2017年7月15日土曜日

粘土の結晶進化から DNA 不要の複製子へと

 前々回の引用文の最後に、粘土から RNA という物語がありました。

二〇世紀の末に、ジム・フェリスらは、モンモリロナイトのもう一つ有益な性質を明らかにした。彼らはそれが自然発生的に小さな RNA 構成要素を寄せ集めて、五〇ヌクレオチド以上の長さの RNA 鎖につなげることができるのを発見したのである。
〔アンドレアス・ワグナー『進化の謎を数学で解く』 (p.77)

 原著は、2014 年に刊行され、日本語版は、2015 年 3 月に文藝春秋から出版(垂水雄二 訳)の運びとなった邦訳書です。
 この引用文中に出てくるモンモリロナイトという粘土の名は、1986 年のリチャード・ドーキンス 著 “THE BLIND WATCHMAKER” にすでに見ることができます。その最初の日本語版は『ブラインド・ウォッチメイカー』( 1993年 早川書房)として、上下二分冊で刊行されたようです。

たとえば、モンモリロナイトというかわいい名前の粘土鉱物は、カルボキシメチル・セルロースというあまりかわいくない名前の有機分子が少量存在すると壊れてしまう性質をもっている。ところが、カルボキシメチル・セルロースの量がもっと少なければ、まったく逆の影響を及ぼして、モンモリロナイト粒子どうしが結びつくことを助ける。別の有機分子のタンニンは、泥に穴を掘りやすくするために石油工業で使われている。採油業者が有機分子を使って泥の流れや掘りやすさを操作できるのなら、累積淘汰が自己複製している鉱物に同様のものを利用させるようにみちびいてならない理由はどこにもない。
〔リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人』日高敏隆 邦訳監修、2004年 早川書房 (p.257)

 モンモリロナイトについては、他の邦訳書でも最近のもののなかに、記述を見ることができましたが、日本人による一般向けの著書では未確認です。
 ところで興味深いのは、このあとにつづく、SF 的な展開です。

 私は『利己的な遺伝子』で、人間は現在まさに新たな種類の遺伝的な乗っ取りの入り口に立っているのかもしれないと推理した。DNA という複製子は自分たちのために「生存機械」、つまりヒトも含めた生物の体を組み立てた。体は、その装備の一部として搭載型コンピューター、つまり脳を進化させた。脳は、言語や文化的な伝承という手段で他の脳と交信する能力を進化させた。だが、文化的な伝承という新たな環境は、自己複製する実体に新たな可能性を開いた。新しい複製子は DNA でもなければ、粘土の結晶でもない。それは、脳あるいは、本やコンピューターなどのように脳によって人工的につくり出された製品のなかでだけ繁栄できる情報のパターンである。
…………
ミーム進化は、文化的進化と呼ばれる現象に現われている。文化的進化は DNA にもとづく進化より桁違いに速く進むので、「乗っ取り」ではないかと思わせるほどである。新しい種類の複製子の乗っ取りがはじまっているのなら、その親である DNA を(ケアンズ=スミスが正しければ、その祖父母の粘土も)はるか後方に置き去りにするところまで進んで行くだろうと考えられる。そうなるとすれば、コンピューターが先頭に立つのは確実だと言えるかもしれない。
〔同上 (pp.258-259)

 聖書物語は、暗喩(メタファー)として続いているようです。
 生命というものの第一義が「増殖する(ふえる)」ことにあるとするなら、その行為主体(エージェント)は必ずしも有機化合物でなくとも、さしつかえないでしょう。
 ならば、「いままではこれでいけた」という理由だけで、DNA にこだわらなくとも、有機的生命体よりもずっと耐性の高い機械の〈ミーム・マシーン〉であって、いっこうにかまわないわけです。
 人工知能の開発は、まあ、順調なようですし。
 進化ゲームの行方(ゆくえ)は、予想もつきません。


新しい表現型: 加速する進化 Ⅲ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/games/phenotype.html

