2018年11月22日木曜日

伯耆大山噴火後の黒ボクの土壌

 日本神話に描かれた焼畑農業を連想させる神々の物語があった。
 ここで、鳥取県〈大山(だいせん)〉の黒い土(黒ボク土)は焼畑の名残りを連想させるという事柄に目を向ければ。
―― その、黒ボク土の話題の導入として、まずは「甲子園の土」が黒い理由には、鳥取県民として興味深いものがある。

◎「阪神甲子園球場」( http://www.hanshin.co.jp/koshien/ ) のサイトに、次の説明が掲載されている。

Q & A | 阪神甲子園球場

(URL : http://www.hanshin.co.jp/koshien/qa/answer06.html )

・黒土の産地
 岡山県日本原、三重県鈴鹿市、鹿児島県鹿屋、大分県大野郡三重町、鳥取県大山 などの土をブレンドしている。(毎年決まっているわけではない。)


 ○ さて黒ボク土は地質学上の用語であるが、詳しい解説を、まず次の資料から参照する。

『土壌の事典』

 黒ボク土 Andosols
(井上恒久)
 黒ボク土の名称は、黒い表土と、ぼくぼくと砕けやすい性質を言い表したわが国の農民によるこの土壌の呼称に由来する。国際的には日本語の「暗土」を音訳した Andosols と呼ばれ、アメリカの土壌分類では、Andisol 目(→アンディソル)にほぼ含まれる。
 わが国の黒ボク土の腐植層はよく発達し、腐植含量が高く、黒色味の強い腐植酸の割合が多い。土壌中の炭素とイネ科草本のプラントオパールの量には正の相関があり、腐植はススキ、ササなどイネ科草本から多量に供給され、活性アルミニウムと安定な複合体を形成して集積する。他の国々の黒ボク土は、わが国のものほど腐植層が発達していない。
 黒ボク土は主に火山灰を母材に生成するため火山灰土とも呼ばれる。火山灰は比表面積が大きく、火山ガラス等の易風化性鉱物は急速に風化する。風化の際に溶出するアルミニウムは、植物遺体の供給が十分な表層では腐植と複合体を形成するが、下層では和水ケイ酸アルミニウムであるアロフェンやイモゴライトが生成する。風化がいちじるしく進むとアロフェン等は消失し結晶性粘土が主となる。……。
〔『土壌の事典』(pp. 104-105) 〕

 さてさて、縄文時代は、縄文式土器の製作を特徴とする時代区分であり、約 1 万年前に始まったとされている。
 そして、その時代と、黒ボクの地層が重なるのである。
 伯耆大山の火山灰も、黒ボクの土壌を形成する基盤となっているようだ、しかしながら。
 黒ボク土が 20 世紀にいわれていたように一般的な火山活動の成果なのであれば、かつて繰り返された〈間氷期〉の最後の時期 ―― すなわち、おおよそ 1 万年前以降 ―― にのみ、それが残されている事実と一致しない。
 最後の 1 万年間にそれ以前とは異なる何があったのか?

 火山の大爆発で流され、焼き尽くされた山腹に、なだらかな斜面が残されることもあろう。
 実際、大山には現在に至るまで、広い高原が残っている。―― ではなぜ、現在そこは野原であり木が生えていないのか。大山の噴火後に戻ってきた人類が、繰り返し、高い山の草原を焼いてきたからではないのか?
 黒ボク土の分布に人類の営為が関与することに言及した論文は、20 世紀にもあった。

