2018年12月4日火曜日

焼畑の伝承と〈草薙剣〉

 前回参照した山野井徹氏による『日本の土』の書評が掲載された
GSJ 地質ニュース Vol.4 No. 10(2015 年 10 月)(https://www.gsj.jp/data/gcn/gsj_cn_vol4.no10_309-310.pdf)
の書評ページが PDF 化されてインターネット上にあった。それによれば、嚆矢となった論文は 1996 年に発表され、日本地質学会から表彰されている。

山野井徹「黒土の成因に関する地質学的検討」
(URL : https://ci.nii.ac.jp/els/contents110003013763.pdf?id=ART0003437151 )
(地質学雑誌 第 102 巻 第 6 号 526?544 ページ、1996 年 6 月)

 そのような新しい視点を含む、伯耆大山の土壌についての研究論文が、一冊の文献にまとめられて『鳥取県農業と土壌肥料』(1998) として発行されており、その中に次の論述が見られる。

 ○ ここでは引用に際して、「図 4」の〝図〟は省略するがその説明文は図 4 全国各地の火山灰土壌腐植層中の腐植酸の光学的特性(埋没腐植層は除く。黒印は大山起源)腐植酸型の分類は熊田の方法による。」とあり、その図の前後の本文中において、火山灰土壌を黒ボク土として特徴づける化学的理由についての考察が述べられ、火山灰土壌=黒ボク土であるかというと必ずしもそうではないと、ひとつの結論が出されている。

『鳥取県農業と土壌肥料』 Ⅱ 鳥取県の自然と土壌

「3. 鳥取の黒ボク土」(鳥取大学農学部 山本定博)

3 ) 鳥取県の黒ボク土のおいたち
 (2) 黒ボク土の腐植とその生成条件
 火山灰土壌を黒ボク土として特徴づけるのは、多量に集積した黒色腐植である。多量の腐植の集積は世界の陸成土壌のうちでは最も顕著であるが、黒ボク土の腐植はその集積量もさることながら黒色味の強さという点で、他の土壌の腐植とは質的に大きく異なる。一般に土壌からアルカリ性の溶液で抽出された腐植のうち酸で沈殿する画分を腐植酸、沈殿しない画分をフルボ酸と呼ぶ。腐植の黒味は腐植酸に起因する。黒ボク土では腐植酸は量的にフルボ酸を上回り、その黒色味は非常に強い(数ある土壌の中で最も黒い)。いわゆる熊田による A 型腐植酸である。鳥取県内の黒ボク土腐植もその黒さはわが国でも第一級である(図 4 )。
 ところで、火山灰土壌の中には、腐植が多量に集積し、活性アルミニウムにも富み、一人前の火山灰土壌の特性を持っているにもかかわらず、黒ボク土のものとは全く異なる黒色味の弱い腐植(非 A 型腐植酸)を含む土壌がある。身近な例では、大山山麓のブナ林下にもみられる。炭素含量は 10% 程度あり、真っ黒な土壌断面をしているが、腐植は黒ボク土とは化学構造的にも全く異なるものである。図 4 に示すように、含まれる腐植酸は A 型以外の腐植化度の低い B, P, Rp 型である。このような土壌は火山灰土壌ではあるが黒ボク土とはいえない。火山灰土壌=黒ボク土であるかというと必ずしもそうではない。腐植の量ではなく質が問題なのである。
〔鳥取県土壌肥料研究会/発行『鳥取県農業と土壌肥料』 (p. 28) 〕

 ○ 焼畑に関する近年の資料としては次のものがあり、冒頭で日本三代実録(貞観九年三月)の記事が紹介され、また、41 ページでは焼畑のオッタテビと記紀神話との関連が指摘されている。

『焼畑民俗文化論』

Ⅰ 焼畑系民俗文化論の視座
「1 焼畑系民俗文化論の経緯」

 かつて、焼畑は八重山諸島から北海道に及ぶ空間的な広がりの中で行われていたのであった。それは、時間的にも稲作以前から行われていた可能性が指摘され、近代に至るまで連綿と続けられてきたのだった。『三代実録』貞観九年三月二十五日の条に、「令大和国禁止百姓焼石上神山播蒔禾豆」とあり、石上の聖域近くにまで焼畑が及んでいたことがわかる。『万葉集』東歌には、「足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを逢はなくも恠し」(三三六四)と歌われ、『拾遺和歌集』巻十六に「片山に畑やくをのこかの見ゆるみ山桜はよきて畑やけ」という藤原長能の歌がある。焼畑は都近くにおいても、地方においても属目の風景だったのである。
 こうして、昭和二十年代までは焼畑が生業として営まれていた地も多かったのであるが、三十年代に入り衰退の歩を早め、高度経済成長期に入り完全に終焉を迎えたのであった。

