2018年3月29日木曜日

奇稲田姫(クシナダヒメ)と たなばた伝説

 折口信夫(おりくちしのぶ)の語る〈まれびと〉の思想は、基本的に、遠来の神のおとずれを説く。
 基本的に、としたのは、〈異人〉である〈まれびと〉には、神と鬼の両義性がそなわっているからだ。境界の向こうはまさしく無法地帯と異ならず、混沌の闇の彼方から来訪する異邦人は恐ろしい鬼でもあった。
 神か鬼か、それともただのひとなのか、それは接触してみるまで、わからない。
 これが見知らぬ旅人を饗応する、〈異人歓待説話〉にも通じる。
―― さて、大正 14 年発表の古代生活の研究まれびとのおとずれは、たとえば次のように語られている。

 このまれびとなる神たちは、私どもの祖先の、海岸を逐うて移った時代から持ち越して、後には天上から来臨すると考え、さらに地上のある地域からも来ることと思うように変ってきた。古い形では、海のあなたの国から初春ごとに渡り来て、村の家々に一年中の心躍るような予言[カネゴト]を与えて去った。このまれびとの属性がしだいに向上しては、天上の至上神を生み出すことになり、従ってまれびとの国を、高天原に考えるようになったのだと思う。
〔折口信夫『古代研究Ⅰ』2002年 中公クラシックス/中央公論新社 (p.35)

 古い時代の邑(むら)には、土地の慣習・しきたりが秩序となって君臨する。
 日本の神話的な表現を使うと土地に秩序をもたらす〝しきたり〟とは、いわば〈国つ神〉の支配である。
 もっと拡大された地域の〝支配者のしきたり〟が、〈天つ神〉の神話につながる。
 祭政一致であって〝まつり〟は〝まつりごと〟と異ならぬ時代の暮らしだ。
 日本で神々を天神地祇(てんじんちぎ)という。〝天の神、地の神〟の意味になるのだけど、〝天神〟が〈天つ神〉ならば、〝地祇〟は〈国つ神〉に相当する。
 土地に根差した固有の支配と信仰があって、祀り(まつり)が正しければ、豊年は保たれる。
 けれども、どんな支配や秩序も、やがては疲弊していく。
 そこへ新しい〈力〉を携えて、なにかがやってくるのだ。

 いましがたも述べたように古代の邑(むら)の中心部には土地のしきたりが秩序として君臨しているだろう。
 だから異邦人である〈まれびと〉との接触地点は、人里から離れた周縁あたり、秩序との境界領域となる川のほとりなどだったろう。
 いわゆる三途の川のごとく境界には区域を隔てる川の流れは必然ともいえる。
 その境界の川辺に、板張りの棚とか、桟敷を出して、遠来の神を待ち受ける若い乙女が〈たなばたつめ〉だと、いう。
 漢字では〈棚機津女〉と書かれている。〝機(はた)〟は〝機織り(はたおり)〟のことだから、〈棚機津女〉は、〝棚で機織る女性〟のこととなる。
 日本古来の〈たなばた伝説〉は、すなわち〈異人〉である〈まれびと〉を待つ物語であったらしい。

 そういうわけで、邑(さと)の中心から離れた周縁部の水辺で、〈異人歓待〉が行なわれ和平か殺戮かが評議される。
 たとえば、疲弊しつつある邑では、異邦人は新しい〈力〉の象徴として、歓迎されたかもしれない。

 さて。出雲の地に素戔嗚(スサノヲ)が降り立った時、その土地は〈力〉を失いつつあった。斐伊川(ヒノ川)の〈国つ神〉は、大蛇(ヲロチ)だったけれども、このままではもはや田に、来年の稔りは期待できなくなっていた。
 日本書紀の一書によれば、天神スサノヲは、地祇であるヲロチにこういったという。
「汝は、畏(かしこ)き神なり」

―― いわゆる〝八岐大蛇(やまたのおろち)〟が神であることについて、折口信夫たなばたと盆祭りとではこう触れてある。

 だから、やまたのをろちの条[くだり]に、八つのさずきを作って迎えた、ということもわかるのである。これが、特殊な意義に用いられた棚の場合には、一方崖により、水中などに立てたいわゆる、かけづくりのものであった。偶然にも、さずきの転音に宛てた字が桟敷と、桟の字を用いているのを見ても、さじきあるいは棚が、かけづくりを基としたことを示している。
〔折口信夫『古代研究Ⅱ』2003年 中公クラシックス (p.213)

 土地の神であるヲロチを最後の饗宴にいざない、そして、スサノヲはヲロチに大量の酒をふるまって眠らせ、殺害する。
 新しい秩序のためには〝破壊的創造〟が必要だともされる。
 かくして、神の田を荒らして天を追放された、荒ぶる神スサノヲは、地上で田の神となる。
 この物語はいわゆるアンドロメダ型の、英雄譚であるといわれる。
 が、単純な英雄譚とは異質だという気もする。このストーリーで、奇稲田姫(くしいなだひめ)は、〈櫛(くし)〉に変化(へんげ)して、スサノヲとともにヲロチと対峙するのであるから、アンドロメダ型のただの〝捕われの姫〟ではありえない。
 ところで、この〝奇稲田姫〟は日本書紀の表記であって、古事記では〝櫛名田比賣(クシナダヒメ)〟となっている。
 いずれにしても共通項として、〝奇(クシ)=櫛〟で呪力の所在と、そして〝田〟を意味する。
 その呪力は、忌串すなわち、斎串(いぐし)であると考察されてもいる。クシナダヒメの化身であるこの〝櫛〟は、一般にイメージされる「櫛」ではなく、〝かんざし〟のような「串状のもの」であるという。
 古来、水霊である蛇神を制するのに、目印(シルシ)の柱となる杖や矛が有効であるとされたようだ。
 忌串の呪力は、境界を示す柱と同じ形状にひそむのだろうか。
 なんにせよ、スサノヲは〝クシ〟の呪力を身に帯びて、ヲロチを待ち受けたと伝承される。

