英訳された、「創世記」 22 章 14 節の、
“On the mountain of the LORD it will be provided.”
〔『バイリンガル聖書』 2nd Edition (p.38) 〕
――いわゆる 「主の山にそなえあり」 というフレーズを見れば、そこから 〈providence〉 が派生していくのは、容易に感じられます。
〈providence〉 の和訳が〈摂理 (せつり) 〉です。
古来より問題とされたのは、因果応報の神は、人類の思い込みなのか?――という問いです。
古代ギリシャのエピクロス的には、「完璧な神々が人類に関わろうはずがない」ということになります。
因果応報の神々は、人類の誤った思い込みによる迷信の押しつけにすぎぬという、思い込みなのですね。
論理的にいって、完全なものが、不完全なものに関係するする道理がない、というのは、所詮は、「人の道理」によって「神の道理」を判断した結果にすぎないということが、エピクロス派には思いつけなかったということでしょう。
ここから、「人の道」に照らされた神々のあるべき姿を観想する「神学」とやらが、花盛りとなります。
――たとえば、人の道に照らして、神々は非道である、といったって、「神はそもそも人間ではない」 のですから、ナンセンスな話です。
それに警鐘を鳴らしたのが、イエスの時代の直前を生きた政治家キケロなのですが、時を経て、1711 年に生まれたヒュームにはそれすらも、エピクロスの言説なのでした。
1707 年にイングランドとスコットランドが合併したため、英国の哲学者とひとくくりにされるスコットランド人デイヴィッド・ヒュームが書いた一節は、いわゆる神義論(しんぎろん)のあちこちで、見かけます。
エピクロスの古い質問は、今なお未返答なのだ。
神は悪を阻止する意志はもっているが、できないのであろうか。とすれば神は不能だ。彼はそれができるのに意志しないのであろうか。とすれば彼は悪意的だ。彼は能力があり、意志もあるのであろうか。とすればどこから悪が生じているのか。
〔法政大学出版局刊『自然宗教に関する対話』第 10 部 (p.116) より〕
ところで「摂理」という日本語は、和訳された、ローマ人キケロによる『神々の本性』で繰り返されますが、ラテン語だと ”prōvidentia“ となります。
キケロは、神の壮大にして深遠な計画である「摂理」を語りつつ、ひとつの結論として、神々の本性については曖昧模糊(あいまいもこ)としているのだと、主張して――残念ながら、その後断章となります。
キケロとしては、神について何をごじゃごじゃわかったようなことをいっているのか、ということなのでしょう。
そうするってえと、ひとが神について語り、神に対して有罪無罪という、おこがましさは、最も「傲慢(ごうまん)」なのではないかとも思われてくるのでした。
〈介入する神〉の摂理
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/quest/providence.html
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