道に関する英語表現といえば、日本語では、道を極(きわ)めると書いて「極道(ごくどう)」といいますが、そう自称し、呼ばれるひとたちは、一般的に「ジャパニーズ・マフィア」と翻訳されるようです。
さて、〈燔祭 (はんさい)〉というのは、旧約聖書中で最も重要である、《神》にささげる儀式のように理解できるのですが、最近では、その翻訳語を用いなくなっているようです。どうやら、〈燔祭〉のギリシャ語訳を音写した英語の「ホロコースト」がもっぱら「ユダヤ人の大虐殺」を示す用語として一般に流布しているからのようです。
儀式としての「ホロコースト」の日本語訳が「燔祭」なのです。
その「ホロコースト」に該当するギリシャ語は、新約聖書中にも、二度記述されているようです。形骸化した儀式ではなく、そのもとになる信仰こそが重要なのだという、文脈においてです。
アブラハムの燔祭の物語というのは、自分の長男である、たったひとりの子を、〈燔祭〉の犠牲としてささげなさい、と《神》に命じられた男の顚末です。〈燔祭〉とは自分の身代わりとなる犠牲を丸焼きにして《神》に献納するというものですから、これはもう道を極めようとする「極道筋」の物語であると、部外者には思われるのですが、なぜか、「これは旧約聖書中最も美しく語られ、最も感動深い物語である」(『口語 旧約聖書略解』 p.38 )という、解説がありました。
よくわからないので、今回は、人身御供(ひとみごくう)に関連する旧約聖書の記述と解説を、抜き書きして、羅列してみました。
それと、新約聖書の、二度の記述の箇所をギリシャ語原文を含めて。
アブラハムの場合には、その人身御供は結局未遂という結末に終わるのですが、今回の抜き書きで引用しなかった「士師記(ししき)」 11 章では、《神》への誓いを全うするためにイスラエルの《神》に、ひとり娘を燔祭の犠牲としてささげたエフタという人物のことが語られています。
また、『口語 旧約聖書略解』(p.923) で人身御供譚(たん)として挙げられていた「列王紀上」 16 章 34 節は、そうではないという説明が、該当箇所の「註解」で行なわれています。
それについても、引用文を省いたので、この場で以下に抜き書きしてみます。
彼はその基(もとい)をすえる時に長子アビラムを失い、その門を立てる時に末の子セグブを失った。主がヌンの子ヨシュアによって言われた言葉のとおりである。
〔『口語訳聖書』 p.506 〕
二人の子を失ったのは、難事業を遂行するために犠牲にささげた迷信的行為であろうとも解釈されたが、ここではとにかく二人の子を失ったことはヨシュアが誓ったのろい(ヨシ六・二六)が、実現したものと解釈されている。
〔『口語 旧約聖書略解』 p.351 〕
ヨシュ六・二六を見ると、ヨシュアは
《この町エリコを再建しようとする者は
主の呪いを受ける。
基礎を据えたときに長子を失い
城門を建てたときに末子を失う》
と誓っている。この誓いが、アハブの治世に成就したというのである。
〔『新共同訳 旧約聖書注解Ⅰ』 p.620 〕
どうやらこれは、人身御供譚ではなく、《神》の呪いの物語のようです。
――そもそもは「ヨシュア記」 6 章 26 節を引用したものなのですね。
繰り返しますと、アブラハムの場合は未遂で終わりました。
その後は、長男は「贖(あがな)われる」ようになったということになりますが、「あがない」には「買い戻す」という意味があります。
アブラハムの燔祭の物語と……
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/quest/burntOffering.html
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