 というわけでクシナダヒメは、〝捕われの姫〟どころか、〝巫女(みこ)〟的な協力者の立場にある。
 巫女的な協力者といえば、東征を命ぜられた〈倭建(ヤマトタケル)〉の物語でも鮮やかだ。
 ヤマトタケルは伊勢神宮で、おばの〈倭比賣(ヤマトヒメ)〉に、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授けられたとされている。
 草薙剣とは、三種の神器のひとつで、スサノヲが退治したヲロチの尾から出たと伝えられる剣だ。
 このときに、〝忌串〟が〝神剣〟へと新生しているともいえようか。

 クシナダヒメが、巫女であったという推論は、調べてみると、昭和 30 年の文献にすでにあった。
 松村武雄日本神話の研究 第三巻』〔1955年 培風館〕で詳細に論じられていて、同書では、八乙女(やおとめ)という八人一組の巫女を認取する」〔同 (p.198) 〕という視点からまず、論が展開されていく。
―― いっぽうで、折口信夫水の女では、ヤヲトメについて、次のように語られる。

 神女群の全体あるいは一部を意味するものとして、七処女の語が用いられ、四人でも五人でも、言うことができたのだ。その論法から、八処女も古くは、実数は自由であった。その神女群のうち、もっとも高位にいる一人がえ(兄)で、その余はひっくるめておと(弟)と言うた。
〔『古代研究Ⅰ』 (p.99)

 そして「おとたなばた」の語は、いにしえより伝わる、有名な歌謡にある。
―― 日本書紀(「神代下 第九段〔一書第一〕」)にもある歌謡だけれど、以下に古事記から引用する。

天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に 穴玉はや み谷 二渡らす 阿治志貴高 日子根の神ぞ。
(あめなるや おとたなばたの うながせる たまのみすまる みすまるに あなたまはや みたに ふたわたらす あぢしきたか ひこねのかみぞ。)
〔倉野憲司 校注『古事記』1963年 岩波文庫 (p.60)

 邑を外れた水辺に、棚とか、桟敷を出して、遠来の神を待ち受ける若い乙女が〈たなばたつめ〉だと、いう。
 遠来の神は〈異人〉であり、境界の向こうからやって来る〈力〉の象徴でもあった。
 境界の先は、闇が渦巻く〈異世界〉なのであって、そこに棲む人びとは〈神〉でありうると同時に〈鬼〉とも呼ばれる。
 破壊と、新しい世界の秩序をもたらす〈力〉は、まぎれもなく混沌の彼方からやって来るのだ。


稀人(まれびと)きたる
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2018年3月23日金曜日

シリコンチップは 心をもつか

 森羅万象に意味があるのなら、触れ合って心を通わせることもまたできるのだろう。
 意味とは、心の作用である。琴線は共鳴する心の作用だ。
 路傍の石にも、時に、日本人は心を認めた。
 けれど、心を脳の属性と限定するなら、脳をもたない石(シリコン)には心は認められない。
―― 脳の機能が心であるということについて、マーヴィン・ミンスキー著心の社会(“THE SOCIETY OF MIND”1985, 1986) に、こう書いてある。

心は単に脳がすることである。(訳注2)
(訳注2) Minds are simply what brains do. の訳。
〔『心の社会』安西祐一郎訳 1990年 産業図書 (p.470)

 これが今後どのように展開されていくのか。
 上の記述は、中村雄二郎脳と人間の高次機能 二 脳と心身関係について」〔『中村雄二郎著作集』第二期 Ⅴ 2000年 岩波書店 に所収〕を読んで知ったのだけれども、同様な、脳と心に関しての論述は、野家啓一著科学哲学への招待にもあった。
―― 同書の第5章 科学革命(Ⅲ)3 心身問題と「心の哲学」というセクションが設けられ、そこで語られていた。

 心の哲学の主流は唯物論的傾向が強く、基本的に「心的状態」を「脳状態」と同一視する立場をとる。たとえば「雷は放電現象と同一である」や「熱は分子の平均運動エネルギーと同一である」と同様の意味で「心的状態は脳状態と同一である」と考えるのである。これを「心脳同一説」という。だが、この立場からすれば、脳をもたないコンピュータは心をもちえないことになる。そこで「機能主義」の立場は、心をさまざまなハードウェアによって実現可能なコンピュータのソフトウェア(プログラム)になぞらえる。つまり、心とは脳細胞のみならずシリコンチップなど多様な物理的状態によって実現される機能状態だと考えるのである。これは現代の認知科学の基礎となっている考え方であり、心の哲学は総じて心を物理状態に還元することによって、デカルト的な物心二元論から物質一元論(唯物論)の方向へ向かっていると言うことができる。
 しかし、最先端の脳科学においてすら、その到達点は脳状態と心的状態との「対応関係」を確立し、その精密化を推し進めるにとどまっている。…… 科学的自然観のもとでは、延長をもたない「心的状態」や「感覚質」は測定可能な物理量とは見なされず、因果的必然性をもった法則的秩序の外に置き去りにされてきたのである。それゆえ、心身因果の法則性が真に確立されるならば、それは自然界を記述する従来のカテゴリーの組み換えを要求し、科学的自然観の基本前提を問い直すものとならざるをえないであろう。
〔『科学哲学への招待』2015年 ちくま学芸文庫 (pp.91-92)

 ようするに、「心の哲学 (philosophy of mind) では〝心とは脳の状態である〟といい、これが「機能主義」の立場からは、
心とは脳細胞のみならずシリコンチップなど多様な物理的状態によって実現される機能状態だ
と、考えられるようになっているという。
 これは心を物理状態に還元することを意味しているらしい。唯物論的な考え方だと、指摘されている。

