2016年9月17日土曜日

刹那模糊模糊(せつなもこもこ)な時間の幅

 ところで近頃は、
量子論的には、〈プランク長さ〉である、
虚空模糊(こくうもこ)センチメートル以下の距離のことは、
物理的に不可知である。つまり、意味がなくなる。
というような話へとなっていったのでした。
〈プランク時間〉である、模糊模糊刹那(もこもこせつな)秒も、同様です。
こういうことを考えていると、
「大きさのない〈点〉を物理的に考えることは、まったく意味がない」
ように、しみじみと思われてくるのでした。

――唐突ですが 問い。
数直線は「この世」のどこかに、存在するのか?

というのは、それはたとえば、「物理的な大きさをもたない点」というのは、
「物理的な大きさをもたない点」であるがゆえに、物理的に「この世」に示すことができません。
というわけで、確認不可能という意味において、
「物理的な大きさをもたない点」は「この世」には〝存在しない〟のです。
――したがって、その点を形式的につなげた、直線で示される、
数直線は「〔形而上的〕あの世」に、存在するのでしょう。

 しかしながらも、
――どこにも存在しない「幅をもたない点としての瞬間」が持続することで「この世」が時間をもつ。
 たとえば、そのように語る哲学者というのは、「この世」の何を語ろうとしているのでしょうか。

 そういう「この世」のどこにも存在しない「時間的な大きさをもたない瞬間」が、何やら、「この世」に意味をもつような前提で、語られ続けるのです。
 せめて、「この世」にフィードバック可能な観念論を伝授してほしいのです。
 哲学的な話を哲学的に語ることに異論はありませんが、それが「形而上的」なだけであるとすると……
 せめて、地球人が生きている「この宇宙」の「この世界」の「この世」にかかわる話をしてほしいのです。
「あの世」の話ばかりでなく……

――そう願っていると、さいわいにも。

 何であれ「存在」するためには「持続」せねばならないのである。どんなに短命な素粒子であっても、とにかく「短い」と言いうる持続が必要なのである。その命がゼロ時間であるような「存在者」は論理的矛盾であろう。それはそうだろうが、だがしかし、ある持続はその中の点時刻、無限の数の点時刻を連続的に接続したものではないのか。そうだとすれば、そのどの点時刻にも存在しない物はその持続においても存在できないのではないか。こうしたいぶかりがでてこよう。
 だが、そうではない。持続というものは点時刻の集まりではないと思う。点とは実は線の切り口であるように、点時刻とは持続の「切り口」であって「部分」や「要素」ではないのである。だから、持続は点時刻が集まってできているものではない。物、例えばヨウカンの切り口にはヨウカンはない。だから切り口をいくら集めても一片のヨウカンもできない。ヨウカンあっての切り口であって切り口あってのヨウカンではない。それと同様、持続あっての切り口であってその逆ではないのである。そして「切る」とは常に「空を切る」こと、したがって持続する「存在」を点時刻で切れば空を切らざるをえない。
〔大森荘蔵『流れとよどみ』 (pp.107-108)

 ここにまさしく、その命がゼロ時間であるような「存在者」は論理的矛盾であろうと、語られていました。
 そして、先日来の資料では(繰り返せば)、
量子論的には、〈プランク時間〉以下は、不可知であり意味がなくなる、とありました。

 その、「この世」的意味をもつ最短の時間である〈プランク時間〉について。
 前回の、続きのような、はなしになりますが。

その幅がゼロでなければ、模糊模糊刹那の時間でも、
それが積み重なると、やがて 1 秒になります。
その〈プランク時間〉の、より正確な数値というのは、

〝 5.4 秒〟に〝 (10 の 44 乗) 分の 1 〟をかけたもの、でしたので、それは、
5.4 ÷ (10 の 44 乗) 秒、と同じになり、
それに「 (10 の 44 乗) である 載(さい)」をかけると、