2017年7月13日木曜日

脳という 表現型のインターフェース

 インターフェース (interface) というのは、システム同士を接続するための接点、あるいは接点となるプログラムや機器をさします。
 脳と外部機器をつないで操作する技術は、
「ブレイン・マシン・インターフェース (BMI) 」として知られています。
 脳波などは人体の電気信号ですが、その逆の発想といいましょうか、筋肉に電気信号を刺激として与えることで失われた筋肉動作の神経回路を復活させる技術も開発されています。
 有名なところでは、停止した心臓に与える電気ショックがあります。
 脳は表現型を外部に延長するためのインターフェースである、というのは、脳の指向性を表現型と捉えたときに可能と思われます。
 芸術表現も他者に対してスイッチを入れる作用があります。
 そういう意味では、自己表現というのは、脳による新しい表現型ともいえましょう。

 脳という巨大な神経節も遺伝子によってプログラムされたものですが、それは新しい情報システムだという考え方があります。
 つまり DNA が開発されて以来の、もっと進化した情報伝達システムだということのようです。
 さらに、コンピュータのシステムは、その脳が発明した、独自に進化する情報伝達システムのネットワークとして、急速に構築されつつあります。
 人間は言葉を発達させ、画期的な新しい情報伝達手段を得ることで、後天的な学習の、遺産と学ぶすべをも身につけることができました。
 文字の印刷技術は、それを加速させました。飛躍的な、新しい情報のコピー手段を得たのです。
 ところがコンピュータのネットワークによる、情報コピーの速さは、それまでとは比較になりません。
 インターネットへの接続が常態となった時代の、情報の拡散スピードは、過去には想定し難いものだったでしょう。
 そういう情報の内容は突然変異的に改変されて同時に広まっていきます。
 その特性から、リチャード・ドーキンスは、新しい文化的な自己複製子「ミーム (meme) 」を提唱しました。
 遺伝子は英語で「ジーン (gene) 」というのでそれに似せて造語されたものです。
 そのような話題が展開された単行本、処女作初版のエンディングはこう締めくくられます。

われわれは遺伝子機械として組立てられ、ミーム機械として教化されてきた。しかしわれわれには、これらの創造者にはむかう力がある。この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである。
〔リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』増補版 (p.321)

 ひとは〈神〉の概念を持つがゆえに〈神〉に敵対するという選択肢を得ることができた。
 ここでは、遺伝子が創造者と語られ、意識をもつことが可能となった人間だけが、
利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できると、明言されています。
 それでも、世の決定論者たちによる、ドーキンス自身が遺伝子決定論者なのだという、批判的な主張があるようです。

 意識とは、自己認識機能といえます。人間の脳が創発した、メタ認知の能力なのです。
 遺伝子は「自己複製」の過程で自己言及しますが、メタ認知というのは意識がそのまま自己言及することです。
 DNA にプログラムされた神経系によって創発されたものは、複製に拠らない「自己言及」の能力だったといえましょうか。

2017年7月10日月曜日

代謝機能と「粘土」から 生命の鎖

 生命進化の以前に化学進化があったといわれます。
 有機的進化のシステムが、新しいステージへと向かうにあたって、化学進化による発明品の「どちらが先にあったのか」ということは重要な問題であると各文献にあります。
 何が問題だったのか、専門家による一般向けの記述から引用してみますと。

DNA が複製されるためにはタンパク質が必要である。では、現在の生物においてタンパク質がどうやってつくられているかといえば、DNA の遺伝情報によってつくられているのである。つまるところ、これは、「鶏が先か、卵が先か」というような話になる。「 DNA が先か、タンパク質が先か」と考えると、答えは出なくなってしまうのだ。
〔池田清彦『38億年 生物進化の旅』 (p.16)

