1595年10月3日付の恩師への手紙で、ケプラーが、
「私はこれらを発表しようと思います。自然の書の中において認められることを望みたもう神の栄光のために」
と書き、翌年に出版された『宇宙の神秘』(1596年)でも、
「神秘な何かを知ろうとされるのならば、事物の自然の中にこそ最も秘め隠されたものがあるのです。いやむしろあったのです。ただわれわれの題材は、そのもたらす利益が無思慮な人々にははっきりわからないため、すべての人々を満足させるというわけにはまいりません。とはいえ、ここに、聖書であれほどほめそやされている自然という書物がございます」
と主張したのを皮切りに、有名どころが続々と、
ベーコンが『学問の進歩』(1605年)で、
「それゆえ、結論としていえば、穏当というたわいない観念やはきちがえた節度からわり出して、人間は神のことばをしるした書物〔聖書〕、あるいは神のみわざをしるした書物〔自然〕の研究に、すなわち、神学あるいは哲学において、ふか入りしすぎたり、よく通じすぎたりすることがありうるなどと考えたり、主張したりしてはならない」
ガリレオが『偽金鑑識官』(1623年)で、
「哲学は、眼のまえにたえず開かれているこの最も巨大な書〔すなわち、宇宙〕のなかに、書かれているのです。しかし、まずその言語を理解し、そこに書かれている文字を解読することを学ばないかぎり、理解できません。その書は数学の言語で書かれており、その文字は三角形、円その他の幾何学図形であって、これらの手段がなけれは、人間の力では、そのことばを理解できないのです」
デカルトが『方法序説』(1637年)で、
「わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問〔人文学〕をまったく放棄してしまった。そしてこれからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探求しようと決心し、青春の残りをつかって次のことをした」
ついには、スピノザが『エチカ』(1663-1675年)で、
いわゆる「神即自然」と語ったとかされるわけですが、
この「神即自然」の「即」は、英語では正しく ‘or’ と翻訳されているようですね。
Oxford Reference
http://www.oxfordreference.com/view/10.1093/acref/9780199541430.001.0001/acref-9780199541430-e-908
deus sive natura
(Latin, god or nature)The slogan of Spinoza's pantheism: the view that god and nature are interchangeable, ...
〔閑話休題〕
この流行のきっかけは「ベルギー信仰告白」(1561年)とする考えもあるようなのですが、
ここはひとつ、
モンテーニュ訳『自然神学あるいは被造物の書』(1559年)の原著の流行をそのはじまりとしたい、とばかりに、いろいろと、資料にあたってみました、とさ。
『自然神学あるいは被造物の書』
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/Sebonde.html
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