5.4 ÷ (10 の 44 乗) × (10 の 44 乗) s = 5.4 s

となるのは、当然といえば、あたりまえな話になります。

その模糊模糊刹那を刹那模糊模糊と書いても、それは同じ意味となりますよって、
今後は、〈プランク時間〉を〈刹那模糊模糊 × 5.4 s 〉と表現することといたしましょう。
簡便には〈刹那模糊模糊秒〉という表記といたします。

 ここからは、長くなりそうなので、
――そういうわけで、次回に、
〈刹那模糊模糊秒〉をどれくらい折りたたむと 1 秒を超えるのか、計算してみたいと思います。

2016年9月15日木曜日

虚空模糊(こくうもこ)な大きさ

 まずは、
 この(瞬間の)幅について、以下に示すページで計算してみているのですが、

刹那(せつな)という「瞬間」の幅
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/dialectical.html#ksana

「プランク時間」の長さも含めて、次回に改めて考えてみたいと思います。
という前回の話の続きです。

 詳しい資料はリンク先を参照していただくとして、そのページ内から、自分で「計算」したという個所を、ここに再録したいと思います。

==再録開始==

 光は、1 秒間におおよそ 30 万㎞ を進むことから、光にとっては、

1 秒 = 30 万㎞
という等式が現実となる(おおよそであり、厳密な数字は少し異なるが)。つまり光にとって、

1 メートルは、3 億分の 1 秒である ( 3 億分の 1 秒は、1 m )。

 さて、仏教用語としての「刹那」を計算すると、七十五万分の一秒になると、『佛教語大辞典』に書いてあるけど、無論これには異説がきっと山とある。が、とりあえずこの説で、

1 刹那 = 75 万分の 1 秒は、400 m = 40,000 cm と、しておこう。

 ちなみに、量子論に「プランクスケール」というのがあって、
〈プランク長〉は〈 10 (-33) cm 〉らしい。

というのを、漢数詞で表現しようとすると、

〈虚空〉は〈 10 (-20) 〉で、
〈模糊〉は〈 10 (-13) 〉であるから、

この小数点以下の桁を示す指数の足し算は〈虚空×模糊〉と同じなので、〈虚空・模糊〉すなわち、

〈虚空模糊〉は〈 10 (-33) 〉と、計算できる。したがって、

〈プランク長〉は〈虚空模糊 cm 〉とも、表現可能になる。
 無論それが〈須臾刹那 cm 〉であっても、問題はない。

==再録終了==

 最後に出てくる〈刹那〉というのは〈 10 (-18) 〉です。

  ==(開始)==
 虚空は、1 垓分の 1 のことである。
1 ÷ 100,000,000,000,000,000,000
〔兆(ちょう)の 1 万倍が、京(けい)で、垓(がい)は、京のさらに 1 万倍となる。〕
 模糊は、10 兆分の 1 である。
1 ÷ 10,000,000,000,000
 須臾(しゅゆ・すゆ)は、1000 兆分の 1 である。
1 ÷ 1,000,000,000,000,000
 刹那は、100 京分の 1 である。
1 ÷ 1,000,000,000,000,000,000
  ==(終了)==

 そういう計算を書くのに、ここからは記述の約束として、
十分の一の表記方法を次のようにしたいと思います。
exp10 (-1) - 分(ぶ) 〔桁の単位:参照ページはこちら

 日常的には、10 分の 1 は「1割」なのですが、漢字による数詞(桁の単位)の記法として、以下、『塵劫記(じんこうき)』などの記述に従うことにします。『塵劫記(じんこうき)』には、また次のようにあります。
exp10 (-18) - 刹那(せつな)

