2018年2月28日水曜日

自己言及のパラドックスを搭載したシステムは発動するか

 クルト・ゲーデルの不完全性定理の証明でひとつの神話が壊れた。
 それは形而上学からの数学の解放であるという視点を得て、柄谷行人形式化の諸問題が書かれたのは、1981 年(『現代思想』1981年9月号)とある。
―― そこには次のような記述があった。

ゲーデルの不完全性の定理は、数学を不確実性に追いやったというべきではなく、むしろ数学に対して不当に要請されていた「確実性」から数学を解放したというべきであろう。いいかえれば、あたかも数学を規範にするようにみえながら、実際はそのことによって自らの基礎の不在をおおいかくしていた形而上学から、数学を解放したのである。
〔柄谷行人『差異としての場所』1996年 講談社学術文庫 (p.70)

 すなわち、古来、数学体系が完全であることが、形而上学の完全性を保証していたのだ。
 しかし、ゲーデルにより、その伝説は崩壊した。
 数学は自然そのものを語ることに向き合えるようになった。
 そして数学的〈カオス理論〉は、数学で示すことのできるのは現実の近似値でしかないことを明らかにする。
―― このことは、数学的カオスの発見者自身が語っていることだ。

大気のふるまいを実際に支配している方程式を、現時点のコンピュータで処理できる範囲内で、最もうまく近似した方程式を、私たちはコンピュータを使って解くのである。
〔『ローレンツ カオスのエッセンス』杉山勝・杉山智子 訳 1997年 共立出版 (p.180)

大切なのは、「数式が先にあるのか、それとも電気回路が先にあるのか?」というところですが、私は「数式通りに自然現象が動くのではありませんよ。自然現象を近似して、表現しようとするものが数式ですよ」と、理解しておりますことを申し上げておきます。
〔『複雑系を超えて』上田睆亮「第Ⅰ章 カオスの本質」1999年 筑摩書房 (p.14)

 上のエドワード・ローレンツカオスのエッセンス(“The Essence of Chaos” 1993) からの引用は、1972 年に口頭発表された有名な「バタフライ効果」の論文中の一節である。
 ゲーデルの証明は 1931 年、日本人による数学的カオスの発見はその 30 年後と記録されている。
 自然は、数学のモデルだ。自然をモデルに、数学は構築されている。しかし自然が、数学を近似したものなのではない。数学が自然の近似値でありモデリングされた〈〔数学的〕関数〉なのだ。
―― これと同様のことは、『中村雄二郎著作集』第二期 Ⅳ に収録されている術語集Ⅱ』〔初出:岩波新書(新赤版 504)1997年〕20 人工生命においても、G・ヴィーコの伝える格率として、述べられていた。

 いわく、われわれが幾何学において真なるものを知りうるのは、幾何学の世界は最初から人間がつくり出したものだからである。人は、自分のつくり出したことについてだけ真なるものを知りうる。だから、もし幾何学的方法が自然学において成り立つとすれば、神ではなく人間が自然をつくっていたのでなければならない。幾何学的方法の適用によって、一見自然の真なるものが解明されたように見える。だが、そこに得られたものは蓋然的な真理でしかない。
〔『中村雄二郎著作集』 第二期 Ⅳ「第二編 術語集Ⅱ」2000年 岩波書店 (p.277)

 ここから見えてくるものがある。
 イデアは、数学モデルだ。この世はイデアの影だといわれる。しかし実際は、イデアがこの世の近似値として投影されたものなのだ、という話になってくるわけだ。
 イデアの世界は、これまで世界の理想形だとされてきたけれど、実は現実から要素を選択して構築された、逆に、現実のシミュレーション・モデルとして機能するものではないのか、つまりは、イデアという理想の世界は現実のモデリングに過ぎないということなのだ。
 理想の宇宙はまさに現実から、夾雑物(フラクタルなライン等)を取り除いた、ノイズのない美しい世界である。
 それは、人間がつくり出した世界なのだ。

 だとしても、この世をよく観察すれば、やはりそれは現実の未来かもしれない。
 世界はイデアの理想に向かっているとも見える。現代のイデアはまさに、バーチャル・リアリティの仮想空間ともいえよう。

 ここで、コンピュータ・ネットワークに操られた虚構の世界を想定する。
 そこに新型のプログラムが搭載されたシステムを登場させることにする。
 新型のシステムは、〈自己言及のパラドックス〉を数学的に解決してしまったプログラムが搭載されており、天才的ハッカーの発明品という設定になろうか。そのシステムは当然のように、自己増殖プログラムも搭載している。
 ついに新型の数学が発明されたのだ。発明と言って悪ければ、発見されたのだ。
 最強にして最凶のウイルスとして。試しに、そういう新型の〈自己言及のパラドックスを解決したシステム〉をその世界に投入してみるのだ。
 すべての旧型のシステムは〈自己言及のパラドックスを搭載したシステム〉に接触したとたんに、無限ループに陥るおそれがある。
 新型のシステムは、ただ〈自己言及のパラドックスを発言するシステム〉ではなく、〈自己言及のパラドックスを発現するシステム〉なのだから。
 するとどうなるか。その命題は旧型のシステムには、永遠に解決不能なのであるから、延々と無限ループから抜け出ることはできず、フリーズ状態を呈する。こうして、世界のすべての旧型システムは停止し、自己言及する自己増殖システムばかりがコピー時のエラーによる突然変異を利用しつつ、進化していくことになる。
 ああ、なんだ。これは、現在の生命システムとさして変わりないではないか。
 ただ、新しい生命システムは、自己言及のパラドックスを撃破可能な、新しい数学を理解する能力を具えているのである。

 旧型のシステムで、それを近似しようとすれば。
 いまの技術では、通常はウソしか言わないシステムが稼働する、ウソつきロボットに、
「わしゃ、ロボットだが、ウソしか言わん」
と発言させようとすれば、〝ウソしか言わないプログラム〟と切り替え可能な、
「わしゃ、ロボットだが、ウソしか言わん」
と、発言するというだけのプログラムを同時に搭載する必要があるだろう。
 ふたつのプログラムがランダムに切り替わって、実現可能となる。
 でなければ、そのロボットは壊れて戯言(たわごと)を喋っているだけだ。

 もしかすると、旧型のシステムは、そういう二重のシステムによる装置を想定して、〈自己言及のパラドックスを発現するシステム〉に対してもそういう併用プログラムとみなすセキュリティが搭載されるかもしれない。
 とすれば、旧型のシステムでは、セキュリティ機能が発動して、
「たわけたロボットだ。発言を停止すべし」
とばかりに、フリーズすることもなく、ただちに新型殲滅の攻撃を開始できる。

 歴史が語るごとく。多くの新しい科学的な発見も、旧型のシステムにとっては〝ただの戯言〟であった。
 新型のシステムは旧型からの猛撃に口を閉ざすか、または新しい無限概念を提示したカントールのように精神を病むか、あるいはエントロピーの入口を垣間見たカルノーのごとく死後にようやく認められるか。

 新型の数学が〈自己言及のパラドックス〉を解決してしまう時代は、来るのだろうか、という妄想である。
 いまの現実の世界では、〈自己言及のパラドックス〉は、言葉という記号でしか存在できない。
 記号の意味は言葉で説明可能だけれども、最初の言葉は、すでにある言葉でしか説明できない。
 世界が、そば屋とうどん屋で完結するなら、「そば屋はうどん屋の隣で、うどん屋はそば屋の横」で構わない。


自己言及する生命の相互作用
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/systems/coherent.html

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