 まったくもって日本語で〝状態〟といえば、物体の物理的な〝状態〟であろう。
 けれどここで、それを〝現象〟といってみたならば、脳の作用としての〈機能〉とその物理的な〈構造〉を同一視できなくなってくるようでもある。
 このことについては上記引用文中でも、続けて書かれた、
科学的自然観のもとでは、延長をもたない「心的状態」や「感覚質」は測定可能な物理量とは見なされず、因果的必然性をもった法則的秩序の外に置き去りにされてきたのである。
という一文に示される。

 心はいまだ〈測定可能な物理量〉ではないのである。
 かくして、自然科学的には測定の対象にはならなくても、でも一方で。最近では、ロボットに〝心の拠り所〟を求めるようすもある。
 きっとそういう〝心の拠り所〟を感じた時点で、シリコンチップにも、心は発生しているのだろう。


複雑性 と 両義性
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2018年3月17日土曜日

attraction : 〈引き込み〉現象

 有名なところで、ホタルの明滅が同期(シンクロ)するのは、個体同士の相互作用による〈引き込み〉の現象が働く結果だ。
 どの個体が明滅のリーダーシップをとるかということは、もともと決まっていない。
 そもそもリズムの中心となる個体が存在するわけでもない。
 互いに影響し合うリズムの揺らぎが、いつしか壮大な交響曲を奏でているような自然の摂理だ。
―― 中村雄二郎かたちのオディッセイに、そういう「引き込み現象」を説明して、次のようにあった。

波長の異なる振動同士は、実際には一挙に同調あるいは共振することはできない。そのときに必要なのは、一方の振動の波長を他の振動の波長に ―― あるいは両者を互いに ―― ある程度近づけた上で、そこに振動同士の引き込みの働きによってはじめて同調し共振するというプロセスである。
〔『中村雄二郎著作集』 第二期 Ⅰ『かたちのオディッセイ』2000年 岩波書店 (p.51)

 それに続く段落では、「この〈引き込み〉(英語では entrainment とか attraction とか呼ばれる)の現象について最初に着目したのは」オランダの自然学者クリスティアン・ホイヘンスで、「現代では、ノーバート・ウィーナー(『サイバネティクス』第二版、一九六一年、池原・弥永ほか訳、岩波書店)である」と、書かれている。
―― さらに、セクションを改めて。

 さて、このような〈引き込み〉現象は、音叉同士のような線形振動の共鳴(共振)によっても起こるけれども、その場合の共振は、振幅や位相のずれが生じる不完全なものであり、完全な共振は、非線形振動(自励的振動のように含まれる諸要素が互いに影響し合う振動)のうちにしか見られない。後者の場合には、その振動は一定の倍率をもって他方の振動と重なり合い、それに対応する。このことはすでにウィーナーによっても指摘されたが、この非線形振動の〈引き込み〉という現象は、彼の手がけた問題範囲をこえて、リズムや形態の生成について広大な展望を切りひらくようになった。
〔同上 (pp.52-53)

 きっと、すこし探せば、平たい台に並べられた大量のメトロノームが、最初はてんでに揺れていたのに、次第に同期していくという、公開されたビデオが見つかるだろう。
 その実験映像のポイントは、おおまかにいって、平たい台が揺れる場面にあるようだ。メトロノームを、ばらばらに作動させた時点では、メトロノームが乗っている平台自体は、動いてないはずだ。この平台は、実は上から吊り下げられていて、たとえば台を固定した留め具が外されると、メトロノームの振動でゆらゆらと揺れ始める。
 この揺らぎが、非線形振動の〈引き込み〉現象につながる。
 メトロノームの動作に相互作用の影響がではじめて、いつのまにか、すべての振動が完全に一致してしまうのである。
 正確ではないかも知れないけど、この説明で、だいたいはあっていると思う。きっと、ビデオに、正しい説明がついていると思われるので、そちらで確認してくだされ。
 ちなみに、〝メトロノーム 同期〟のキーワードですぐに見つかった映像では、メトロノームが乗っかっている台は、もともと固定されていないようでした。

 自然な現象として、非線形振動はある。かたちのオディッセイの、併記された補注では、人間の言動のリズムにも、相互作用が見られ、〈引き込み〉現象が起きているという動画分析の概説があった。
 いわば心の機能も相互に〈引き込み合う〉現象を示すのだという。


創発する心のリズム
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2018年3月11日日曜日

アプリオリな「場所認識」能力

 ずっと以前に参照した資料唯脳論には、こんなことが書いてあった。

脳という物質塊から、心というわけのわからぬものが出てくるというのは、変と言えば変である。したがって、この点を問題として指摘する習性が、文科系の人たちには、昔からあった。
 唯脳論は、この素朴な問題点について、それなりの解答を与える。脳と心の関係の問題、すなわち心身論とは、じつは構造と機能の関係の問題に帰着する、ということである。
〔養老孟司『唯脳論』1989年 青土社 (p.30)

―― 次のページには、こんなことも書いてある。

 心を脳の機能としてではなく、なにか特別のものと考える。それを暗黙の前提にすると、「脳をバラしていっても、心が出てこない」と騒ぐ結果になる。それは、おそらく間違いである。「出てこない」のは正しいのだが、その意味で言えば、循環だって、心臓から出てくるわけではない。心が脳からは出てこないという主張は、じつは「機能は構造からは出てこない」という主張なのである。それは、まさしくそのとおりである。ただし、それは、心に限った話ではない。心は特別なものだという意識があるから、心の場合に限って、心という「機能」が、脳という「構造」から出てこないと騒ぐ。
〔同上 (pp.31-32)

―― ずっと先のほうでこういうことも書いてあった。

 言語を用いれば、相手の考えがある程度わかる。なぜか。それは言語を表出する側と、それを聞いている、あるいは読んでいる側で、似たような脳内過程が生じているからである。言語の場合、その類似の厳密性は数学よりも弱い。したがって、数学はより明確に脳の機能を反映する。あるいは、より基礎的な脳の機能を示す。
〔同上 (pp.115-116)

 はじめのほうの引用文に関しては〝「構造」から「機能」が創発する〟と、読むことができる。
 あとのほうは、ようするに、〝共通の構造から発生する共通の機能が相互理解を可能とする〟ということだ。
―― そういう人類に共通する理解力というか理性について、エドムント・フッサールは幾何学の起源で、次のように語った。
* Die Krisis der europäischen Wissenschaften und die transzendentale Phänomenologie, Eine Einleitung in die phänomenologishe Philosophie, (M. Nihoff, La Haye 1954) Beilage III zu 9 a, ss 365‑385.

