2018年9月30日日曜日

〈印賀鋼〉最終伝説 / 因伯刀匠伝

嘉仁(よしひと)皇太子「山陰道行啓」のこと

前回の記述の関連事項を再掲する

◎ 鳥取県の記録によると 12 代鳥取県知事(明治 39 年~明治 41 年)に「山田新一郎」の名がある。

 氏が鳥取県知事を拝命した翌年の明治 40 年 5 月には、当時は皇太子であったのちの大正天皇が、山陰鉄道の開通記念に〝風土記の時代には夜見島であった〟境港から上陸して鳥取県に来訪、米子・倉吉・鳥取に宿泊しつつ、鳥取県を東西に往復する鉄道の旅程を無事に終えて、その後、出雲大社のある島根県を訪問している。
 旅の途中鳥取市に宿泊した折には、〈印賀鋼〉を鉄材として、刀工日置兼次による刀鍛冶の実演が、皇太子の前で披露された。その刀剣の銘は「明治四十年五月吉日久松山麓に於て兼次作」と切られたと記録されている〔『山陰道行啓録』「鳥取縣」(p. 74) 参照(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)〕。

〖 ※ 日置兼次は、20 年前の明治 20 年 2 月 28 日、伊勢神宮の宝剣鍛造のために通勤していた靖国神社の鍛錬場にて鍛えた八寸五分の短刀一口「因幡兼光十二代日置兼次作」を皇太子(当時数え年九歳)に奉献した刀工である。〗

◎ ところで、かつて判明したところによれば、「米子製鋼所の鋼は、少なくとも明治 41 年から大阪造幣局の貨幣極印用として買上げられてきた」のだった〔〈印賀鋼〉最強伝説 のページ 参照〕。

―― そのような記録をたどれば、山田新一郎氏が鳥取県知事の職にあった時期はちょうど、鉄製品で、鳥取県の技術が日本一になる出来事が進行していたという、時代の流れを捉えることもできよう。

仁風閣の名称は皇太子に随行していた東郷平八郎によって命名された。余話として、現在は国の重要文化財となっている仁風閣の敷地内で、映画「るろうに剣心」の戦闘シーンを伴う撮影が 2011 年 9 月に行なわれた。


 さて、以上の情報をもとに前回からの一週間でいろいろと調べてみた。
―― 刀匠日置兼次が歿する三年前、当時は皇太子であった大正天皇の御前鍛冶を務めた経緯を、今回は少々物語風に書き記してみたい。

因幡刀工・日置兼次 刀剣鍛錬を披露のこと


 明治 40 年 (1907) の 5 月、嘉仁皇太子は山陰道行啓(さんいんどうぎょうけい)に際し、鳥取市にも数日滞在した。
 当初は池田家の別邸として「扇御殿」の跡地に計画されていた、宿泊先の「扇邸」は、鳥取城趾の石垣がいまも残る久松山(きゅうしょうざん)の麓、城と鳥取の城下町とを区分する〝お堀〟の内側 ―― 山側 ―― に位置し、宿舎として使用される直前の明治 40 年 5 月 11 日頃に竣工した。
 現在は鳥取県立博物館の建つ敷地部分は、扇邸の果樹園だったという。扇邸の仁風閣(じんぷうかく)が皇太子の宿とされた。前回に記した文中にもあるが「仁風閣」の名は東郷平八郎による。

 ○  2004 年に仁風閣から発行された資料『仁風閣の周辺』(p. 10) では、

 東郷は行啓の随行で鳥取に滞在中、高等小学校と樗谿の招魂社に松を手植えしています。また仁風閣には池田侯爵の依頼により揮毫・命名された「仁風閣」の直筆が今も 2 階ロビーに残されています。