 さてさて上記の表現方法の中に、「 10 (-33) 」というのがありますが、これは、「 1 × (10 のマイナス 33 乗) 」を意味します。
 これはどういうことかというと、たとえばそれを「 1 × (10 のマイナス 1 乗) 」と置き換えて、簡単に書けば、
1 ÷ 10 = 1 / 10
という割り算になります。つまり、10 分の 1 のことです。
 この計算で、(10 のマイナス 33 乗) だと、ゼロの数が 33 個になります。
 もう少し試してみましょう。
「 1 × (10 のマイナス 2 乗) 」なら、「 1 ÷ 100 」を意味します。
これは、100 分の 1 のことです。
 そうして、
「 1 × (10 のマイナス 1 乗) 」×「 1 × (10 のマイナス 2 乗) 」
=「 1 × (10 のマイナス 3 乗) 」= 1000 分の 1
ということは、
(10 のマイナス 1 乗) × (10 のマイナス 2 乗) = (10 のマイナス 3 乗)
ということになるというようなことを、数学の先生は教えてくれています。


1 刹那 = 75 万分の 1 秒は、400 m = 40,000 cm と、しておこう。
と、上のほうにありましたが、

 感覚的な時間としては、「刹那」はまた「瞬間」と同様の意味をもちます。
 刹那というのは、瞬間の別表現と、一般に解釈されているようです。

――ここからいよいよふたつの「プランクスケール」のおはなし――

 ここで、ゼロが 18 個つく、大きい方の数は、
1,000,000,000,000,000,000 となって、これは、
exp10 (16) - 京(けい)の 100 倍で、百京という桁になりました。

一秒×刹那=百京分の一秒で、これを光の到達距離で示すと、
1 秒 = 30 万㎞ = 3 億メートル = 300 億センチメートル
「 exp10 (8) - 億(おく)」と「 exp10 (-18) - 刹那(せつな)」とを組み合わせて、
300 × exp10 (8) cm × exp10 (-18)
= 3 × exp10 (10) cm × exp10 (-18) = 3 × exp10 (-8) cm

 そこで、「プランク長さ」は、より正確には、
l Planck = 1.62 × 10 (-33) cm
また「プランク時間」というのは、
λ =  l Planck / c  = 5.4 × 10 (-44) s
と、上に再録しなかった個所に書いてありましたので、
まず「プランク時間」に関して、「刹那」と比較すると、

44 - 18 = 26 と計算して、さらには、
exp10 (-13) - 模糊(もこ)でしたから、
模糊・模糊・刹那 (13+13+18=44) が計上できますので、
「 5.4 × 模糊模糊刹那 s 」という具合にあいなります。

 それが何ミリかというと、「 10 (-44) s 」だけの計算は、「 exp10 (-18) - 刹那(せつな)」と「 exp10 (-13) - 模糊(もこ)」より、
3 × exp10 (-8) mm × 模糊模糊 = 3 × exp10 (-8-26) cm

それに、「 5.4 」をかけると、
5.4 × 3 × exp10 (-34) cm = 16.2 × exp10 (-34) cm = 1.62 × exp10 (-33) cm

つまりは、
 はなしは戻って、「プランク長さ」は、より正確には、
l Planck = 1.62 × 10 (-33) cm
また「プランク時間」というのは、
λ =  l Planck / c  = 5.4 × 10 (-44) s

「プランク時間」を、光の到達距離で示すと、同じ幅と、あいなりました、とです。
これはもともと、〝 c 分の l Planck (プランク長さ)〟 という計算式から求められた数値なので、当然といえば、当たり前のはなしなのでした。つまりというと、〝 c 〟 は、真空中での光の速度を示す記号なのです。

2016年9月13日火曜日

垂直に交叉する「数学的点」のようなもの

 瞬間についての、哲学的・神学的な考察が、しばしばありますが、最近見かけたものでは、

たとえば覚醒の瞬間は、それが生起するならば、眠りの時間が消滅してしまうように、全然異質なものである。……
それは眠りの時間の中でとらえようとしてもとらえられない「空洞」のようなもの、「数学的点」のようなものとなる。垂直に交叉する点である。
〔大木英夫 『終末論』第三章 (p.156)