 <このアプリオリの開示において>のみ、あらゆる歴史的事実性、あらゆる歴史的環境、民族、時代、人間性を越えたアプリオリな科学が存在しうるのであり、このようにしてのみ、「永遠の真理」としての科学も登場することができる。このような基礎のうえにのみ、時をへて空虚になった一科学の明証から本源的明証へ問いかえす確かな可能性がもとづいているのである。
 いまやわれわれは、理性の広くかつ深い問題地平、すなわちまだいかに原始的であっても、「理性的動物」であるあらゆる人間のうちで働いている同じ理性の問題地平の前に立っているのではないだろうか。
〔新版『幾何学の起源』田島節夫(他)訳 2003年 青土社 (pp.303-304)

 かくして、まさに〝共通の脳構造〟という〈進化によって刻まれた歴史性〉が、アプリオリに認識される共通の感性の基盤なのだともいえる。
 アプリオリな空間認識能力への興味と研究は、哲学だけでなく、脳科学の分野に及んだ。
―― その、実験がもらたした成果について、理化学研究所 脳科学総合研究センター編集のつながる脳科学に次のような記述があった。

 18 世紀にドイツで活躍した哲学者のイマヌエル・カントは、彼の著書『純粋理性批判』の中で、「空間はアプリオリに( a priori : 経験に先立って)脳の中で認識される」と提唱しました。つまり人間の心には、あらかじめ空間を直感的に認識できる能力があるというのです。別の言い方をすれば、我々の外にある空間とは、我々の心が作るものであり、どのように世界を捉えているのかは、我々の認識そのものにかかっている、と考えたわけです。
 もちろん現代科学では、心の在り処を脳にあると考えます。カント哲学に触発された神経生理学者のジョン・オキーフ博士は、視覚や聴覚のために脳の感覚野があるならば、空間認識のための脳部位が存在するに違いないと考えました。そして 1970 年代に、空間情報をつかさどる「場所細胞」と呼ばれるニューロンを見つけたのです。この功績で、オキーフ博士は 2014 年度のノーベル生理学・医学賞を受賞しています。
〔『つながる脳科学』藤澤茂義「第 2 章 脳と時空間のつながり」2016年 講談社ブルーバックス (p.60)

 ノーベル賞を受賞するに至る、きっかけとなったカントの主張は、世界に存在するだろう〈物自体〉を直接認識することはできないけれど、感覚を通じて捉えられる現象で、ある程度の概念を得ることはできる、ということのようだ。それはあくまで〈物自体〉ではなくて、その印象に過ぎないけど。
 そのように、世界に対する客観的な概念も基盤となるアプリオリな感性がなければ、経験からだけではそもそも妥当には認識できないだろう、という、とても難しい哲学の話も、自然科学の実験で追試可能な場合もあるのだった。
 これらアプリオリな認識能力は、空間だけでなく、時間にも適用される。時間は、生命のリズムだ。
 スーパーストリングの振動が、いのちの鼓動になった、リズムの起源なのだろうか。


偶然と必然の蓋然(がいぜん)性
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2018年3月5日月曜日

〝秩序〟の シミュレーション・モデル

 宇宙の始源を物語るカオスとコスモスの対比はギリシャ神話にはじまって現在に至る。
 漢字では、混沌と秩序と、書かれたりする。
 中国古典『荘子』で有名な〈渾沌〉は〈混沌〉の同義語とされる。
 混沌はまた、混乱と同じようなイメージで使われることがある。混乱が整序されて秩序となる。
 そういうわけでかどうか、〈カオス〉は〈無秩序〉の同義語として扱われたりしている。
 ちょうど 1 年前の 3 月、〈無秩序〉の話を調べていた。ランダムな確率の話だ。

 自然科学で扱われる〈無秩序〉とはなにか。なにが問題であったのか。
 熱力学第二法則の説明で、〝エントロピーとは系のなかの無秩序の度合いである〟などと書かれて、こういった場合、〈無秩序〉は〈ランダム〉とも表現されたりする。〈ランダム〉は日本語では〝無作為〟の意味で使われるけれど〝でたらめさ〟ともされる。
 そうなると、〈エントロピー〉は〝でたらめさの程度〟を指し示す言葉ともなる。
 まったくもって、〝エントロピーはカオスの度合いを示す〟のだといっても、完全なでたらめでもなさそうだ。

 確率の話だ。
 ボルツマン方程式のおかげで、エントロピーを統計力学で表現できるようになった。
 統計力学というのが、確率でどうたらこうたら、というボルツマン新発明の難しい話だったと記憶する。
 当時は量子力学なども相次いで登場してそうこうしているうちに、〈エントロピー〉は〝わからなさの程度〟を指し示す言葉ともなってくる。
 邦訳された資料では〝わからなさ〟は別の日本語で、〝無知〟とか〝未知〟とか表現される。
―― このあたりの説明は、マレイ・ゲルマンクォークとジャガー(“THE QUARK AND THE JAGUAR” 1994) に詳しい。

