2017年1月28日土曜日

〝フロギストン〟と〝カロリック〟と「熱量保存則」

フロギストン〟は〈燃素〉と
カロリック〟は〈熱素〉と、
日本語では、そう区別できるようです。

ラボアジエは、「物質の燃焼」を
――つまりモノが燃えるということは――
それまで流布していた〝フロギストン〟の放出ではなく、
モノと〈酸素〉との化学的な結合によるものである、
と、化学実験により、証明しました。
それは化学の曙、「質量保存則」の誕生でした。

〝カロリック (calorique = caloric) 〟というのは、
そのラボアジエが提唱した、新しい〝元素〟の一種です。

 1789 年の著書 『化学原論』 では、〈光〉や〈熱素 (calorique) 〉などが、元素とされています。
 つまり、ラボアジエは、〈熱〉を〈エネルギー〉ではなく〈物質〉だと、考えていたようです。
 すると、どうやら、〝フロギストン〟じゃなくて〝カロリック〟が、放出されるもようとなります。

 それ以前のこと。ラボアジエは 1783 年に、あのラプラスと共同研究を発表しています。
 〈ラプラスの魔〉で有名な、ラプラスです。
 それゆえに、ラプラスが科学に「不要」としたのは『聖書』の《神》です、が……
 神のごとき皇帝であるナポレオンに面とむかって、
すでに神という仮説は不要となった」と、いってのけた伝説をもつ、あのラプラスです。

 山本義隆氏の 『熱学思想の史的展開』 によれば、ラプラスの、熱量に対しての態度は、次のようであったとされています。

 ラプラス自身の熱にたいする見解について、これまでの多くの歴史書ではラプラスを単純に熱運動論者と捉えている。しかしフォックスは、すくなくとも 1803 年以降はラプラスが熱物質論に転向したとしている。実際ラプラスは、19 世紀に入ってからは熱素説の強力な学派を形成し領導するようになった。
〔ちくま学芸文庫『熱学思想の史的展開 2』 (p.24)

 ですから、ラボアジエとラプラスの共同研究では、熱が物質かそれともエネルギー(物質の運動)かという問題は深く問われず、どちらであっても通用する〈原理〉を採用することになりました。
 それが、「熱量保存則」です。
 ラボアジエは、実は「質量保存則」と「熱量保存則」のふたつを残して、世紀末に散ったのでした。
 その後の半世紀にわたって、〈熱〉が〈エネルギー〉じゃなく〈物質〉だという考えは、権威筋の信じるところとなります。

2017年1月26日木曜日

イギリス産業革命と『国富論』

the United Kingdom  ( of Great Britain and Northern Ireland )

1603 年、スコットランド国王ジェームズ 6 世が、イングランド国王ジェームズ 1 世として、その統治を開始しました。
 「グレート・ブリテン」というのは、その時代の「同君連合」と基本的には、同じ領域を指すように思われます。ジェームズ 1 世は、また、現在のイギリス国旗「ユニオンジャック」の原案を作った国王であることでも、知られています。
 その後、イングランドとスコットランドは清教徒革命と王政復古を経て、科学革命の時代へと移行していきます。
 1660 年の王政復古と同じ年が、ロンドン王立協会 (Royal Society of London) 設立の年とされています。
 1707 年には、イングランドとスコットランドは「合邦」して、ひとつの国となります。
 その世紀に、イギリス産業革命が興ります。
 蒸気機関で有名なジェームズ・ワット (〝ウォット〟のほうがもとの発音に近いといわれます) の生没年は、1736 ~ 1819 年で、その友人といわれる『国富論』の著者アダム・スミスは、1723 ~ 1790 年です。
 両者ともに、スコットランドの生まれで、当時は、イングランドよりもスコットランドのほうが学問的なレベルは、高かったともいわれています。
 ちなみに、百科事典『ブリタニカ』は、その当時に、スコットランドのエディンバラで初版が刊行されています。以前に調べた資料から、引用させていただきますれば――。