と記されている。
―― 1907 年 5 月 20 日、扇邸の庭に設けられた鍛冶場に、刀工として日置兼次が参上した。

 ○ 明治 40 年に刀剣鍛錬が〔その 5 年後に天皇となる〕皇太子の前で実演された詳細な記録がある。

『紀念 山陰道行啓録』明治40年09月12日刊

刀鍛冶御覽

二十日午後二時半扇邸内に散歩松の御手植ありたる後本縣名譽の刀工日置兼次氏の刀劍鍛錬の事ありたり  殿下には扇邸内御山屋敷にて御覽あらせられたるが鐵材は伯耆國印賀鋼を以し鍛錬半にして水に漬し冷却せしめたる後之を叩き割りて鋼の目合せを驗し上中下の三に別ち上を皮金と爲し中を峰金となし下は等分に鐵を合せて眞金と爲し更に鍛錬前後九度に及びかくて京都稻荷山の土肥後天草の石因幡の堅炭を細末となして等分に混じ之を水に錬りたるものにて刀身を塗り再び火中にて熱し更に水に漬し此の如くして燒刄を入れ後研砥にて研ぎ峰に赤金を噛まし反を附けて最後に「明治四十年五月吉日久松山麓に於て兼次作」と銘を切り全く終へたるは午後三時五十分  殿下は終始熱心に御覽ありたりと承る兼次氏の名譽も大なりと謂ふべし
因に日置兼次氏は仁平と稱し先代は兼先と稱して鳥取藩の刀工なり仁平氏幼より父に學ひ長じて長船に到り後江戸に技を研きぬ廢藩後舊里に居りしが先年陛下の伊勢大廟に納劍あるに際し倉吉の宮本包則氏と共に召されたるなり當年六十八歳の老體なり鍛劍御覽の向ふ槌を打ちしは左の四名なりし
福嶋伊平賢路△同人門人林芳造△籔片原町植村榮治△同人忰秀雄
〔角金次郎/編輯『紀念 山陰道行啓録』「鳥取縣」 (p. 74)

―― 嘉仁皇太子の御前で「鉄材は伯耆国印賀鋼」と明記された玉鋼を用いて、因幡国を代表する刀匠により日本刀が鍛えられたという記録である。

 日置兼次が「明治四十年五月吉日久松山麓に於て兼次作」と銘を刻んだ〈印賀鋼〉の太刀。
 その行方をさっそく、〝秋分の日〟の休日明けの今週火曜日(2018 年 9 月 25 日)鳥取県庁の受付窓口で訊ねてみたのだけれど、県庁ではこの刀剣の情報を把握していなかったようで、そういうわけで県庁には担当の部署もないらしく ――。
 翌日ふたたび県庁を訪れると、受付の担当者があちこち問い合わせてくださった結果、現在のところ、その銘の刀はどこにあるのかわからないという、返答であった。

 かつて因州刀匠日置兼次が伯州刀匠宮本包則とともに伊勢神宮の宝剣鍛造を行なったのは、明治 40 年 (1907) から遡ること 20 年前の東京、九段靖国神社境内に造営された工場でのことだった。
 明治天皇の第三皇子で、明宮(はるのみや)と呼ばれた嘉仁皇太子は、その明治 20 年に、靖国神社に何度か足を運んでいる。
 ちょうどその年には、鳥取県を代表する二人の刀匠が国から委託されて、前年の 10 月よりおよそ 1 年間の契約で伊勢神宮の宝剣を鍛造していたのだ。その総数、3,800 本あまり。日置兼次の伝記に、その詳細が記録されている。その一部を抜粋すれば、
柳葉鏃及び斧形鏃の合計三千六百九十二本、これに要する鋼の量目二百五十八貫四百四十匁、古鍬が八十八貫六百匁、木炭・七千三百八十四貫、人件三千四百四十人と云う延人員である。
とあって、膨大な事業であることがわかる。

 明治 40 年に鳥取県に提出された日置兼次の履歴書には、
明治十九年五月 内務省造神宮鍛治御用被仰付宮本包則ト共ニ 御太刀六十六口 御鉾四十二本 及御鏃三千八百余本ヲ鍛フ
とあるが、「明治十九年五月」というのは国の命を受けて提出した、最初の見積もりの書類の日付であろう。その見積書に「明治十九年五月十日」と記されている。

 明治 20 年、数え年九歳(満七歳)の明宮が 2 月 28 日、靖国神社の宝剣鍛造を見学した記録は、『大正天皇実録』にも、
就中、二月二十八日には神宮宝剣鍛錬の状を御覧あらせらる。
と記載がある。
 その際、日置兼次と宮本包則の両名は、短刀を奉献している。
 兼次の伝記の記録を見よう。


 この工事半ばの明治二十年春二月二十八日、時の皇太子殿下の行啓があつた。鍛錬方御見学のため靖国神社の鍛錬場へならせられ、包則兼次は謹んで八寸五分の短刀を造り奉献している。これに対して東宮殿下から御沙汰があつた。翌三月十四日のことである。

短刀一口 因幡兼光十二代日置兼次作
 明宮殿下於鍛冶所御覧被遊候一口御伝献相成早速入御覧候処御満足に被思召候因而此段申入候也
  明治二十年三月十四日
明宮御用掛宮中顧問官  土方久元
 高辻宮内書記官殿