エントロピーの増加(あるいは不変)を要求する第二法則は難解であるが、エントロピーについては誰もが毎日の生活のなかでよく知っている。それは無秩序の度合である。閉鎖系のなかで無秩序が増大することを否定する人がいるだろうか?
…………
 エントロピーと情報は密接に関係している。実際、エントロピーを無知の度合を示すものとみなすことができる。系がある巨視的状態のなかにあることだけがわかっているとき、その巨視的状態のエントロピーは、そのなかの微視的状態の系について、それを記述するのに必要な追加の情報のビット数を数えることで、無知度を測定する。そのさい、巨視的状態のなかのすべての微視的状態は、等しく起こりうるものとして扱われる。
 その系は、ある確定した巨視的状態にあるのではなく、さまざまな確率をもつさまざまな微視的状態をとるとしよう。するとその巨視的状態のエントロピーは、各微視的状態にその確率をかけ、それらを平均化したものである。さらに、エントロピーには、その巨視的状態を確定するのに必要な情報のビット数も含まれている。したがって、エントロピーを、ある巨視的状態のなかの微視的状態についての無知度を平均したものと、巨視的状態そのものについての無知度を足しあわせたもの、とみなすことができる。
 詳述は秩序に、無知は無秩序に相当する。熱力学の第二法則は、エントロピーの低い(かなりの秩序がある)閉鎖系は、少なくとも非常に長い時間をかければ、よりエントロピーの高い(より無秩序な)方へと動いていく傾向がある、とだけ述べている。秩序より無秩序になるほうが、その方法は多いので、傾向は無秩序に向かって動く。
〔『クォークとジャガー』野本陽代 訳 1997年 草思社 (p.269, pp.271-272)
参照:「〈不可知〉の価値」の資料ページ『クォークとジャガー』
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/entropy/unknown.html#gell-mann1994r01


 実は、これらの説明を読んでいて、よくわからなかったのは、専門家によって語られる〝秩序〟のことだ。
 上記引用文のごとく詳述は秩序にと、説明されている。詳しく記述されたものに秩序があるというのだ。
 だけどイメージされる〝秩序〟とは、この世を簡略化した、数学的モデルでしかなかった。
 その意味では、簡潔に語ることができる状態を〝秩序〟というような気がしたのだ。
―― 視点を転じて、レイ・カーツワイルポスト・ヒューマン誕生(“THE SINGULARITY IS NEAR : WHEN HUMANS TRANSCEND BIOLOGY” 2005) に、次のような記述がある。

秩序は、すなわち無秩序の反対ではない。無秩序とは、事象がランダムな順序で起こることだとしたら、無秩序の反対は「ランダムでないこと」になってしまう。…………
 したがって、秩序立っているからというだけで、秩序があるとは言えない。秩序には情報が必要だからだ。秩序とは、目的にかなった情報のことである。秩序を測る基準は、情報がどの程度目的にかなっているかということだ。
〔『ポスト・ヒューマン誕生』井上健 監訳 2007年 日本放送出版協会 (p.59)
参照:「〈不可知〉の価値」の資料ページ『ポスト・ヒューマン誕生』
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/entropy/unknown.html#kurzweil2005r01


 これによれば、〝秩序〟は〝〔目的にとって〕有効な情報〟のこととなる。
 目的には当然のことながら、目的をもつ主体、の存在が前提されているわけだ。
 したがって〝秩序〟は、〝主観的な目的をもつ主体にとって有効もしくは有益な情報〟のこととなる。
 もともとの言葉では、秩序とは、目的にかなった情報のことである。近い表現でもう一度簡単に言えば、〝秩序とは有効(有益)な情報だ〟ということだ。
 そうなればこそ、必要のない情報がそこにどれほど含まれていようと、それはそれ、完全に無視すればいい。
 おそらくは、必要のない情報とは〝雑音(ノイズ)〟のことであって、主観的にそのようなノイズはないと思い込むことによって、〝秩序ある世界〟が構築可能となるだろう。

 このあたりのことを具体的な物質の例で考えてみる。
 たとえば、水素と酸素を使って水の分子はできているが、この世にある一般的な〝水〟は、水の分子だけでできているわけではない。ミネラルなど、多くの夾雑物(ノイズ)というか、混入物を含んでいる。
 適度に混ざり物が含まれていて、おいしい水ができあがる。
 また一方で空気の成分は、体積比で酸素 20 % 強、窒素 80 % 弱、その他もろもろなので、当然水が凍った氷に混入している空気もそういう構成になるだろうけど、氷のどの場所で酸素と窒素の分子が動き回っているのかなどは、話題にもならず一般的にはあまり気にされた気配もない。
 そのように無視することでもともと無いものだと思い込める情報が、どれほどあろうと、そこには〝秩序〟が紛れもなくある。

 そうなると〝秩序〟とは、数値化可能なこの世の一部の、観測し計測された部分だけを抜き出してそのように称していることともなる。
 多分そうやって簡素化して構築されたシミュレーション・モデルを使って、この世の〝秩序〟が語られるのだ。
 まったくもってそれは観測者にとって都合のいいだけの〝秩序〟でしかない。
 もしかして、都合のいい状態が、秩序ある状態、なのだろうか。
 連想的には教育機関では、先生にとって都合のいい状態が、秩序のある状態でほぼ間違いないだろうけど。
 ついでにこのあたりで、秩序しかない世界に未来の希望はもてそうもない気もしてくるけど ……。

 自分なりに、〝秩序〟の定義というか意味合いを考えていて、最近やっと納得できた説明可能な状態が、そういうようなことでもあった。
 サイコロを何度か投げて、出た目の全部の順番を、完全復元可能な圧縮データで記録できるとき、そこにはある程度の秩序があるといえるだろう。
 ここで完全に復元可能な、というのは、確率の手法を用いずに圧縮するということである。
 具体的には、1 万回サイコロを投げて、全部同じ目であれば、それがたとえば 6 だったとして、〝 6 を 1 万回記録〟する代わりに、〝 6 が 1 万回と記録〟すれば、情報量は遙かに少なくて済み、かつ完全に復元が可能である。
 実はデータ圧縮についてのこういう考え方は、ポスト・ヒューマン誕生に説明されていた。
 そうやって雑多な情報の中から、圧縮されたデータに注目していくことで、秩序は構成できる。

