2016年10月19日水曜日

〝時を忘れる〟時の構図

 〝時を忘れる〟ひとときというのは、〝我を忘れる〟時間でもあろう。
 するとこの場合には〝時は我なり〟という構図が見えてくる。

 ひとは、そうやって自分の時間を生きているけれど。
――誰かと。
 〝同じ時間を生きた〟ことと、〝同じ時代を生きた〟ことには、空間的な違いが感じられる。
 〝同じ時間〟には、空間的に近接した「景色までも含めて共有する」印象がある。
 〝同じ時代〟で、共有されているのは、きっとどこまでも続く「同じ空」なのだ。
 「同じ空の下にぼくたちは生きてきた」という、空に媒介された距離感を含む風景がそこにある。

 ならば「時間を忘却した時代をぼくたちは生きてきた」というのはどうだろうか。
 それは〝時に追われて生きる時〟を意味するかも知れない。
 おそらくは「ぼくたちは自分の時間よりも時間そのものを大切にしている」。
 動く時計の針によって刻まれる時間をまるで先取りできるかのように。

 生きている自分を意識する時間の至福と不幸がある。

2016年10月17日月曜日

時が「動く」ための絶対基準

 それから現実の世界と云ふものはいつでも何か絶対の現在と云ふやうなものに接して居る。さう云ふ風に考へなければならないと思ふのですな。
新版『西田幾多郎全集』第十三巻「現実の世界の論理的構造(第五講)」 (p.233)

その無数の時をつゝむものが即ち永遠の今なのである。かゝる永遠の今のいづれの点に於ても時は消えて又新に生れる。かくて時は常に新しくどこからでも始まる。その無数の時が表から見られた時、それは一つの点に収まるとも考へられる。その一点がすべての運動をつゝむのである。その永遠の場所に於て種々なる時が可能になる。それ故に種々なる時は場所の意味を有ち、空間的な意味を有つ。
新版『西田幾多郎全集』第十三巻「生と実在と論理」 (p.124)

 すなわちここに、絶対基準が、必然である。
 永遠の場所である〈永遠の今〉において、すべての〈時〉が可能になる、らしい、のだ――。
 無条件に、その〝前提〟を〝根柢〟とする。

 ところで。もし、〈瞬間〉が一瞬前も消えてなくなっているというなら、
どのように〈無数の瞬間〉が同時存在し、
数直線状の〈時間〉を切断した切断面を〈空間〉という如き説明が可能であるか?

 そもそも、これでは直線を切った、一次元の切断面が、
零(ゼロ)次元とはならず、三次元であるというようなイメージを喚起させる
解釈ではあるが、その曖昧さはとりもなおさず基準座標としての、
〈絶対時間〉というような〝観念〟の導入を前提条件としたであろう。

 さらに〈瞬間〉が同時存在する必然として、因果律を楯に説明は可能だ。
 瞬時に消滅する〈時〉において、過去が現在にそして現在が未来にそれぞれ関係性をもって〝働きかける〟ためには、過去と現在、そして、現在と未来が、同時存在的でなければ働きかけることができないのは、存在しないものに〝働きかける〟ことができないことからも自明であろうとされる――。
 これは、プラトンの「パルメニデス」 156D~E あたりをヒントにしたものとみなされているようだ。
 西田幾多郎は論文で、プラトンによる〝イデアの影〟説を援用していう。

私が前論文において、世界が絶対矛盾的自己同一の影を映す所に、イデヤ的といった所以である。
岩波文庫『自覚について』西田幾多郎哲学論集Ⅲ「絶対矛盾的自己同一」 (p.77)
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/sublation.html#idea
 ――リンク先は新版『全集』第八巻からの引用文――

 もし〈時〉が〈時〉に対して動くというなら、
対する〈時〉と、
それに対される〈時〉とは、
どう異なるか。異ならないのか。

2016年10月15日土曜日

右往左往する〈瞬間〉の持続と飛躍

 前回にも触れた、昭和七年 (1932) に行なわれた京都大学での講演記録の中に、つぎのようにあります。

時間は真に非連続である。しかもそれを結合するものが Sollen なのである。物理的時間ならぬ真の時間は瞬間から瞬間へ飛躍する。
 …………
我々はあらゆる瞬間に於て死して又生れるのである。そしてその時永遠の今に触れてゐるのである。しかしこゝに意味する瞬間は普通に云ふ瞬間ではない。それは幅のある鈍い瞬間ではなくして鋭いとがつた瞬間である。
新版『西田幾多郎全集』第十三巻「生と実在と論理」 (p.120, p.135)