『ブリタニカ』 のアザミ
 エディンバラで、1768 年から 71 年にかけて刊行された百科事典『ブリタニカ』(初版は全 3 巻)は、スコットランドにおける学問研究のひとつの成果として、フランスの百科全書にも並ぶものであった。20 世紀には版権がアメリカ合衆国ヘ移るが、「スコットランド生まれ」を記念するアザミのデザインは、その後も長く表紙を飾り続けた。
図説『イギリスの歴史』増補新版 (p.134)

 そして、ワットのもうひとりの友人であった、ジョゼフ・ブラック( 1728 ~ 1799 年)は、熱理論の基礎を作りました。
 ところで、近代化学の父とは、フランス革命で処刑されたラボアジエをいいますが、化学革命はそのラボアジエによって始められたものをさすようです。――その最初期 1750 年代のなかばに、ブラックは二酸化炭素=炭酸ガスを発見しています。
 ブラックは、アイルランド人で、エディンバラ大学に学び、医学の学位論文のための実験で発見した気体(炭酸ガス)を固定空気と名づけました。

 アダム・スミスの遺稿を出版したグループのひとりは、ブラックなのですが、そのスミスの『国富論』は、1776 年の刊行で、それはアメリカが、独立宣言を行なった年です。
 「潜熱」という概念は、ブラックによりますが、ワットも、蒸気機関の研究のなかで独自にそれを発見していました。
 ブラックとワットという、化学と技術のふたりの巨頭と友人関係だったにしては、イギリス産業革命の機械化の波はさほど、スミスの『国富論』には反映されていないようです。
 ワットの蒸気機関が、回転型エンジンとして出現したのは、1782 年とされています。
 それは、中ぐり盤によるシリンダーの精密加工でワットの蒸気機関の精度にも貢献した、ウィルキンソンの工場に納入されたのでした。
 1783 年に蒸気船、1800 年代になって蒸気機関車が、登場することになります。
 最初に、高圧蒸気機関を搭載した自動車が走ったのは、1801 年のことでした。


駆動力としての ワットの蒸気エンジン
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2017年1月23日月曜日

マクデブルクの半球実験

 マクデブルクの市長であったゲーリケが自分の発明した真空ポンプによって空気の圧力の効果を示すために行った実験の一つ。………… これについて一六五四年にレーゲンスブルクで皇帝や諸侯を前に行われたといわれることが多いが、誤りである。五七年にマクデブルクで初めて行われ、のち六三年にベルリンの王宮でも再現された。七二年に出版された著書『真空に関するマクデブルクの新実験』のなかに本人の報告がある。それによれば、八頭ずつ二組のウマで反対方向に引いたが、引き離すことが困難であり、ようやく離れたときには銃声のような大きな音がした。
〔高田紀代志「マクデブルクの半球実験」『日本大百科全書』 21 (p.837)

 この衝撃的な実験に関する伝承は、さまざまにあって、そのとき選んだ資料によっては、歴史的な事実も異なってくるかも知れません。
 ふたつの実験が具体的に詳しく記載されている文献には、次のように書かれていました。
 途中を省略せずに、引用させていただきます、と。

