2016年7月8日金曜日

戦後のポスト〈場所〉論

 先月、西田幾多郎と、三木清の死について触れたのですが、

1945 年 (昭和二十年) の、それら関連記事を時系列にしてみると――

 1 20 日 三木清の手紙、坂田徳男宛
今年はできるだけ仕事をしたいと思ひます。まづ西田哲学を根本的に理解し直し、これを超えてゆく基礎を作らねばならぬと考へ、取掛つてをります。西田哲学は東洋的現実主義の完成ともいふべきものでせうが、この東洋的現実主義には大きな長所と共に何か重大な欠点があるのではないでせうか。……ともかく西田哲学と根本的に対質するのでなければ将来の日本の新しい哲学は生れてくることができないやうに思はれます。これは困難な課題であるだけ重要な課題です。
中村雄二郎『西田幾多郎 Ⅱ』から引用〕

 2 4 日 西田幾多郎 76 歳の年、最後の完成論文となる「場所的論理と宗教的世界観」起稿

 3 月 三木清、治安維持法の容疑者の逃亡を助けたという理由で拘留される

 4 14 日 西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」脱稿。 6 月 7 日、西田幾多郎死去

 8 15 日 日本敗戦

 9 26 日 三木清死去
 9 30 日 三木清の訃報記事、告別式は 10 3 日(朝日新聞による)

 私はむりに病床をはいだして三木さんの通夜の席にあらわれ、政治犯即時釈放を連合軍に嘆願しようと、人々に提案した。しかし、私の提案は少し唐突過ぎ、場所がらにもふさわしくなかったらしい。私は嘆願書の草案を用意していたが、それを取りだす機会はなかった。(三木の親友の松本慎一による)
明神勲『戦後史の汚点 レッド・パージ』から引用〕

 10 10 日 政治犯釈放される
 10 15 日 治安維持法の廃止

1945 10 月の、政治犯釈放と治安維持法の廃止は、GHQ の主導で行なわれたもののようです。
服部健二『西田哲学と左派の人たち』による〕

 以上のことがらで、思想家と想定される人たちが「何か行動を起こそう」とした仲間の意見を相手にしなかった、らしい記事が、もっとも印象に残ったのです。

 その(敗戦の) 6 年前、1939 年(昭和十四年)には、小林秀雄「学者と官僚」に次の一文が残されていました。
行為の合理化という仕事が、思想というものだと思っている。思想が行為である事を忘れて。
『小林秀雄全文芸時評集 下』から引用〕

 これらのことを調べてみようという、きっかけになったのが、1987 年の中村雄二郎『西田哲学の脱構築』に収録された問題提起の文章なのです。(中村雄二郎『西田幾多郎 Ⅱ』はその新版)
 その初出は、『思想』 1985 12 月号ということなのですが、そこには、
この三木清のことばは、第二次大戦後の日本の哲学界に対するたいへん重要な遺言になっていると私は思うのですが、振りかえってみると、今日に至るまで日本の哲学界はどれだけ、ここに含まれる課題に対し答えてきたと言えるでしょうか。折角の、またさすがに三木らしい、このような問いかけが十分生かされなかったのは、残念の極みです。」〔『西田幾多郎 Ⅱ』から引用〕
と、あります。

 中村雄二郎氏の、「このような問いかけ」は、それからどれほどに生かされてきたのでしょうか。
 よもや、21 世紀になった現在でも、京都大学では西田幾多郎を神と崇める亡霊のような「西田哲学」が、治安維持法の代わりとなって猛威を振るっている、というわけでもありますまい。
 本当のことが言えない、言うと学者生命を断たれる、などという事態を、いつまでも哲学が手をこまねいて傍観しているはずもないでしょうから。

 そこで「場所の論理」というキーワードから、その後の〈場所〉論の展開を自分なりに追ってみたのが、次に示すリンクのページということになります。
 つまり「西田哲学」の継承者として、西田幾多郎を乗り越えるべく、何が記録されているのか。
 上田閑照『場所――二重世界内存在』 1992 年)、またその前年の上田閑照『西田幾多郎を読む』 1991 年)からはじまる引用文が中心となっています。
 ページの最後に引用させていただきました、キケロ『トピカ』の邦訳文は、「トポスの学」からの〈場所〉の視点となります。
 西田幾多郎「論理と数理」( 1944 年)にも「トポロギーのトポス」という記述がみえます。
 ――ちなみに「トポロギー」は日本語で「位相幾何学」と表現される、数学なのですね。


場所論:ポスト西田哲学
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/topos.html

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