2015年7月1日水曜日

謂ゆるスピノザの「神即自然」というガラパ学説 について

Deus sive Natura

 「スピノザの所謂神即自然」なのである。
 それが我が国日本では古来より、哲学的に「いわゆる」が抜け落ちたまま、
 「スピノザの神即自然」という思想、として伝統的に語り継がれ――流布しているのである。
 これはもう「わが国独自の進化を遂げた」としかいいようのない、いわば(いわゆる)
 ガラパ学説なのである。
 スピノザはどうやら日本以外の国では、そんなことは語っていないのである。
 しかし例えば、次の如くである。

『近代科学と聖俗革命 〈新版〉』
村上陽一郎/著
新曜社/発行
新版第 1 刷発行 2002年07月05日

 (P. 55)
 もちろん、「自然の光」という着想は、イデアの世界から発する光を受け取ることこそ「知」の本質である、というプラトン的な――したがってまた「反アリストテレス的な」ギリシア思想にまで遡ることのできるものであって、そこに、新プラトン主義を媒介として、近代の自然観、すなわち神即自然という理神論的傾向へと向っていく足がかりもあったと言えよう。

 (P. 56)
 こうしてみると、序章で提案した聖俗革命の最も重要な截断面の一つが、ここに現われていると言える。つまり、中世的な聖構造のなかでは、「理性」は、自然界に生起するあらゆる現象を理解するには不充分・不完全であり、「理性」が被覆するところは、その一部に過ぎないと考えられているのに対し、ガリレオが「神は数学の言葉で自然という書物を書いた」と主張したのを一つのきっかけに、スピノザの「神即自然」《 deus sive natura 》に到るまでの動きのなかで次第に明らかになっていったのは、人間の理性は、自然の光として、自然界すべてを原理的に覆うという立場が現われ、やがては、その光の源泉としての神自身が棚上げされることによって、俗構造が完成される、という移行過程が、この場面で起っていることが読みとれるだろう。

 (P. 145)
 明らかにベーコンは、人類の神学的、哲学的な知識の双方が、「無限の進歩と上達」を遂げ得ると信じていたように見える。ここには、明示的ではないが、人類の歴史が、世俗的な意味で、直線的進歩の歴史なのだ、という暗黙の前提がある。「救済」の世俗化ともいうべきこの前提は、たとえばベーコンの場合には、明らかに前代の羅針盤などの技術的発展に刺激されている。

 ……救世主は、理性の一般概念と言語の規則とによって、聖書の真の意味を理解することができるように、われわれの理解力を啓き給うばかりでなく、とりわけわれわれの信仰の目を開いて、神の御業にとくに明確に刻印されている神の全能を、十分に省察するよう、われわれを導き給うのである。

と言って、学問の進歩が神の意志に叶うものであることを保証してみせたあと、技術と学問の進歩がいかに人間の進歩に連るものであるかと、いろいろな角度から記述するのである。


講談社学術文庫
『デカルト、ホッブズ、スピノザ』
上野修/著
2011年10月12日 講談社/発行
《本書の原本『精神の眼は論証そのもの』は 1999年、学樹書院より刊行されました。》
 (P. 10)
 それぞれの哲学体系の中心部には、だれもが知るように「コギト」があり「神即自然」があり「可滅の神リヴァイアサン」がある。~~。

講談社現代新書 1783
『スピノザの世界』
上野修/著
2005年04月20日 講談社/発行
 (P. 75)
「神あるいは自然」(Deus seu Natura)。「神即自然」と訳されることも多いこの言葉はたいへん有名で、ほとんどスピノザ思想のキャッチコピーの感がある。~~。



 これではもう「だから日本は歴史認識が間違っているのだ」などという、
 わけのわからぬいいがかりにも、
 「スピノザに関しては、一部同意せざるを得ないものがあります」
 と答弁せざるを得なくなってしまうのである。
 つまり例えば、次の如くである。


『岩波 哲学・思想事典』
廣松渉・子安宣邦・三島憲一・宮本久雄・佐々木力・野家啓一・末木文美士/編
1998年03月18日 岩波書店/発行
 (P. 261, l)
 神即自然 〔ラ〕Deus sive Natura
 スピノザの汎神論を特徴づけることば。スピノザはユダヤ・キリスト教の伝統的な神(創造主)と自然(被造物)の二項対立の考え方をとらず、神と自然とを同一視した。しかしこの場合の自然とは従来の被造物としての、あるいは単なる現象としての可視的、物質的自然ではない。むしろそれはまず唯一、永遠・無限の実体としての〈能産的自然〉である。それはそれ自身の本性によってあらゆるものを実体の様態あるいは変様として自己のうちに産出する内在因である。産出されたあらゆる様態、つまり〈所産的自然〉は実体のうちにあると考えられるため、因果的には能産的自然から区別されても、実在的には区別されない。両自然は対立しているのではなく、一つに統一されている。かくて彼において存在するものは実体とその諸様態のほかにないとすれば、結局この統一された自然のみが存在することになる。神即自然である。18 世紀のドイツ・ロマン主義哲学者たち、たとえば、シェリング、ヘルダーリンなどはこの意味の神即自然をとらえて、スピノザ哲学をヘン・カイ・パーン(一即全)と特徴づけ、新スピノザ主義の時代をつくった。
 〘文献〙 E. Curley, Behind the Geometrical Method, 1984   〔工藤喜作〕


【再掲】
Oxford Reference
http://www.oxfordreference.com/view/10.1093/acref/9780199541430.001.0001/acref-9780199541430-e-908

deus sive natura

(Latin, god or nature)The slogan of Spinoza's pantheism: the view that god and nature are interchangeable, ...


※ 引用に誤植があれば、お知らせくだされば、訂正いたします。


 というわけで、以下に、
「自然神学」という用語の概念について、モンテーニュとアウグスティヌスに関して、
資料を抜き出してみました。

それにともない、デカルトを後に回して、スピノザにまで、手をかけてしまったわけです。


モンテーニュ「レーモン・スボンの弁護」
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/Montaigne.html

アウグスティヌス『神の国』
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/Augustinus.html

《 自然という書物 》
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/LiberNaturae.html

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