「マグデブルグの半球」とは、空気の圧力がいかに巨大なものであるかをアピールするために工夫された半球のことで、ドイツのガリレイと呼ばれたオットー・フォン・ゲーリケが行った公開実験で使われたものである。一六五四年、当時マグデブルグ市の市長も務めていたゲーリケは、神聖ローマ帝国の皇帝フェルディナンド三世を招いて、次のようなパフォーマンスを行った。
 まず、直径一メートルくらいの大きな注射器の格好をして、ぴったりと接しあうシリンダーとピストンを用意した。ピストンにはロープをつないで人が引っ張れるようにしておき、一人でも簡単にシリンダーからピストンが抜き出せることを見せておく。そしておもむろに、ゲーリケ本人が発明した空気ポンプで、シリンダーに取り付けた栓から空気を抜いていった。すると、ピストンがシリンダー内部に引き込まれていくではないか。そこで、見物していた人々に、ピストンを引っ張って固定するように頼んだのだが、どんどん空気を抜いていくと、五〇人が一生懸命にロープを引っ張ってもシリンダーの中に押し込まれていった。この実験で、まず、空気の圧力の巨大さを人々に実感させたのだ。
 次に、もっとびっくりするような実験に取り掛かった。縁に油を塗ってぴったり接合するようにした鋼製で中空の半球を二個取り出した。その大きさは直径三七センチくらいである。密着させた後、一方の半球に付けた栓から空気ポンプで中の空気を抜いていった。そして、この二個の半球の各々に付けた環にロープを結わえ、左右八頭ずつの馬に引っ張らせた。ところが、一六頭の馬が全力で引っ張り合ったにも拘わらず、二個の半球を引き離すことができなかったのだ。そこで、馬の数を増やしていっそう大きな力を掛けると、ようやく引き離すことができたが、そのとき大砲を撃ったときのようなものすごい音がした。後者の実験が、ゲーリケ自身の記述によるマグデブルグの半球物語なのである。
 〔池内了『天文学者の虫眼鏡』 (pp.17-18)

 つまり、ゲーリケ本人が書いた著作物に、「マクデブルクの半球実験」のことは、報告されているようです。その実験の年が、一般的多数派としては、1654 年ということになっているけれども、云々……というのが、冒頭の資料の内容となります。
 結局ここで確実だろうと推測できるのは、ゲーリケ本人が「マクデブルクの半球実験」についての記録を残している、ということです。
 1654 年には、似たようなそのほかの実験が行なわれたかも知れません。
 1654 年に、何が行なわれなかったかについての、記載は、冒頭の文中に見えるだけです。おそらくは、その主張が正解なのでしょうが。
 それ以上は現在のところ、当面の資料では、未確認ということになりまして……。
 先にも触れたように、さまざまな伝承があり、文献によっては、〈マクデブルクの半球〉のことは語られず、〈シリンダーの実験〉のことだけが記述されているものもありますよってに。

 重要なことは、ゲーリケのパフォーマンスが、国内外の多くのひとびとの興味を引いた、というあたりでしょうか。
 この衝撃から約半世紀のちには、イギリスで産業革命のための新しい動力が、開発されることになります。
 シリンダー内の蒸気を冷やすことで、真空をつくってピストンを動かすという、それまで知られていなかった莫大な大気圧の力を利用する方法が、ついに実用化されたのです。


ニューコメン機関(大気圧機関):産業革命と技術革新
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2017年1月20日金曜日

シャルルは生き延びラボアジエは処刑された

 「質量保存の法則」を導き出したラボアジエが、燃焼の理論を確立したのは 1775 年のことだという。
 1789 年にフランス革命が起こり、1794 年、ラボアジエはギロチンにかけられ死んだ。
 処刑の理由は、彼は革命以前ずっと〝徴税請負人〟として生計を立てていたからだ。
 その死を、ラグランジュは、こう語った。
彼の頭はほんの一瞬で切り落とされたが、あれほどの頭脳を新たに生み出すには 100 年あってもたりないだろうと。
 ラグランジュというのは、ラプラスのことで次のような逸話を残した人物だ。

ラプラースは、その著書をナポレオンに献呈した。ナポレオンは、彼をなぶりものにしようとしたのか、明らかな見落としを指摘した。「あなたは宇宙体系について、このように巨大な本を書かれたが、宇宙の創造者については一言もふれておられない」。ラプラースはいい返した。「閣下、私にはそのような仮説は必要ございませんでした」。ナポレオンがこれと同じことをラグランジュにくり返したとき、ラグランジュは答えた。「はい、でもそれは立派な仮説でございます。そしてとてもたくさんのことが説明されております」。
E・T・ベル/著『数学をつくった人びと Ⅰ』 (p.352)