焼畑農耕以前 の 黒ボク土


 ○ 次に参照する論文には東海地方の非火山灰性の黒ボク土地帯では人為的な森林の破壊が行なわれたかもしれない。という記述がある。

『科学』 1987 Vol. 57 No. 6

「黒ボク土文化」(阪口豊)
 …… 日本に分布する大部分の黒ボク土の母材は火山灰である(27)。したがってその分布は火山の分布とほぼ一致し、北海道、中部地方以北の本州と九州に集中する。…… 黒ボク土の分布地域を黒ボク土地帯と呼ぶことにしよう。ただし、わずかながら火山灰を母材としない黒ボク土も東海地方に分布する(28)。この黒ボク土も黒ボク土地帯に含める。
…………
 …… 筆者は縄文文化は黒ボク土に根ざし旧石器時代からの焼狩の伝統を受け継いだ文化であると考える。旧石器時代を含め森林・草原混交地帯(黒ボク土地帯)で展開された野焼を生業の手段とする文化を黒ボク土文化と呼びたい。黒ボク土文化は火山活動の産物といえよう。黒ボク土文化は火山灰を母材とする黒ボク土の地域から近隣地域へと広がった。東海地方の非火山灰性の黒ボク土地帯では人為的な森林の破壊が行なわれたかもしれない。旧石器時代には浜名湖周辺で発見された三ケ日人、浜北人とその仲間がこの行為の担い手であったのではないだろうか。
(27) 加藤芳朗: 農業土木学会誌、46, 11 (1978)
(28) 加藤芳朗: 第四紀研究、3, 212 (1964)
〔『科学』 1987 Vol. 57 No. 6 (p. 358, p. 360) 〕

 ○ 新しい研究では、次の論文がインターネット上で公開されていた。

『第四紀研究』(The Quaternary Research) 54 (5) p. 323-339 2015 年 10 月

( URL : https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua/54/5/54_323/_pdf )

「黒ボク土層の生成史:人為生態系の観点からの試論」(細野衛・佐瀬隆)

 黒ボク土層はテフラ物質を主体とした無機質素材を母材として、湿潤かつ冷温・温暖な気候と草原的植生下で生成してきた土壌である。酸素同位体ステージ (MIS) 3 以降の黒ボク土層の生成史には人為生態系の観点から 2 つの画期が認められる。最初の画期(黒ボク土層画期Ⅰ)は MIS 3 後半、後期旧石器時代初頭における〝突発的な遺跡の増加期〟に連動し、後の画期(黒ボク土層画期Ⅱ)は MIS1 初頭の急激な湿潤温暖化により人類活動が活性化した縄文時代の始まりと運動する。いずれの画期も草原的植生の出現拡大にヒトが深く関わったと考えられるので、黒ボク土層は人為生態系のもとで分布を拡大してきたといえる。


The End of Takechan

 ○ 最後に、クロボク土とは、微粒炭を一定の高密度で含み、多量の腐植の含有により黒色化した乾陸成の表土との定義を、研究の成果として構築するに至った文献を参照する。

『日本の土』 第 8 章 クロボク土の正体

広くクロボク土を観る

 (p. 170)
 クロボク土の様々な疑問を解くために調査した十和田東域では、クロボク土は火山灰ではなく、風成層の中に形成されていることが明らかになった。この際、風成堆積物が母材(堆積母材)として一般化できるのかという課題が出た。検討の結果、堆積母材こそが土壌の母材として普遍的であることがわかった。それがゆえに身近な地表でも、堆積母材による土壌の形成が観察され、それが旧土壌を含む表土の形成に及ぶことをみてきた。さらに、そのような表土を日本列島において分布の広い山地にまで広げて考えてきた。こうした表土に関する様々な視点はクロボク土の形成を考える背景としては十分に広がり、深まったと思われる。……
 (p. 171)
 十和田東域以外の一般的な風成層の調査地域としては、もはや火山灰が分布する火山の風下側を意識する必要はない。むしろ、火山灰とは関係が少ない地域のほうがクロボク土の本質に迫れるかもしれない。そんな期待もあって、次なる調査範囲は日本海側の山形県と新潟県を主体に、秋田県、宮城県、福島県、長野県、それに富山県に移した。
 (pp. 173-174)
 …… 測定数は必ずしも多くはないが、測定した限りでは、クロボク土の形成の始まりは七〇〇〇年代前から急に多くなり、三〇〇〇年代前以降は増え方が少なく、一〇〇〇年前より新しい箇所はない、という傾向が認められる。この調査の範囲では八〇〇〇年以前のものは見つからないが、十和田東域では八六〇〇年前の南部火山灰より下にもクロボク土の形成があった。また、後述する阿蘇の外輪山では九九八〇年前頃にクロボク土の形成が始まっている。
 以上のことからクロボク土の形成は完新世と考えるのが妥当であるが、形成開始時期と地域には関連性が認められない。つまり、クロボク土ができはじめる時期は地域的にバラバラなのである。十和田東域の中間層で見られたクロボク土化の層準が一律でないことは、他地域の調査範囲でも同様である。このことは、クロボク土形成のきっかけは気候変化のようなグローバルな現象ではなく、それぞれの地点に起こったローカルな事象の反映とみるべきなのである。それは一体何か?

