2016年10月6日木曜日

捏造(ねつぞう)されかねない〈矛盾〉

 事実としての現実が 〈矛盾〉 するのは困難であるが、概念は容易に 〈矛盾〉 する
――という、現実がある。
 いまここに、〝文字〟という「記号」が何であるかを考えてみる。
 とりあえず、アルファベットの大文字を例にとって考えることにする。

 もし、〝文字〟が〝 A 〟であるならば、〝文字〟は〝 B 〟ではない。
 すなわち〝文字〟が〝 A 〟であると同時に〝 B 〟であることはできない。
 〝文字〟が〝 A 〟であると同時に〝 B 〟であるというのは、矛盾している。
 しかしながら実際には、現実として、〝 A 〟は〝文字〟であり、同時に〝 B 〟も〝文字〟である。

 おそらく。いまこの〝文字〟は、数学的には、未知数〝 x 〟であると、仮定されている。
 そこで、その〝文字〟を記号としての未知数〝 x 〟で表現する。

 未知数〝 x 〟が〝 A 〟であると同時に〝 B 〟であることはできない。
 しかしながら、実際には現実として、〝 A 〟は〝文字〟であり、同時に〝 B 〟も〝文字〟であった。
 ようするに、事実としては、未知数〝 x 〟は〝 A 〟であると同時に〝 B 〟でもあるので、したがって、現実に適用して考えるならば――。
 最初の記号としての、未知数〝 x 〟は〝文字〟ではなく、その〝(限定された)文字〟――〝その文字〟――と、するべきであったろう。

 〝その 〔ひとつの〕 文字〟が〝 A 〟であると同時に〝 B 〟であることはできない。
 しかしながら、〝 A 〟は〝文字〟であり、同時に〝 B 〟も〝文字〟である。
 この場合、未知数〝 x 〟は〝 A 〟であると同時に〝 B 〟ともなる。
 現実に、〝文字〟は〝 A 〟であると同時に〝 B 〟でもあり〝 C 〟などでもある。
 つまりは、未知数〝 x 〟の設定の曖昧さ に、問題の所在があったのであろう。
 〝文字〟なのか、その〝(限定された)文字〟すなわち〝その文字〟なのか。

 〝 A 〟は〝 A~Z 〟という集まりの要素ではあるが、全体ではない。
 また〝 A 〟がなければ〝 A~Z 〟という集まりは成立しない。
 現実には、このことに、矛盾している形跡はどこにも、一向に見受けられない。

 結局はただ、最初の設定で、厳密さを考慮するか、それとも考慮しないか、だけの話であったのか。
 曖昧な概念は、容易に〈矛盾〉と馴れ親しむのだろう。

 蛇足ではあろうが――ここで少し丁寧には――ありましょうが、以上の解釈及び説明と〝 A 〟がそのまま〝 B 〟である世界観とは異なる、ものです。

2016年10月3日月曜日

1923年 ド・ブロイ 「物質波」

 西田幾多郎の 1938 年の論文「人間的存在」に、次の表現があります。
 岩波文庫『論理と生命』西田幾多郎哲学論集Ⅱ の 370 ページにありますが、以下に『全集』から引用させていただきます。

歴史的・社会的世界に於ては、物は表現作用的に、制作的に、自己自身を表現するものでなければならない。かゝるものとして、その存在性を有つのである(私は歴史的物質といふものを、かゝる意味に於て自己矛盾的存在と考へるものであるから、今日の物理学に於て物質と波との矛盾的結合といふのも、かゝる理由に基くのではないかと思ふ)。
〔新版『西田幾多郎全集』第八巻「人間的存在」 (p.282)

 ド・ブロイが「物質波」の構想を発表したのが、1923 年とされており、その 15 年後になります。
 その 「物質波」 というのは 「物質だとか波動だとかいうのは真実の一面でしかない」 というような内容 のものです。
 そういえば、前回のリンクページには、次のような一文を引用させていただいておりました。

現実は相反する方向の自己同一即ち矛盾の自己同一として(ボールの相互補足性 Komplementarität (8) の如く)、自己自身を形作るものであるのである。
(8) ボーア『ニールス・ボーア論文集1』岩波文庫、第七論文「因果性と相補性」、一二九-一三一頁ほか。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「実践と対象認識」 (p.124)

 これら、物質と波との矛盾的結合ボールの相互補足性とは、同じ内容のことがらを示しておりまして、つまりは「ボーア (Bohr) が量子力学に導入した相補性の概念」のことです。
 この「相補性の概念」のことは、ハイゼンベルクの「不確定性」とともに、改めて詳しくみていく機会もありましょう。

 それはそうと論文「人間的存在」については、「進化の頂点に立つ、西田哲学の神話」と題して以前(2016年5月19日木曜日)にブログで触れたこともありました。
 今回は、『全集』からの引用文で、そこのところをちょいと振り返ってみましょう。

 絶対矛盾の自己同一として、作られたものから作るものへと自己自身を形成する世界は、作られて作るものの極限に於て人間に到達する、人間は所謂創造物の頂点である。そこでは与へられたものは何処までも作られたものであり、否定せらるべく与へられたものである。作るものより作られたものへと考へられる。神がおのが像に似せて人間を作つたとも云はれる所以である。我々の身体といふものも、既に表現作用的として、超越的なるものによつて媒介せられたものであるが、作られて作るものの極限に於て、我々は絶対に超越的なるものに面すると云ふことができる。そこに我々の自覚があり、自由がある。我々は歴史的因果から脱却し得たかの如く考へるのである。
〔新版『西田幾多郎全集』第八巻「人間的存在」 (pp.290-291)