 そのフランスでは、革命の起きる前に、水素気球の公開実験が行われていた。

1766 年にイギリス人キャベンディッシュによって発表された「可燃性空気」は、
1783 年、ラボアジエに、「水素」と命名されている。

 1783 年というのは、1776 7 4 日に〝独立宣言〟をしたアメリカが、イギリスと「パリ条約」を締結した年だ。
 イギリスがアメリカの独立を承認したその条約は、パリで結ばれたから、「パリ条約」という。

 1783 8 月、シャルルの水素気球の実験が大騒ぎの中で行なわれた。
 その見物人の中には、アメリカの独立宣言の起草者のひとりにして当時駐仏大使だった、ベンジャミン・フランクリンがいた。タコでカミナリを捕えたあのフランクリンである。

 その後のフランス革命で、1792 8 月、民衆がチュイルリー王宮を襲撃して王を投獄した。
 まさにその時、シャルルはその王宮内に泊まっていた。
 彼を発見した暴徒に殺されそうになり、シャルルは訴えた。
 ――あの輝かしい気球実験のことを。
 大衆の顔に戻った暴徒は、シャルルを殺すのをやめた。

 シャルルは、「シャルルの法則」の発見者とされるが、論文では、そのことを発表していない。その法則とは「一定圧力のもとでは、気体の体積は絶対温度に比例する」という内容だ。
 その理屈でいくと、絶対零度で、気体の体積はゼロになる。つまり、もともとは絶対零度がここから導き出された。
 その法則は、「ボイルの法則」と合わせて、「ボイル・シャルルの法則」といわれる。
 実は「ボイル・シャルルの法則」は現実の気体ではなしに、実在しない〝理想気体〟とだけ一致することがすでに確認されている。

 「シャルルの法則」を世に出したのは、ゲイ・リュサックなので、シャルルの法則は、ときに「ゲイ・リュサックの法則」ともよばれる。
 リュサックはまた「気体反応の法則」を発表した。それは〈アボガドロ数〉にまでつながっている。
 〈アボガドロ数〉とは、モル単位で数える原子や分子の数のことだ。
 正しい者が、すべてにおいて正しいわけではないし、間違った者でも、あとで正しくなることさえあるだろう。――「アボガドロの法則」は、約半世紀もの間、正統派に顧みられることのない、ただの仮説だったという。


質量保存の法則 及び シャルルの法則
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2017年1月18日水曜日

空気玉の弾く力を研究した二人のロバート

 それは熱力学の、黎明でもありました。
 当時の英国王立協会の会合は、ロバート・ボイルの自宅兼実験室で行なわれたようです。
 その場所で、ロバート・フックは、ロバート・ボイルの助手として、実験を繰り返していました。
 ちなみに、それぞれ、
ロバート・ボイル( Robert Boyle 1627 年 ~ 1691 年)
ロバート・フック( Robert Hooke 1635 年 ~ 1703 年)
でありますので、
「ボイルの法則」は「ゆでる (boil) 卵の法則」ではなく、
「フックの法則」は「かぎ針 (hook) の法則」でもなく、
いずれも、人名に由来しています。

 どちらの法則も、圧縮や弾性の力学に関わっています。
 前回にも書いたように、空気の体積と圧力とが反比例するというのが「ボイルの法則」です。
 さても。圧力釜が、自然と連想させられる名称では、ありませんか。
 そしてその成果を出すために精巧な〝真空ポンプ〟などの実験装置を作成し、助手として実験をしたのが、フックです。
 こちらは、「のびは力に比例する」というのが、「フックの法則」です。
 まったくもって、バネ秤(ばねばかり)にぶら下がっている〝フック〟を連想させるしあがりとなっています。

