高田首根麻呂〈更名八掬脛〉」、姓氏録、左京神別、竹田連の項に「八束脛命」と類似の称がある。
補注7-二二「膳夫」
 カシハは槲葉で、古く酒食をもる容器とした。仁徳三十年九月条にミツナカシハ。→三九八頁注一二。デはクボテ(葉椀)・ヒラデ(葉盤)のデ。カシハデは食器を扱う者の意で、天皇の食膳に奉仕するトモ(伴)。膳夫は周礼、天官に「掌王之食飲膳羞、以養王及后世子」とある。大化前代の制度としては、諸国に膳部が設定され、膳臣に率いられて天皇・朝廷の食膳に奉仕した。のちの養老令制では、宮内省の被管である大膳職に一百六十人、同内膳司に四十人の膳部が所属していた。
〔日本古典文学大系 67『日本書紀 上』 (p. 303, p. 599)

日本古典文学大系 68『日本書紀 下』「孝德天皇 白雉四年五月」
[原文] 又大使大山下高田首根麻呂、〔更名八掬脛。〕
[訓み下し文] 又の大使大山下高田首根麻呂、〔更の名は八掬脛。〕
(ふりがな文) またのおほつかひだいせんげたかたのおびとねまろ、〔またのなはやつかはぎ。〕
(頭注)
大使
 第二組の大使。
大山下
 大化五年冠位の第十二位。
高田首根麻呂
 他に見えず。高田首は姓氏録、右京諸蕃に、高麗国人多高子使主より出るとある。
八掬脛
 標註に「景行紀に七掬脛と云人見えたり。脛の長き人にや」。
〔日本古典文学大系 68『日本書紀 下』 (pp. 319-320)

The End of Takechan
 ○ 続いて『大系本 風土記』〔日本古典文学大系 2『風土記』〕を参照する。

『大系本 風土記』 〔秋本吉郎/校注〕
風土記 逸文 越後國「八掬脛」
[原文] 越後國風土記曰 美麻紀天皇御世 越國有人 名八掬脛 〔其脛長八掬 多力太强 是土雲之後也〕 其屬類多
(釋日本紀 卷十)
[訓み下し文] 越後の國の風土記に曰はく、美麻紀の天皇の御世、越の國に人あり、八掬脛と名づく。〔其の脛の長さは八掬、力多く太だ强し。是は土雲の後なり。〕 其の屬類多し。
(ふりがな文) こしのみちのしりのくにのふどきにいはく、みまきのすめらみことのみよ、こしのくににひとあり、やつかはぎとなづく。〔そのはぎのながさはやつか、ちからおほくはなはだこはし。こはつちくもののちなり。〕 そのたぐひおほし。
(頭注)
八掬脛
 今井似閑採択。
美麻紀天皇
 崇神天皇。
八掬脛
 ツカ(握)は長さの単位(握り拳の幅、約九糎)。脛(すね)の異常に長い足長男の故に名としたもの。異種族の身体的特徴を異常と見て誇張したもの。記紀に見える大和国生駒の長髄彦(ながすねひこ)も同類の称呼。
土雲
 土蜘蛛に同じ。大和朝廷の統治下に容易に入らなかった先住勢力。
(校訂注)
土 / 底「出」。栗注によって訂す。
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (p. 466)

 ○ ここで、栗田寬/編纂(纂訂)『古風土記逸文』(以下『纂訂 古風土記逸文』と表記)を参照する。

『纂訂 古風土記逸文』 〔栗田寬/編纂〕

古風土記逸文卷之上  ○ 越後
 八掬脛
越後國風土記曰。美麻紀 [ミマキ] 天皇ノ御世。越ノ國ニ有人名八掬脛 [ヤツカハギ] ト。〔其脛ノ長サ八掬アリ。多力 [チカラ] 太强 [イトツヨ] シ。是ハ出雲 [ツチクモ] 之後也。〕 其屬類多シ。〔釋日本紀述義第六〕
(頭注 ○ 出、恐土訛)
〔『纂訂 古風土記逸文』 (p. 56)

