2017年5月29日月曜日

自然選択による血縁淘汰と「タカ‐ハトゲーム」

 1964 年、ウィリアム・ハミルトンの論文「社会行動の遺伝的進化」が出ている。
 そのなかでハミルトンは、個体の適応度 (individual fitness) に加えて、血縁者の適応度も含めた包括適応度 (inclusive fitness) を進化の基準として用いた。
 これにより、自然選択が遺伝子レベルではたらく、理論的な基盤が与えられたとされている。

 1964 年にジョン・メイナード・スミスは、「血縁淘汰」の仮説を提唱した。
 それまで、自然選択による種の淘汰は「群淘汰」の説が有力だった。
 ちなみに自然淘汰も自然選択も同じ「ナチュラル・セレクション」の日本語訳である。
 選ばれて、淘汰されるということから、生き残りをかけた「サバイバル・ゲーム」が自然と連想される。

  Maynard Smith, J., and G. R. Price. 1973. The logic of animal conflict. Nature, London, 246(5427): 15-18.

「進化的に安定な戦略」は、この論文 “The logic of animal conflict” で提案された。
 1973 年にメイナード・スミスがジョージ・プライスと共同で『ネイチャー』誌に発表したものだ。
 1975 年に刊行されたエドワード・ウィルソンの著作でも、この論文を参照して次のように述べられている。

その仮説は、非常に多くの動物において実際には二つの形の争い方があると考えている。すなわち、儀式化された戦いとエスカレートした戦いとである。エスカレートした戦いが起ると、一方の個体が相手を傷つけることになる。このような特別な形の行動の縮尺は、すぐにエスカレートした戦いをするようになっても、また逆に全然そのような戦いをしなくても、どちらも不利になるので、そのために進化的に安定化するものと考えられる。
〔エドワード・O・ウィルソン『社会生物学』合本版 (p.262)

―― このウィルソンの記述は、
「タカ‐ハトゲーム」を概念的に説明したものにもなっている。
ゲームの具体的な説明は、次の資料を参照したい。

 彼らがこの論文のなかで展開した例は、「タカ‐ハトゲーム」とよばれるものである。いま、V という価値のある資源をめぐって、「タカ」と「ハト」という二つの戦略のなかからどちらかを選ぶ個体同士が争う状況を考えてみよう。
 「タカ」は、必ずや一騎打ちにでる戦略であり、「タカ」同士が出会うと必ずや死闘が繰り広げられる。その闘いに勝てば V という資源の全部を得るが、負けると傷を負うので、C という損失を被る。いま、「タカ」同士の間に資源保有能力や戦闘能力に差はないと仮定すると、「タカ」同士の闘いで 1 匹の「タカ」が勝ったり負けたりする確率は半々である。
 「ハト」は、闘いを好まない戦略であり、「ハト」同士が出会うと仲良く資源を分け合うので、双方が V / 2 ずつの利益を得る。「タカ」と「ハト」が出会うと、「タカ」は必ず攻撃し、「ハト」は必ず逃げるので、常に「タカ」が V という利益を得、「ハト」の利得は 0 となる。
〔長谷川眞理子「行動生態学の展開」/『進化ゲームとその展開』第 7 章 (p.183)

  The essential concept Maynard Smith introduces is that of the evolutionarily stable strategy, an idea that he traces back to W. D. Hamilton and R. H. MacArthur. …………
  An evolutionarily stable strategy or ESS is defined as a strategy which, if most members of a population adopt it, cannot be bettered by an alternative strategy. …………
〔Richard Dawkins “The Selfish Gene”New Edition (p.69) 〕

 メイナード=スミスが提唱している重要な概念は、進化的に安定な戦略 (evolutionarily stable strategy) とよばれるもので、もとをたどれば W・D・ハミルトンと R・H・マッカーサーの着想である。…………
 進化的に安定な戦略すなわち ESS は、個体群の大部分のメンバーがそれを採用すると、べつの代替戦略によってとってかわられることのない戦略だと定義できる。…………
〔リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』日高敏隆(他)訳〕