―― これはようするに。
 デオキシリボ核酸 (DNA) から遺伝情報を読み出すための酵素がタンパク質でできているため、ということらしい。
 周辺にある文脈をまとめると、そういうことのようです。DNA が遺伝子として機能するためには別に酵素が必要らしいのです。
 だから、タンパク質がなければ、そこに DNA があったとしても、きっと何も起こらないのでしょう。
 その点、リボ核酸 (RNA) であれば、自己触媒という作用によって複製をつくることができるらしいのです。
 そういうことが、各文献に共通して、記載されています。

 さて、「 DNA が先か、タンパク質が先か」という問題に別の角度から切り込んだ仮説が一九八六年にハーバード大学のウォルター・ギルバートによって唱えられている。それは、生物は RNA から始まったとする「 RNA ワールド仮説」である。彼がなぜそう考えたかといえば、RNA は DNA と同様に遺伝情報をもつことができるのみならず、RNA 自体が酵素になり(自分を触媒にして)自分を倍加することができるからだ。DNA はそれができない。RNA さえあれば、RNA から RNA が複製されることが可能であり、その過程で RNA の基本ユニットが DNA の基本ユニットに変換されて、より安定的な DNA による遺伝情報保持へと変わっていったのではないかとギルバートは考えたのだ。この仮説は現在でも多くの研究者によって支持されている。
〔『38億年 生物進化の旅』 (p.18)

 ちなみに、池田清彦氏によれば、
遺伝子はタンパク質を作る情報を有している DNA のこと」(同上、208ページ)とあり、
遺伝子の情報とは、おそらく「タンパク質を作る」ことに限定されているようです。
 ですから、タイムスケジュールや環境の変化によってそれぞれの遺伝子にスイッチを入れる役目は、遺伝子には与えられていません。遺伝子にスイッチを入れるのは、細胞の機能となるようです。
 さて次に RNA 以前の化学進化について各文献の記載を見ますと。
 前回にも引用した『進化する階層』には、次のような記述があります。

 これまでわれわれは暗黙のうちに、最初の遺伝物質は RNA だと仮定してきた。選択の実験のおかげで、われわれは化学と生物学の世界をつなぐ化学を発見したと考えるようになっている。これが複製重視の見方であることは認めるとしても、化学進化が複製する RNA を生みだすことができたのかということは、やはり問題にしなければならない。
…………
 このような問題からケアンズ-スミスは、原初遺伝子は RNA でなく粘土からなっていただろうと考えた (Cairns‐Smith, 1971) 。聖書物語のようなこの着想は、まったく不合理だというわけではない。粘土の結晶は、必要なイオンの飽和溶液から容易にできてくる。結晶は核の周囲で育っていき、育ちきるといくつかの小片となって剥げおちる。小片はさらに育つことができる。しかし、このような系は進化をとげるだろうか。
〔『進化する階層』 (pp.98-99)

 このことについて、新しい知見によれば、粘土から RNA の鎖ができたらしいことが報告されている、と、読める別文献の記述があります。
 吃驚仰天。おそるべし、聖書物語、というわけなのです。