◉ さて『大系本 風土記』の「解説」によると、

風土記の近世的研究は栗田寛博士の標注古風土記明治三十二年刊・纂訂 古風土記逸文明治三十一年刊・古風土記逸文考証没後明治三十六年刊によって一応集大成せられた(以上栗注)
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (p. 24)

とあり、「栗注」の示すところはさいわいにも「国立国会図書館デジタルライブラリー」〔古風土記逸文 上〕で閲覧することができる。
( URL : http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993824/45 )

 栗田寬博士による『纂訂古風土記逸文』では、本文中に「其脛ノ長サ八掬アリ。多力 [チカラ] 太强 [イトツヨ] シ。是ハ出雲 [ツチクモ] 之後也。」と記述された上で欄外に「出、恐土訛」と注され、正当にも、この時点で本文が改竄されることはなかった。
 しかしながら栗田寬博士の指摘を受けた後学の研究者により、その本文は「其脛長八掬 多力太强 是土雲之後也」と〝訂正〟されてしまっている。これは果たして、写本の本文を元々記述されていたものに〝正した〟という研究の成果なのであろうか。疑問が残る。

 ここでは、最後に次の文献を参照して終わるが、末尾にリンクしたサイトでは、その他の各種資料を示したうえで若干の考察を加えた。

『神道大系』古典註釋編五「釋日本紀」

 〔小野田光雄/校注〕

解 題
 (pp. 33-34)
   ㈢ 前田本釈日本紀
 前田育徳会所蔵正安三年~四年書写の釈日本紀は、国の重要文化財に指定されており、披見を自由にすることはできない。幸いに、昭和五十年、二色刷りコロタイプ印刷の影印本が出版され、これには前田育徳会常務理事太田晶二郎氏の万全の「解説 附 引書索引」が付されているので、前田本の書誌は遺憾なく理解することができる。

凡 例
 (p. 85)
一 できるだけ底本に近い形の、通読できる活字本を作ることを目標とした。
二 底本。前田育徳会所蔵の「釈日本紀」を底本とする。しかし本書は、直接に原本に拠ったのではなく、前田育徳会尊経閣文庫編刊の写真影印本『釈日本紀』を座右にし、不審の箇所は原本と対照した。前田本釈日本紀は、現伝釈日本紀諸本の源流とされている。

釋日本紀卷第十 述義六
 (p. 251)
・以七掬脛爲膳夫
越後國風土記曰。美麻紀天皇御世、越國有人。名八掬脛。〔其脛長八掬。多力太强。是出雲之後也。〕 其屬類多。
兼方案之、七掬脛者、其脛長七掬。仍爲名歟。

 (p. 260)
校注「是出46雲之後也
46 出。板本も同じ。大永本の校異はない。狩谷說「出、疑土字」。栗田寬說「出、恐土訛」。植木直一郎、秋本吉郎等「土」に改める。
〔以上『神道大系』古典註釋編五「釋日本紀」より〕

◉ 原典をひもとく過程では寡聞にしてついに「越後国風土記逸文」に〈土雲〉の文字は見られなかった。
――案ずるに、いわゆる大和朝廷に最後まで抵抗した〈まつろはぬ〉勢力を「出雲=土雲」と現代の研究者がみなしたということなのだろう。

 古代の出雲と高志(越)の国とは文化的な交流があったことは「出雲国風土記」から読み取ることができた。

 すなわち、中央に敵対する一大勢力の象徴が、いわゆる《出雲》であり《高志》であったのだろうから、このことにより高志の国の風土記の記述に対しては、現代の研究者にとっては「出雲」と「土雲」が完全に同じ意味をなしたので、誰にでも容易な理解が得られるようにと意味の通じやすい文字に〝改訂〟したのだろう。と、以上のような推論は可能なのだが……。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

八束脛(八掬脛)
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/yatsukahagi

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

八束脛(八掬脛) バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/yatsukahagi.html

0 件のコメント:

コメントを投稿