 1976 年にその初版が刊行された、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』で、ESS は自然選択の中心概念として取り上げられ、英国 BBC のドキュメンタリー番組「利己的な遺伝子」では、メイナード・スミスが解説を担当した。


J. Maynard Smith & G. R. Price, 1973. 進化ゲームへの展開
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/games/development.html

2017年5月26日金曜日

戦略的クローンが邂逅するシナリオ

 進化の戦略で多数派となるためには、まず、自分にそっくりなやつとの相性が良くなければならない。
―― 成功する戦略は自分自身のコピーと遭遇する可能性が高いという説に、異論の余地はない。

 重要な点は、成功する戦略は、かならずしも特定の競合関係において、相手の戦略に勝つものとはかぎらないことである。成功する戦略は数的に集団で優位なものである。そして数的に優位な戦略は、その定義から、自分自身のコピーと遭遇する可能性が高いのであるから、それは自分自身のコピーの存在するところで繁栄できるときにのみ、数的に優位なままでとどまれるだろう。これが、メイナード・スミスの ESS における「進化的に安定」の意味である。私たちは自然界で ESS が見られると予測する。なぜなら、ある戦略が進化的に不安定であれば、ライバルとなる戦略に追い抜かれて、集団から姿を消すことになるからである。
〔リチャード・ドーキンス『好奇心の赴くままに』ドーキンス自伝Ⅰ (p.390)

 上の引用文と同内容のことはすでに『利己的な遺伝子』 (“The Selfish Gene”New Edition, 1989) の「補注」 (Endnotes, pp.282-283) で語られている。日本語訳では、第 5 章の補注「進化的に安定な戦略……」と題されたものになる。

 誰でも危険な戦闘状態で、自分のクローンとの遭遇が最悪の事態となれば、いい気はしないだろう。―― 自分が最凶の存在でないことを願うばかりだ。
 できれば「いいやつ」であって欲しいものだ。
 けれど、自分との戦闘に「わくわくする」ような生命体も、シナリオとしては不自然ではない。どの戦略パターンが増殖していくかという展開で、そういう、強い敵に「わくわくする」ようなパターンが繁茂するとは予想し難いが。
 地獄に突き落としたい卑怯者にも、戦闘場面で、それなりの、利はあるだろう。

 進化的に安定な戦略 (ESS) というのは、戦略的クローン集団が安定して存続しているとき、異なる戦略パターンは一切の侵入を許されない状態をいう。
 その戦略クローン集団に対しては、破壊工作としての他のいかなる戦略パターンも通用しないということだ。
 ここで疑問がある。戦略パターンとは方向性であって、状態をいうのではない。
 遺伝情報が変化しないこととは、一致しないのだ。
 すなわち、同じ戦略パターンのもとでは、そもそも遺伝子の変化は前提されているらしい、もとの理論基盤が進化論だからだ。
 遺伝情報の変化を許す戦略に、異なる遺伝情報が侵入可能なセキュリティ上の問題はないのであろうか。
 進化ゲームはここからはじまった。

2017年5月23日火曜日

ナッシュ均衡と囚人のジレンマの年譜

 1949 年 11 月、
『米国アカデミー会報』にジョン・ナッシュの 2 ページの論文が掲載された。
〔シルヴィア・ナサー/著『ビューティフル・マインド』塩川優/訳 新潮社刊 (p.165) 参照〕

 のちに〈ナッシュ均衡〉と呼ばれる画期的な証明が世に出た年は、一般にこの年とはなっていないようだ。
 日本語訳資料として次のものが、『ナッシュは何を見たか』(日本語版/シュプリンガー・フェアラーク東京刊)に収録されている。

