2018年3月29日木曜日

奇稲田姫(クシナダヒメ)と たなばた伝説

 折口信夫(おりくちしのぶ)の語る〈まれびと〉の思想は、基本的に、遠来の神のおとずれを説く。
 基本的に、としたのは、〈異人〉である〈まれびと〉には、神と鬼の両義性がそなわっているからだ。境界の向こうはまさしく無法地帯と異ならず、混沌の闇の彼方から来訪する異邦人は恐ろしい鬼でもあった。
 神か鬼か、それともただのひとなのか、それは接触してみるまで、わからない。
 これが見知らぬ旅人を饗応する、〈異人歓待説話〉にも通じる。
―― さて、大正 14 年発表の古代生活の研究まれびとのおとずれは、たとえば次のように語られている。

 このまれびとなる神たちは、私どもの祖先の、海岸を逐うて移った時代から持ち越して、後には天上から来臨すると考え、さらに地上のある地域からも来ることと思うように変ってきた。古い形では、海のあなたの国から初春ごとに渡り来て、村の家々に一年中の心躍るような予言[カネゴト]を与えて去った。このまれびとの属性がしだいに向上しては、天上の至上神を生み出すことになり、従ってまれびとの国を、高天原に考えるようになったのだと思う。
〔折口信夫『古代研究Ⅰ』2002年 中公クラシックス/中央公論新社 (p.35)

 古い時代の邑(むら)には、土地の慣習・しきたりが秩序となって君臨する。
 日本の神話的な表現を使うと土地に秩序をもたらす〝しきたり〟とは、いわば〈国つ神〉の支配である。
 もっと拡大された地域の〝支配者のしきたり〟が、〈天つ神〉の神話につながる。
 祭政一致であって〝まつり〟は〝まつりごと〟と異ならぬ時代の暮らしだ。
 日本で神々を天神地祇(てんじんちぎ)という。〝天の神、地の神〟の意味になるのだけど、〝天神〟が〈天つ神〉ならば、〝地祇〟は〈国つ神〉に相当する。
 土地に根差した固有の支配と信仰があって、祀り(まつり)が正しければ、豊年は保たれる。
 けれども、どんな支配や秩序も、やがては疲弊していく。
 そこへ新しい〈力〉を携えて、なにかがやってくるのだ。

 いましがたも述べたように古代の邑(むら)の中心部には土地のしきたりが秩序として君臨しているだろう。
 だから異邦人である〈まれびと〉との接触地点は、人里から離れた周縁あたり、秩序との境界領域となる川のほとりなどだったろう。
 いわゆる三途の川のごとく境界には区域を隔てる川の流れは必然ともいえる。
 その境界の川辺に、板張りの棚とか、桟敷を出して、遠来の神を待ち受ける若い乙女が〈たなばたつめ〉だと、いう。
 漢字では〈棚機津女〉と書かれている。〝機(はた)〟は〝機織り(はたおり)〟のことだから、〈棚機津女〉は、〝棚で機織る女性〟のこととなる。
 日本古来の〈たなばた伝説〉は、すなわち〈異人〉である〈まれびと〉を待つ物語であったらしい。

 そういうわけで、邑(さと)の中心から離れた周縁部の水辺で、〈異人歓待〉が行なわれ和平か殺戮かが評議される。
 たとえば、疲弊しつつある邑では、異邦人は新しい〈力〉の象徴として、歓迎されたかもしれない。

 さて。出雲の地に素戔嗚(スサノヲ)が降り立った時、その土地は〈力〉を失いつつあった。斐伊川(ヒノ川)の〈国つ神〉は、大蛇(ヲロチ)だったけれども、このままではもはや田に、来年の稔りは期待できなくなっていた。
 日本書紀の一書によれば、天神スサノヲは、地祇であるヲロチにこういったという。
「汝は、畏(かしこ)き神なり」

―― いわゆる〝八岐大蛇(やまたのおろち)〟が神であることについて、折口信夫たなばたと盆祭りとではこう触れてある。

 だから、やまたのをろちの条[くだり]に、八つのさずきを作って迎えた、ということもわかるのである。これが、特殊な意義に用いられた棚の場合には、一方崖により、水中などに立てたいわゆる、かけづくりのものであった。偶然にも、さずきの転音に宛てた字が桟敷と、桟の字を用いているのを見ても、さじきあるいは棚が、かけづくりを基としたことを示している。
〔折口信夫『古代研究Ⅱ』2003年 中公クラシックス (p.213)