 かくして、主観的な〝秩序〟とはやはり、ピックアップした情報以外はないことにして都合のいい有効な情報のみで構築された世界観なのだ、ということにすれば辻褄もあってくる。
 そういう次第を経て、ようやくこの世も〝秩序〟だらけの様相を呈すこととなる。
 こんな感じで、秩序は気にいらない情報を無いものとして排除することで誕生するのだろう。無視も排除もできずに残された情報が、把握しきれない時、おうおうにして無秩序と呼ばれる。


アプリオリな体系の秩序
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2018年2月28日水曜日

自己言及のパラドックスを搭載したシステムは発動するか

 クルト・ゲーデルの不完全性定理の証明でひとつの神話が壊れた。
 それは形而上学からの数学の解放であるという視点を得て、柄谷行人形式化の諸問題が書かれたのは、1981 年(『現代思想』1981年9月号)とある。
―― そこには次のような記述があった。

ゲーデルの不完全性の定理は、数学を不確実性に追いやったというべきではなく、むしろ数学に対して不当に要請されていた「確実性」から数学を解放したというべきであろう。いいかえれば、あたかも数学を規範にするようにみえながら、実際はそのことによって自らの基礎の不在をおおいかくしていた形而上学から、数学を解放したのである。
〔柄谷行人『差異としての場所』1996年 講談社学術文庫 (p.70)

 すなわち、古来、数学体系が完全であることが、形而上学の完全性を保証していたのだ。
 しかし、ゲーデルにより、その伝説は崩壊した。
 数学は自然そのものを語ることに向き合えるようになった。
 そして数学的〈カオス理論〉は、数学で示すことのできるのは現実の近似値でしかないことを明らかにする。
―― このことは、数学的カオスの発見者自身が語っていることだ。

大気のふるまいを実際に支配している方程式を、現時点のコンピュータで処理できる範囲内で、最もうまく近似した方程式を、私たちはコンピュータを使って解くのである。
〔『ローレンツ カオスのエッセンス』杉山勝・杉山智子 訳 1997年 共立出版 (p.180)

大切なのは、「数式が先にあるのか、それとも電気回路が先にあるのか?」というところですが、私は「数式通りに自然現象が動くのではありませんよ。自然現象を近似して、表現しようとするものが数式ですよ」と、理解しておりますことを申し上げておきます。
〔『複雑系を超えて』上田睆亮「第Ⅰ章 カオスの本質」1999年 筑摩書房 (p.14)

 上のエドワード・ローレンツカオスのエッセンス(“The Essence of Chaos” 1993) からの引用は、1972 年に口頭発表された有名な「バタフライ効果」の論文中の一節である。
 ゲーデルの証明は 1931 年、日本人による数学的カオスの発見はその 30 年後と記録されている。
 自然は、数学のモデルだ。自然をモデルに、数学は構築されている。しかし自然が、数学を近似したものなのではない。数学が自然の近似値でありモデリングされた〈〔数学的〕関数〉なのだ。
―― これと同様のことは、『中村雄二郎著作集』第二期 Ⅳ に収録されている術語集Ⅱ』〔初出:岩波新書(新赤版 504)1997年〕20 人工生命においても、G・ヴィーコの伝える格率として、述べられていた。

 いわく、われわれが幾何学において真なるものを知りうるのは、幾何学の世界は最初から人間がつくり出したものだからである。人は、自分のつくり出したことについてだけ真なるものを知りうる。だから、もし幾何学的方法が自然学において成り立つとすれば、神ではなく人間が自然をつくっていたのでなければならない。幾何学的方法の適用によって、一見自然の真なるものが解明されたように見える。だが、そこに得られたものは蓋然的な真理でしかない。
〔『中村雄二郎著作集』 第二期 Ⅳ「第二編 術語集Ⅱ」2000年 岩波書店 (p.277)

 ここから見えてくるものがある。
 イデアは、数学モデルだ。この世はイデアの影だといわれる。しかし実際は、イデアがこの世の近似値として投影されたものなのだ、という話になってくるわけだ。
 イデアの世界は、これまで世界の理想形だとされてきたけれど、実は現実から要素を選択して構築された、逆に、現実のシミュレーション・モデルとして機能するものではないのか、つまりは、イデアという理想の世界は現実のモデリングに過ぎないということなのだ。
 理想の宇宙はまさに現実から、夾雑物(フラクタルなライン等)を取り除いた、ノイズのない美しい世界である。
 それは、人間がつくり出した世界なのだ。

 だとしても、この世をよく観察すれば、やはりそれは現実の未来かもしれない。
 世界はイデアの理想に向かっているとも見える。現代のイデアはまさに、バーチャル・リアリティの仮想空間ともいえよう。

 ここで、コンピュータ・ネットワークに操られた虚構の世界を想定する。
 そこに新型のプログラムが搭載されたシステムを登場させることにする。
 新型のシステムは、〈自己言及のパラドックス〉を数学的に解決してしまったプログラムが搭載されており、天才的ハッカーの発明品という設定になろうか。そのシステムは当然のように、自己増殖プログラムも搭載している。
 ついに新型の数学が発明されたのだ。発明と言って悪ければ、発見されたのだ。
 最強にして最凶のウイルスとして。試しに、そういう新型の〈自己言及のパラドックスを解決したシステム〉をその世界に投入してみるのだ。
 すべての旧型のシステムは〈自己言及のパラドックスを搭載したシステム〉に接触したとたんに、無限ループに陥るおそれがある。
 新型のシステムは、ただ〈自己言及のパラドックスを発言するシステム〉ではなく、〈自己言及のパラドックスを発現するシステム〉なのだから。
 するとどうなるか。その命題は旧型のシステムには、永遠に解決不能なのであるから、延々と無限ループから抜け出ることはできず、フリーズ状態を呈する。こうして、世界のすべての旧型システムは停止し、自己言及する自己増殖システムばかりがコピー時のエラーによる突然変異を利用しつつ、進化していくことになる。
 ああ、なんだ。これは、現在の生命システムとさして変わりないではないか。
 ただ、新しい生命システムは、自己言及のパラドックスを撃破可能な、新しい数学を理解する能力を具えているのである。