Proceedings of the National Academy of Sciences, 36 (1950), 48‑49
n 人ゲームにおける均衡点」

 いずれにせよ、年明け早々には、動きがあった。〈ナッシュ均衡〉を受けて、ランド研究所で新しい形の戦略ゲームが開発された。
 1950 年 1 月、ランド研究所のメルヴィン・ドレッシャーとメリル・フラッドの考案した実験「非協力的な二人」が、アーメン・アルキアンと、ジョン・D・ウィリアムズを被験者として行なわれたのだ。
〔ウィリアム・パウンドストーン/著『囚人のジレンマ』松浦俊輔(他)/訳 青土社刊 (p.139~) 参照〕

 1950 年 5 月、ナッシュの博士論文の指導教授アルバート・タッカーが、スタンフォード大学で、「囚人のジレンマ」についての講演を行なった。
 1950 年、ナッシュの博士論文「非協力ゲーム」が完成した。その年の夏、ナッシュはランド研究所の顧問研究員として着任した。
 1954 年夏、ナッシュはランド研究所を去った。同年ジョン・フォン・ノイマンはランド研究所の顧問を降りて原子力委員会の委員となった。
 1994 年 10 月、ナッシュのノーベル経済学賞受賞が決定した。

 20 世紀のなかばにナッシュが最初の脚光を浴びたころの世界では。
 1943 年にフォン・ノイマンがマンハッタン計画に参加した。
 1945 年 3 月、「 EDVAC 報告書の 1 次稿」のコピーが世界中にバラまかれた。それは、フォン・ノイマン型といわれる「プログラム内蔵方式」のコンピュータの青写真であった。
 弾道計算に、高速計算可能な新型コンピュータの開発が求められていた。
 1950 年の当時にフォン・ノイマンが語ったという、証言の記事がある。1957 年に彼を追悼して、クレイ・ブレイ・ジュニアが『ライフ』誌に寄稿したものだ。
「明日ソ連を爆撃しようと言うのなら、私は今日にしようと言うし、今日の五時だと言うのなら、どうして一時にしないのかと言いたい」

 1949 年 8 月には、ソ連が原爆開発に成功した。
 1950 年 6 月に、北緯 38 度線の侵犯をきっかけにはじまった朝鮮動乱は「朝鮮戦争」といわれた。第二次世界大戦終結時の陣営の構図が明確化されるとともに、アメリカの対日政策は大きな転換点を迎えることになった。
 1952 年、アメリカは水爆実験に成功し、翌年にはソ連も実験を成功させた。
 1953 年 7 月に朝鮮動乱の休戦協定が結ばれて、それは現在も継続しているが、その「戦争」状態が終わったわけではない。
 1950 年代初頭という時代は、いわゆる〈非協力ゲーム〉が導く数学的〈ナッシュ均衡〉を支持する方向で推移しているようでもあった。
 1970 年代になると、ゲーム理論は生物学からの協力を求められた。理論そのものは、他分野に協力的であった。

 そして〈協力ゲーム〉における〈ナッシュ均衡〉を模索する形で、再評価がはじまる。
 結局、〈ナッシュ均衡〉がもたらしたジレンマは、論理上の〝落とし穴〟であるということらしい。
―― 最悪の事態を想定し備えるばかりが、合理的なのだろうか、と。
 それでも、やはり短期的には、裏切り戦略は有効なのだ。かつてヒトラーが実践したように。


John F. Nash ; ナッシュ均衡
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/games/Nash.html

2017年5月20日土曜日

合理的経済人はどこまでリアルか

 〝しっぺ返し〟というのは、当面は友好的な態度を示すけども、「やられたらやり返す」という単純な機械的反応をプログラムされた戦略に用いられる。
 まったくもって、最初の人情的ふるまいは、冷酷な戦略のはじまりにすぎないのだ。
 いわゆる〈ナッシュ均衡〉の実験を現実の人間で繰り返せば、時に戦略が「しっぺ返し」的にもなるらしい。
 いずれにせよ、〝合理的経済人〟のとるべき戦略ではない。裏切られる可能性の高い戦略は戦略ともいえないと、限定された線形理論では、単純・明解に一蹴されようか。
 1950 年以来、そういう一連の実験的状況は、「囚人のジレンマ」と呼ばれるようになった。
 互いに協力し合えば明るい未来が約束されているのに、もし一方的に裏切られたなら、悲惨な地獄が待っている。けれど、こっちも裏切れば、被害は最小に抑えられるのだから……
 ここで〝ジレンマ〟にさいなまれるのは、〝合理的経済人〟ではない現実の理性的人間だ。
 経済人が合理的ならば、理論的には「裏切り戦略」以外を選択することなどありえない。