という表現が気になりました。
 この例では、頭が悪すぎるのか、思いがけなくも、

「数学的点」 のようなもの

という哲学的に語られる、文学的な記述が、どうしてもよくわからないのです。
 それが、「数学的点」 ならば、大きさをもたないので、別の何やらと交叉することが想定不可能となります。
 しかし、「~~のようなもの」 であれば、必ずしもそのたとえと完全一致しているわけではないので、あるいは想定可能なのでしょうか。ならば、なぜにわざわざ「数学的点」などという、幾何学的な大きさをもたぬものが特に引き合いに出されるのでしょう。
 それがさらにまた、ただの十字路ではなく、「垂直に交叉する点」 というのは、イメージ不能の極みとなります。
 おそらくは、その一瞬の〝自分自身〟がイメージされていて、それが世界と直交する、というような感じなのでしょうけれども……、そして、異質な時間 というあたりはまた別の問題なのでしょう。
 文学(芸術)として解釈する以外に、この頭の悪さでは、どうにも理解できないのです。
 芸術であれば、そもそも「理解する」べきようなものではないでしょうし。

 かくして、哲学的には、「一瞬の時間」の長さは、(時にときとして)あるいは
「ほぼゼロ=ゼロ」とも、されていて、それは必ずしも数学的ではない気がします。
 結局「無限大」も「無限小」も、その大きさは考慮されない、かのようなのです。
 このような解釈になるのは、おそらくはこちらの頭が悪いせいだと思われるのですけれども、しかしながら、

不可知を語るそれは〝哲学的〟なのであり、純粋には〝数学的〟もしくは〝物理学的〟ではない。

――ということになれば、おそらくそういうものは〝観念論〟という解釈となっていきます。

 すくなくとも、量子論的ではない。というのは、
量子論では、ゼロに近いことを、ではなく、ゼロではないこと、を重視するからです。

その違いは、およそ 10 (-43) 秒程度で大きくはないがゼロでもない。そしてゼロでないことこそが、まさしく時空における点の概念が正しくないことを意味している。
〔シャーン・マジッド「量子力学的な時間と空間、その物理的実在」『時間とは何か、空間とは何か』」 (p.52)

 一方、西田哲学では、
「現在は幅を有つと考へる」 とされています。
 これは、数学的な微分の概念を取り入れた世界観でしょうか。

人間のみが瞬間を有つのである。普通に瞬間といふものは過去から未来へ亙る直線の一点と考へられて居る。併しさういふ瞬間は唯考へられたものに過ぎない。永遠の今の自己限定として時が考へられるといふ立場から云へば、現在は無限大なる円の弧線的意義を有つたものでなければならない。かかる弧線の極限として瞬間といふものが考へられるのである。故に我々は現在は幅を有つと考へる。人間はかかる弧線的存在でなければならない。
新版『西田幾多郎全集』第六巻「現実の世界の論理的構造」 (p.182)

 この(瞬間の)幅について、以下に示すページで計算してみているのですが、「プランク時間」の長さも含めて、次回に改めて考えてみたいと思います。


〈弁証法的一般者〉
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/dialectical.html

2016年9月11日日曜日

宇宙論ではなくして観念論として

 前々回(9月6日)から、パスカルの 〝無限の球体〟 について、みています。それは 「空間」 のことでした。もう一度、そこを引用しておきましょう。

われわれが想像しうるかぎりの空間のかなたに、われわれの思考を拡大しても無益である。われわれの生みだすものは、事物の現実にくらべるならば、たんなる微分子にすぎない。それはその中心をいたるところに持ち、その周辺をどこにも持たない無限の球体である。

 それに次いで前回(9月9日)に、西田幾多郎の 〝無限大の円〟 についてみました。それは 「絶対無の自覚的限定」 の幾何学的表現であり、それに続く記述では 神の自覚なくしては不可能である とされるものでした。

