「数学的帰納法」とは「演繹」である
長い間、誤解していた。――その誤解がようやく解けたのは、上のような一文を見たときのことです。
つまり「数学的帰納法」というのは、
条件1 すべてのAはBである
条件2 すべてのBはCである
結論 すべてのAはCである
という感じのもので、これはいわゆる「三段論法」というものなので、すなわち、「帰納法」というのは、「三段論法」なのだ――という誤解です。
∴ 帰納法は三段論法のことをいう
この「∴」が間違っているのは、「帰納法」と「数学的帰納法」を同じものとみなしたことによります。
ところが「数学的帰納法」とは、いわゆる「帰納法[きのうほう]」なのではなく、まさに「演繹法[えんえきほう]」なのでした。
条件1 数学的帰納法とはぶっちゃけ三段論法のことをいう
条件2 演繹とはぶっちゃけ三段論法のことをいう
結論 数学的帰納法の中身が演繹なのはどちらもぶっちゃけ三段論法だからである
という感じの「三段論法」が実は正しいのです。
専門家でもないものが、参考資料も見ずに、うろ覚えで書いているので、
以上の記述が、どこまで厳密な正しさを確保しているかは、とりあえず置いといて、
ぶっちゃけおおまかには、正確であるはずです。「おおまかに精確」では句が矛盾してしまいますが……。
ここで、いま一度、確認しておきましょう。
いわゆる「帰納法」の説明でよく引き合いに出されるのは、
「過去に観察されたカラスがすべて黒かったのでカラスは黒いことにする」という内容のものです。
これは「反対の事例がない限り」正しい、ということを意味します。
つまり、「すべて」ではなく「いまのところ」なのです。これが「帰納法」の正体ということになります。
∴ 帰納法は三段論法のことをいうのではない
最初の誤解については、つまり問題は、中身が「演繹」なのに「数学的帰納法」などという紛らわしいネーミングにあったわけです。しかしながら、「数学的帰納法」はやはり「帰納法」なのであり、通常の「帰納法」と違うのは、条件に「すべて」が記述されている点にあります。
∴ 「数学的帰納法」は「いまのところ」ではなく「すべて」のカラスを黒くしてしまう手法なのである
そしてどうやらこのあたりの曖昧さが、17 世紀の自然哲学者たちにかぎらず、現在に至るまで、受け継がれているようなのです。
と、いうわけで――。
いわゆる「機械論的」自然哲学者が証明に用いる手法は、「演繹法」なのであり、その代表者とされるのは、デカルトです。
それによく対比される自然哲学者がベーコンであり、その手法は「博物誌的」な、「帰納法」なのです。
両者の手法は異なるけれど、結論はよく似ています。その結論とは、いわゆる「人類による自然支配の可能性」についてです。
条件1 デカルトは無論「完全な自然支配」を目論[もくろ]んだ
条件2 一方のベーコンは「可能な限りでの自然支配」を目論んだ
結論 デカルトもベーコンも「自然支配」を目論んだ
ということになって、この両者の違いの大きさが判らない御仁が多くおられるようだ、――です。
そしてまた。
スピノザは、「〔機械論的〕幾何学的」な論証方法で記述された『エティカ(倫理学)』を残したので、その「神の証明」は完全なものであると、スピノザが言っていると、一般には思われているようです。
しかしながら、――スピノザは、《神》は〈無限〉という「属性」をもつ実体だと定義しているので、――人類に〈無限〉が語りつくされようはずもなく、そういうこともあってか、ゆえにゲーテは「スピノザは神の存在を論証してはいない」と手紙に書いたという話です。ちなみに、ゲーテは、スピノザを擁護する目的でこの手紙を書いたようです。
〔参考文献:ジョゼフ・モロー/著『スピノザ哲学』白水社、竹内良知/訳 140~141 ページ〕
またあの、ヘーゲルも、スピノザを擁護して、
「スピノザによると、神こそ唯一の実体であり、自然や世界は、スピノザのいいかたを借りると、実体ではなく、実体の情動ないし様相にすぎない。」
「スピノザの悪口をいう人びとは、神をまもろうとするのではなく、有限なものや世界をまもろうとしている。かれらは、有限なものが実体と見なされないのが、つまり、有限なものが没落していくのが、気にいらないのです。」
と、『哲学史講義』に残しています。
ここで、量子力学による〈世界は影〉理論と、スピノザの〈永遠の相のもとで観想される世界〉の記述が、結びつきました。
― 神 もしくは 自然 ― 〈 God or nature 2 〉
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/Spinoza.html
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