 右の文書が土方久元から高辻子爵へ、高辻子爵から兼次へと伝達された。

 短刀一口伝献致候処土方御用掛より別紙被差送且羽織地被下候間則送進候也
  明治二十年三月二十六日
高辻修長(花押)   
   日置兼次殿

 こうして幾多の曲折をへて契約期限の満一ケ年、即ち明治二十年十一月に無事完納している。
〔山本天津也/著『因州刀工 日置兼次の伝記』 1962 年 (pp. 29-30)

The End of Takechan
―― 靖国神社に設けられた鍛錬場で、鳥取県の因幡国と伯耆国をそれぞれ代表する二人の刀匠により大量の刀剣が鍛え上げられたという、国が計画したこの事業は、古事記と日本書紀に残された記録を彷彿とさせるものがある。

◉ 古事記には垂仁天皇の時代に
次印色入日子命者、作血沼池、又作狹山池、又作日下之高津池。」に続いて、
又坐鳥取之河上宮、令作横刀壹仟口、是奉納石上神宮、即坐其宮、定河上部也。」とある。
◉ 日本書紀には垂仁天皇三十九年十月の条に
五十瓊敷命、居於茅渟菟砥川上宮、作劒一千口。因名其劒、謂川上部。」と記され、
藏于石上神宮也。」とするのも、古事記と同じである。

 現在の定説として「鳥取之河上宮」と「菟砥川上宮」は同じ場所を指す。鳥取は和名抄にある「和泉国日根郡鳥取郷」とされており、和名抄原典『倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)で、和泉国日根郡に鳥取〔止々利〕」が確認できる。「止々利」の読みは「トトリ」である。

The End of Takechan

宮本包則は 上野公園内美術協会前仮工場で
明治天皇に刀鍛冶を披露している


 ○ 宮本包則は明治 39 年に「帝室技芸員」となっている。草信博氏による解説を参照しよう。

宮本包則の「帝室技芸員」とは戦前迄の制度で、現在は重要無形文化財制度であり、その保持者が所請「人間国宝」である。この帝室技芸員制度は、明治二十三年に日本画・洋画・彫刻等々の他刀工・金工なども選ばれ、刀工では「宮本包則」と「月山貞一」との二名であった。
〔『帝室技芸員 宮本包則刀六十撰』平成08年01月10日 (p. 95)

―― 因幡 山内良千 撰「刀工菅原包則翁傳」に、次の記述がある。

〔明治〕二十四年(一八九一)四月二十日車駕上野公園内美術協会に行幸のとき、同館前仮工場に於て鍛冶術の御覧を給う。因て相州傳、備前傳の焼刀法を短刀に施し、又、特に叡旨を奉じ長さ二尺三寸の太刀の焼刀をも作る。即日金五円の恩賞あり。翁時に年六十二、真に古来未曽有の光栄と謂う可し。
〔みささ美術館/編集・発行『宮本包則刀剣展』昭和六十一年七月二十七日~八月十日 (p. 5)

 宮本包則の年譜には伊勢神宮の宝剣鍛造にかかわる記事が、明治元年 (1868) および明治 19 年と、明治 21 年・明治 39 年に見える。そして宮本包則は明治 39 年に「帝室技芸員」となった。

 いっぽう、明治 40 年の御前鍛冶の翌年のこと、日置兼次のほうは鳥取に帰省した記録がある。
 これも伝記から引用しよう。

 兼次は明治四十一年鳥取に墓参帰省している。当時の模様を兼次の四女太田垣よね氏は語られたが、元気であったらまた来るから、と東京に帰って行ったが、これが兼次の最後の郷里訪問であった。明治四十三年二月八日、東京下谷二長町の宗伯爵邸において波乱の生涯を終った。享年七十一才である。
〔『因州刀工 日置兼次の伝記』 (p. 61)

◎ 大正天皇は即位以前に、日置兼次の刀鍛冶を二度観覧したということになろう。数え年 9 歳の明治 20 年 2 月には東京の靖国神社で。明治 40 年 5 月には皇太子として行啓した先の鳥取市久松山麓扇邸の屋敷で。
 20 年の歳月を経て青年になった嘉仁皇太子は、老齢の刀匠日置兼次の面影に何かを見たのか?

 明治 40 年 5 月に鳥取城の山麓で鍛造された〈印賀鋼〉の太刀がある。
 その行方は、杳(よう)として知れない ―― 。


Google サイト で、本日「仁風閣・鳥取駅」の位置情報を含む地図を追加した、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

〈印賀鋼〉最強伝説 / 因幡・刀匠伝
https://sites.google.com/view/emergence-ii/home/inaba

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

〈印賀鋼〉最強伝説 / 因幡・刀匠伝 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/inaba.html

0 件のコメント:

コメントを投稿