 では、その最初から〈ゲーム理論〉に登場する〝合理的経済人〟というのは、仮想現実にすぎないのか。
 なれば〈ゲーム理論〉がリアルへとつながるきっかけは〈ナッシュ均衡〉に与えられたこととなる。
 天才に閃いた最強の「裏切り戦略」が現実を覚醒させたともいえる。
 確実に生き延びることを目的とする生命が、ただ計算高ければ、「裏切り戦略」以外を選択することはありえないのだから。
 だけど現実と理論は乖離(かいり)していく。

 ここに、線的〝合理性〟の限界が、理論的あるいは実験的に示されたことともなる。
 そういう合理性だけを追求した生命進化に、繁栄は、決して保証されないのだ。
 だが自然は、もっと非道なサイコパスの存在を許さないわけでもない。
 かれらはふたたび現実を覚醒させる切り札として用意されているのだろうか。

2017年5月18日木曜日

宇宙船地球号の〈零和遊戯〉

 ゲームの前後で、獲得されるべき資源の総量が変わることはない。全体の利得が増えも減りもしないのは、ゼロサムゲームの大前提だ。
 フォン・ノイマンのゲーム理論ではさらに、ゲームのプレイヤーは完全に理性的だと、制限を受ける。
 合理的な経済人であることが、ゲーム参加への必須条件なのだ。
 だからゲーム理論でも「ケーキ分割問題」の正解は、二者間の場合、
〝片方が分けて、もう片方が選ぶ〟ということになる。

 けれど、その役割は、どのように決まったのか。
 分ける方が多少なりとも〝損をする〟と最初から理論づけられた状況で、ケーキを分けるべきはどちらなのか。
 これには偶然が、からまざるを得ないだろう。
 公平なのは、ジャンケンで、まず一戦を交えることだ。
 ふたりとも理性的なのだから、切り分けのジャンケンに負けてナイフを渡されても、いきなり相手を刺し殺したりなどしないし、ケーキをうっかりとけっこうな泥水に落っことすなども、しない。
 ゲームを完結するには、相手が必要なのだし、ゼロサムゲームなのだから、資源の総量にも変化は起こらない。
 ゲームの前提が、そうなっている。
 だから興奮していきなり「いかさまだ!」と叫んで、卓をひっくり返すのは、御法度(ごはっと)だ。
―― てやんでい! と、鼻をこするのはかまわないが。
 参加者は、相互に協力して、ゲームを完遂しなければならないのだ。

 そもそもが。フォン・ノイマンの〈戦略ゲーム〉の特徴は、協調ゲームだった。
 基本が〈ゼロサムゲーム〉という、完全対立の構図になっているので、そこには出し抜こうとする戦略以外は見えてこないような気がする。
 しかしながら、それは出発点となる〈ふたり・ゼロサムゲーム〉の場合であって、人数がそれよりも増えた際には、部分的に二者対立の構図を見ていく必要が出てくる。その戦場には二極化された勢力があると仮想しよう。すると、一時的にせよ、自軍の勢力を維持し増強するには味方と数えられる勢力が多いほど都合はよくなる。つまり協力して〝敵〟と戦っていくゲームへと変貌していくのだ。この展開ではどうやら蜀の劉備を第三勢力とした『三国志演義』の想いは、西欧へは届いていない。
 この群雄の、統合の過程では、協力ゲームになる。
 また〈ゲーム理論〉の大前提が、「経済行動」の解明なので、資源の分配をめぐる戦略としての協調は、必然なのだともされる。

