2015年11月24日火曜日

〈神という自然〉 を記述する〔機械論的〕自然哲学者たちの誤謬

 太字は、このたび、アップロードした、ページの一部(冒頭)です。

 【ガリレオの場合〔参照〕
一六一八年に天に三つの彗星が観測されたとき、ガリレイには、それを自分では「眺める」ことをしない十分な理由があった。すなわち、それらの彗星に認めなければならないであろう軌道は、彼がそもそも天体を天体として承認したとすれば、あらゆる天体が描く軌道は円形だという、彼が頑強に堅持する教義に矛盾したからである。ガリレイの光学も彼自身の教義学に屈服したのであり、彼は、自分にとって不都合な現象を錯視として説明することによって、敵対者たちが木星の月に使ったのと同じ言い逃れを用いて切り抜けたのである。

 【デカルトの場合〔参照〕
 スピノザのデカルト批判は、デカルトの「松果腺」仮説への批判を起点とする。彼はいう、「スコラ学者たちが曖昧な事柄を隠れた性質 (qualitate occulta) によって説明しようとしたことを、あのようにしばしば非難した哲学者自身が、一切の隠れた性質よりも更に隠れた仮説をたてるとは、まったく驚きいったことである」(『エチカ』第五部序文)と。

 【ニュートンの場合〔参照〕
~~、17 世紀になると、感覚にかからないものでも、知性によって知ることができると認められるものがあると考えられるようになり、従来オカルトとされた対象も科学の研究対象となった。しかしニュートン自身の重力概念が、従来通りの意味でオカルトであると批判されたのである。

――

 たとえば地雷原では、先人の足跡を辿[たど]って行けば、たとえ前人がどこか途中で失敗していたとしても、その失敗した場所までは安全に移動できて、通常は、そこで自分が改めて、爆発することもない。そこから、さらに、前人未到の地に足を踏み入れることも可能だ。
 同じ場所に、新たに地雷が埋め込まれていない限りは……。
 だから、最初が肝心だ。一番信頼できそうな足跡に、自分の足を乗せることから、はじめるべきだ。そうすれば、足跡が続く限りは、安全が保障されている。
 ところが、いままでみてきたところによると、哲学理論の場合には、「同じ轍[てつ]を踏む」ことで、自分もまた、そこで同じように、爆発してしまうようだ。
 機械論的・数学的〔幾何学的〕自然哲学者の、ガリレオ然り、デカルト然り、ニュートン然り、なのであった。と、いうことなのである。

 そのついでに、次に、以前このブログにも書いた(2015年10月14日水曜日)、パスカルの遺稿中の、一節にも触れた。

 そういえば、あのパスカルも、ひとは都合のいいことばかり聞きたがるといって、都合よく改竄[かいざん]された『聖書』からの引用をしていた……。
  パスカルのその書は自身で公刊したものではない(死後に発見され遺稿として出版された)のだけれども――つまり、未定稿となる(決定稿ではない)のだが――、未定稿とはいえ、とにかく彼は下記のごとくに記述した。

 〔「幾何学的精神について」より〕
〔 4 〕~~。「耳に快いことを語ってください。そうすればあなたの言うことに耳を傾けます」とユダヤ人はモーセに述べていた(59)。快適かどうかによって信じるかどうかが決まるはずだといわんばかりに。~~。

 (59)  「出エジプト記」二〇章 19 節、「モーセにいった。あなたが私たちに語ってください。そうすれば、私たちは聞きます」の大胆な脚色。 

と、本日付のページに、記述した。
 しかしながらも、である。ひとは間違えるものなのだ。いつ、自分が同じ〈轍〉を踏むのかと、いつも気になっていたし、いまも気にしている。
 それで。今回のページは、一応はこれで決定稿なのだが、下書き状態で放置したままのページは、まだ残っている。
 参考文献ページからのリンクがある都合上、できたところまでを、とりあえず、アップロードしてある。
 ――で。次回に一応の決定稿とする予定のページに、本日、けっこうなエラーを発見してしまったのだ。
 もうすでに修正は済ませたが、そのページは、ながながと、放置状態のままで、公開されていたのだ。
 たまたま、そのページだけを、見たひとに、「これは下書きです」と、文頭に説明するのもおかしい、
「ならば、公開せぬがよかろうが」
と、一刀両断の憂き目にあうに決まっている。

 ひとは、間違えるものなのだ、問題は、それが指摘されたあとの、対応なのだ。と、しておこう。

結果ありきの推論と過程と結論では、きっとそううまくはいかない、のだろう。


― 神という自然 ―  〈 God or nature 1 〉
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/Eriugena.html

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