 フックはまた、顕微鏡を使った研究でも「細胞」という名を世に残しています。
 つまりそれまでは誰も、細胞など見たことも聞いたこともなかったわけです。
 そのあたりの研究では、顕微鏡を使って最初に微生物を観察したのは、アントニー・ファン・レーウェンフックとされています。
 ところで、以前に調べた資料を参照すれば、自然哲学者スピノザは腕のいいレンズ職人としての評判を得ていたことがうかがえます。

レーウェンフック(一六三二-一七二三)がデルフトで一六七〇年頃からかなり高倍率の顕微鏡を自作したことが、次の大きなエポックになる。レーウェンフックは、一六七三年にロンドンのロイヤル・ソサエティにその成果を書簡のかたちで伝えている。その報告が認められ、彼は一六八〇年にはロイヤル・ソサエティのメンバーになっている。このことは、ホイヘンスがフランスのアカデミーのメンバーになったこととともに、オランダ科学史のハイライトでもある。
〔塚原東吾「 17~18 世紀オランダ科学における望遠鏡・顕微鏡・科学機器」 2.一七世紀、望遠鏡から顕微鏡へ〕

 しかし、このころはまだ器具製作を専門とする業者がいたわけではない。つまり、科学器具の製作自体を専門とする業者(プロフェッション)はまだ成り立っていなかった。レンズ(顕微鏡)を売って生計を立てていたのは、ハーグ近郊フォールブルグに住んでいた哲学者スピノザと、ライデンのミュッセンブルグ一家の工房くらいであり、きわめて少数であったと考えてもよいだろう。
〔塚原東吾(同上)/『科学機器の歴史:望遠鏡と顕微鏡』所収 (p.117)

 ガリレオの望遠鏡にしろ、フックの顕微鏡にせよ、研究のためには精緻なレンズが求められます。
 スピノザは、意外なところで、近代的精神への貢献をしていたわけです。
 時代は、蒸気機関の発明を待たずして、優秀な技術者の存在なくしては成立しなくなりはじめていました。


ボイルの法則 及び フックの法則
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2017年1月16日月曜日

「パスカルの原理」は流体版「梃子の原理」

パスカルの原理と流体力学の開闢(かいびゃく)


さて、時は 17 世紀にさかのぼり、1600 年代のヨーロッパといえば、
ガリレオやデカルト、ニュートンが活躍した時代であります。
そこにはもうひとりの天才パスカルがいました。

実験装置を使って最初に「真空」を作りだしたのは、
ガリレオの弟子のトリチェリで、彼が水銀柱の上部にあらわした真空は、
「トリチェリの真空」と呼ばれたものです。

ガリレオといえば、近代科学の象徴ともいえましょうが、
彼はアリストテレスの
「自然は真空を嫌う」という教えを、継承していました。
だからなのでしょう、自然が真空を嫌う度合いに応じ、
水銀柱は 76 ㎝ まで、吸い上げられるのです。

迷信にまみれていた、その真空を理論化したのが、パスカルで、
水銀柱の高さに応じて計算される水銀の重さと、大気の重さとが、
(面積ごとの量として)釣合っているという、
当時としてはとんでもない考え方を発表したのです。

 そのパスカルの名が冠された原理が、「パスカルの原理」なわけです。
 これは、油圧ブレーキの仕組みになくてはならない原理でして、
 これがなければ、自動車も容易には止まれなくなるというものです。

 力学的な梃子(てこ)の原理は、〝支点と力点との距離〟と〝支点と作用点との距離〟の比に応じて、働きます。
 簡単にいって、棒の長さが長ければ長いほど、棒の端っこを大きく動かさなければならないのですが、その分だけ、楽に動かすことができます。
 油圧ブレーキの場合は、ブレーキを大きく踏み込む仕組みになっていればいるほど、その分だけ、楽に押すことができます。
 小さい面積を大きく踏んで、大きな面積の装置をじわじわと、作動させる仕組みになっています。

