広島原爆では「相生橋」が、照準点であったとされている。
だがその一方で、長崎原爆の照準点は未だ「諸説がある」という状況らしいのは、不思議な気がする。
なぜ「常盤橋」が定説とならないのか? 実に不可思議なのである。
公開されて、出版されている米軍資料の邦訳文を信用するならば、
資料 G 第 509 混成群団、作戦計画の要約
PAGE 50
照準点は長崎港の東の、市の商業地区に置かれた。7,500 フィート [2.3km] の半径に基づけば、正確に投弾すれば、港の東の市の大部分と、おそらくは西側の海岸まで破壊が及ぶであろうと信じられた。
〔『米軍資料 原爆投下の経緯』 (p.217) 〕
その正確な目標地点を示す地図資料も、公開されて、実際に確認できる。
資料 I その他の資料
資料 I‐2 〔同上 (p 237) 〕
長崎原爆投下用
XXI 爆撃機集団石版集成図、長崎地区、三菱製鋼および兵器工場、目標 No.90.36—546
照準点 : 114061
〝資料 I‐2〟は、アメリカから持ち帰った「石版集成図」の、実物複写図(爆弾投下用航空写真)であるという。
目標番号〝546〟は、実際の投下地点に近い「三菱製鋼および兵器工場」あたりを示す。
これは、作戦では、投下目標の参照地点となっている。
つまり、 〈指月のたとえ〉 でいうなら、「三菱製鋼および兵器工場」は〝指〟に該当し、〝月〟は〝照準点 : 114061〟で、それは、「常盤橋」付近なのだ。
ここまで、はっきりした記述があるにもかかわらず、未だそれが定説として認められていないのは、どういう理由によるのか、さっぱりわからない。
最初に書いたように、市街地が投下目標と判明したのは 1994 年のことである。
読売新聞、2012 年 5 月 26 日朝刊( 31 ページ[長崎])によれば、
長崎市は、「原爆投下目標地に案内板」を設置した、という。
長崎原爆資料館の運営協議会委員を務めていた高橋眞司・長崎大客員教授(平和学・哲学)は 2010 年、「個人的に周知に取り組んでいるが限界がある」として、案内板設置の提案書を市に提出。今年 3 月、爆心地と当初の投下目標地を示す地図や、日・英・中・韓の 4 か国語の説明文を表記した縦 45 ㌢、横 60 ㌢の案内板が設置された。
二発目の原爆投下の作戦決行は、数日間早められた。天気が悪くなると予想されたためだ。
原爆の投下された 8 月 9 日から 5 日間ほどは、実際に悪天候であったという。
ぎりぎりのタイミングで落とされた原子爆弾の爆心地は、目標から、大きく逸れてしまったのだった。
そして、5 日後の 8 月 14 日には、日本はポツダム宣言を正式に受諾して、降伏した。
1945年; ヤルタ・ポツダム会談とポツダム宣言
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Potsdam.html
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