パスカルは神を周辺なくして到る所に中心を有つ無限大の球に喩へて居るが、絶対無の自覚的限定といふのは周辺なくして到る所が中心となる無限大の円と考へることができる(パスカルの如く球と考へるのが適当かも知れないが私は今簡単に円と考へて置く)。

 パスカルの思想の前提には《神》があるのですが、西田哲学においても同様であることが、そのあたりを比較してみて、うかがえました。
 つまり、「西田哲学の前提には神がある」と、推測されるのです。
 引用文として参照した、この昭和 6 年の論文「永遠の今の自己限定」以降、〈永遠の今〉はくり返し、語られ続けます。その西田哲学における〈永遠〉とか〈無限〉の前提には、「神」があったと、思われるのです。パスカルのこの記述についても、また同様に、改めて何度か言及されています。
 新版『西田幾多郎全集』第六巻の「注解」は、小坂国継氏が担当されていて、「私と世界」の注解ではパスカルからの引用文が記述されています。

(8) 「われわれは想像しうるかぎりの空間のかなたに、われわれの思いを拡大したところでむだである。事物の現実に較べれば、われわれはアトムを生み出すにすぎない。事物の現実は、至るところに中心があり周辺がどこにもない無限の球体である」(パスカル『パンセ』ブランシュヴィック版)、一九七六年(初版一九二六年)、断章七二)。 
新版『西田幾多郎全集』第六巻 注解「私と世界」 (p.358)


 宇宙は、アインシュタイン以後、有限な事象となりました。そこで〈無限〉を語るには、どうしても、超越者の存在が必要であったのかもしれません。いうなれば「周辺なくして到る所が中心となる無限大の円」としての〈場所〉が……。

 ところが、前々々回(9月3日)に確認したことをさらに思い起こすとすれば。
 アインシュタインの「静止宇宙」モデルはすでに、「周辺なくして到る所が中心となる有限の円の表面」と、たとえられる特徴を 1917 年には獲得していたのです。

 以上、今月になってから考察してきた内容を、改めて、概観してみました。
 今回それに加えるなら、西田幾多郎が、自身の世界観を次のように述べている箇所でしょうか。

個物と個物とが相限定する此の世界の根柢に、何等かの意味に於て述語面的自己同一といふものを置いて考へれば、種々なる意味に於ての観念論的世界観といふものが成立する。
新版『西田幾多郎全集』第六巻「形而上学序論」 (p.51)

→ わたしとあなたの「あいだ」
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/identity.html

2016年9月9日金曜日

延々と今

 前回見たように、パスカルは、
「それはその中心をいたるところに持ち、その周辺をどこにも持たない無限の球体である」
と、書き残しました。『パンセ』というのは、パスカルが残した「断片」を集めた遺稿集です。

 西田幾多郎はそれを引用して、次のように記述します。

パスカルは神を周辺なくして到る所に中心を有つ無限大の球 une sphère infinie dont le centre est partout, la circonférence nulle part に喩へて居る (6) が、絶対無の自覚的限定といふのは周辺なくして到る所が中心となる無限大の円と考へることができる(パスカルの如く球と考へるのが適当かも知れないが私は今簡単に円と考へて置く)。之によつて之に於て到る所に無にして自己自身を限定する円が限定せられると考へることができるのである。
 (6)  パスカル『パンセ』(ブランシュヴィック版)、断章七二。
新版『西田幾多郎全集』第五巻「永遠の今の自己限定」 (p.148)

 もう一度 『パンセ』の和訳 本文から、今度は前回(9月6日)と同じ長さで、引用してみます。

われわれが想像しうるかぎりの空間のかなたに、われわれの思考を拡大しても無益である。われわれの生みだすものは、事物の現実にくらべるならば、たんなる微分子にすぎない。それはその中心をいたるところに持ち、その周辺をどこにも持たない無限の球体である。