 だが勝利のあかつきには、群雄割拠に向かう分散が始まるだろう。
 突如として、出し抜く限界へ挑戦した〈ゲーム理論〉が姿をあらわす。
 非協力者とのあいだに、「解」としての妥協点は、数学的に存在するのか?
 その答えが、〈ナッシュ均衡〉だという。
 そのときゲームの総得点は〝ゼロ〟である必要はなくなる。
 J. Nash に降臨したのは、宇宙船地球号を舞台とした〈非・零和遊戯〉なのだ。


ゼロサムゲーム:フォン・ノイマンの〈戦略ゲーム〉
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/games/Neumann.html

2017年5月15日月曜日

最大効率の神話

「最大多数の最大幸福」に個別性は一律だと塗り潰される
数学的合理性が最大の効率をもたらすというのだろう
…………
 現実のすべてが計算できるわけではないのに。
 功利主義者たちの末裔は、〝幸福度さえも数値化できる〟と考えることをやめられなかった。
 ポアンカレに提示された「三体問題」に衝撃的な限界が見えていた。
 合理的な手順というのも、おそらくはきっとその当時には、合理的だったのだろう。頭の中から、はみでないかぎりは。
 唯一の「解」というのも頭のいいひとたちの、神話でしかない、かもしれない。

 フォン・ノイマンがそもそも考えた〈ゲーム理論〉は、すべてのゲームが有限な可能性によって考察できるかどうか、といったものだったらしい。
 つまりはゲームの有限性が、大前提となる。
 有限であるから、いくら膨大であろうと計算も完結できる。ようするにゲーム理論は現実のすべてに対応できるとは書かれていない。ひとつの視点の提案なのだ。
 現実の諸問題へのアプローチ可能な側面があることの立証を目指したものであることは、その著書の「序文」に述べられている。

その適用は 2 つの種類に分けられる。1 つは、本来の意味でのゲームへの適用であり、もう 1 つは、経済学的問題や社会学的問題のなかで、ゲームの理論の視角から接近するのが最良であるような問題への適用である。
〔フォン・ノイマン/モルゲンシュテルン『ゲームの理論と経済行動 Ⅰ』「第 1 版への序文」 (p.3)

 理論は現実の断面を切り取って示したものでしかない。
 非常に限定された範囲からはじめて、適用範囲をじわじわと拡大していく手法は有効だろう。
 やがてそれは、もはやゲームという範疇におさまらなくなっているかもしれない。
 ゲームの理論はどこまで現実を描き出せるのか。
 戦略ゲームは、進化戦略に適用された。
 生命のいとなみに、「ルール違反」という言葉は通用しない。


Evolutionary Games : 進化戦略のゲーム理論
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/games/index.html

2017年5月13日土曜日

偶然の支配と〈ゼロサムゲーム〉

この前書いた、〝キリスト教徒にとっての「くじ運」は、〈神のはたらき〉と同等の意味をもつ場合があるということ〟の、具体的な記述例は聖書に直接求めることができます。参考までにその箇所があげられた資料から引用させていただきますと。

 ……、人間的に「偶然」としかいえない出来事のうえにも神の支配はある、というのが聖書の立場で、箴言 16 : 33 では「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」と記されています。決定が主から来ても、くじは人間にとって「偶然」です。したがって、自然現象を人間の視点に立って説明する科学にとって「偶然」というのは正当な概念であり、神の支配と矛盾することはありません。
 さらに、人間は「偶然」の出来事を左右できないので、聖書は「偶然」に積極的な意味を与えています。くじのような偶然による決定は、主による決定で、公平なものである、というのが聖書の立場です。これを箴言 18 : 18 は「くじは争いをやめさせ、強い者の間を解決する」と表現しています。じじつ、聖書のなかに、イスラエルの民や使徒がくじをもちいる例がいくつかあります。イスラエルの民が約束の地カナンにはいったとき、モーセの命(民数 34 : 13 )に従って、ヨシュアがくじを使い土地を分けました。「ヨシュアはシロで主の前に、彼らのため、くじを引いた。こうしてヨシュアは、その地をイスラエル人に、その割り当て地によって分割した」(ヨシュア 18 : 10 )と記されています。…… また、新約聖書の使徒は、イスカリオテのユダの後継者を、くじを使って選びました。「そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた」(使徒 1 : 26 )と記されています。
 聖書に叙述されている、さまざまな歴史的な出来事を読むと、人間の目からすれば「偶然」としかよべない状況によって、実に多くの出来事が展開されます。…… これらは、人間の視点からすれば、すべて「たまたま」あるいは「偶然」とよばれる状況を指します。しかし、聖書は、これらの「偶然」とよばれる状況を、神が支配している、と主張します。
〔大谷順彦『進化をめぐる科学と信仰』 (pp.109-110)

