奇妙な感じもするのだが――寡聞にして、いままで「西田哲学」の文献を読んでいて、アインシュタインの名に出くわしたことがなかった。
西田幾多郎の「伝記」に、その名は登場する。
アインシュタインの数学の師匠であり、特殊相対性理論を数学的に完成させたといわれる、ミンコフスキーの「ミンコフスキー空間」や、量子力学のハイゼンベルクなどは、西田幾多郎自身の論文でもかつて見られた。
西田幾多郎は、物理学理論の基盤の上に、哲学の論理が構築されるべきだと、考えていたようだから。
第二次世界大戦中なら、同盟国ドイツの政策のこともあって、ユダヤ人のアインシュタインの名は、出しにくかっただろうとは、思われる。しかしながら、西田幾多郎が京都大学在職中というのは、もっぱら大正時代なのである。
そういうわけでさらに調べてみると、『哲学論文集 第三』の「経験科学」という論文にアインシュタインの名は登場することがわかった。
新版の『西田幾多郎全集 第八巻』 (p.427) で、そのことは確認できる。論文の初出は昭和十四年の『思想第二〇七号』( 1939 年)になるらしい。――これらのことについては、改めて詳しい情報を確認する機会があるかもしれない。
さてこそ、大正十一年に、アインシュタインの来日と、海外でも注目されている彼の「京都大学講演」が行なわれたということが重要なのだ。
アインシュタイン来日というのは、当時の日本の大学人にとって、狂喜乱舞するがごときのできごとだったようだ。
その実現のきっかけを作ったのが、ほかならぬ西田幾多郎であり、かの「京都大学講演」の演題も、西田幾多郎の提案になるという。
詳しくは、石原純著『アインシュタイン講演録』 をひもといてほしいのであるが、ここでまずは、以下にその一部を引用させていただく。
改造社の山本氏が私を訪問せられて、相対性理論の大要を改造に載せたいことを話され、私の執筆を求められると同時に、アインシュタイン教授を講演のため招聘したい意思のあることを漏らされました。同氏がかような計画をなされるに至ったのは、京都大学文学部の西田教授の慫慂に基づいたものであるということでした。
=いかにして私は相対性理論を創ったか=
私はいま最後に述べた京都での演説について、もう少しここに言わなければならないのを感じます。それは 12 月 14 日でした。…………。私たちは教授に従って正午に大学へ行って午餐会に連なりました。それが終ってわずかの休憩の間を京都の教授たちがそれぞれアインシュタイン教授と話されていました。やがて学生の歓迎会の時刻が来て教授が席を立たれようとしたとき、私は西田教授からの申し出を伝えたのでした。西田教授は先に私の書いたように、アインシュタイン教授の招聘の動機を最初に改造社の山本氏に与えられた人です。そして、もし今日何か話して頂くことを願い出ることが出来るとしたなら、アインシュタイン教授がいかにして相対性理論をつくり上げられたかという経緯をうかがいたいものであって、それが一般学生並びに自分らに取ってどんなに有益であるか知れないということを熱心に申し出されたのです。アインシュタイン教授はおそらくはこの西田教授への好感をもっておられたことでしょう。そのときすぐにもう歩を移しながら答えられました。
「それはそう簡単ではない。けれどもし自分にそれを話してくれということなら、そうしましょう。何を話すも同じですから」
次に示すページには、もう少しだけ長く、引用文を掲載させていただきました。
〈永遠の今〉と 周縁の彼方の〈虚空〉――境界の彼方への超越:
大正十一年、アインシュタイン来日と「京大講演」
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/index.html
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