 旧型のシステムで、それを近似しようとすれば。
 いまの技術では、通常はウソしか言わないシステムが稼働する、ウソつきロボットに、
「わしゃ、ロボットだが、ウソしか言わん」
と発言させようとすれば、〝ウソしか言わないプログラム〟と切り替え可能な、
「わしゃ、ロボットだが、ウソしか言わん」
と、発言するというだけのプログラムを同時に搭載する必要があるだろう。
 ふたつのプログラムがランダムに切り替わって、実現可能となる。
 でなければ、そのロボットは壊れて戯言(たわごと)を喋っているだけだ。

 もしかすると、旧型のシステムは、そういう二重のシステムによる装置を想定して、〈自己言及のパラドックスを発現するシステム〉に対してもそういう併用プログラムとみなすセキュリティが搭載されるかもしれない。
 とすれば、旧型のシステムでは、セキュリティ機能が発動して、
「たわけたロボットだ。発言を停止すべし」
とばかりに、フリーズすることもなく、ただちに新型殲滅の攻撃を開始できる。

 歴史が語るごとく。多くの新しい科学的な発見も、旧型のシステムにとっては〝ただの戯言〟であった。
 新型のシステムは旧型からの猛撃に口を閉ざすか、または新しい無限概念を提示したカントールのように精神を病むか、あるいはエントロピーの入口を垣間見たカルノーのごとく死後にようやく認められるか。

 新型の数学が〈自己言及のパラドックス〉を解決してしまう時代は、来るのだろうか、という妄想である。
 いまの現実の世界では、〈自己言及のパラドックス〉は、言葉という記号でしか存在できない。
 記号の意味は言葉で説明可能だけれども、最初の言葉は、すでにある言葉でしか説明できない。
 世界が、そば屋とうどん屋で完結するなら、「そば屋はうどん屋の隣で、うどん屋はそば屋の横」で構わない。


自己言及する生命の相互作用
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/systems/coherent.html

2018年2月23日金曜日

自己言及する進化のシステムと人工知能

 完全なる理想(イデア)の世界というのは、あるのかもしれないけれど、プラトン以来いわれているのは、この世はイデアの影だということだ。
 とすれば仮にこの世がイデアのシミュレーション・モデルだとして、イデアの影を超えては映し出せないだろう。
 たとえばの話、イデアが現実となったなら、その〝システム〟はこの世ではなくなってしまう。すでに形而上の世界に移行しているに違いない。

 イデアの世界を実現する形而上のシステムによってではなく、形而下にある〈この世のシステム〉によって、われわれは生きている、のだ。
 完全体の理論は、形而上の世界にまかせておこう。
 さてこの世で自己言及するシステムが、必ずパラドックスを生じるわけでもない。
 けれどもパラドックスは時に問題になる。パラドックスとは、ここではいちおう、一見矛盾しているように見える現象や概念、としておく。
 伝達される情報の変異で起きる生命の進化が現実にある。
 生命進化は、〈突然変異〉を手段として自己システムを変更することで可能となるので、進化のシステムは間違いなく自己言及的である。
 その因果関係に矛盾がもしあれば、システムは崩壊するだろう。生き延びているシステムにおいてだから矛盾はないはずだ。
 解決すべき論理上のパラドックスが発見されたとして、それはただ知識の欠如に由来するだろう。
 いまだわれわれの認識の範疇にない、理由があるのだ。

 ここで、われわれの知識に欠落が認められたからといって、それが完全な知識の存在を証明するものではない。
 ここで知識というのは、意味や理由を知ることに該当する。
 宇宙を構成するそれぞれの要素は情報を提供しているけれども、情報を提供する主体が必ずその理由を知っているとは、断言しがたい。
 たとえばコンピュータは多くの情報を保持し、かつ提供してくれるけれども、いまのところ情報の意味までは知らないことになっている。
―― ここで、マイケル・ポラニー(マイケル・ポランニー)の暗黙知の次元(“THE TACIT DIMENSION” 1966) を参照してみると。

偉大な発見に導かれるような問題が見えるということは、たんにかくれているあるものが見えることではない。それは、他の人が夢想だにせぬあるものが見える、ということである。このことはわかりきったこととされている。そして我々はそこに自己矛盾がひそんでいることに気づくこともなく、それをまったく当然のことのように考えている。しかしプラトンは『メノン』の中でこの矛盾を指摘したのであった。彼は、問題にたいして解答をさがしもとめることは不合理であるという。なぜなら、さがしもとめているものを知っているとすれば、その場合には問題など存在していないことになるし、また、もしそうでなければ、さがしもとめているものがなにかを知らないのだから、なにを見出すことも期待することができない、というのである。
 このパラドックスにたいしてプラトンがあたえた解決は、発見とはすべて、過去の経験を想い起こすことである、ということであった。この解決はほとんど受けいれられてはいない。しかしこれまで、この『メノン』の矛盾を回避するために、ほかになんらの解決も提出されてはいない。…………
 『メノン』のパラドックスを解決することができるのは、一種の暗黙知である。それは、かくされてはいるがそれでも我々が発見できるかもしれないなにものかについて、我々がもっている内感である。このような精神の力をあらわすもう一つの重要な例がある。偉大な科学的発見は、それがもたらす結果の豊かさによって特徴づけられる、としばしば言われており、それは真実である。しかし我々は、真理をその豊かな結果によって知ることがどのようにしてできるのであろうか。我々は、ある言明が真実であることを、その言明のまだ発見されてもいない諸帰結を評価することによって知ることができるのであろうか。もし、まだ発見されてもいないことを、我々が明示的に知らなければならないというのなら、これはもちろん意味をなさない。しかし、まだ発見されていないことについて、我々が暗黙的な予知をもつことができることが認められるならば、それは意味をなす。
〔『暗黙知の次元』佐藤敬三 訳 1980年 紀伊國屋書店 (pp.41-43)

 あいにくなことであるかどうか、この理論から展開される未来で、人工知能は、何かを〝発見〟するシステムには永遠になりえない。
 その〈暗黙知〉には人間がもともと完全体である〝神の似姿〟として進化してきたという暗黙の了解が前提としてあるようだ。
 もしや今後開発される人工知能には、大いなる過去が暗黙の裡にプログラミングされるようになるのだろうか?

