神はどこに、人間はどこに、いたのか
オバマ米国大統領による、被爆地ヒロシマの訪問が実現したのは、今月 27 日のことだ。
歴史的な一歩がそこに印されたと、いえよう。
20 年ほど前、雑誌『世界』に、藤永茂氏による「ナチ・ホロコーストと原爆ホロコースト」という記事が掲載されている。
それは、次のようにはじまる。
一九九五年原爆五〇周年の記念行事としてワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館が企画した原爆展をめぐって、アメリカでは大論争が行われた。退役軍人、国会議員などからの熾烈な非難を浴びて、博物館側は全面降伏し、はじめの企画は破棄され、館長ハーウィットは辞職に追い込まれた。
〔岩波書店『世界』 1997 年 1 月号、p.185 〕
藤永氏はその稿の中で、原爆ホロコーストという言葉を、第二次世界大戦中の「ホロコースト」の一部として捉えるべく主張する。
たしかに、「すべて焼き尽くす」という概念で「ホロコースト」を用いるなら、間違いとはいえないだろう。
しかし「ホロコースト」を「燔祭(はんさい)」という祭儀であるとするならば、現在における第二次世界大戦中の事件に対する「ホロコースト」の使用例は全部不適切であると、思われる。
それらは「政治」という〝まつりごと〟が遂行したものであって、「祭祀」という〝まつりごと〟によるものではない。
そうするとそれらを解釈していく過程で、古い時代の〝まつりごと〟の混在した観念が、ひとしれず混ざり込んでいると、いえないだろうか。
アウシュビッツを中心とする事件は、〈祭儀〉などでは、決してない。
――
〝まつりごと〟というのは、われわれの「生命」ないしは「われわれの歩く道」つまりは「人生」に深くかかわるものだ。
最近――今月 13 日に書いたことの繰り返しになるが、つまり……
〝そこに意味を見出そうとしてひとは「神」を創造した〟のだ。
イスラエルでも、「アウシュビッツ」の事件を「ホロコースト」として、そこに意味を見ようとしているという。イスラエルにあるその国立記念館は、
“Yad Vashem. The World Holocaust Remembrance Center”
という、英語名を持つのだ。その深い意味は、おそらくわれわれには、わからない。しかし、推測するなら、意味もなく、「大量殺戮(たいりょうさつりく)された」のでは、彼らの「人生」が意味をもたない、からなのだろう。
だが、それはひるがえって、彼らの「神」を裁き、彼らの「神」に死を宣告する道へとつながっていく。
それでも、ひとには、意味が必要なのだ。つまり「神」ではなく、「意味」が……
anthropodicy : 「神義論」及び「人義論」のこと
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/quest/anthropodicy.html
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