 ここで、神がおのが像に似せて人間を作つたとも云はれる所以であるの「所以(ゆえん)」というのは、「理由・わけ」なので、「その前に提示した理由から、このようにいわれるのはもっともだ」という文脈とあいなります。
 で、その理由というのが、人間は所謂創造物の頂点であるという一句と解釈されます。
 その一句にある「所謂(いわゆる)」というのは「世間で言われている」という意味なので、まとめますと「人間は世間でいわれているように創造物の頂点なので、神に似せて作られたといわれるのも、もっともな話である」という、意味内容となります。
 どうやら、モンテーニュ式の「人間が神を自分に似せて作った」という〈哲学的〉解釈は、世間の流行からは出なかったもようです。そしてモンテーニュはどうだか知らぬが、自分の意見は〈世俗的〉な多数意見から見てもそうであると、そういうことになりましょうか?
 このあたりが、少々乱暴な理論展開であるように、思われるのです。――自戒を含めて。

 ひとまずは、これにて。

2016年10月1日土曜日

〈純粋持続〉≠〈非連続の連続〉ということ

 ベルクソンという人物は時間を〈純粋持続〉と考えて、分割不可能なものとしました。
 西田幾多郎はそれに対して〈非連続の連続〉ということを、時間に限らず、すべてに適用します。

 論文「論理と生命」ではたとえば、連続とは、
「直線的に(連続的に)」という表現があります。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「論理と生命」 (p.24)
 これは、切れ目のない「数直線」とかのイメージからきているものでしょうか。
 そうであるとすると、連続とは、無限からなる「つらなり」ということになりましょう。
 なぜなら、0 と 1 あるいは、1 と 2 のあいだにすら、無限の数が数えられるからです。
(それがたとえば、0.5 と 0.6 のあいだでも、表現可能な数は無限です。)

 また一方、「実践と対象認識 ――歴史的世界に於ての認識の立場――」においては、次の表現が見られます。
「時間即空間、空間即時間、個物的限定即一般的限定、一般的限定即個物的限定として弁証法的一般者の自己限定といふものである(即といふ語はいつも矛盾的自己同一といふことである)。」
新版『西田幾多郎全集』第八巻「実践と対象認識」 (p.174)

 上記の丸カッコ内の表現と同様の、
(こゝに即といふのは矛盾的自己同一の意である)は、その以前の、143 ページにおいてなされています。

 その後の、「種の生成発展の問題」では、
「歴史的世界は最始から絶対矛盾的自己同一として自己自身を限定するのである。絶対の断絶の連続である、段階的である。」
新版『西田幾多郎全集』第八巻「種の生成発展の問題」 (p.197)
という説明がなされています。

 あるいは、そういう〈限定された場所〉というのは、ちょいと量子論ふうな表現を用いるなら、〈離散的時空〉ともいえるでしょうか。
 量子論というのは、ものごとを量子化して考えることをいいます。量子化、というのは、「エネルギー=質量」をパッケージ化して、なだらかな曲線ではなく、いわば、デジタル音楽のサンプリング波形の棒グラフのように、段階的なものとして、いってみれば断続的なものとして考えるようです。
(もしかすると、「ひとかたまり」という意味に通じる「パケット」という言葉のほうが、理解しやすいかも知れません。)

 そうするとなると、〈非連続の連続〉 というのは、現代ふうに表現すれば、〈離散的な連続〉 ともいえましょうか。
 とともに西田幾多郎の〈限定〉というのは、「パッケージ化」を示す言葉とも、解釈できます。
 いずれにせよ、西田幾多郎の哲学には、当時発展途上にあった量子力学の考察は欠かせないと思われます。

 最後に、もうひとつ。前回の事がらに関連すると思われる次の一文がありました。
 岩波文庫『論理と生命』西田幾多郎哲学論集Ⅱ の 329 ページにありますが、以下に『全集』から引用させていただきます。

歴史的現在に於て、いつも矛盾的自己同一的構成を中心として、即ち歴史的・身体的構成を中心として、その自己否定的方向、空間的方向に、自然科学的知識が構成せられ、その自己肯定的方向、時間的方向に精神科学的知識が構成せられるのである。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「行為的直観」 (pp.236-237)


行為的直観:行為する主体
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2016年9月28日水曜日

クロノスとカイロス

 それは多少の韻を踏んで翻訳すれば、継時(クロノス)と契機(カイロス)ともいえましょう。
 クロノスもカイロスも、もとはギリシャ神話の有名なゼウス一家の神の名前です。

 クロノスは、「年代記=クロニクル (chronicle) 」のもとになった言葉でもあります。
 が、カイロスのほうは、日本ではあまり有名ではありません。
 しかしながらも、欧米文化の次のことわざなら、ご存知の向きもあろうかと、思います。
「チャンスの神には、前髪はあるけれど、後ろ髪はない」すなわち、機を失するな、というたとえです。
 そういうわけで、正統派の美術的カイロス神の髪は、前髪しか描かれないという由縁となります。