微粒炭は活性炭

 (p. 183)
 ともあれ、私が扱ってきた台地や丘陵地などのクロボク土には必ず多くの微粒炭が含まれるという事実がある。これはクロボク土の最も重視すべき特徴なのである。すなわち、クロボク土の形成には微粒炭の存在が必要条件なのである。そうなると、「クロボク土とは、微粒炭を一定の高密度で含み、多量の腐植の含有により黒色化した乾陸成の表土」との定義が適切である。この基準では、黒土であっても微粒炭を含まないか、もしくはその密度が低いものは別の黒土土壌として区分される。こう規定することが今後の黒土全般の再区分により合理性を与えるであろう。……

『日本の土』 第 9 章 クロボク土と縄文文化

縄文時代と微粒炭

 (p. 192)
 微粒炭の堆積は一万年前以降(完新世)の大地では、乾陸地のみならず、沿岸、砂丘地、氾濫原、地すべり沼、湿地、湖の地層から普遍的であることは前述のとおりである。完新世の時代にのみ微粒炭の堆積が増加することは自然の山火事などによるものではなくて、人為的な火の使用によるものと考えられる。完新世の初期からの日本の古代人といえば縄文人である。火の使用に関して、縄文人は、土器を焼き、食物を料理していた。しかし、そうした火の使用だけで、広く大地に微粒炭が高密度で堆積するであろうか。否である。もっと大規模な火の使用、すなわち、「野焼き・山焼き」のような行為があったはずである。しかも、厚いクロボク土層の発達には、その行為が一時的ではなくて継続的でなければならない。野焼き・山焼きは長く続けられたのである。
 (p. 194)
 一九八七年、東京大学の阪口豊教授は、火山活動で草原化した野を旧石器時代から焼くことによる焼き狩り・焼き畑の仮説を出され、これを「クロボク土文化」と提唱した(阪口、一九八七)。その野焼きの「灰」(筆者註:正しくは「炭」)が微粒子として堆積しているらしいことを述べている。ただ、火山活動とクロボク土を切り離せなかったため、「灰」とクロボク土との関係が不明で、クロボク土が縄文期特有の産物であるとはしなかった。しかしクロボク土が古代人と関わることの指摘は卓見と思われる。

山形県小国の山焼き

 (pp. 204-205)
 山焼きをして一週間も過ぎると、焼けた植物の炭が黒く残る斜面にはぞくぞくとワラビが出てくる。……
 このように野焼き・山焼きをすると、樹木は焼かれて草原(疎林)になるが、火入れが繰り返されるとススキやササなどが優占する草原になる。そこには原生林の林床には見られない各種の草本・灌木類が交じるようになり、その中には食料として良好なワラビ以外の植物も豊富なのである。
 以上のように、野焼き・山焼きによる草原(疎林)の形成は、食料となる多様な植物を生育させ、より安定した生活を可能にしたはずである。クロボク土が厚く発達していることは、縄文人が野焼き・山焼きをずっと続けてきたことを意味する。こうした行為の継続は縄文文化の基盤に関わったに違いない。

縄文土器と植物食

 (pp. 205-206)
 …… 縄文文化とは何か、を探るにはこの時代を通して一貫して出土するあの縄模様のある土器、すなわち「縄文土器」の理解が必要に思える。「土器の出現をもって縄文時代とする」とさえいわれ、縄文土器は縄文文化の象徴であるばかりか、その内容の語り部でもある。

縄文遺跡と微粒炭

 (pp. 220-221)
 また、縄文期では、微粒炭とともにゼンマイの胞子が多産する。これは火入れでできた草原にゼンマイが生育し続けていたことを意味する。……
 今後、花粉分析では生産量の多いゼンマイの胞子は草原化の指標の一つとして、重要になるであろう。さらに花粉分析では、微粒炭は得体の知れない「黒い粒子」であり、邪魔者でもあった。しかし、微粒炭は基礎研究を重ねれば、花粉や胞子などの植物器官の微化石の一員として、当時の環境復元などに寄与する可能性がある。微粒炭を専門とする若い気鋭の研究者も現れたので、その成果が期待される。