 土地の神であるヲロチを最後の饗宴にいざない、そして、スサノヲはヲロチに大量の酒をふるまって眠らせ、殺害する。
 新しい秩序のためには〝破壊的創造〟が必要だともされる。
 かくして、神の田を荒らして天を追放された、荒ぶる神スサノヲは、地上で田の神となる。
 この物語はいわゆるアンドロメダ型の、英雄譚であるといわれる。
 が、単純な英雄譚とは異質だという気もする。このストーリーで、奇稲田姫(くしいなだひめ)は、〈櫛(くし)〉に変化(へんげ)して、スサノヲとともにヲロチと対峙するのであるから、アンドロメダ型のただの〝捕われの姫〟ではありえない。
 ところで、この〝奇稲田姫〟は日本書紀の表記であって、古事記では〝櫛名田比賣(クシナダヒメ)〟となっている。
 いずれにしても共通項として、〝奇(クシ)=櫛〟で呪力の所在と、そして〝田〟を意味する。
 その呪力は、忌串すなわち、斎串(いぐし)であると考察されてもいる。クシナダヒメの化身であるこの〝櫛〟は、一般にイメージされる「櫛」ではなく、〝かんざし〟のような「串状のもの」であるという。
 古来、水霊である蛇神を制するのに、目印(シルシ)の柱となる杖や矛が有効であるとされたようだ。
 忌串の呪力は、境界を示す柱と同じ形状にひそむのだろうか。
 なんにせよ、スサノヲは〝クシ〟の呪力を身に帯びて、ヲロチを待ち受けたと伝承される。

 というわけでクシナダヒメは、〝捕われの姫〟どころか、〝巫女(みこ)〟的な協力者の立場にある。
 巫女的な協力者といえば、東征を命ぜられた〈倭建(ヤマトタケル)〉の物語でも鮮やかだ。
 ヤマトタケルは伊勢神宮で、おばの〈倭比賣(ヤマトヒメ)〉に、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授けられたとされている。
 草薙剣とは、三種の神器のひとつで、スサノヲが退治したヲロチの尾から出たと伝えられる剣だ。
 このときに、〝忌串〟が〝神剣〟へと新生しているともいえようか。

 クシナダヒメが、巫女であったという推論は、調べてみると、昭和 30 年の文献にすでにあった。
 松村武雄日本神話の研究 第三巻』〔1955年 培風館〕で詳細に論じられていて、同書では、八乙女(やおとめ)という八人一組の巫女を認取する」〔同 (p.198) 〕という視点からまず、論が展開されていく。
―― いっぽうで、折口信夫水の女では、ヤヲトメについて、次のように語られる。

 神女群の全体あるいは一部を意味するものとして、七処女の語が用いられ、四人でも五人でも、言うことができたのだ。その論法から、八処女も古くは、実数は自由であった。その神女群のうち、もっとも高位にいる一人がえ(兄)で、その余はひっくるめておと(弟)と言うた。
〔『古代研究Ⅰ』 (p.99)

 そして「おとたなばた」の語は、いにしえより伝わる、有名な歌謡にある。
―― 日本書紀(「神代下 第九段〔一書第一〕」)にもある歌謡だけれど、以下に古事記から引用する。

天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に 穴玉はや み谷 二渡らす 阿治志貴高 日子根の神ぞ。
(あめなるや おとたなばたの うながせる たまのみすまる みすまるに あなたまはや みたに ふたわたらす あぢしきたか ひこねのかみぞ。)
〔倉野憲司 校注『古事記』1963年 岩波文庫 (p.60)

 邑を外れた水辺に、棚とか、桟敷を出して、遠来の神を待ち受ける若い乙女が〈たなばたつめ〉だと、いう。
 遠来の神は〈異人〉であり、境界の向こうからやって来る〈力〉の象徴でもあった。
 境界の先は、闇が渦巻く〈異世界〉なのであって、そこに棲む人びとは〈神〉でありうると同時に〈鬼〉とも呼ばれる。
 破壊と、新しい世界の秩序をもたらす〈力〉は、まぎれもなく混沌の彼方からやって来るのだ。


稀人(まれびと)きたる
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/emergence/signal.html

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