 ギリシャ語聖書においては、クロノスもカイロスも、キリスト教の教えに、深くかかわっているようです。
 クロノスはまた「通時」といわれ、カイロスは「好機」ともいわれます。
 クロノスは平たんな〈水平的時間〉のイメージであり、一方、カイロスは決断の時あるいは決定的瞬間としての〈垂直的時間〉という捉え方がされているようです。
――ですが、その、垂直的な時間とは?
 それは、地震計のグラフが突然大きく振れるようなイメージなのでしょうか。
 それとも、天より降りきたる〈その時〉が、幻想されているのでしょうか。

 さて、ここで前回のリンクページのトップにあった、ガストン・バシュラール「詩的瞬間と形而上学的瞬間」の引用文が、重要な位置を占めることになります。

 こういうわけでわれわれは、すべての真実な詩の中に、停止した時間、尺度にはしたがわない時間、つまり、川の水や過ぎゆく風とともに水平的に逃げ去ってしまう普通一般の時間と区別するため、特に「垂直的」と呼んでみたい時間の要素を見出すことができるのである。以上のことから、ここに、次のようなパラドックスをはっきりと述べておかねばなるまい。すなわち、韻文 [プロソディー] の時間は水平的であるのに、詩情 [ポエジー] の時間は垂直的であると。
G・バシュラール「詩的瞬間と形而上学的瞬間」『瞬間の直観』 (p.126)

 というのは、中村雄二郎氏の 『共通感覚論』 「第 4 章」の「4 時間と共通感覚」のなかに次の記述があったのです。

 さて、社会的時間も文化的な時間も、自然的な時間に対しては広い意味での制度によって仲立ちされた二次的な時間なのである。けれども、その二次化の方向が両者の間では異なっている。すなわち、ここで社会的時間というのは、社会生活上の有効性によって区切られ秩序立てられた時間のことである。それは一般に、意識的で機能的な制度によって仲立ちされているために、ニュートン物理学の抽象的な時間、過去から未来へと均質に流れる時間、つまり水平の時間に (55) 近づくことになる。それに対して文化的な時間とは、人々の間の交感や同化によって循環とリズムが強化されるとともに、非実用的な価値と形式によって秩序立てられた時間なのである。この方は、生きられる重層的な時間のなかにあって、無意識的で祭祀的な制度によって媒介されているために、直線的時間、水平の時間とは反対の方の極に、もう一つの極限の時間に近づく。それは、円環的あるいは永遠の時間ともいうべき神話的な時間、いわば垂直の時間である。(かつて古代ギリシア人がクロノスとカイロスと名づけた二つの時間は、この水平の時間と垂直の時間にほかならない。)すなわち、ここで社会的な時間と名づけられたものは、社会生活上の機能的で実用的な時間、表層の時間であり、それに対して文化的な時間と呼んだものは、祝祭的な時間、深層の時間であるとも言いかえることができる。
(55)  この〈水平の [ホリゾンタル] 時間〉およびそれとの対比で言われる〈垂直の [ヴァーティカル] 時間〉という表現は、バシュラールによる( Gaston BACHELARD, L’Intuition de l’instant, Paris, 1932, p. 104. バシュラール『瞬間と持続』、掛下栄一郎訳、紀伊國屋書店、一九六九年、一二六ページ)。ただしここでバシュラールがいっているのは、〈散文の時間〉と〈詩の時間〉との対比に限られている。なお、彼は、〈通過する時間〉と〈内在する時間〉(シュトラウス、ゲープザッテル)、〈世界の時間〉と〈自己の時間〉(ヘーニヒスヴァルト)という対比のうちにそれぞれの後者、つまり〈内在する時間〉〈自己の時間〉のことも〈垂直的時間〉temps perpendiculaire と言っている( G. BACHELARD, La Dialectique de la durée, Paris, 1950, p. 95, p. 98. バシュラール『持続の弁証法』、掛下栄一郎訳、国文社、一九七六年、一二九、一三三ページ)。
岩波現代文庫『共通感覚論』 (pp.271-272; pp.356-357)

――――
 前回の最後に引用した、
「〈深層の知〉と私が言うのは、純粋経験の立場から出発した西田が場所の論理に至り、さらにそれを推しすすめることによって可能になった深層のリアリティの把握のことである。」

という内容の一文は、今回は、
「すなわち、ここで社会的な時間と名づけられたものは、社会生活上の機能的で実用的な時間、表層の時間であり、それに対して文化的な時間と呼んだものは、祝祭的な時間、深層の時間であるとも言いかえることができる。」

ということから、

 すなわち、深層の知の中心的対象となる深層の現実と、制度論的思考の主要な対象になる、客体化され物質化された現実、その意味での表層の現実とが、しばしば入れかわるのは、なぜだろうか。もう少し具体的にいって、本来は心の深層にかかわる宗教上、芸術上の営みが、なまなましい政治的、経済的な意味を持ち、また逆に、本来は表層のなまなましい政治的、経済的な振舞いが、疑似的にもせよ強い宗教的、芸術的意味を帯びて人びとの心をとらえることがあるのはなぜか、という問題である。
中村雄二郎『述語的世界と制度』 (p.59)

という捉え方へと、推移していく様子がうかがえました。

 そういうわけで、中村雄二郎氏の〈水平的・時間〉と〈垂直的・超時間〉という謎は、「日常的」と「非日常的」の対比とも、解釈できるものなのでした。
 あるいはその側面として、〈均質な時間〉と〈凝縮された時間〉の、イメージではあります。
 それには、文学的表現の影響が強くありました。
 また西田幾多郎自身による垂直的表現には、「私と汝」( 1932 年)で多用される 自己自身の底 などがあります。


