と、誘惑する悪魔に告げたイエスは、
彼にしたがう飢えた群衆に、パンだけではなく、魚もあり余るほどに与え、
十字架の上で死んだのち弟子たちの前に現れた際には、
肉体をもって復活した、あかしとして、焼いた魚を食べてみせた。
『聖書』の解釈が困難であるというのは、そこに記述されていることが、寓意に充ちているからだろう。
〈聖書〉――特に〈旧約聖書〉はそもそも預言者による〈預言書〉であり、
「預言[よげん]」とは、「預[あず]けられた神の言葉を知らしめるために語る」ことだったのだ。
それは、いわゆる「民間宗教」などによる「予言」とは、根本的に性質を異[こと]にするものだが、
一般の「予言書」と比較して、〈聖書〉が寓意に充ち満ちていることは、同様なのである。
それは、読者のそのときどきの状況により、いかようにも解釈可能なものなのである。
そういうことと、関係があるないか、
今回は、次のような文章を、下記のページ〔前半〕に記述した。
寓話は、特定の意味をもたない。特定の比喩も想定されてはいない。暗喩さえも意図されない。
そこに意味を見つけるのは、読者の想像力だ。
あなたの頭の中にある「筋書き」にしたがって、その「物語[ストーリー]」が示唆する、特定の意味が見いだされていく。寓話というのは、そのようなものをさす。
――
上述のように記したのは、「論文」が「文芸作品」のようであってはならない、と突然思ったからだ。
「文芸作品」というのは〈省略〉で構成されており、その〈行〉を介して〈行間〉を読ませるものだ。
一方「論文」はすべてを〈明示〉しなければならない。
「書かれていないこと」を〈論拠〉として論を進めるのは、「暴論」というものだ。
「あとはご想像におまかせします」というのでは、まるで「芸術」もどきなのである。
いったい「藝術」をやりたいのか「学術的な論文」をものしたいのか、どうなのか。
データは、意味をもたない。だが情報は意味をもつ。そこには解釈が介在する。
つまり、結果が意味をもつのは、ひとの主観がそこに加わったときである。
宇宙という時空そのものが、ひとつの寓話なのだ。
最近は、ゴミのようにしか扱われなかったデータを再検討することでノーベル賞につながった、
――とかいうような、事例に遭遇することが多い気がする。
「芸術は〔爆発力ともいわれる〕発想力〔と技術力〕がすべて」みたいな、厳しい世界のようだ。
その入り口だけを都合よく拝借して、それで「何かが完成する」というような、都合のいい話にはならないだろう。
いずれにせよ、中途半端なままでは、中途半端にしかならない。
ああ、なんだか中途半端な書き方にしかならない。
肝に銘じたい――。
でも、ドン・キホーテで構わない。
17 世紀 イギリスの「知と力」と革命と
〔前半〕: ベーコンとホッブズ:「知と力」と魔術
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/Hobbes.html
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