―― ここで認めるべきは。繰り返しになるのですけれども、この偶然の支配を〈神のはたらき〉とみるかどうかが、各自の信念と切り離せない関係性をもつということなわけです。

 それぞれの文化に応じた、枠組みがあります。ひとが知らずにその環境に縛られる状態は構造主義ともいわれます。
 日本では、不信心や〈無神論〉を大言壮語しても、かといって〈神〉やそれに類するものを頑固に否定することはそれほど多くありませんが、西欧での〈無神論〉への賛同は、〈神〉の存在を積極的に否定する立場となります。
 日本人は、そのあたりをあいまいにしておける、希少な思想の持ち主といえるかもしれません。思想的には不可知論とか、いうようですが、そういう意識すらも、日本人には無関係なようです。

 ところでフォン・ノイマンが開発した〈ゼロサムゲーム〉の理論では、問題となるそういう偶然は考慮されず、すべてが理性的・合理的に決定されると、前提されます。
 モルゲンシュテルンとの共著『ゲームの理論と経済行動 Ⅰ』(ちくま学芸文庫)の 51 ページにある脚注を参照すれば、天候などの予測しがたい事態は〝統計的〟な確率計算の手続きによって、《数学的期待値》の概念を導入することで除去可能であるとされています。
 その〈ゲーム〉はすべて想定内であるルールが基準となります。
 そうしてルール違反も、想定内と計算されます。そこに、想定外の事態は、想定外であるがゆえに、想定内とはならずしたがって記述されません。
 けれども、現実のすべてにルールがあるわけではありません。
 ルールのないところには、ルール違反もないわけです。ゲームのルールにもとづく戦略とルール違反への対応だけでは、現実の記述は不可能です。
 するとどうなるかというと。その〈ゲーム〉の理論は想定外の事態にまったく無力であることを露呈する、と予測されるわけです。
 ですから、おそらくその段階では、現実的でないと判断されたのでしょう。そして、ブレイクスルーがありました。

Nash は、シンプルではあるがゲーム理論において重要な(今日では「 Nash 均衡」と呼ばれる)概念を発見した。Nash 均衡は進化的に安定な戦略 (ESS) という概念と非常に似ている。2 つの概念は進化ダイナミクスで重要である。Nash の博士論文は Proceedings of the National Academy of Sciences USA (1950) に載った 1 ページの学術論文であったが、Nash に 1994 年のノーベル経済学賞をもたらした。
〔 Martin A. Nowak 『進化のダイナミクス』 (p.39)

 モルゲンシュテルンは経済学者であり、数学者フォン・ノイマンは、ゲーム理論を経済学に応用することを想定していました。
 〈ゼロサムゲーム〉は漢字で〈零和遊戯〉と書けましょうか。
 その後、当初からの想定内であったかどうか、生物学に援用された〈ゲーム理論〉は、〈進化ゲーム理論〉と呼ばれ、生命のダイナミックな〈遊戯(いとなみ)〉を記述していくことになります。
 生命の戦略でも、相手が次の一手をどう考えているかが、最大のジレンマとなるわけです。
 新しい生命の力学が生存戦略として進化論に新しい展開をもたらしました。
 その力学に「ルールブック」は、極限の状況で役に立たなくなり、パラダイムシフトが余儀なくされていきます。


偶然の支配と進化 及び ジレンマ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/dilemma.html