統一的自己
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2016年9月24日土曜日

現実の深さ

 先日来、瞬間の幅について、いろいろと考えてきたのですが、その〔とっかかりの〕きっかけとして、西田幾多郎の考察について、次のような引用文を紹介したことがありました(2016年9月13日火曜日)。

永遠の今の自己限定として時が考へられるといふ立場から云へば、現在は無限大なる円の弧線的意義を有つたものでなければならない。かかる弧線の極限として瞬間といふものが考へられるのである。故に我々は現在は幅を有つと考へる。人間はかかる弧線的存在でなければならない。
新版『西田幾多郎全集』第六巻「現実の世界の論理的構造」 (p.182)

 西田幾多郎はこのように「現在は幅を有つと考へる」のですが、瞬間については瞬間は達すべからざるものであるとし、つまり、幅をもたない時の形態を瞬間と表現しているようです。

現在を瞬間的と考へるならば直線的な時の形が考へられるが、瞬間を有たない時の形も考へることができる。我々は通常経験的には現在が幅を有つと考へて居る、瞬間は達すべからざるものと考へて居る。
新版『西田幾多郎全集』第七巻「行為的直観の立場」 (p.84)

 そのことに加えて、同じ論文の中に、また現実は深さを有つという表現もあります。

空間即時間、時間即空間なる矛盾の自己同一面が、行為的直観の世界としていつも現実の世界と考へられ、そこに世界が成立すると考へることである。そこから主観客観の世界が考へられるのである。故に現実は深さを有つ。所謂知覚の世界とはその平面的なるもの、行為的直観の世界とはその立体的なるものとも云ひ得るであらう。
新版『西田幾多郎全集』第七巻「行為的直観の立場」 (pp.95-96)

 つまり西田幾多郎はいうなれば〝行為的直観の世界は立体的〟だ、とするのです。
 西田幾多郎の「行為的直観の立場」は、昭和十年 (1935) に発表されていますが、このなかにある〈平面的〉また〈立体的〉という語句は、昭和七年 (1932) に発表された「ゲーテの背景」にて同じように使われています。

 ゲーテの詩の背景をなすものは如何なるものであらうか。彼の詩は如何なる背景の上に刻み出されたものであらうか。芸術の背景として永遠といふものを空間と考へうるならば、私は平面的と立体的とに分つことができると思ふ、形なきものと形あるものとに区別することができると考へる。而してその立体的なるものに就いて、高きものと深きものとを区別することができるであらう。
新版『西田幾多郎全集』第七巻「ゲーテの背景」 (p.322)


 これらのことと、共通する語句あるいは概念であるかどうかはわかりませんが、中村雄二郎氏は「時間的、水平的」に対する「超時間的、垂直的」ということを繰り返し述べています。それはまた、〝水平軸・垂直軸〟という言葉でも表現されているようです。

 ここに西田の絶対弁証法(場所的弁証法)では、ヘーゲル的な過程的弁証法の時間性、水平性に対して、超時間性、垂直性ということが重要な性格をなしているのがわかる。
中村雄二郎『西田幾多郎 Ⅰ』 (p.184)

 そしてここに、西田の場所的弁証法は、ヘーゲル的な過程的弁証法が時間的、水平的であるのに対して、超時間的、垂直的性格を色濃く示すことになる。
中村雄二郎『西田幾多郎 Ⅱ』 (p.221)

深層の知と制度論的思考――つまりは場所的弁証法と過程的弁証法――は、人間の知において垂直軸の活動と水平軸の活動の関係にあるが、私としては、その両者のなかにある固有な、思考とことばのダイナミックな運動をできるだけ活発にさせることこそ必要だと思っている。
中村雄二郎『西田幾多郎 Ⅱ』 (p.242)

 このことを解明していく手掛かりは、どうやら〈深層の知〉と〈制度論的思考〉というキーワードにあるようです。

 さて、西田の場所論の骨子を以上のようなものとしてとらえた上で、次に、西田哲学との向かい合いを通じて私が遭遇することになった大きな問題、〈深層の知〉と制度論的思考の関係の問題に入ることにしよう。…………
 まず、〈深層の知〉と私が言うのは、純粋経験の立場から出発した西田が場所の論理に至り、さらにそれを推しすすめることによって可能になった深層のリアリティの把握のことである。それは、結果的に現代の精神分析や精神医学による無意識的な心の深層の解明と結びつくものだが、西田では、宗教的な生命意識を哲学的に掘り下げていくことによって得られた。
中村雄二郎「〈場所の論理〉の彼方へ」『思想』 1994 1  No. 835 (pp.12-13)

 どうもよくわかりません。
「〈深層の知〉と私が言うのは、純粋経験の立場から出発した西田が場所の論理に至り、さらにそれを推しすすめることによって可能になった深層のリアリティの把握のことである。」
 立ち止まって、もう少し、詳しくつづきを読んでいかないと、かすかな理解もならないことなのでしょう。


立体的時間
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2016年9月21日水曜日

〈刹那模糊模糊秒〉かける〈 2 の 144 乗〉

 実は前回の計算に、エラーがありました。――ので。
 その修正と、積み残したこまかい部分を含めて、改めてくわしく計算し直してみました。
 ようするに、つまりはそれが厚さ 1 ㎜ 以上もある厚紙のように見えるまで、半分に折っていくのでした。

