とすれば仮にこの世がイデアのシミュレーション・モデルだとして、イデアの影を超えては映し出せないだろう。
たとえばの話、イデアが現実となったなら、その〝システム〟はこの世ではなくなってしまう。すでに形而上の世界に移行しているに違いない。
イデアの世界を実現する形而上のシステムによってではなく、形而下にある〈この世のシステム〉によって、われわれは生きている、のだ。
完全体の理論は、形而上の世界にまかせておこう。
さてこの世で自己言及するシステムが、必ずパラドックスを生じるわけでもない。
けれどもパラドックスは時に問題になる。パラドックスとは、ここではいちおう、一見矛盾しているように見える現象や概念、としておく。
伝達される情報の変異で起きる生命の進化が現実にある。
生命進化は、〈突然変異〉を手段として自己システムを変更することで可能となるので、進化のシステムは間違いなく自己言及的である。
その因果関係に矛盾がもしあれば、システムは崩壊するだろう。生き延びているシステムにおいてだから矛盾はないはずだ。
解決すべき論理上のパラドックスが発見されたとして、それはただ知識の欠如に由来するだろう。
いまだわれわれの認識の範疇にない、理由があるのだ。
ここで、われわれの知識に欠落が認められたからといって、それが完全な知識の存在を証明するものではない。
ここで知識というのは、意味や理由を知ることに該当する。
宇宙を構成するそれぞれの要素は情報を提供しているけれども、情報を提供する主体が必ずその理由を知っているとは、断言しがたい。
たとえばコンピュータは多くの情報を保持し、かつ提供してくれるけれども、いまのところ情報の意味までは知らないことになっている。
―― ここで、マイケル・ポラニー(マイケル・ポランニー)の『暗黙知の次元』(“THE TACIT DIMENSION” 1966) を参照してみると。
偉大な発見に導かれるような問題が見えるということは、たんにかくれているあるものが見えることではない。それは、他の人が夢想だにせぬあるものが見える、ということである。このことはわかりきったこととされている。そして我々はそこに自己矛盾がひそんでいることに気づくこともなく、それをまったく当然のことのように考えている。しかしプラトンは『メノン』の中でこの矛盾を指摘したのであった。彼は、問題にたいして解答をさがしもとめることは不合理であるという。なぜなら、さがしもとめているものを知っているとすれば、その場合には問題など存在していないことになるし、また、もしそうでなければ、さがしもとめているものがなにかを知らないのだから、なにを見出すことも期待することができない、というのである。
このパラドックスにたいしてプラトンがあたえた解決は、発見とはすべて、過去の経験を想い起こすことである、ということであった。この解決はほとんど受けいれられてはいない。しかしこれまで、この『メノン』の矛盾を回避するために、ほかになんらの解決も提出されてはいない。…………
『メノン』のパラドックスを解決することができるのは、一種の暗黙知である。それは、かくされてはいるがそれでも我々が発見できるかもしれないなにものかについて、我々がもっている内感である。このような精神の力をあらわすもう一つの重要な例がある。偉大な科学的発見は、それがもたらす結果の豊かさによって特徴づけられる、としばしば言われており、それは真実である。しかし我々は、真理をその豊かな結果によって知ることがどのようにしてできるのであろうか。我々は、ある言明が真実であることを、その言明のまだ発見されてもいない諸帰結を評価することによって知ることができるのであろうか。もし、まだ発見されてもいないことを、我々が明示的に知らなければならないというのなら、これはもちろん意味をなさない。しかし、まだ発見されていないことについて、我々が暗黙的な予知をもつことができることが認められるならば、それは意味をなす。
〔『暗黙知の次元』佐藤敬三 訳 1980年 紀伊國屋書店 (pp.41-43) 〕
あいにくなことであるかどうか、この理論から展開される未来で、人工知能は、何かを〝発見〟するシステムには永遠になりえない。
その〈暗黙知〉には人間がもともと完全体である〝神の似姿〟として進化してきたという暗黙の了解が前提としてあるようだ。
もしや今後開発される人工知能には、大いなる過去が暗黙の裡にプログラミングされるようになるのだろうか?
