「外に神を見ると云ふならば、それは魔法に過ぎない」
という、故西田幾多郎 [にしだ きたろう] による論述を知った。
その文脈は如何なるものであったかと、調べはじめて、多少は西田哲学に触れることとなる。
仏教において観ずるということは、対象的に外に仏を観 [み] ることではなくして、自己の根源を照らすこと、省みることである。外に神を見るというならば、それは魔法にすぎない。
昭和二十年の敗戦前、死の間際に完成された 「場所的論理と宗教的世界観」 に、そうあった。
その少しあとの段落には、こうもあった。
我々の自己の自覚の奥底には、どこまでも自己を越えたものがあるのである。我々の自己が自覚的に深くなればなるほど、爾 [しか] いうことができる。内在即超越、超越即内在的に、すなわち矛盾的自己同一的に、我々の真の自己はそこから働くのである。
西田幾多郎にとって、超越者であり絶対者である神は、自己に内在する神であり、それによって自己が働くのである。
そもそも、ただ単に、人と相対 (あいたい)する神は、「相対者であって絶対者ではない」、という前提が、そこにはある。
納得できる話である。
宗教を語ることのできる哲学、は、ライフワークだったのだ。
西田哲学というのは、自己と、自己を超越する絶対者をつなげ、合一させようとする――新しい試みの――第一歩なのだと、知れよう。
しろうとなりに、そう思う。
完成された哲学など、もはや、哲学ではないわけで……。それは、いつも途上にあるのだ、と。
the Absolute : 絶対者
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/quest/theAbsolute.html
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