〈虚空模糊㌢〉だと、10 の 33 乗の桁が必要になります。
――実に、〔最初っから〕ここで、たいへんな間違いをしておりまして、
10 の 33 乗の桁だと、厚さ 1 ㎝ 以上もある厚紙になってしまうのでした。

 〈プランク長さ〉である〈虚空模糊㌢〉は、より正確には、〈虚空模糊 × 1.62 ㎝ 〉なので、
(10 の 33 乗) の 10 分の 1 である、「 exp10 (32) - 溝(こう)」を基準の数詞として、
10 溝ではなく、1 溝の桁になる数を求めればよかったのです。

 それからまた〈刹那模糊模糊秒〉について、もう少し詳しく計算してみたいと思ったのです。
(時間の場合は 1 秒以上になるまで、半分に折っていくのです。)
〈刹那模糊模糊秒〉だと、10 の 44 乗の桁が必要になります。
(これは、間違ってないようです。)
 復習からいきますと。

 30 回折り続けたら、
ギガ桁 1024 × 1024 × 1024 = 1073741824
 40 回折り続けたら、
テラ桁 1024 × 1024 × 1024 × 1024 = 1099511627776
 これは、ようするに、
1024 × 1024 × 1024 × 1024 = 1,099,511,627,776 ≒ 1.126 兆
 50 回折り続けたら、
ペタ桁 1024 × 1024 × 1024 × 1024 × 1024 = 1125899906842624
 これは、
1,125,899,906,842,624 ≒ 1126 兆

 50 回折り続けたものを基準に、
1126 兆 × 1126 兆 = 1267876 ? = 126.7876 穣
 これで、100 回

――(ここから修正開始)――
〈虚空模糊 × 1.62 ㎝ 〉は、〈(10 のマイナス 33 乗) × 16.2 ㎜ 〉なので、
〈(10 のマイナス 32 乗) × 1.62 ㎜ 〉となります。
 このことは「 16.2 ÷ (10 の 33 乗) 」という式の、
分母と分子の両方に 0.1 をかける計算をしたのと同じです。

126.7876 穣 × (2 の 6 乗) = 126.7876 穣 × 64
= 8114.4064 穣 ≒ 0.811 溝
126.7876 穣 × (2 の 7 乗) = 126.7876 穣 × 128
= 16228.8128 穣 ≒ 1.623 溝
 したがって、
「溝」は、(10 の 32 乗) であるから、(10 のマイナス 32 乗) と相殺されて、
1.62 ㎜ × 0.811 = 1.31382 ㎜
1.62 ㎜ × 1.623 = 2.62926 ㎜

 この計算式より、106 回目で 1 ㎜ を超え、107 回目で、その倍となる。
――(ここで修正終了)――
 ここから、〈刹那模糊模糊秒〉の、こまかい計算の開始となります。

126.7876 穣 × 1024 = 129830.5024 穣 ≒ 12.98 溝
 これで、110 回の計算となる。

exp10 (4) - 万(まん)
exp10 (8) - 億(おく)
exp10 (12) - 兆(ちょう)
exp10 (16) - 京(けい)
exp10 (20) - 垓(がい)
exp10 (24) - 秭(し)
exp10 (28) - 穣(じょう)
exp10 (32) - 溝(こう)
exp10 (36) - 澗(かん)
exp10 (40) - 正(せい)
exp10 (44) - 載(さい)
 を参考に
「 exp10 (12) - 兆(ちょう)」かける「 exp10 (28) - 穣(じょう)」
=「 exp10 (40) - 正(せい)」となる。

 テラ桁は 1,024 × 1,024 × 1,024 × 1,024 = 1,099,511,627,776 なので、
 次の行の計算式が、140 回の計算と同等になる。
126.7876 穣 × 1.0995 兆 = 139.4029662 正 ≒ 139.4 正

 141 回となる計算は。
139.4029662 正 × 2 = 278.8059324 正 ≒ 278.8 正
 142 回目。
278.8059324 正 × 2 = 557.6118648 正 ≒ 557.6 正
 143 回目。
557.6118648 正 × 2 = 1115.2237296 正 ≒ 1,115 正
 144 回目。
1115.2237296 正 × 2 = 2230.4474592 正 ≒ 2,230 正
 145 回目。
2230.4474592 正 × 2 = 4460.8949184 正 ≒ 4,461 正
 146 回目。
4460.8949184 正 × 2 = 8921.7898368 正 ≒ 8,922 正
 147 回目。
8921.7898368 正 × 2 = 17843.5796736 正 ≒ 17,844 正
 148 回目。
17843.5796736 正 × 2 = 35687.1593472 正 ≒ 35,687 正
 149 回目。
35687.1593472 正 × 2 = 71374.3186944 正 ≒ 71,374 正
 150 回目。
71374.3186944 正 × 2 = 142748.6373888 正 ≒ 142,749 正
= 14.279 万正 ≒ 14.27 載