 どうやら、パスカルは、
「それはその中心をいたるところに持ち、その周辺をどこにも持たない無限の球体である」
という、その対象を、「空間」 のこととしているようです。
 つまり、パスカルが語っているのは、《神》ではなく〈宇宙〉の大きさのことと思われます。
 パスカルの言葉に、《神》の概念が含まれていないかといえば、含まれているとも、いえましょう。
 が、それは、『パンセ』断章の文脈から、各自により判断されるべきことがらとも、思われます。
 原文はよくわからないのですが、引用した和訳が該当箇所であるとすると、「神」の記述はそこにはないことになります(直後にはあります)。
 少なくとも、その引用文の箇所だけからは、《神》は間接的にしか、現れてきません。
 すなわち、無限を創造した、超越者として……。
 また、西田幾多郎自身の文脈からしても、それが《神》である必要はなく、〈宇宙〉あるいは〈世界〉のことであっても、特に問題はなさそうなのですが、
「パスカルは神を周辺なくして到る所に中心を有つ無限大の球」にたとえている
と、書いてしまったのですね。
 ですが、そういう「幾何学的神」の表現を、パスカルはどう考えていたのでしょうか。

――いずれにせよ。
 パスカルと同様に、西田幾多郎も、世界に《神》の影を見ていたと推測できます。
 しかしながら、「永遠の今の自己限定」 の 〈永遠の今〉 は、有限な宇宙では、「永遠」 に続くはずもなく、物理的な話ではなくなってしまいますので、これは哲学的 「形而上学的考察」 なのである、と、しておきましょう。
 あえていうならば、〈延々の今〉であれば、かろうじて現実にかかわってくるとも、主張できるかもしれません……。


無限:永遠の今
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/infinity.html

2016年9月6日火曜日

永遠と無限

 パスカル 『パンセ』 七二 (一九九)
を参照すれば、次のように書いてあります。

われわれが想像しうるかぎりの空間のかなたに、われわれの思考を拡大しても無益である。われわれの生みだすものは、事物の現実にくらべるならば、たんなる微分子にすぎない。それはその中心をいたるところに持ち、その周辺をどこにも持たない無限の球体である(2)
 (2)  このことばをアヴェはエムペドクレスに帰している。パスカルはそれをモンテーニュの『エセー』中のグルネの序言で読んだのであろうという。 
〔由木康訳 『パンセ』 (p.34,40) 1990年11月20日 白水社発行〕

 前回(9月3日に)書いたように、アインシュタイン以来、宇宙はどうやら有限であろうということに、なったらしいのですが、パスカルの時代は、そうではなく、宇宙も神も無限を基本としていたのです。
 そのことは、現代にも、哲学的には、受け継がれているようです。
 でも、歴史的時間的にも限りある宇宙の中で、永遠や無限を想定して語ることに、どのような結末が求められているのでしょうか。
 そういうわけで、以下は、ただの独語(ひとりごと)として……

オン・ザ・ロード


 ぼくたちはいつだって、道の途中を生きている。
 だからいつだって、〈いま〉の上で歩み続ける。
 いま、ここで、何かが問われる。
 だけどそれは、永遠にくり返されるわけじゃない。
 ぼくたちが限りあるのは、つまり、宇宙が有限だからなのだろう。
 それでも、無限に生きたいひとたちはそう生きればいい。

2016年9月3日土曜日

境界線の向こうは

とろけるチーズの幾何学


図形というと、算数や数学の話になって、とっつきにくい気がするけど、
それがたとえば〝とろけるチーズに描かれた絵〟だとすると、
少しは興味が出てくるかもしれない。
トポロジー=位相幾何学」とはそういう〝絵〟や〝地図〟の話だとしよう。
〝とろけるチーズに描かれた地図〟が、とろけた後の、そういう図形の話だ。