 Sollen は、「当為」と注釈されています。『広辞苑』によれば「当為」とは、
〝人間の理想として「まさになすべきこと」「まさにあるべきこと」を意味する〟
と、あります。

 おそらくは、西田幾多郎のこの引用文中の〈瞬間〉は、〈ゼロ〉への〝極限〟としての意味をもつものでしょう。
  〈瞬間〉 = 〈ゼロ〉
ではなく、
  〈瞬間〉 → 〈ゼロ〉
と表現すべき、そういう〝極限値〟が前提された概念は、昭和十五年 (1940) の論文においても、新たに述べられています。

すべての絶望はかゝる責任の下に立つのである、而してその持続する各瞬間を通じて。
 絶望といふ不調和が生じたとしても、それがその自らなる結果として持続するのではない。それが持続するならば、それは自己自身に関係する関係から来るのである。即ち不調和が現れる毎に、又それが現存する各瞬間に、それは直接に右の関係から生ずるのである。病の持続は病人が一度自己に招き寄せた結果に過ぎない。各瞬間毎に招き寄せて居るとは云へない。併し絶望はさうでない。絶望の現実的な各瞬間が、その可能性に還元さるべきである。絶望者は彼の絶望して居る各瞬間に、絶望を自己に招き寄せて居るのである。そこにはいつも現在的な時がある。絶望の現実的な各瞬間に、絶望者は可能として予感する凡てのものを、現在的なものとして担つて居るのである。何となれば、絶望すると云ふことは精神の領域に於て起ることであり、人間の中の永遠なるものに関係するが故である。
新版『西田幾多郎全集』第九巻「実践哲学序論」 (p.104)

 ここで繰り返される「絶望の現実的な各瞬間」とは、〈幅がゼロの時間〉ではなく、
〝微分された (極限まで細かく分けられた) 時間〟としての〈ゼロへ向かう極限としての擬似ゼロ〉とでもいうべき、位置づけにあるようです。
 なぜならば、完全な〈ゼロ〉の「持続」であればそれはやはり〈ゼロ〉にしかならないからです。
 一般的にはどのように考えようとも、〈ゼロ〉が持続する、ということは、ずっと〈ゼロ〉である、としか解釈できないと思われるのです。
 数学者は〈極限値としてのゼロ〉を〈ゼロ〉と同一視するようなのですが、西田幾多郎はどうやらそのふたつを区別しているのでしょうか?
 また「その持続する各瞬間」には「そこにはいつも現在的な時がある」ともされています。
そして、
「真の時間は瞬間から瞬間へ飛躍する」とは、
〈鋭い尖った瞬間〉から〈鋭い尖った瞬間〉への量子力学的な意味での遷移(せんい)をイメージしたものなのでしょうか?
 その曖昧な〈瞬間〉が飛躍する、その〝時ならぬ時〟が、やがては把握できない〈現在〉として語られるのです。
 もはや、飛躍する〈瞬間〉ではなく、暗躍する〈瞬間〉とでも呼べそうな事態ではあります。

無限の過去未来が現在に於てあると考へられると共に、現在は瞬間から瞬間へと動き、現在は把握することのできないものでなければならない。現在は何処にもないものでなければならない。
新版『西田幾多郎全集』第九巻「実践哲学序論」 (p.118)

 かつて語られた

人間のみが瞬間を有つのである。……。永遠の今の自己限定として時が考へられるといふ立場から云へば、現在は無限大なる円の弧線的意義を有つたものでなければならない。かかる弧線の極限として瞬間といふものが考へられるのである。故に我々は現在は幅を有つと考へる。
新版『西田幾多郎全集』第六巻「現実の世界の論理的構造」 (p.182)

現在を瞬間的と考へるならば直線的な時の形が考へられるが、瞬間を有たない時の形も考へることができる。我々は通常経験的には現在が幅を有つと考へて居る、瞬間は達すべからざるものと考へて居る。
新版『西田幾多郎全集』第七巻「行為的直観の立場」 (p.84)

具体的現在といふのは、無数なる瞬間の同時存在と云ふことであり、多の一と云ふことでなければならない。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「絶対矛盾的自己同一」 (pp.368-369)