 クエン酸回路の自己触媒反応は RNA レプリカーゼのとらえどころのない自己触媒反応とは異なっている。クエン酸回路は自身を直接コピーするわけではないし、回路の他の分子をコピーもしない。その代わりに、回路の反応のネットワーク全体を通じて間接的にコピーされるのだ。仮想の RNA レプリカーゼは自己複製分子ではあるかもしれないが、クエン酸回路は化学反応の自己触媒ネットワークなのだ。これは、クエン酸回路の欠点ではなく、生命の特性を定義するのに、RNA 複製因子とその遺伝情報は必要ないかもしれないという、もう一つのヒントなのである ―― 生命は遺伝子に先だって存在することができるのだ。
 クエン酸回路がすべての代謝活動の始祖であったかどうかは(まだ)わかっていない。RNA 複製因子に先立ってなんらかの種類の代謝が出現したかどうかもわかっていない。けれども、私たちにわかっているのは、この地球の歴史において、生きていると呼ぶに値するまさに最初のモノは、その飢えを鎮めるために自己触媒的な代謝をもつ必要があったということだ。
 そうした代謝は、単なる部品の供給連鎖以上のものである。なぜなら、部品供給者のそれぞれがさらに多くの供給者をつくりだすので、たえずより多数の部品を生産していくことができるからである。…………
 熱水噴出孔がこの回路の接続をも助けることができたというのは、たぶん偶然の一致以上のことなのだろう。というのも、熱水噴出孔にはモンモリロナイトと呼ばれるもう一つの興味深い触媒が含まれているからだ。この名はフランスのモンモリヨンという町の名にちなむもので、この地で農民たちは水持ちの悪い土壌で水分を保つために、この粘土鉱物を用いていた。二〇世紀の末に、ジム・フェリスらは、モンモリロナイトのもう一つ有益な性質を明らかにした。彼らはそれが自然発生的に小さな RNA 構成要素を寄せ集めて、五〇ヌクレオチド以上の長さの RNA 鎖につなげることができるのを発見したのである。
〔アンドレアス・ワグナー『進化の謎を数学で解く』 (pp.76-77)
参考文献として挙げられているものの一部:
  Ferris, J. P., et al. “Synthesis of Long Prebiotic Oligomers on Mineral Surfaces.” Nature 381 (1996): 59-61.
  Huang, W. H., and J. P. Ferris. “One-Step, Regioselective Synthesis of Up to 50-mers of RNA Oligomers by Montmorillonite Catalysis.” Journal of the American Chemical Society 128 (2006): 8914-19.

 確かに ――、生命の最初の機能は、
〝複製〟なのか〝代謝〟なのかという問いには、答えが出ないようでいて、
多数の部品を生産していくことができなければ、〝複製〟はすぐにも止まってしまうことは、予想可能です。
 それならば、〝複製〟に先立って、無制限に原材料を生産できる〝代謝〟の設備が必要であったはずとなります。
 その設備のもと。ようやく、最初の生命の部品となる〈自己複製子〉が「粘土」から発明されたようです。
 おおいなる創造物語の果てに、いずれにせよ、化学進化は、生命進化へと飛躍を遂げることとなりました。
 生命進化の過程には、共生と、多細胞化という次なる跳躍が次第次第に準備されたようです。
 こうして進化のシステム自体が繰り返し進化していくことになるわけです。


J. Maynard Smith & E. Szathmáry ; 複雑性の進化(進化するシステム)
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/games/agent.html

2017年7月8日土曜日

弱毒化した ウサギの粘液腫ウイルス

 ウイルスの毒性が弱まる向きに進化する事例が書かれた本についてです。
 今回のタイトルとした話題はその方面ではもっとも有名な話らしいのですが、一般向けに日本語で書かれた詳しい文献がなかなか見つかりませんでした。
 このたび発見できた邦訳書だけでも、それなりの収穫と思えたので、そこからの引用文です。


このウイルスは最初、南アメリカのウサギ類縁種の片利共生者だった。最初ウイルスは感染後一~二週間でウサギを殺した。だがこんにちでは、ウイルスは時にはウサギを殺すが、何週間でなく何カ月を要する。この変化は、ウサギに抵抗性が進化してきたことに加えて、ウイルスの毒性も低くなったことから生じたとわかっている。個体群生物学者のロバート・メーとロイ・アンダーソンがこの事例を分析した。宿主を殺さないようにすることは寄生者にとって引き合うだろうが、新しい宿主に非常に効率よく伝わるようにすることもまた引き合うだろうというのが彼らの主張である。最大化されるのは、これら二つの要因、つまり宿主の生き残りと感染性を掛け合わせた積のようなものになるだろう。
〔ジョン・メイナード・スミス エオルシュ・サトマーリ 著『生命進化8つの謎』 (p.166)

 粘液腫の進化についてのメイとアンダーソンのモデルによって分析されているのは、この事例である (May & Anderson, 1983) 。共生者は、宿主と寄生体を一緒に殺すような過剰な毒性と、新しい宿主の感染率を下げてしまう不充分な毒性の間で、最適の妥協を進化させるだろう。
〔 J. メイナード・スミス E. サトマーリ 著『進化する階層』 (p.270)
 参考文献:
  May, R. M. & Anderson, R. M. 1983.
 Epidemiology and genetics in the coevolution of parasites and hosts.
 Proceedings of the Royal Society of London B219: 281-313.


