2016年5月7日土曜日

神の備えを〈摂理〉といい「神の道」を人間が諭 [さと] す

 その昔、アブラハムが残したという名ゼリフがあります。
 英訳された、「創世記」 22 章 14 節の、
“On the mountain of the LORD it will be provided.”
〔『バイリンガル聖書』 2nd Edition (p.38) 〕

――いわゆる 「主の山にそなえあり」 というフレーズを見れば、そこから 〈providence〉 が派生していくのは、容易に感じられます。
 〈providence〉 の和訳が〈摂理 (せつり) 〉です。

 古来より問題とされたのは、因果応報の神は、人類の思い込みなのか?――という問いです。
 古代ギリシャのエピクロス的には、「完璧な神々が人類に関わろうはずがない」ということになります。
 因果応報の神々は、人類の誤った思い込みによる迷信の押しつけにすぎぬという、思い込みなのですね。
 論理的にいって、完全なものが、不完全なものに関係するする道理がない、というのは、所詮は、「人の道理」によって「神の道理」を判断した結果にすぎないということが、エピクロス派には思いつけなかったということでしょう。
 ここから、「人の道」に照らされた神々のあるべき姿を観想する「神学」とやらが、花盛りとなります。
 ――たとえば、人の道に照らして、神々は非道である、といったって、「神はそもそも人間ではない」 のですから、ナンセンスな話です。
 それに警鐘を鳴らしたのが、イエスの時代の直前を生きた政治家キケロなのですが、時を経て、1711 年に生まれたヒュームにはそれすらも、エピクロスの言説なのでした。
 1707 年にイングランドとスコットランドが合併したため、英国の哲学者とひとくくりにされるスコットランド人デイヴィッド・ヒュームが書いた一節は、いわゆる神義論(しんぎろん)のあちこちで、見かけます。

 エピクロスの古い質問は、今なお未返答なのだ。
 神は悪を阻止する意志はもっているが、できないのであろうか。とすれば神は不能だ。彼はそれができるのに意志しないのであろうか。とすれば彼は悪意的だ。彼は能力があり、意志もあるのであろうか。とすればどこから悪が生じているのか。
〔法政大学出版局刊『自然宗教に関する対話』第 10 部 (p.116) より〕

 ところで「摂理」という日本語は、和訳された、ローマ人キケロによる『神々の本性』で繰り返されますが、ラテン語だと ”prōvidentia“ となります。
 キケロは、神の壮大にして深遠な計画である「摂理」を語りつつ、ひとつの結論として、神々の本性については曖昧模糊(あいまいもこ)としているのだと、主張して――残念ながら、その後断章となります。
 キケロとしては、神について何をごじゃごじゃわかったようなことをいっているのか、ということなのでしょう。

 そうするってえと、ひとが神について語り、神に対して有罪無罪という、おこがましさは、最も「傲慢(ごうまん)」なのではないかとも思われてくるのでした。


〈介入する神〉の摂理
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/quest/providence.html

2016年5月5日木曜日

神への長い道

 小松左京著 『神への長い道』 が ハヤカワ文庫 JA で発売されたのは、昭和 50 年 7 月 15 日のことでした。
 その最後に収録されている 「あとがき」 には、《ハヤカワ・SF・シリーズ「神への長い道」より再録》 と付記されています。219~220 ページより、抜粋しますと、
「先史時代以来、一九四五年までの技術発明を、高さ十センチのグラフにあらわすなら、一九四五年以降、現在まで、わずか二十年間の発明は、十三階建てのビルの高さで表現しなければならない、ということです。」
と、ありますので、「あとがき」が書かれたのは、1965 年頃であることが推測できます。
 それが文庫化された昭和 50 年というのは、1975 年になります。その 5 年前、1970 年には、大阪で万国博覧会が開催されています。
 アポロ 11 号が月に着陸したのが、その前年の 1969 年で、万博会場のアメリカ館には、月の石が展示されていて、まさしく長蛇の列のにぎわいなのでした。

