2018年3月23日金曜日

シリコンチップは 心をもつか

 森羅万象に意味があるのなら、触れ合って心を通わせることもまたできるのだろう。
 意味とは、心の作用である。琴線は共鳴する心の作用だ。
 路傍の石にも、時に、日本人は心を認めた。
 けれど、心を脳の属性と限定するなら、脳をもたない石(シリコン)には心は認められない。
―― 脳の機能が心であるということについて、マーヴィン・ミンスキー著心の社会(“THE SOCIETY OF MIND”1985, 1986) に、こう書いてある。

心は単に脳がすることである。(訳注2)
(訳注2) Minds are simply what brains do. の訳。
〔『心の社会』安西祐一郎訳 1990年 産業図書 (p.470)

 これが今後どのように展開されていくのか。
 上の記述は、中村雄二郎脳と人間の高次機能 二 脳と心身関係について」〔『中村雄二郎著作集』第二期 Ⅴ 2000年 岩波書店 に所収〕を読んで知ったのだけれども、同様な、脳と心に関しての論述は、野家啓一著科学哲学への招待にもあった。
―― 同書の第5章 科学革命(Ⅲ)3 心身問題と「心の哲学」というセクションが設けられ、そこで語られていた。

 心の哲学の主流は唯物論的傾向が強く、基本的に「心的状態」を「脳状態」と同一視する立場をとる。たとえば「雷は放電現象と同一である」や「熱は分子の平均運動エネルギーと同一である」と同様の意味で「心的状態は脳状態と同一である」と考えるのである。これを「心脳同一説」という。だが、この立場からすれば、脳をもたないコンピュータは心をもちえないことになる。そこで「機能主義」の立場は、心をさまざまなハードウェアによって実現可能なコンピュータのソフトウェア(プログラム)になぞらえる。つまり、心とは脳細胞のみならずシリコンチップなど多様な物理的状態によって実現される機能状態だと考えるのである。これは現代の認知科学の基礎となっている考え方であり、心の哲学は総じて心を物理状態に還元することによって、デカルト的な物心二元論から物質一元論(唯物論)の方向へ向かっていると言うことができる。
 しかし、最先端の脳科学においてすら、その到達点は脳状態と心的状態との「対応関係」を確立し、その精密化を推し進めるにとどまっている。…… 科学的自然観のもとでは、延長をもたない「心的状態」や「感覚質」は測定可能な物理量とは見なされず、因果的必然性をもった法則的秩序の外に置き去りにされてきたのである。それゆえ、心身因果の法則性が真に確立されるならば、それは自然界を記述する従来のカテゴリーの組み換えを要求し、科学的自然観の基本前提を問い直すものとならざるをえないであろう。
〔『科学哲学への招待』2015年 ちくま学芸文庫 (pp.91-92)

 ようするに、「心の哲学 (philosophy of mind) では〝心とは脳の状態である〟といい、これが「機能主義」の立場からは、
心とは脳細胞のみならずシリコンチップなど多様な物理的状態によって実現される機能状態だ
と、考えられるようになっているという。
 これは心を物理状態に還元することを意味しているらしい。唯物論的な考え方だと、指摘されている。

 まったくもって日本語で〝状態〟といえば、物体の物理的な〝状態〟であろう。
 けれどここで、それを〝現象〟といってみたならば、脳の作用としての〈機能〉とその物理的な〈構造〉を同一視できなくなってくるようでもある。
 このことについては上記引用文中でも、続けて書かれた、
科学的自然観のもとでは、延長をもたない「心的状態」や「感覚質」は測定可能な物理量とは見なされず、因果的必然性をもった法則的秩序の外に置き去りにされてきたのである。
という一文に示される。

 心はいまだ〈測定可能な物理量〉ではないのである。
 かくして、自然科学的には測定の対象にはならなくても、でも一方で。最近では、ロボットに〝心の拠り所〟を求めるようすもある。
 きっとそういう〝心の拠り所〟を感じた時点で、シリコンチップにも、心は発生しているのだろう。


複雑性 と 両義性
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/emergence/index.html

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