西田幾多郎が退官した昭和 3 年 (1928) に、高山岩男は、京大を卒業している。
同じ年、「三・一五事件」が起きている。
―― 1928 年 3 月 15 日の、日本共産党に対する全国的大検挙をいう。
その翌年、昭和 4 年 (1929) に、先輩である戸坂潤のマルクス主義者としての見解を、高山岩男は直接、耳にすることになる。高山は耳を疑ったろう。
〝スターリンが言っているから、それは真理なのだ!〟
高山岩男「京都学派の回想」(1) 〔『心』第 33 巻第 7 号 1980 年 7 月〕 の 57 ページに、その発言は記録されているらしい。
そして、高山岩男と戸坂潤の交流は断絶することとなる。
戸坂潤は、昭和 10 年 (1935) に自著を西田幾多郎に献呈し、西田幾多郎はその西田哲学批判に対して、手紙で応答した。
それを示す、昭和 10 年 7 月 20 日付けの西田幾多郎による戸坂潤宛の手紙が残っている。
その前後に、戸坂潤は、マルクス主義者としての足跡を残して、そして終戦を知らずに獄中の死を遂げた。
昭和 5 年 (1930) 治安維持法違反で三木清が法政大学の職を失った。
昭和 6 年 (1931) 戸坂潤が、三木清の後任として法政大学に迎えられる。
昭和 9 年 (1934) 戸坂潤は、マルクス主義的思想のゆえに法政大学の職を罷免された。
昭和 13 年 (1938) 治安維持法違反で、戸坂潤は、逮捕された。
昭和 20 年 (1945) 戸坂潤、疥癬 (かいせん) を病んで、獄死。
その死の前日に、
領土の保全不可侵と中立友好を約した「日ソ中立条約」を一方的に破棄して、
昭和 20 年 8 月 8 日、ソビエト連邦が、日本に宣戦布告、ソ連軍は南下を開始。
戸坂潤が獄死した、同年 8 月 9 日、ふたつめの原子爆弾が、長崎上空から、投下された。
〝純粋経験〟と〝語りえぬもの〟
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/successor.html
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