 ここで、
――前回の記録より――
1126 兆 × 1126 兆 × 1126 兆 = 1427628376 澗 = 14.27628376 載
 これで、150 回。ようやく 10 の 45 乗にまで到達した。
 そういうわけで、150 回折り重ねると、
それにさらに 10 をかける計算よりも多くなるので、
54 秒以上となろうかと、そういう結果である。
5.4 秒 × 14 = 75.6 秒 に、近いあたりになると思われる。
――前回の記録ここまで――
 ということに加えてさらに、このことを確認するために、
 2 の 150 乗をエクセルで計算すると、
1,427,247,692,705,960,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000
 この、
1
,427,247,692,705,960
,000,000,000,000,000
,000,000,000,000,000
とは、ようするに、
 1 に、ゼロが 45 個ついた桁の数になる。これは、
「 exp10 (44) - 載(さい)」であるから、「 10 載」の桁の数になる。
1126 兆 × 1126 兆 × 1126 兆 = 14.27628376 載 ≒ 14 載
 ということで、どうやら、ここまでの計算式は、間違いないようだ。

 そして以上のことと、もうひとつには、150 回だと
「 5.4 秒 × 14 = 75.6 秒 に、近いあたりになると思われる」
という推定を受けて、ふりかえりみれば、
 1 回( 2 の 1 乗)
1 × 2 = 2
 ……
 6 回( 2 の 6 乗)
1 × 2 × 2 × 2 × 2 × 2 × 2 = 64
 であることから、6 回ひいて 144 回目あたりが、怪しいのである。
 つまり、〝 75.6 秒 ÷ 64 = 1.18125 秒〟なので。
 そのあたりで、〈刹那模糊模糊秒〉が、1 秒を超える。
 このことを、先ほどおこなっておいた計算で確認してみると。
 144 回目。
1115.2237296 正 × 2 = 2230.4474592 正 ≒ 2,230 正
 ということから、「 exp10 (40) - 正(せい)」の次の数詞をみると
「 exp10 (44) - 載(さい)」であるので、
 144 回目。
1115.2237296 正 × 2 = 2230.4474592 正 ≒ 2,230 正 ≒ 0.223 載

 さてここで、
 〈プランク時間〉を〈刹那模糊模糊 × 5.4 s 〉、簡便には〈刹那模糊模糊秒〉という表記といたした、のを思い出しつつ、ここまでの結果を受けて「刹那模糊模糊」と「載」が相殺され、次の計算式となる。
5.4 秒 × 0.223 = 1.2042 秒
 これは、さきほどの推測による計算結果と、ほぼ同じになる。
( つまり、〝 75.6 秒 ÷ 64 = 1.18125 秒〟という計算式、です。)

 またいっぽう、〈虚空模糊 × 1.62 ㎝ 〉なので、さきほどの。
1.62 ㎜ × 0.811 = 1.31382 ㎜
1.62 ㎜ × 1.623 = 2.62926 ㎜
 この計算式より、106 回目で 1 ㎜ を超え、107 回目で、その倍となる。
――という、結果をもとに――
 ここから、試しに 144 回目まで折ると、いかほどの厚さになるのか。
144 - 106 = 38
 38 回折るというのは、(2 の 38 乗) をかける計算になる。
 40 回折り続けたら、
テラ桁 1024 × 1024 × 1024 × 1024 = 1099511627776
 だったので、これを 4 で割る。
1,099,511,627,776 ÷ 4 = 274,877,906,944
 念のために。エクセルで、(2 の 38 乗) を計算してみる。……と。
 同じであった。これは、約 2749 億である。
1.31382 ㎜ × 274,877,906,944 = 361,140,091,701.166 ㎜
 これは、約 3611 億㎜ である。
 そして、3000 億ミリメートル というのは、3 億メートルであり、
「 1 メートルは、3 億分の 1 秒である ( 3 億分の 1 秒は、1 m )」であったから、これは、おおよそ、光が 1 秒間に移動する距離となっている。また、
〈刹那模糊模糊秒〉の計算結果より、
5.4 秒 × 0.223 = 1.2042 秒
であったので、3000 億㎜ × 1.2042 = 3612.6 億㎜ で、
これは、約 3611 億㎜ という、〈虚空模糊㌢〉からの計算とほぼ一致する。
 この誤差を、どのように吸収できるかは、どれほどの精度で計算できるかにかかっているものと思われる。
 ひとまずこれで、
 〈プランク長さ〉を 144 回折りたたんで重ねていくと、光が 1 秒間に移動する距離と同じくらい、というかそれ以上になる、という結論といたしましょう。

      今回のまとめ


 今回は、エラーのないことを願うばかりですが……。
 〈刹那模糊模糊秒〉を、何回折り重ねれば、1 秒以上になるかというあまり現実的でない問題は、ようするに、
〝 10 進法で 1 + 44 = 45 桁の数は、2 進法では何桁ほどが必要になるか〟
という、2 進数に変換する問題でもあったのです。
 注意点として「 exp10 (1) - 十(じゅう)」は、2 桁あります。
 これは、10 の 1 乗です。いうなれば、ゼロが 1 個です。

 もとの数が 1 × (10 の 44 乗) であった場合、
 エクセルで計算した結果は、〝 2 進数では 1 + 146 桁〟となりました。
 どうしてかというと、〝 2 進数で 1 + 147 桁〟になった時点で、それよりもかなり大きな、数になっているからです。
 =POWER(2,146)
89,202,980,794,122,500,000,000,000,000,000,000,000,000,000
 =POWER(2,147)
178,405,961,588,245,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000
178,405,961,588,245
,000,000,000,000,000
,000,000,000,000,000

【修正(2016年9月23日午後五時半過ぎ)】
今回のまとめ」のすぐ上
(誤)
 〈プランク長さ〉を 44 回折りたたんで重ねていくと、光が 1 秒間に移動する距離と同じくらい、というかそれ以上になる、という結論といたしましょう。
(正)
 〈プランク長さ〉を 144 回折りたたんで重ねていくと、~~。
――と、いたしました。

2016年9月19日月曜日

〈プランクスケール〉を折り重ねる

 つまりそれが厚さ 1 ㎜ 以上もある厚紙のように見えるまで、半分に折っていくのである。
 何回(いか)ほど折りたためば、そんな風に見えてくるのだろうか?