日本のクロボク土の意味

 (pp. 221-222)
 日本の表土の最上部にあるクロボク土は、火山灰ではなく堆積物中の微粒炭が腐植の保持に関与したもので、その微粒炭は縄文期の野焼き・山焼きで発生したことを導いた。この野焼き・山焼きは、縄文人のニッチ(生活空間と食料)の確保のための草原(疎林)作りであったと考えた。こうした人為的なニッチ作りは、ヒトが自然を変える第一歩でもあった。縄文時代の自然の改変は台地や丘陵地の一部にとどまったが、弥生時代からは低地にも及んだ。そして、その後の人類は、ほかの生物のニッチなどは念頭に置かないヒトのためのニッチ作りへと暴走し、今日に至っている。こうした自然とヒトの関わりにおいて、縄文時代に始まった草原(疎林)作りは、ヒトが初めて自然を変えたという意味での画期でもある。
 (pp. 224-225)
 また、原始的農耕とされる焼き畑の有無であるが、これも火入れをする。しかし焼き畑は、焼かれた木を主体とした灰を肥料として作物を栽培し、数年続けると地力が消耗するので放置し、森林への回復を待って再び火入れを繰り返す農法である。クロボク土の微粒炭は、イネ科などの草本を主体とした燃焼で生じたものであることから、森林の燃焼によるものとは考えがたい。すなわち、クロボク土の微粒炭からは(今のところ)当時の焼き畑のための火入れを肯定することはできない。ただし、ハラの野焼きが予期せずにヤマに飛び火し、山林が燃えつきたあとの効果に焼き畑のヒントを得たかもしれない。ともあれ、縄文時代に植物栽培による農耕の萌芽はあって当然と考えられる。それにもかかわらず、縄文人はその芽を大きく伸ばそうとせず、火入れを繰り返し、もっぱら草原(疎林)を再生して生活の場を確保し、かつそこから食料などを採集する道を選び続けていたと考える。そうすることが、後氷期の温暖・湿潤な日本の気候のもとで、最も安定した生活を続けられたに違いないからである。このように日本列島特有の自然環境下で出現し、永続した縄文文化は「世界の縄文文化」に値するユニークさをもつものではあるまいか。
 以上のような縄文文化の特性は、一万年以降の風成堆積物に微粒炭が交じり、それが黒く着色する腐植を集め、相応に厚いクロボク土ができていることから導いた。日本の環境下での一般的な土壌、すなわち成帯性土壌はローム質の「褐色森林土」である。この「褐色森林土」に特殊性が加わったことでクロボク土ができた。その特殊性を与えたのは自然ではなくて縄文人であったという結論を得るに至った。
〔山野井徹/著『日本の土』より〕


オホゲツヒメの神話 と 黒ボク土 の関連性


 長々と引用したのだけれど、重要なキーワードとして、「縄文時代の自然の改変は台地や丘陵地の一部にとどまったが、弥生時代からは低地にも及んだ。」という一文に注目したい。
 実際、日本の焼畑農業は、焼畑以前の〝野焼き・山焼き〟を発端として、次第に山裾へと降りていったのだと、推測されている。

焼畑農耕の開始は、弥生時代になる頃の出来事なのだろう。


 人類の文化は、農耕 (culture) から始まったのだと、実はこれまで考えてきた。
 けれど、火で焼くだけで、耕さない文化が、日本でおよそ 1 万年続いていた事実がある。
 世界的に見ても〝土器は完新世の農耕社会に出現した〟とされている一方で、日本の縄文時代は〝土器を持つ狩猟採集文化のひとつ〟として数えられている。九州で出土した土器は紀元前 1 万 1000 年紀にさかのぼるといわれる。そして「土器の出現をもって縄文時代とする」という立場のあることが今回の参照内容にあった。
 火で焼かれた土器の出現をもって、人類の文化の発祥とみなす立場もあり得よう。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

オホゲツヒメの神話 と 黒ボクの土壌
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/kuroboku

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

オホゲツヒメの神話と黒ボクの土壌 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/kuroboku.html

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