というような「具体的現在」は、「把握することのできないもの」へと、すなわち移りゆく形而上的〈瞬間〉の飛躍の相へと昇華していくのでした。
 論文「行為的直観の立場」の上記引用文に続く一文ではこうもありました。
時の瞬間を極限点として考へるといふことは、要するに時を空間化することであると。

 すなわち、通常は数直線上の一点として認識される、ベルクソンが表現したところの〝数学的点〟としての〈瞬間〉から、その擬似的な〝極限〟としての〈瞬間〉が考察された際、それが〝時としての幅をもつ現在〟として考えられたにもかかわらず、今回「現在は瞬間から瞬間へと動き、現在は把握することのできないもの」と位置づけられるようになってしまったのです。
 昭和九年 (1934) の京都大学英文学会の講演では次のような表現もありました。

必ずしも瞬間的なものを考へなくとも、時間的なものは一般に生れては消えるのであります。その一々が独立の意味を有してゐる、それだけで生れてそれだけで死ぬ。単に縦の線に於てのみ現はれる一回的のものである。時間とはかかる独立なものが続いて行く事である。
新版『西田幾多郎全集』第十三巻「伝統主義に就て」 (p.250)

 少なくとも、〝一瞬にして消滅を繰り返す〟という、それぞれ独立した〈瞬間〉は〝持続〟するのか〝飛躍〟するのか、それとも両方なのか、曖昧でなく、かつ矛盾しない理解を得たいものです。
 現実としての〈この世の具体的な瞬間〉をどう理解するべきか、というシンプルな問いなのです。


〈時〉の科学 〈場〉の心理学
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/topology.html

2016年10月13日木曜日

球体で表現される〝時空連続体〟

歴史的空間は平面的ではなくして球面的でなければならない、時を内に消すものではなくして時を包むものでなければならない。
〔新版『西田幾多郎全集』第八巻「経験科学」 (p.463)

西田幾多郎のこの論文「経験科学」は昭和十四年 (1939) に書かれたものです。
 上記引用文中の、前半部分は、どうやらイメージできるのですが、後半の、
時を内に消すもの時を包むものとが、具体的にどう違うのかが、さっぱりわかりません。
 同じ「時を包む」表現として、昭和七年 (1932) に行なわれた京都大学での講演において、次の記録が残されています。

現在が現在を限定する時に、限定するものなくして現在が限定されるのである。無にして現在が限定されるのである。そこに無数の時が可能になる。その無数の時をつゝむものが即ち永遠の今なのである。
〔新版『西田幾多郎全集』第十三巻「生と実在と論理」 (p.124)

 また、ヒントになる(かも知れない)似たような発言として、大正八年 (1919) の大谷大学での講演記録がありました。

全体から見れば部分は有限なものであるが、その有限の中に無限が包まれて居ると云ふやうなことである。
〔新版『西田幾多郎全集』第十三巻「 Coincidentia oppositorum と愛」 (p.83)

 そもそもは前提として〈時間〉は〈無限〉なのであって、たとえ〈空間〉が有限であったとしても、この理由でそれは可能となることになります。
 ですがいずれにせよ、当時の西田幾多郎の歴史的空間が、(無限大の)球体を基本として描かれるものだということは、これまでの記述からも明確です。
 パスカルの〝無限の球体〟を参照した論文「永遠の今の自己限定」は昭和六年 (1931) に発表されていますが、昭和九年 (1934) の、京都大学英文学会の講演では次のような表現もあります。

即ち時間は普通には過去無限から未来無限にわたる直線と考へられ、空間はそれを横に切る横断面と考へられる。…………
空間は時間の横断面であるのですが、……。
〔新版『西田幾多郎全集』第十三巻「伝統主義に就て」 (p.250, p.251)

 これは〝時空の層〟が年代とともに〝地層のごとく〟積み重なっていくイメージでしょうか?
 このような〝時空連続体〟構想は、SFではお馴染み(おなじみ)な設定でもあって、いまどきでは珍しいものでもないでしょうが、〈時空〉という言葉が発明された、その当時(ちょうど 100 年前の 20 世紀初頭の昭和初期)であれば、常識の疑われるものであったかもしれません。
 実際、「相対性理論」は発想力の常識を疑われていたようですし、「量子力学」にいたっては研究している学者自身がいまだに自分の常識を疑ってかかっているふしがあります。つまり、
「宇宙のリアルな法則は人間にとって常識的ではないところがある」と。

