客観的に見て、いうとすると……
日常的に、日本語で「客観的立場に立って」語られる場面があるが、その際に「客観」とは、何を想定しているのか。
無論、語られる内容が、「客観的立場に立って」語る人物の「主観的」な内容に過ぎないことは、明白である。
つまり誰か常識人が「主観的」な自分を「客観的」な観点で自省できると、思い込んでいるのだろう。
おそらくは「一般的」と「客観的」を混同しているものと思われる。
前回(2016年8月26日金曜日)のページ
一即多(いっしょくた):時間・空間・人間 - 生命 -
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の、最後のほうに書いたことなのですが、ついでにここへ再録させていただきましょう。
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そして、もうひとつ確認しておきたいのは、「客観的」というのは、「主観的」な観点の多数集まったものだということだ。
たとえば、小数点以下 10 ケタまで計測可能な温度計を、100 個つくって、部屋の温度を計った場合、どの温度計が、もっとも「客観的」であるか。100 個の数値を平均して、それに一番近い数値の温度計がもっとも「客観的」だというならば、温度計の数を増やして 200 個の数値から算出された平均値とでは「客観的」な数値に変化が出てしまう恐れがあるので、すると、温度計の個数が変わるだけで「客観的」な温度に変動が生じることにもなろう。
つまり、〝純粋な客観〟とは、物理的には想定不可能なのだ。形而上の概念であり、現実には存在しない。
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「客観 (obiectum) 」だけを存在者と認める〈主観-客観関係〉の構図
というのが、成り立つらしいのです。〔参照:『岩波 哲学・思想事典』 (p.735) 〕
ところが、その後、量子力学の理論は、
カントが「客観的認識」の拠り所とした〈因果律〉について、確率的にしか語れないとするに至ります。
今回は、辞書を調べて、次の見解を得ることができました。
〈主観〉は対象を認識する主体であり、〈客観〉は主体により認識される対象である。
つまり対象である〈客観〉がなければ、〈主観〉という言葉は概念として成立しない。
また、わたしが〈主体〉であるとき、その〈主観〉はわたしの〈主観〉を基準とする。
また、あなたが〈主体〉であるとき、その〈客観〉はわたしの〈主観〉かも知れない。
〈主観〉と〈客観〉は、概念であり、現象ではない。
〈主体〉も〈客体〉も、物理現象としては、実在しない。
事実、わたしの〈主体〉は、あなたの〈客体〉である。
いくら「絶対」と語句の頭に付け加えても、その〝絶対概念〟は、〈主観〉とか〈客観〉に過ぎない。
――認識される現象と、認識される概念とを、混同してはいけない。
そうするとなると、〝普遍的な客観性〟などという代物は、
あたかも降ってわいたようにどこからやって来るのでしょう?
わたしを照らす〈客観性〉など、虚妄に過ぎないことにもなろうかと、思われます。
主観 と 客観
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