Ⅱ 焼畑系基層民俗文化の実際
「1 焼畑の名称」

 富山県・石川県・福井県・岐阜県では焼畑のことを「ナギ」と称した。ここでも夏焼きの焼畑のことを「菜ナギ」「蕎麦ナギ」など、作物を冠して呼ぶ風があった。福井県大野市の中洞では、菜ナギ・蕎麦ナギは草山畑、稗や粟を作る春焼きナギは木山畑という仕分けをしていた。「ナギ」も、北陸・中部のみではなく、遠く、大分県国東半島の富来に「ナギノ」という呼称があった。「ナギ」は「薙ぐ」という動詞の連用形の名詞化で、「刈り払う」という意味である。こうしてみると、焼畑呼称の一類型として<刈る>という意味を示すものが大きな勢力を占めていたことがわかる。「カノ」も「ナギ」も、発生的には、草地や叢林を「刈り」「薙ぐ」ことから始まったものと見てよい。…………

「2 焼畑の技術伝承」 二 火の技術伝承

  1 防火帯の技術と名称
 焼畑の火の延焼に関する話は各地で耳にする。…… 山の火は上へ上へとのぼり、横にもひろがるのである。
……………………
  3 火入れの技術
 焼畑地の火入れにはことのほか神経を使った。風のない日を選び、暦のまわりのよい日を選んだ。…………
 焼畑の火入れ方法として全国的に共通していることは、傾斜地の上部から火を入れるということである。土佐池川町椿山では上部を「ホクチ」(火口)と呼び、静岡市大間では、焼畑上部の右端を「ホサキ」(火先)、左端を「テシタ」(手下)と呼んだ。大間では、焼畑組の長老を「行司」と言い、行司が全体の火を見て、「ホサキをさげよ」「テシタをさげよ」などと号令をかけて作業を進めた。
……………………
 …… 椎葉では、春焼きは「オロシ風」が吹くのを見はからって火を入れるので夜になることが多かったという。
 こう見てくると、火入れは上から下へが原則であったことがわかる。下から火を入れることを避けた理由は、延焼の防止とともに、火が上走りをして焼け残りが出ることを避けたからである。静岡市中平には「ウシが残る」という言葉がある。火が表面を走って焼け残りが出ることである。しかし、上から火をつけて三分の二から四分の三焼けたところで下から火を入れるという方法は各地にあり、静岡県榛原郡川根町、同磐田郡水窪町などではこれを「オッタテビ」(追い立て火)と呼んだ。神奈川県山北町箒沢では「ムカエビ」と称しており、途中で火と火がぶっつかって消えることになり、まさに『古事記』の「ヤマトタケル」「迎え火」と一致しているのである。
 上下の原理は、左右の風速が激しい時には左右にも適用された。南風が強い時には四分の三ほど北側を焼いておいてから南からも火を入れたのであった。
〔野本寛一/著『焼畑民俗文化論』 (p. 3, pp. 26-27, p. 37, p. 40, p. 41) 〕

 ○ 注目すべき言葉として「颪(オロシ)」の語を国語辞典で見ておこう。

『日本国語大辞典 第二版』 第三巻

おろし【下・卸・颪】〔名〕

(動詞「おろす(下)」の連用形の名詞化)
① 高い所から下の方へ移すこと。おろすこと。「雪おろし」「神おろし」「たなおろし」などのように、名詞に付けて造語要素として使う場合が多い。
② 神仏の供え物をとりさげたもの。また、貴人の飲食物の残りや使い古しの品物のおさがり。御分(おわけ)。……
③ 家来に食糧を支給すること。……
④(颪)山など高い所から下へ向かって風が吹くこと。また、その風。秋冬の頃、山腹の空気が冷えて吹きおろす風。おろしのかぜ。……
…………
おろしの風(かぜ) 山から吹きおろす風。山おろし。*類従本元良親王集(943頃か)「惜みつつなげきのかたき山ならばおろしの風のはやく忘れぬ」
〔小学館『日本国語大辞典 第二版』 第三巻 (pp. 64-65) 〕

―― また、焼畑で用いられる「向火」は、国語的には「むかえび(ムカヘビ)」よりも「むかいび(ムカヒビ)」の訓みのほうが、どうやら意味が通じやすいようだ。

The End of Takechan

 ○ 文字構成として〈畑〉は〝火田〟であり、〈畠〉は〝白田〟となる。これらの語は和名抄にも載る。

『諸本集成 倭名類聚抄〔本文篇〕』を参照すれば、それぞれの語の冒頭で、

火田は夜歧波太(ヤキハタ)、
白田は陸田・波太介(ハタケ)、

と説明されている。

 ○ 紀元前に成立した中国の『礼記』に「火田」という言葉が出てくる。さらに、「火耕水耨」という語も紀元前成立の『史記』にすでに見られることもまた、次の文献で指摘される。

地球研ライブラリー 17『焼畑の環境学』

史料論1 中日火耕・焼畑史料考(原田信男)

 (1) 中国の火耕・焼畑
…… もちろん焼畑は日本語で、中国文献には、火田・火耕として、いくつかの文献に登場する。
 まず紀元前三世紀以前成立の『礼記』王制第五に、天子・諸侯・百姓の田猟の記事があり、火田を禁じている。

獺祭魚、然後虞人入沢梁、豺祭獣、然後田猟、鳩化為鷹、然後設罻羅、草木零落、然後入山林、昆虫未蟄、不以火田、不麛、不卵、不殺胎、不殀夭、不覆巣、(竹内照夫『礼記 上』新釈漢文大系二九、明治書院、一九七九年)