 さてさて、かりに地球が、ゴムボールのようなものだとして。
 北極から赤道までの長さを測って、それを 1 万キロメートルだとしました。
 これは、歴史上の実話です。
 だから実際に、地球を 1 周すると、4 万キロなのです。
 円周の長さは、直径×円周率なので、逆に、4 万キロを 3.14 で割ると、地球の直径が、大ざっぱには、計算できます。半径は、その半分になります。
 そもそも、地球の長さを実際に測ったのは、大昔で、短い距離を測ってから、それで計算した結果を、1 万キロだということにしたのです。
 だから、測定に誤差はつきものなのだし、そもそも地球は真ん丸ではないので、
「地球を 1 周すると、4 万キロなのだ」というのは、おおよその話にすぎません。
 実話、というのは、このように、おおよその話にならざるを得ないのですね。

それを、算数とか数字で表現すると、いかにも正確無比に見えてしまう。
地球儀を赤道で、スパッと切ると、切り口は、ふつう円に決まっているが、
ヒマラヤ山脈なんかの高低差を考え始めると、それがだんだん正しく見えなくなる。
だから、ある程度デコボコした地球儀も必要になってくる。

 ここで、A4 サイズのコピー用紙を持ってきて、それにくるりと丸を書いてみましょう。
 線の端がくっついていないと、図形の内側と外側のさかいめが、はっきりしないのでご注意。
 A4 のコピー用紙が、とろけるチーズで、それがチンされると、丸の形がいびつになります。
 持ち上げようとすると、どんどん、わけのわからない形になっていきます。
 その形を扱うのが、どうやら「トポロジー=位相幾何学」とかそういうものらしいのです。

 さて、ここで問題です。
地球の「北半球」と「南半球」では、どちらが図形の内側と、いえるでしょうか。

どういうことなのか。
A4 のコピー用紙のかわりに、ゴムボールに丸を書いて、丸の内側を塗りつぶしてみる。
それを、「トポロジー=位相幾何学」的に、むにゅっと、ひろげて、
どんどん大きくしていき、反対に、外側をどんどん小さくしていく。
すると、内側と外側が、反対に見えてくる。塗りつぶされているのが、外側だと、そう思う。

 だったら、図形に、〝内側と外側〟の区別なんて、意味がなくなってきます。
 あるのは、境界線の〝あっちとこっち〟でしかなくなります。

地球の「北半球」と「南半球」の場合、赤道がまっぷたつにしているから、判断できかねる。
だけど、赤道の位置がずれたりすると、
大きい方が〝外側〟で、小さい方が〝内側〟だと、いえるかもしれない。

 けれどもあいにく「トポロジー=位相幾何学」では、最初から大きさに意味はありません。
 では、ゴムボールではなく、無限大の大きさをほこるコピー用紙に描かれた図形だと、どうなるでしょう。
 これだと、どうあがいても、〝内側〟は〝内側〟のままのような気がしないでもありませんが……。

アインシュタインの「静止宇宙」モデル


 ここで、宇宙の大きさが、有限か、無限か、という話になります。
 地球から見て、宇宙はどっちかにずれて、つまりかたよって、見えるわけじゃないようです。
 すると、「地球は宇宙の中心に存在する」ということにもなりかねません。
 そんなこんなで、「宇宙は無限大だ」ということも出てきます。
 無限大の大きさに、中心となる位置は想定不可能だから。

さて、アインシュタインが「一般相対性理論」を発表したのは、1915 年で、
その翌年が、その一応の完成の年だともされている。
「一般相対性理論」というのは、〈重力は時空のゆがみだ〉という内容らしい。
1917 年の論文では、それに続いて、
〈時空は球体の表面のように有限だ〉という、計算結果に基づく、理論が出てくる。
それを、アインシュタインの「静止宇宙」モデルという。
これ以降、「膨張宇宙」モデルも、〝膨 [ふく] らむ風船の表面〟で語られることになる。


 そういうわけで、「宇宙に中心はないけれど、有限の大きさをもつ」ということになりました、とさ。
めでたし、めでたし。