 それで、四次元時空の連続体が、球体として、もし構想されるとしたなら、
――それぞれの刹那の四次元時空を球体の表面部分として前提した場合――
〝ビッグバン以来の空間の拡大がそのまま、球体の表面として積み重なっていって連続体となったのが、宇宙である〟
という理屈も可能でしょう。
 まるで「木の年輪」みたいな宇宙像ですが……。
 あるいは「宇宙大のタマネギ」とか。

 さて、前回のかけ算の逆、わり算のことを、追加で説明しておきましょう。
〈瞬間〉 × 〈無限大〉 = 〈現在〉
という、この両辺を〈無限大〉で割ると、次のようになります。

〈瞬間〉 = 〈現在〉 ÷ 〈無限大〉

 これは、
〈ゼロ〉 × 〈∞〉 = 〈不定な数〉
でしたので、

〈ゼロ〉 = 〈数値〉 ÷ 〈∞〉

という内容と、同じことになります。
 これらの数式に登場する記号としての〈ゼロ〉や〈∞〉は、数学的極限値としての記号であり、
――また〈∞〉は何らかの〝具体的数値〟でもありませんが――
それら数式の、計算結果の〝極限を示す〟〈値(あたい)〉としての、意味をもつものなのでした。

 それは、
〝〈ゼロ〉に収束する〟
〝〈無限大〉に発散する〟
という言葉で表現されるものです。

 極限値が〈 1 〉であれば、
〝〈 1 〉に収束する〟
となります。

〈ゼロ〉に収束する〟ということについて。
 数学的には、それは、たとえば何らかの数を無限大で割ると、実質ゼロになる、ということを意味していて、
「具体的数値としてはゼロ」
になる、ということであり、それが〝数学的リアル〟なのでした。
 つまり、物質(あるいは宇宙)を際限なく砕いていくと、何もなくなってこれはやはり〝すべては〈ゼロ〉になる〟ということです。
 何も、宇宙には塵すらも残らない、のです。それが〝数学的リアル〟です。

数学的リアル〟と〝この世のリアル〟の違いについて。
 また一方で、〝数学的リアル〟な三角形は、〝この世的リアル〟な宇宙には、いまのところどこにも存在しません。
 西田幾多郎も、それについて大正八年 (1919) の現龍谷大学での講演で、以下のように述べています。

数学者は円とは一つの中心点から等距離にある点の軌跡であるといふが、かゝる厳密なる円はどこにも存在してゐない。
〔新版『西田幾多郎全集』第十三巻「宗教の立場」 (p.89)

2016年10月10日月曜日

〈瞬間〉×〈無数〉=〈現在〉 という魔法

 昭和十四年 (1939) の論文「絶対矛盾的自己同一」で西田幾多郎は、次のように記述しています。

具体的現在といふのは、無数なる瞬間の同時存在と云ふことであり、多の一と云ふことでなければならない。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「絶対矛盾的自己同一」 (pp.368-369)

 ここで表現されている無数というのは、文学的な用法としての〝有限だけれども数えきれないほどの数〟ではなく、はっきりと「無限大」を指し示しています。
 それはなぜなら、というと。
 以前から、西田幾多郎の「現在」は「幅を持つ」のであり、今回それと対比されている瞬間とは「幅がゼロの時間」を示していることは述べてきましたが、

〈ゼロ〉 × 〈有限な数〉 = 〈ゼロ〉

なので、もともと〈ゼロ〉の時間がなんらかの「幅を持つ」ためには、〈無限大〉を積算(かけ算)するしかないという、いかんともしがたい理由によります。
 そういうことで、上の引用文は数式的には次の内容をもつことになります。

〈瞬間 (ゼロ) 〉 × 〈無数 (無限大) 〉 = 〈 〔限定された〕 現在〉

さて。この方程式(計算式)は、はたして成立するのでしょうか?

