2016年7月29日金曜日

哲学的自我と身体論としての境界線

 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは、論じる。

「哲学的自我は人ではなく、身体でも心理学の扱う心でもない。それは形而上学的主体、世界の部分ではなく境界だ」と。
『論理哲学論考』対訳・注解書 (p.278)

 この「境界」は、閉じられているようだ。つまり図に描くと、輪になっている。
 それで世界の部分ではなく境界だという、自我は、その〝輪〟ということとなる。
 また、市川浩『精神としての身体』 には次のように記されている。

われわれが道具を使って作業し、行動する場合、道具は、はじめ身体の外にある補助具としてはたらいているにすぎないが、やがて習慣的身体のうちに内面化され、統合されて、〈媒介された身体〉を構成する。熟練した外科医にとって、ゾンデは外的な道具であるにとどまらず、肉体化された二次的な指先となる。かれはゾンデの伝える動きを指先で判別するのではない。はたらきとしてのかれの身体は、ゾンデの先までのび、ゾンデの尖端で感じているのである。盲人の杖についても同じことがいえよう。またドライバーにとって、新しい車の車幅は、自分の体の外にある対象化され、計量されうるひろがりにすぎないが、なれるにつれて、かれの身体は車の大きさにまでひろがり、車幅はかれの身体空間のうちに内面化される。
講談社学術文庫『精神としての身体』 (pp.78-79)

 そこでは、我々は、空間的な広がりを保っており、道具をも身体化する能力を保有するのである。

 一方、西田幾多郎は、「場所的論理と宗教的世界観」〔新版『西田幾多郎全集』第 10 巻〕で語る。
外に神を見ると云ふならば、それは魔法に過ぎない。 (pp.323-324)
我々の自己の根源に、かゝる神の呼声があるのである。私は我々の自己の奥底に、何処までも自己を越えて、而も自己がそこからと考へられるものがあると云ふ所以である。 (p.334)

 ここで、疑問が生じる。
 西田幾多郎は「内即外」かつ「外即内」等と、「即」の大盤振る舞いを繰り返してきたはずだ。
 ここへきて、「外に神を見ると云ふならば、それは魔法に過ぎない」というのであれば、
内に神を見ると云ふならば、それは魔法に過ぎない」とも同時にいえるはずではないのか?


身体論:わたしとあなたと世界
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/self.html

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