 いろいろと探してみた結果、同じ共著者による記述を合わせれば、おおよその内容と原資料まで、辿れるという次第。
 訳者も、同じ方でした。
『進化する階層』長野敬 訳、1997年09月30日 シュプリンガー・フェアラーク東京刊。
『生命進化8つの謎』長野敬 訳、2001年12月10日 朝日新聞社刊。

 それにしても不思議なのです。自然界の何が〝淘汰圧〟となって、ウイルスの毒性は弱められたのでしょうか?
 群淘汰説によるならば、〔存続するという〕全体の利益のため、と解釈されましょう。
 ですが、群淘汰という考え方への支持率は、現在ではほぼ壊滅状態らしいのです。
 そうはいっても、このウイルス進化の方向性は、個体淘汰(個体選択)では、ストレートに説明できかねるものと思われます。
 利己的遺伝子でも、同様です。
 利己的でしかない〔と想定される〕遺伝子に対してどのような〝淘汰圧〟がはたらけば、強い毒性の立場は悪くなるのでしょうか?
 考えられるのは、強い毒で宿主が死滅した結果、周辺で目立たなかった弱い毒性のウイルスしか宿主と共に生き残れなかった、というあたりでしょうか。
 苦しまぎれな説明ですが、ウイルスは弱毒化したのではなく、強毒性の集団が全滅しただけ、なのでしょうか?
 それとも宿主がウイルス遺伝子の表現型にはたらきかけて、弱毒化をもたらしたのでしょうか?
 共進化する際には、共生の道が選択されて、ウイルス遺伝子が宿主の遺伝子に組み込まれてしまう場合も考えられるようです。
 しかしながらも、利己的遺伝子の宿命でやがては強毒性を獲得した集団が再登場して、そうして歴史は繰り返されるのでしょうか?
 いまのところ、弱毒化は個体淘汰によるという日本語での説明文にも、遭遇した記憶はありません。
 もしや過去のどっかに落として、もしくは見落としてしまっただけかもしれませんが。

2017年7月6日木曜日

インテリジェントデザイン説とタコの眼・ヒトの眼

 日本語で「知的設計」とも表現される。
 インテリジェント・デザインは《神》の創造物を意味する。
 そこで展開される論拠の、代表的なものに〝ヒトの眼〟が挙げられる。
 このように複雑な構造物が、「偶然にできた」とは、とてもじゃないが思いようがない。

 ところが、よくよく調査してみると、絶賛される構造物の機能に比して、デザインのセンスはいかがなものか。
 網膜のひとつひとつの細胞から脳へと延びてゆく視神経のケーブルは、いったん光の来る方向に突き出ているのだ。
 だから視神経の束は、網膜の一点に穴をあけて、にわかに、正常な向きへと、方向転換する必要ができた。
 盲点として知られる、それが、ヒトを含む、〝哺乳類の眼〟全般にある構造体の特徴だ。
 〝ヒトの眼に与えられた盲点〟はインテリジェント・デザインでは説明できない盲点ともなる。

 どうしてそういう「芸術的な設計」となったか。
 その都度、生存のための毎回のテーマが課せられて、生き延びてきた生命がある。
 進化の歴史は、いま、この瞬間をしのがなければ、明日はないと保証付きなのだ。
 日々のその場しのぎに改良された構造物が、最初から「知的に設計された」とは、とてもじゃないが思いようがない。

