2016年5月19日木曜日

進化の頂点に立つ、西田哲学の神話

 西田哲学は、『聖書』を援用しつつ、進化論を説き、人類を進化の頂点と位置づける。
 即ち、人類は、進化の過程ではなく、最終形態なのである。
 どういうことであるか。説明せねばなるまい。
 西田幾多郎哲学論集Ⅱ『論理と生命』 上田閑照編 (岩波文庫、1988 8 16 日発行)より、抜粋引用する。

「弁証法的一般者としての世界」(昭和九年初出)
 (P. 168)
故に人間は神の似姿に造られたものと考えられる。我々人間は現実の世界に即しながら、いつも絶対に現実を越えたもの、絶対者に面しているのである。我々は絶対の肯定者、神に従うことによって生き、これに背くことによって死する。我々の生きるという意味は唯そこにあるのである。

「人間的存在」(昭和十三年初出)
 (PP. 380-381)
 人間がこの世界に現れたのは、幾千万年かの生物進化の結果でなければならない。而して生物発生以前にまた無限なる物質的運動の世界が考えられねばならない。生物は物質的世界の或結構において発生したと考えることができる。……。眼とか耳とかいうものができたのにも、過去幾千万年の進化の跡を思わざるを得ない。
 絶対矛盾の自己同一として、作られたものから作るものへと自己自身を形成する世界は、作られて作るものの極限において人間に到達する、人間はいわゆる創造物の頂点である。そこでは与えられたものは何処までも作られたものであり、否定せらるべく与えられたものである。作るものより作られたものへと考えられる。神がおのが像に似せて人間を作ったともいわれる所以[ゆえん]である。我々の身体というものも、既に表現作用的として、超越的なるものによって媒介せられたものであるが、作られて作るものの極限において、我々は絶対に超越的なるものに面するということができる。そこに我々の自覚があり、自由がある。


 以上の引用で、明確に記されているごとくまさにキリスト教徒の好む表現である 神の似姿 は、文庫の一冊に選ばれて収録されたわずか数点の論文中に、すでにして同様の表現が繰り返されていることが確認できる。これらが『聖書』を想定した言葉の選定であることは疑いをいれない。
 さらには、これらの論述がキリスト教の教義の紹介ではなく、西田哲学の思想の一環であることもまた、疑いをいれない。
 即ち、悠久の時間を経た進化の結果、人間はいわゆる創造物の頂点 に立ったという主張なのである。なぜなら、それが、神がおのが像に似せて人間を作ったともいわれる所以 だからだ。
 しかし、もし 人間がこの世界に現れたのは、幾千万年かの生物進化の結果でなければならない のであれば、『聖書』の人類創造譚は〈神話〉としなければならない、はずである。
 それゆえに、西田哲学は、神話を哲学の根拠としているのだと、せねばならない。

 そういう指摘をした上でなお、西田哲学は、さらなる発展を期待すべき哲学とせねばならない、と個人的には、思う次第だ。
 哲学に、信者とか、まるで信仰者のような信奉者は、必要ないだろう。
 西田幾多郎を哲学者ではなく、宗教家にしたい方々もおられるようだが……

 哲学者を神のごとくに崇めるのはアリストテレスだけで充分だ。


神の相対性
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/quest/relativity.html

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