 田には、田猟すなわち狩猟の意味もある。「かり」の訓をもつ畋の文字も同様で、耕作と狩猟は近しい行為であった。
 そして『爾雅』釋天第八「祭名」も、火田を狩猟とする。

春猟為蒐。夏猟為苗。秋猟為獮。冬猟為狩。宵田為獠。火田為狩。(長沢規矩也編『和刻本 経書集成』正文之部 第三輯、古典研究会、汲古書院、一九七六年)

 つまり「火田」とは火を用いた焼狩りと理解すべきで、この場合にも焼畑が伴っていたと考えてよいだろう。
 なお火田に関する記事としては、『宋史』志大一二六食貨上一に、大中祥符四年(一〇一一)の詔があり、先の『礼記』を承けて宋代には、火田が明確に禁止されている。

火田之禁、著在礼経、山林之間、合順時令、其或昆虫未蟄、草木猶蕃、輒縦燎原、則傷生類。(脱脱等撰『宋史』第一三冊、中華書局)

…………
 なお火耕の語については、五世紀に成立した『後漢書』文苑列伝第七〇上の杜篤伝に、

田田相如、鐇钁株林、火耕流種、功浅得深、(范曄撰『後漢書』第九冊、中華書局)

とあり、おそらく後漢すなわち一~二世紀ごろには用いられていたものと思われる。この「火耕流種」とは、まさしく林を切り開く焼畑を指すものであろう。
 さらに唐代の欧陽詢撰『芸文類聚』巻二六人部十言志所載にも、以下のようにある。

夾江帯阡、布濩井田、通逵交迸、高門接連、人腰水心之剣、家給火耕之田、爾乃樹之榛栗、椅桐梓漆、(欧陽詢撰『芸文類聚 上』中華書局、一九六五年)

 ただ、江蘇という地域的な問題からすれば、これは次に述べる火耕水耨の田を意味する可能性が高い。

火耕水耨 古代中国の農業史研究では、長江南部における火耕水耨に関する論争が行われてきた。火耕水耨の語については、紀元前九一年ごろの成立とされる『史記』の二ヶ所に登場する。

平準書第八:
是時山東被河菑、及歳不登数年、人或相食、方一二千里。天子憐之、詔曰、江南火耕水耨。令飢民得流就食江淮間、欲留之処、遣使冠蓋相-属於道護之、下巴蜀粟、以振之。(吉田賢抗『史記 四』新釈漢文大系四一、明治書院、一九九五年)
貨殖列伝第六九:
楚越之地、地広人希、飯稲羮魚、或火耕而水耨。果陏臝蛤、不待賈而足。地勢饒食、無饑饉之患、以故呰窳偸生、無積聚而多貧。是故江淮以南、無凍餓之人、亦無千金之家。(重野安繹『史記列伝 下』増補漢文大系七、冨山房、一九七三年)
〔『焼畑の環境学』所収、原田信男「中日火耕・焼畑史料考」(p. 522, p. 523) 〕

 ○ 最後に、後漢書「火耕」についての注釈を、邦訳文とともに参照しておきたい。

『全譯後漢書』 第十七册

文苑列傳第七十上(范曄「後漢書卷八十上」)

 杜篤傳
【原文】
火耕流種、功淺得深[九]。
[李賢注]
[九]以火燒所伐林株、引水漑之而布種也。

《訓読》
火耕流種し、功は淺くして得ることは深し[九]。
[李賢注]
[九]火を以て伐る所の林株を燒き、水を引きて之に漑ぎて布種するなり。

[現代語訳]
田畑の雑草を焼いて種をまきますと、わずかな手間で多くの稔りを得られます。
[李賢注]
[九]火で伐採した株を焼き、水を引いてこれに注いで種をまくのである。
〔渡邉義浩・髙橋康浩/編『全譯後漢書』 第十七册 (pp. 759-764) 〕


―― 今回の内容は、錯綜している。
 整理すれば、まず「富山県・石川県・福井県・岐阜県では焼畑のことを「ナギ」と称した」という一文に、ヤマトタケルの〈草薙剣(くさなぎのつるぎ)〉の原型を見たように思った。
 すなわち、ヤマトタケルの神話に、焼畑で用いられる「向火」の技術が伝承されたのだと思われた。
 また、日本の「焼畑」の語は中国の「火耕」を元とするようである。
―― 野焼き・山焼きを、火耕と称してかまわないのなら、農耕の以前に、人類は、土地を火で耕すことから始めたのだとも、いえようか。

火は、土地を豊穣にし、やがて、鉄を精錬するに至る。


〈草薙剣〉の説話は国家権力によって、〈天叢雲剣〉へと変貌していき、
その剣の記念碑は、鳥取県と島根県の県境に聳える〈船通山〉の山頂に建っている。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

草薙ぎ / 狩り野 / 煆野畑
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/kusanagi

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

草薙ぎ / 狩り野 / 煆野畑 バックアップ・ページ
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