 これまで、多くの先達の資料を参照してきましたが、いまのところ「西田哲学における時間の幅の意味」についてこのように論及したものは見受けられず、見当のつかない状況です。
 この際の「時間の幅」というのは「断絶した連続で成り立つ〈永遠の今〉としての自己限定された現在の幅」をいいます。
 以前(2016年10月1日土曜日)に「歴史的世界は最始から絶対矛盾的自己同一として自己自身を限定するのである。絶対の断絶の連続である、段階的である。」という西田幾多郎の記述から、
〝そうするとなると、〈非連続の連続〉 というのは、現代ふうに表現すれば、〈離散的な連続〉 ともいえましょうか。〟
と書きましたが、西田幾多郎昭和十三年 (1938) の論文「人間的存在」には、

時は断絶の連続と考へられる所以である。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「人間的存在」 (p.275)

ともあって、「断絶した連続」は〈非連続の連続〉と同じ意味を含みます。
 すなわち〈永遠の今〉とは、「限定された現在」でありつつも、それが「段階的」に連続していく、いわば〝時空連続体〟的な様相の統合(とうごう)された綜合(そうごう)というような〝リアル〟がイメージされた、〈実体概念〉なのでしょうか?
 その〝リアル〟を構成するのが、擬似〝リアル〟であるところの、形而上的〝バーチャル〟な「瞬間」であるとされています。
 繰り返しますが、ここで「瞬間」というのは「幅がゼロの時間」であり、「無時間」を示します。
 そもそも、最初の引用文の直前の一文で西田幾多郎自身も、瞬間は時の外にあると、しています。
 これは、「瞬間」は現実的な時間で構成されているべき、「〝この世〟の外にある」と、解釈できます。
 そういう〝あの世〟的時間が〈無数〉に集まって〝この世〟の〈現在〉を構成しているという、そういうことなのでしょうか?
 少なくとも事実としては、西田哲学の〈無〉と〈無限〉がここに、同時存在的に語られています。
 さらには、実はこれまで「多の一」という表現は「多」を「有限な数」とみなしてきたのですが、ここで「多」に「無限な数」をも含めて適用する必要が出てきました。
 〈一(いち)〉と〈無限大(∞)〉を対比させるというのは、突然の新しい考え方のような気がします。

 ところで数学者の解説によると、〈無限大(∞)〉が演算に登場した時点で、それは通常の計算式ではなく、数列の計算が求められるのだと、そういうことらしいのですが、そこに記述される「=」は、「→」と同じで、「収束」もしくは「発散」する行き先(到達目標)を示すもののようです。それで、数学的には

〈ゼロ〉 × 〈∞〉 = 〈不定〉

となり、これは、一定の数値にはならないようです。
 高等数学では、〈limit〉 が用いられる世界で、「ロピタルの定理」という〝不定形の極限値を求める〟計算式の一角を占めているようです。

 この、〈ゼロ〉に〈無限大〉をかける方法というのは、また一方で、「時間」とよく対比される「空間」にも適用できるでしょう。
 この世の「空間」は〝三次元的に存在しない幅(大きさ)がゼロの点〟が「無数」に集まって構成されている、という解釈が、同じように可能となるということです。
 数学者は〔量子論的解釈とは関係なく〕、計算上はそれは可能である、とするようです。
 (つまり、素粒子は、際限なく、分割可能となります。)
 それは、「自然数全体の集合」は〈現実的無限〉という、観点から考えられているようです。
 しかしながら「自然数」は、はたして物理的な「現実」といえるのでしょうか。
 厳密にはおそらく、数学は〝リアル〟ではなく、〝リアルの近似値〟を数式で表現するものです。
 つまり形而上的〝バーチャル〟を〝リアル〟にフィードバックするための最強の道具である、ともいえます。
 また現在わかっているのは――、
量子力学は未だ発展途上にあり、最終結論などではない、ということです。


〈場所〉の論理から〈絶対矛盾的自己同一〉へ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/sublation.html

2016年10月8日土曜日

両立せぬ「真・偽」関係の論理学的〈矛盾概念〉

 つまり、論理上
一方が〈真〉であればもう一方は必ず〈偽〉であり、逆に一方が〈偽〉ならばもう一方は必ず〈真〉となる関係
を 〈矛盾関係〉 といい、そういう関係性のあいだに中間的なものの存在しない一対 [いっつい] 〈矛盾概念〉 という、らしいのです。

 それは、現実的に事実として〈矛盾〉しているという〝概念(がいねん)〟のことではなく、論理として、そこで対比されている両者の「論理的な帰結」が、ともに〈真〉となることはなく、さらには、ともに〈偽〉ともならない、排他的でかつ一種相互依存的な、そういう対立的な関係性のことなのだと、思われます。