――説明しよう。「パスカルの原理」とは。
 密閉された流体の中では、その圧力は単位面積あたり、どこでも同じである。したがって、
 ブレーキを踏み込む〝力点の断面積〟と、ブレーキが実際に作動する〝作用点の断面積〟との比が、梃子の棒でいうところの距離の比となって、「パスカルの原理」が働く仕組みなのだ。
 つまりは面積がでかいと、その分、そこに働く力は大きくなる。
 これが、油圧式ではなく冗談で中に空気が入っていたりすると、途中で極端に体積が圧縮されてしまい、効くものも効かなくなる。つまり伝えたい力が伝わらなくなっちまう。
 いくら押してもあっちは動かない。力は空気にばかり、作用する破目になる。
 だから〈油圧ブレーキ〉に、〝気泡〟は厳禁なのだ。

さて。1654 年に、その理論は発表されたといいます。
そういうわけで、パスカルは、流体力学の創始者でもありました。
一方で、同時代を生きた、パスカルと同じフランス人のデカルトは、
真空の存在を信じちゃなかった派だといいます。
パスカルより少し年長なデカルトは、解析幾何学の創始者です。

大陸と海を隔てたイギリスでは、その直後に、ニュートンの力学が出現しました。

 1660 年、王政復古を果たしたイギリスで、王立協会につどう自然哲学者たちの集団が勢いを増していました。
 1661 年、その中心人物、ロバート・ボイルが会合で、気体の圧力に関する研究を報告しています。
 空気の体積と圧力とが反比例するという「ボイルの法則」です。
 それは熱力学の、黎明でもありました。


トリチェリの真空 ⇒ パスカルの原理
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2017年1月14日土曜日

熱力学のゼロ・サム・ゲーム

 熱力学の第一法則というのが、「エネルギー保存の法則」というわけです。
――エネルギー収支のバランスシートは全体では釣合っているということになります。

つまり、どこかで、エネルギー量(熱量)が高まれば、
やはり、どこかで、エネルギー量(熱量)が奪われている、
ということに、ほかなりません。

 このエネルギー量をポイントであらわせば、そのままゼロ・サム・ゲームの基本ルールとなります。
 プレイヤーの得点総合計は、いつだって、プラス・マイナス・ゼロなのですから。
 ゲームの舞台である宇宙船地球号では、常に太陽エネルギーを獲得しているので、エネルギー量総計は、加算されていかなければならないとも、想定されます。ところが、放射熱などで同時に宇宙空間に発散しているので、熱量(エネルギー量)の帳尻はそこそこに合っているようです。

 ほぼ話題にのぼらない熱力学の第零法則は、「熱平衡の法則」であります。
 ここで〝熱平衡〟というのは、

水が高きから低きへと流れるように、
熱もまた、高きから低きへと流れる、
つまり、エネルギー量は、全体で均一になろうとする傾向があるため、
放っておくと、その場の温度は、周囲の温度と同じになっていき、
そうして均一温度になった、その状態が熱平衡です。
熱量の移動や変化を喪失した時代となります。

 ところで、熱力学の第二法則は「エントロピー増大の法則」であります。

エントロピーが増大するというのは、たとえば、
エネルギーや資源の消費に伴いどんどん〝排熱〟が増え、
ついにはそれらが再利用不可能な〝廃熱〟になってしまう現象を、さしていいます。
これが〈不可逆的現象〉なものですから、エントロピーは増大する一方で、
宇宙が膨張して大きくなっていかないと、宇宙は〈熱死〉するともいわれてます。

 そういうわけで、熱力学の第二法則は、「涅槃原則」ともいわれます。

不可逆的なエントロピーの増大、
それが〈時の矢〉の正体であるといわれてから、また、幾許かの時が経ちました。

 最後に、熱力学の第三法則は「絶対零度に到達することは不可能である」となります。


熱力学の法則・原理
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