〝神の側に立って語る〟ことの思い上がり(ごうまん)と……
ひとが「絶対者」であり「超越者」である存在、
――《神》の正義を擁護するということは、どういうことであるか。
それは例えば《神》を法廷に引きずり出して、自ら弁護人の役割りを買って出ることを意味する。
だからそれは「弁神論」ともいわれる。実際、「神義論」を発明したライプニッツの著書は『弁神論』と邦訳されてもいる。
法廷の場面で《神》に並び立つだけでなく、その弁護をするという、その、思い上がりは傲慢(ごうまん)であると、いえないのか?
また彼らの《神》は、人間の援助を得なければ自分自身で義であると主張できないほどに、無力であるのか?
少なくとも――、彼らは、彼ら自身が信仰する《神》を裁く権利があると、信じているようだ。
なにやら、不可思議なる、信心ぶりであると、いわざるをえない。
残念ながら、彼らではない、我々は、すでにその《神》を擁護して語るべき言葉を持たない。
ことさらに「絶対者」でもない我々に、「超越者の側に立つ」ことなど、想定外であるからだ。
だが、〈神の義〉ではなく、それが〈人の義〉であるならば、まだなんらかの余地は残されていよう。
彼らの『聖書』は、当然のことながら、人間の言葉で書き残されているのであるから。
theodicy : 「ヨブ記」で論ぜられる〈神の義〉
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/quest/theodicy.html
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