 ところで普通 (かどうかは意見も異なりましょうが)、〈偽〉といえば 〈False〉 で、それはラテン語の「だます」を語源とするらしいのですが、パソコンのプログラムの世界では、一般的に〝 0 〟の意味を持ちます。
 もう片方の〈真〉は、〈True〉 でそれはコード的には〝 0 以外〟なので、二進法を身上とするパソコンとしては、〝 0 〟以外の数字を〝 1 〟しか持ち合わせてないゆえに、〈True〉 は〝 1 〟と解釈されても仕方のない状況となります。
 通常の初期値は〝 0 〟なので、〈False〉 からすべては始まる前提なのですね。
 この状況下で初期化すると、〝すべては 0 になる〟のです。

 いうなればそれらは「有る」と「無い」の表現でもあります。ここからも、〈真偽(しんぎ)〉は〈有無(うむ)〉の関係性ともいえましょうか。

 ここでにわかに西田哲学の話になるのですが、そういう〈有・無〉の対立が解消されて、すなわち止揚(しよう)していくための、便利な道具が、〈弁証法〉ということになります。
 また「世界は弁証法的でなければならない」というような表現がその過程でよく見受けられるのですが、世界がそのようであるのならば、たちどころにすべての論理的〈矛盾〉など、解決してしまいそうに思われるのに、どうやらそうなっていないのは、ここに至るまでの以上の解釈の過程に、エラーがあったのでしょう。
 それとも。〈弁証法〉で論理的な〈矛盾〉は解決されても、現実の問題は、〈弁証法〉とは関係なく別にあるものなのでしょうか?

2016年10月6日木曜日

捏造(ねつぞう)されかねない〈矛盾〉

 事実としての現実が 〈矛盾〉 するのは困難であるが、概念は容易に 〈矛盾〉 する
――という、現実がある。
 いまここに、〝文字〟という「記号」が何であるかを考えてみる。
 とりあえず、アルファベットの大文字を例にとって考えることにする。

 もし、〝文字〟が〝 A 〟であるならば、〝文字〟は〝 B 〟ではない。
 すなわち〝文字〟が〝 A 〟であると同時に〝 B 〟であることはできない。
 〝文字〟が〝 A 〟であると同時に〝 B 〟であるというのは、矛盾している。
 しかしながら実際には、現実として、〝 A 〟は〝文字〟であり、同時に〝 B 〟も〝文字〟である。

 おそらく。いまこの〝文字〟は、数学的には、未知数〝 x 〟であると、仮定されている。
 そこで、その〝文字〟を記号としての未知数〝 x 〟で表現する。

 未知数〝 x 〟が〝 A 〟であると同時に〝 B 〟であることはできない。
 しかしながら、実際には現実として、〝 A 〟は〝文字〟であり、同時に〝 B 〟も〝文字〟であった。
 ようするに、事実としては、未知数〝 x 〟は〝 A 〟であると同時に〝 B 〟でもあるので、したがって、現実に適用して考えるならば――。
 最初の記号としての、未知数〝 x 〟は〝文字〟ではなく、その〝(限定された)文字〟――〝その文字〟――と、するべきであったろう。

 〝その 〔ひとつの〕 文字〟が〝 A 〟であると同時に〝 B 〟であることはできない。
 しかしながら、〝 A 〟は〝文字〟であり、同時に〝 B 〟も〝文字〟である。
 この場合、未知数〝 x 〟は〝 A 〟であると同時に〝 B 〟ともなる。
 現実に、〝文字〟は〝 A 〟であると同時に〝 B 〟でもあり〝 C 〟などでもある。
 つまりは、未知数〝 x 〟の設定の曖昧さ に、問題の所在があったのであろう。
 〝文字〟なのか、その〝(限定された)文字〟すなわち〝その文字〟なのか。

 〝 A 〟は〝 A~Z 〟という集まりの要素ではあるが、全体ではない。
 また〝 A 〟がなければ〝 A~Z 〟という集まりは成立しない。
 現実には、このことに、矛盾している形跡はどこにも、一向に見受けられない。

 結局はただ、最初の設定で、厳密さを考慮するか、それとも考慮しないか、だけの話であったのか。
 曖昧な概念は、容易に〈矛盾〉と馴れ親しむのだろう。

 蛇足ではあろうが――ここで少し丁寧には――ありましょうが、以上の解釈及び説明と〝 A 〟がそのまま〝 B 〟である世界観とは異なる、ものです。