 まずはひとまず、〈プランクスケール〉の代わりに、チラシないしは、コピー用紙に登場願う。
 A4 版の大きさなら(同じ紙で)、64 枚用意しよう。その厚さを、0.1 ㎜ と考える。
 計算の都合もあるので、それを 1 ㎜ と仮りに想定する。
 まあ最初、厚さ 1 ㎜ のボール紙から始めるのだとでも思ってほしい。
 最後に、それを 10 分の 1 にすることで、もとの厚さに戻せるので、それがボール紙だろうとチラ紙だろうと、コピー用紙だろうと計算上は問題ない。

 半分に折る。A5 サイズになる。その厚さは、
1 ㎜ × 2 = 2 ㎜
 さらに、半分に折る。A6 サイズになる。その厚さは、
2 ㎜ × 2 = 4 ㎜
 さらに、半分に折る。A7 サイズになる。その厚さは、
4 ㎜ × 2 = 8 ㎜
 さらに、半分に折と、4 回目は、けっこうな暑さが出てくる。
8 ㎜ × 2 = 16 ㎜

 これを、繰り返して、10 回おこなう。
 5 回目以降は、もはや、折りにくくなるので、同じ作業を、別の紙で行ない、それを重ねることで、折ったのと同じ厚さを目で確認していくことにする。

 5 回目(紙を 2 枚使う)
16 ㎜ × 2 = 32 ㎜

 6 回目(紙を 4 枚使う)
32 ㎜ × 2 = 64 ㎜

 7 回目(紙を 8 枚使う)
64 ㎜ × 2 = 128 ㎜

 8 回目(紙を 16 枚使う)
128 ㎜ × 2 = 256 ㎜

 9 回目(紙を 32 枚使う)
256 ㎜ × 2 = 512 ㎜

 10 回目(紙を 64 枚使う)
512 ㎜ × 2 = 1024 ㎜

 最初に想定したように、これは実際の 10 倍の厚さになるので、
1024 ㎜ ÷ 10 = 102.4 ㎜ ≒ 10 ㎝

 実際にチラシでやって、測ってみると、だいたいそんな結果になった。
 実はもっと簡単には、500 枚入りのコピー用紙(× 2 )を買ってきて、1,000 枚の厚さを測ってみればいい。これは、そうとうな厚さであることが、考えただけで、わかってしまうのである。
(わが家のコピー用紙では、おおよそ、93 ㎜ という計測結果となった。)
 では、これを、20 回に増やすと、どうなるか。

 11 回目
1024 ㎜ × 2 = 2048 ㎜
 12 回目
2048 ㎜ × 2 = 4096 ㎜
 13 回目
4096 ㎜ × 2 = 8192 ㎜
 14 回目
8192 ㎜ × 2 = 16384 ㎜
 15 回目
16384 ㎜ × 2 = 32768 ㎜
 16 回目
32768 ㎜ × 2 = 65536 ㎜
 17 回目
65536 ㎜ × 2 = 131072 ㎜
 18 回目
131072 ㎜ × 2 = 262144 ㎜
 19 回目
262144 ㎜ × 2 = 524288 ㎜
 20 回目
524288 ㎜ × 2 = 1048576 ㎜

 1 ㎜ の厚さのボール紙であれば
1048576 ㎜ = 1048.576 m ≒ 1.049 ㎞ ≒ 1 ㎞
 0.1 ㎜ だと、その 10 分の 1 だから、おおよそ 100 m になる。
1048576 ㎜ ÷ 10 = 104857.6 ㎜ ≒ 105 m

 1 ㎜ の厚紙であれば、この調子でどんどん重ねていくと、富士山の頂上は 22 回目で越えることがわかる。
 けっこう簡単に、月まで行けてしまえそうな気がしてくるのである。
 何が目的かというと、月まで行くことではない(夏休みの自由研究としても手遅れだ)。
 どんなに、小さな数字でも、ゼロに限りなく近いのと、ゼロとでは、根本的に違うということだ。

 平面を折りたたむ話、となると、これがゼロになることを意味する。
 数学的平面には、厚さがない。だから、いくら重ねても、立体的にはなれない。
 厚みのない平面が重なっているという状況は、図示すれば平面と変わらないのである。

 ――――
 さてここからが、いよいよ〈プランクスケール〉レベルを折りたたむ話の本番(メイン)。
〔厚さの計算はいちおう、1 ㎜ を最初の基準値にします。〕
――が、どっちにせよ、
〈プランク長さ〉だと、10 の 33 乗の桁が必要になる。
〈プランク時間〉だと、10 の 44 乗の桁が必要になる。

 ここで、この前に引き続き、
exp10 (2) - 百(ひゃく)
exp10 (3) - 千(せん)
exp10 (4) - 万(まん)
を例とする記述方法を採用して、先に進める。

exp10 (12) - 兆(ちょう)
exp10 (24) - 秭(し)
exp10 (28) - 穣(じょう)
exp10 (32) - 溝(こう)
exp10 (36) - 澗(かん)
exp10 (44) - 載(さい)