 ここまでは、よく目にする、論点だ。
 けれど。ここにもうひとつの盲点がある。デザイン上の盲点は、〝哺乳類の眼〟には与えられているけど、海洋生物の〝タコの眼〟などには与えられていないようなのだ。
 と、すれば《神》の「知的設計」は、〝タコの眼〟に発揮されたといえよう。
 やろうと思えば、《神》にも技術的に正常な設計は可能と、実証された。
 なればこそ。論をまとめれば構造体としての《神》の眼には盲点があったらしく、だからこそ、「神の似姿」であるヒトにも、盲点があるのだ、と説明可能となる。
 盲点をもつという、一見不完全さが、それを超克する《神》の完璧さをいっそう物語る。

 説明というのは、都合のいいものだ。
 事実は、それぞれが何を信じるかで、変わる。
 第二の盲点となった〝タコの眼〟にまつわる物語は、リチャード・ドーキンス著『盲目の時計職人 (p.165) で初めて目にした。〝タコの眼〟のことはあまり語られないようなので、一般論としては盲点なのかもしれないというわけで、引用しておく。

異なった進化系列は、その起源が独立であることを、細部における数多くの点で示している。たとえば、タコの眼はわれわれの眼にとてもよく似ているが、その視細胞から伸びている軸索は、われわれの眼のように、光のくる方に向いてはいない。この点では、タコの眼はより「気のきいた」設計になっている。タコの眼とわれわれの眼は、ひじょうに異なった点から出発して似たような終点へ到達している。

と、邦訳書のそのページには記されている。
 別々の基礎構造から出発して、似たような表現型をもつに至るという、進化が秘めたある種のベクトルがテーマとなっていて、そのベクトルは同じ段落中に〝力(パワー)〟と表現される。
 シャチは獰猛な種類のサメと比較されがちだし、それ以上に姿形がそっくりでまったく別種の生物は多いと聞く。
 かくして、試行錯誤の歴史自体が、並進しつつ繰り返されているのだ。
 全貌は見えない。だからこそ、というべきか。
 まだまだ多くの思考錯誤も語られよう。そこに何を信じつつどこに事実を展望するか。

2017年7月4日火曜日

3 度に 1 度は「やられてもやり返さない」戦略

ときにそのひとは、「やられたら必ずやり返す」という性質の向きと聞き及ぶ。
〝むくいは受けねばならぬ〟とはいいつつも、
感謝のお礼参りもたまには忘れたって、それで普通と思われようし。
報復も「必ずやる」というのでは、敬遠されて、
世間を狭くしかねない、と内心のところで思われましょうか。

 コンピュータ・シミュレーションによる〝進化ゲーム〟の実験結果を参照するなら。
「善行には 9 割報いて、悪行も 3 分の 1 は大目に見るべき」ことが示唆される。
―― そういう集団は安定的だという。
 どうやら、感謝の気持ちも 9 割程度で示すのがほどほど、ということらしい。
 いっぽうで怒りの気持ちは、3 分の 2 あたりに抑制するのが、明るい未来を導くようだ。
 あくまでもコンピュータ・シミュレーションによる〝進化ゲーム〟での、参考数値なのだが。

―― そういう集団は安定したのちに。
 やがては「やられても決してやり返さない」集団に移行するという。
 そういうわけなので、次には「やられる前に必ずやる」集団がのし上がってくる。
 このときに、「やられたら必ずやり返す」という性質の集団が復活する。
 もとに戻っちまった。

 この、揺れ動く周期を打開する、世渡り上手が、
「勝ったらそのまま、負けたら変更」戦略を採用した集団であるという。
“Win-Stay, Lose-Shift (WSLS)” と、英語で表記される。
 Pavlov(パブロフ)とも呼ばれるこの戦略に手を染めたらば、「やられても決してやり返さない」相手など、とっとと食いものにしてしまうらしいのだ。
 それだからこそ、成功できるのだと、いえようか。
「やられたら必ずやり返す」戦略など、これに比べれば、児戯に等しく、自棄的とも見えてくる。