―― さて。前回にも引用した、ダグラス・ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ ―― あるいは不思議の環』(“GÖDEL, ESCHER, BACH”1979, 1999) では、次のようなことが語られている。
ラブレス夫人も、バッベジに劣らずはっきりと気づいていたことであるが、解析機関の発明によって、ことに解析機関が「自分の尻尾を食べること」(機械が自分自身の記憶されているプログラムに手をつけ変更するときに作り出される不思議の環を表現したバッベジの言葉)が可能になったときには、人類は機械化された知能をもてあそぶようになる。一八四二年のメモの中で、彼女は解析機関が「数以外のものにも働きかけるのでしょう」と書いている。…… しかし彼女はほとんど同時に、次のような注意も述べている。「解析機関は何ごとかを創造するといえるいかなる特質もそなえていない。この機械は、実行させるためにどのように命令すればよいかをわれわれが知っていることだけしかできない。」……
…………
ゲーデルの定理に対応するコンピュータの理論での定理がアラン・チューリングによって発見されたが、それは想像できるかぎりで最も強力なコンピュータにも避けられない「穴」があることを示している。……
…………
ここで一見、逆説的なことにぶつかってしまう。コンピュータというものは、その本性からして、最も硬直的で、欲求をもたず、また規則に従うものである。いくら速くても、意識がないものの典型にすぎない。……
これが AI( Artificial Intelligence 人工知能)研究の関心の対象である。そして AI 研究の奇妙な特色は、柔軟でない機械に、どうすれば柔軟になれるかを教える規則の長い列を、厳密な形式システムのもとで組み立てようと試みる点にある。
〔『ゲーデル、エッシャー、バッハ』[20周年記念版]野崎昭弘(他)訳 2005年 白揚社 (p.42, p.43) 〕
ゲーデルの〈不完全性定理〉に匹敵する、コンピュータ(計算機)の不完全性とは、チューリングマシンにおける〝停止問題〟である。簡単にいうと、どんな問題でも有限の時間内に計算可能(計算を終わることができる)という完全な計算機は存在しえない、となるようだ。
1937 年に発表された「計算可能数」についての論文で、停止問題が解決不可能であることが、チューリングにより証明された〔同上 (p.583) 〕。
決着不能、といえば ――。
18 世紀のフランスのコンドルセにより提唱されたものに「投票の逆理 (voting paradox) 」がある。
これは「推移律」と呼ばれる、グー、チョキ、パーのように循環して三すくみになる例のひとつだ。三人でジャンケンをして、おのおのがちがう種類を選び続ければ、永遠に決着はつかない。
これを数学的に〝解決不可能〟と論証したのが、ケネス・アローの『社会的選択と個人的評価』である。アローの業績は、「一般可能性定理」として有名だけれどこれはつまり〝不可能性定理〟を言い換えたものなのだ。
経済学の理論は数学的な表現が説得力を持つ。
民主主義を数学的に表現しようとすれば、「民主主義とは、投票手続きのみから構成される社会的決定関数」となるらしい。
ここから導き出される帰結は、〝すべての条件を満足する社会的決定関数は存在しない〟ということとなる。
たとえば、民主主義が成立するための条件として〝その選好が社会によって常に採用されるような個人〟つまり「独裁者」の存在を認めなけれなならない、というような事態が起きてしまうのだ。
ケネス・アローは 1972 年に、社会的選択理論などの業績でノーベル経済学賞を授与されたが、サンタフェ研究所で 1987 年に行なわれた〝経済学者と物理学者の会議〟に経済学者を招待する担当を委任されている。
その会議は、複雑系の科学の到来を告げるものだった。
―― ラッセルとゲーデルの間には、この世を構成する質量が〝物質〟なのか〝波動〟なのかという問いに対して、1924 年のド・ブロイによる「物質波」の学位論文で、ひとつの解釈が示された。
ド・ブロイ波
物質波ともいい、1923 年に、L. de Broglie によって、「物体の運動に付随した仮想的な波」として導入された。粒子の運動量の大きさを p とすると、その波長 λ は、ド・ブロイの関係式 λ = ℎ / p で与えられる( ℎ はプランク定数)。この波長 λ はド・ブロイ波長とよばれ、古典論の適用限界を示すのによく使われる。…………
de Broglie はさらに、…… 幾何光学と波動光学の関係が、古い力学と新しい力学の関係であることを予言した。それが 1926 年のシュレーディンガーの波動方程式の発見につながる。…… de Broglie の研究は、1924 年の学位論文にまとめられている。
〔『物理学辞典』三訂版 2005年 培風館 (p.1616) 〕
1927 年、ヴェルナー・ハイゼンベルクは「量子論的運動学と力学の知覚的内容について」と題する論文で、有名な不確定性あるいは非決定性の原理を発表した。
ハイゼンベルクの不確定性の関係は「位置を正確に決定しようとするほど、その瞬間の速度の決定は不正確になる。そして逆も成り立つ」」と表現される。
数学的な客観性というのは、あくまでも、現実の近似値に過ぎない。これを、現実は数学的真理の近似値である、と表現することは可能だろうけど。
観測による確定的な事実はある、とか、どっちかでなければならない、というのは、人間の勝手な注文だ。
自然のシステムは人間の注文通りに在るわけではない。
思えば ――。
自己言及する嘘つきクレタ人のパラドックスの命題も、真偽いずれかでなければならないというのは、人間の注文に過ぎない。
真と偽は両立しない、というのは、もしかすると、人間が無知なだけかもしれないのだ。
自己言及する要素と主体
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/systems/element.html
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