であるからして、10 溝で、10 の 33 乗、1 載で、10 の 44 乗。

 ところで、
 10 回目
512 ㎜ × 2 = 1024 ㎜
 ……
 20 回目
524288 ㎜ × 2 = 1048576 ㎜
 というのは、
1024 × 1024 = 1048576
と計算したほうが、だんぜん有利であった。

これは、キロ×キロ=メガである。もう 1 回キロをかけると、ギガである。
次は、テラとなり、ペタとなり、エクサとなる。
 まずは、「 exp10 (15) - P (peta / ペタ・千兆)」までを計算する。
 この下にリンクを示したページの、一番下に、その計算プログラムを用意しておいた。
 手もとの電卓ではもうもたないので、それで試すと、

ギガ桁 1024 × 1024 × 1024 = 1073741824
テラ桁 1024 × 1024 × 1024 × 1024 = 1099511627776
ペタ桁 1024 × 1024 × 1024 × 1024 × 1024 = 1125899906842624

 これで、50 回折りたたんだのと同じになる。もとが、1 ㎜ だと、
1 ペタは、1000 兆でもあり、ちゃんと、そういう桁数になっている。
1,125,899,906,842,624 ㎜ ≒ 1126 兆㎜

1125899906842624 ㎜ = 1125899906842.624 m
≒ 1,125,899,906.84 ㎞ ≒ 11.26 億㎞

ちなみに、40 回折り続けた、
テラ 1024 × 1024 × 1024 × 1024 = 1,099,511,627,776
は、おおよそ、1,100,000 キロメートル = 110 万㎞

そういえばさきほど、ちょっと考えてみた、
月までの距離がおおよそ、38 万㎞ 。
太陽までが、14960 万㎞ ≒ 1.5 億㎞ 。
太陽から海王星までが、450440 万㎞ ≒ 45 億㎞ 。
 さてさて……。

〈プランク時間〉を 1 秒 以上の大きさにするために、
〈プランク長さ〉を 1 ㎜ 以上の大きさにするために、
次いで、50 回の計算結果をもとにして、

1126 兆 × 1126 兆 = 1267876 秭 = 126.7876 穣
 これで、100 回

1126 兆 × 1126 兆 × 1126 兆 = 1427628376 澗 = 14.27628376 載
 これで、150 回。ようやく 10 の 45 乗にまで到達した。

――前回の記録より――
その〈プランク時間〉の、より正確な数値というのは、
〝 5.4 秒〟に〝 (10 の 44 乗) 分の 1 〟をかけたもの、でしたので、それは、
5.4 ÷ (10 の 44 乗) 秒、と同じになり、
それに「 (10 の 44 乗) である 載(さい)」をかけると、
5.4 ÷ (10 の 44 乗) × (10 の 44 乗) s = 5.4 s
――前回の記録ここまで――

 そういうわけで、150 回折り重ねると、参考値は、
5.4 ÷ (10 の 44 乗) × (10 の 44 乗) s = 5.4 s
であるからして、〈プランク時間〉かける (10 の 44 乗) と比較して、
それにさらに 10 をかける計算よりも多くなるので、
54 秒以上となろうかと、そういう結果である。

5.4 秒 × 14 = 75.6 秒 に、近いあたりになると思われる。

ここで、
exp10 (28) - 穣(じょう)
exp10 (32) - 溝(こう)
exp10 (36) - 澗(かん)
exp10 (44) - 載(さい)
の、あいだがすっぽり抜けたので、そこを細かく計算すると、
126.7876 穣 × 1024 = 129830.5024 穣 ≒ 12.98 溝
 これで、110 回の計算となる。

であるからして、10 溝で、10 の 33 乗1 載で、10 の 44 乗とは、
110 回とか、150 回で、そういう桁数の重なりになりもうす。

これを、ミリからキロメートルに修正するには、6 桁を引けばよく、
「 exp10 (12) - 兆(ちょう)」でそれを示すには、さらに、12 桁を引く。
つまり、合わせて、18 桁を引けばよい。

       まとめ


 〈プランク長さ〉を 1 ㎜ 以上にするというのは、110 回折り重ねる計算になる。
 もとが 1 ㎜ なら、
10 の 33 乗で、ゼロが 15 桁(15個)兆㎞ 、つまり、
1,000,000,000,000,000 兆㎞ にまでするということになる。
 1 ㎜ を 110 回折ると、
126.7876 穣 × 1024 = 129830.5024 穣 ≒ 12.98 溝 ㎜ で、
129830.5024 穣㎜ = 1,298,305,024,000,000,000,000 兆㎞

こういうのを、ウインドウズのエクセルで計算式を書く場合には、

=POWER(1.024,5)

で、〝5〟のところを適宜変えて計算します。
〝1〟でキロ、〝2〟でメガ、〝3〟でギガ、〝4〟でテラ、〝5〟でペタ、
という桁数になり、小数点以下がつきます。
50 回折りたたんだ厚さの値は、

=POWER(1.024,5)
1.125899907 ペタ = 1125.899907 兆
です。

最後にもう一度、書いておくと。
ペタ 1.024 × 1.024 × 1.024 × 1.024 × 1.024 = 1.125899906842624

 この参照値は、次のページの一番下のプログラムで計算しました。

ベルクソンの「永遠の現在」:ハイゼンベルクの新しい「理解」
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/moment.html