合理的な経済人には、この
「勝ち残り・負け逃げ」の冷静かつ冷徹な判断が求められるのかも知れない、などと思いつつ。


Martin A. Nowak & Karl Sigmund ; GTFT 寛容なしっぺ返し
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/games/generousTFT.html

2017年7月1日土曜日

互恵主義的な戦略の強さと弱点

 繰り返し型の「囚人のジレンマ・ゲーム」のコンピュータ選手権で、〈やられたらやり返す〉戦略は最強だった。
 互恵主義的な戦略の頂点にあるかのようだ。
 けれども、いくつかの弱点は、すでに指摘されている。

 繰り返されるゲームの最中に、前回のゲームで〝協調した〟相手と〝裏切った〟相手の、判断を誤るというミスは容易に想定できる。
 ジレンマ・ゲームの背景に生じたほんの小さなノイズでさえも、結果に大きな影響を与えることになりかねない。
 相手が同じ〈やられたらやり返す〉戦略だって、同様のエラーは起きよう。
 たった一度のエラーが、〝裏切り〟の応酬をもたらすことになる。
 アクセルロッドの想定実験では、多くは二度目のエラーで打ち消されて修正されたというが、そうでなければ、二度目の誤解で、特定の相手同士では〈いつも裏切る〉戦略と見分けがつかなくなってしまうだろう。
 二度目のミスが最初のミスを修正するというのは、ほんの偶然に過ぎない。

 こういう破目に陥らないために、『聖書』の金言はある。
悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
〔口語訳『聖書』「マタイによる福音書」 5 章 39 節〕

 さてここで。さらに重要なポイントとなる弱点は、もっと危機的だ。
 本来的には〈裏切りやすい〉戦略は、この集団に侵入できないといわれる。
 けれども、〈協調しやすい〉戦略であれば、〈やられたらやり返す〉戦略と遭遇したときに、ほとんど見分けがつかないため、たとえばそれが〈いつでも協調〉戦略なのであれば、そういう〝互恵主義的な戦略〟のなかで共存共栄できるだろう。
 いつかその戦略がひとつの集団としてまとまったなら、せいぜい〈やられたらやり返す〉戦略に想定されるエラーが修正されたプログラムとして、安定性の強化が長所として勘違いされる程度だろうか。
 のみならず、相手のエラーさえも、その場でたちどころに修正してしまうのだ。
 その、エラー修正機能を搭載した安定性が特徴の戦略がやがては〝平和ボケ〟した集団全体に、便利なものとして、おそらく拡散するだろう。
 そのとき、〈裏切りやすい〉戦略が接触してきたなら、乗っ取られかねないのだ。
 集団は、修正型〈やられたらやり返す〉戦略ではなく、〝平和ボケ〟戦略に席巻されてしまっているからだ。
 それでもその時点で、本来の〈やられたらやり返す〉戦略が全体の 1 割弱でも残っていたなら、巻き返せるというが。

 そうでなければ〈いつも裏切る〉戦略が台頭して、やがては自滅する。
 集団は全滅するだろう、〈いつも裏切る〉戦略が自滅するのは、その本質が〝寄生者〟だからだ。
 エサとなるべき〝平和ボケ〟集団が絶滅したあとには、飢え散らかした殺伐としたヤツらしか残っていないわけだ。
 ウイルスなどでも、猛威を振るったあとには、〝宿主〟が全滅しないようにか、その毒性を弱めるというけれども。
 〈いつも裏切る〉戦略に、その、ウイルスが発揮する程度の修正プログラムが搭載されているという保証はない。
 だから、決して反撃しない〈いつでも協調〉戦略の蔓延は、世界を滅ぼすと、指摘されている。
 であれば。もともといつだって背後に〝最強〟が控えているのでなければ、右の頬に次いで左の頬を差し出す習性はやめたほうがいいこととなろうか。
 それが〝たまに〟ならいいだろう、けれど〝いつも〟なら、終わりの日はすぐにもやって来る。
 悪人には手向かう必要もある。
 滅びた世界に君臨する〝権力〟を望まないのであれば。