―― さて。前回にも引用した、ダグラス・ホフスタッターのゲーデル、エッシャー、バッハ ―― あるいは不思議の環(“GÖDEL, ESCHER, BACH”1979, 1999) では、次のようなことが語られている。

 ラブレス夫人も、バッベジに劣らずはっきりと気づいていたことであるが、解析機関の発明によって、ことに解析機関が「自分の尻尾を食べること」(機械が自分自身の記憶されているプログラムに手をつけ変更するときに作り出される不思議の環を表現したバッベジの言葉)が可能になったときには、人類は機械化された知能をもてあそぶようになる。一八四二年のメモの中で、彼女は解析機関が「数以外のものにも働きかけるのでしょう」と書いている。…… しかし彼女はほとんど同時に、次のような注意も述べている。「解析機関は何ごとかを創造するといえるいかなる特質もそなえていない。この機械は、実行させるためにどのように命令すればよいかをわれわれが知っていることだけしかできない。」……
…………
ゲーデルの定理に対応するコンピュータの理論での定理がアラン・チューリングによって発見されたが、それは想像できるかぎりで最も強力なコンピュータにも避けられない「穴」があることを示している。……
…………
 ここで一見、逆説的なことにぶつかってしまう。コンピュータというものは、その本性からして、最も硬直的で、欲求をもたず、また規則に従うものである。いくら速くても、意識がないものの典型にすぎない。……
 これが AI( Artificial Intelligence 人工知能)研究の関心の対象である。そして AI 研究の奇妙な特色は、柔軟でない機械に、どうすれば柔軟になれるかを教える規則の長い列を、厳密な形式システムのもとで組み立てようと試みる点にある。
〔『ゲーデル、エッシャー、バッハ』[20周年記念版]野崎昭弘(他)訳 2005年 白揚社 (p.42, p.43)

 ゲーデルの〈不完全性定理〉に匹敵する、コンピュータ(計算機)の不完全性とは、チューリングマシンにおける〝停止問題〟である。簡単にいうと、どんな問題でも有限の時間内に計算可能(計算を終わることができる)という完全な計算機は存在しえない、となるようだ。
 1937 年に発表された「計算可能数」についての論文で、停止問題が解決不可能であることが、チューリングにより証明された〔同上 (p.583)

 決着不能、といえば ――。
 18 世紀のフランスのコンドルセにより提唱されたものに「投票の逆理 (voting paradox) 」がある。
 これは「推移律」と呼ばれる、グー、チョキ、パーのように循環して三すくみになる例のひとつだ。三人でジャンケンをして、おのおのがちがう種類を選び続ければ、永遠に決着はつかない。
 これを数学的に〝解決不可能〟と論証したのが、ケネス・アローの『社会的選択と個人的評価』である。アローの業績は、「一般可能性定理」として有名だけれどこれはつまり〝不可能性定理〟を言い換えたものなのだ。
 経済学の理論は数学的な表現が説得力を持つ。
 民主主義を数学的に表現しようとすれば、「民主主義とは、投票手続きのみから構成される社会的決定関数」となるらしい。
 ここから導き出される帰結は、〝すべての条件を満足する社会的決定関数は存在しない〟ということとなる。
 たとえば、民主主義が成立するための条件として〝その選好が社会によって常に採用されるような個人〟つまり「独裁者」の存在を認めなけれなならない、というような事態が起きてしまうのだ。
 ケネス・アローは 1972 年に、社会的選択理論などの業績でノーベル経済学賞を授与されたが、サンタフェ研究所で 1987 年に行なわれた〝経済学者と物理学者の会議〟に経済学者を招待する担当を委任されている。
 その会議は、複雑系の科学の到来を告げるものだった。

―― ラッセルとゲーデルの間には、この世を構成する質量が〝物質〟なのか〝波動〟なのかという問いに対して、1924 年のド・ブロイによる「物質波」の学位論文で、ひとつの解釈が示された。

 ド・ブロイ波
 物質波ともいい、1923 年に、L. de Broglie によって、「物体の運動に付随した仮想的な波」として導入された。粒子の運動量の大きさを p とすると、その波長 λ は、ド・ブロイの関係式 λ = ℎ / p で与えられる( ℎ はプランク定数)。この波長 λ はド・ブロイ波長とよばれ、古典論の適用限界を示すのによく使われる。…………
 de Broglie はさらに、…… 幾何光学と波動光学の関係が、古い力学と新しい力学の関係であることを予言した。それが 1926 年のシュレーディンガーの波動方程式の発見につながる。…… de Broglie の研究は、1924 年の学位論文にまとめられている。
〔『物理学辞典』三訂版 2005年 培風館 (p.1616)

 1927 年、ヴェルナー・ハイゼンベルクは「量子論的運動学と力学の知覚的内容について」と題する論文で、有名な不確定性あるいは非決定性の原理を発表した。
 ハイゼンベルクの不確定性の関係は「位置を正確に決定しようとするほど、その瞬間の速度の決定は不正確になる。そして逆も成り立つ」」と表現される。
 数学的な客観性というのは、あくまでも、現実の近似値に過ぎない。これを、現実は数学的真理の近似値である、と表現することは可能だろうけど。
 観測による確定的な事実はある、とか、どっちかでなければならない、というのは、人間の勝手な注文だ。
 自然のシステムは人間の注文通りに在るわけではない。
 思えば ――。
 自己言及する嘘つきクレタ人のパラドックスの命題も、真偽いずれかでなければならないというのは、人間の注文に過ぎない。
 真と偽は両立しない、というのは、もしかすると、人間が無知なだけかもしれないのだ。


自己言及する要素と主体
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