 スタンリー・キューブリック監督が映画化した 「 2001 年宇宙の旅」の公開 は、1968 年のことです。同年に、作家アーサー・C・クラークが小説版を、発表しています。
 その映画と小説で描かれた、〈スター・チャイルド〉とはまた異なった、宇宙的進化の物語が「神への長い道」なのですが、単行本一冊の分量には遠く、文庫本で 90 ページ分に足りない長さです。したがいまして、文庫本も作品集となっています。
 最初の刊行から、もう、半世紀が過ぎて、小松左京も故人となりました。

 現在の科学が宗教の代替品とみなされてからも、一世紀以上が、経過しました。

「科学は宗教から出て、認識的および知的機能にかんするすべての面で、宗教にとって代ろうとしている。」
〔デュルケム 1912 年『宗教生活の原初形態 下』「結論」(岩波文庫より)〕

 思えば、人類は、神への長い道を、辿りゆこうとしてあがいているのかも知れません。しかしながら、科学と宗教が合体した暴虐は、かえってその道を遙けく遠くしているようです。
 小松左京が描く 未来のスケッチ は、その最後のシーンに、モノローグを組み入れます。
「おれたちよりも、もっともっとすばらしい存在を、おれたちを踏み台にして、生み出してくれるのでなければ、踏み台にされた猿たちは、浮かばれない。――」
と。

 そして再録された「あとがき」には、宇宙空間から見た地球、という、印象的なフレーズが、221~222 ページに記されています。

SFファンなら、誰でも見たことのあるあの惑星を見てしまった今となっては……裸形の「時間」と「宇宙」の中に吊り下げられた、あのごつごつした惑星を見てしまった今となっては、


〈神のロゴス〉とその義
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/quest/Logos.html

2016年5月3日火曜日

アブラハムの〈燔祭〉の物語と……

 海外で、禅について訊かれて「ビーイング・オン・ザ・ロード」と名ゼリフを残したのは、沢木耕太郎著『深夜特急』(第三便)でした。
 道に関する英語表現といえば、日本語では、道を極(きわ)めると書いて「極道(ごくどう)」といいますが、そう自称し、呼ばれるひとたちは、一般的に「ジャパニーズ・マフィア」と翻訳されるようです。

 さて、〈燔祭 (はんさい)〉というのは、旧約聖書中で最も重要である、《神》にささげる儀式のように理解できるのですが、最近では、その翻訳語を用いなくなっているようです。どうやら、〈燔祭〉のギリシャ語訳を音写した英語の「ホロコースト」がもっぱら「ユダヤ人の大虐殺」を示す用語として一般に流布しているからのようです。
 儀式としての「ホロコースト」の日本語訳が「燔祭」なのです。
 その「ホロコースト」に該当するギリシャ語は、新約聖書中にも、二度記述されているようです。形骸化した儀式ではなく、そのもとになる信仰こそが重要なのだという、文脈においてです。

 アブラハムの燔祭の物語というのは、自分の長男である、たったひとりの子を、〈燔祭〉の犠牲としてささげなさい、と《神》に命じられた男の顚末です。〈燔祭〉とは自分の身代わりとなる犠牲を丸焼きにして《神》に献納するというものですから、これはもう道を極めようとする「極道筋」の物語であると、部外者には思われるのですが、なぜか、「これは旧約聖書中最も美しく語られ、最も感動深い物語である」(『口語 旧約聖書略解』 p.38 )という、解説がありました。

 よくわからないので、今回は、人身御供(ひとみごくう)に関連する旧約聖書の記述と解説を、抜き書きして、羅列してみました。
 それと、新約聖書の、二度の記述の箇所をギリシャ語原文を含めて。

 アブラハムの場合には、その人身御供は結局未遂という結末に終わるのですが、今回の抜き書きで引用しなかった「士師記(ししき)」 11 章では、《神》への誓いを全うするためにイスラエルの《神》に、ひとり娘を燔祭の犠牲としてささげたエフタという人物のことが語られています。
 また、『口語 旧約聖書略解』(p.923) で人身御供譚(たん)として挙げられていた「列王紀上」 16 章 34 節は、そうではないという説明が、該当箇所の「註解」で行なわれています。
 それについても、引用文を省いたので、この場で以下に抜き書きしてみます。

彼はその基(もとい)をすえる時に長子アビラムを失い、その門を立てる時に末の子セグブを失った。主がヌンの子ヨシュアによって言われた言葉のとおりである。
〔『口語訳聖書』 p.506 〕

二人の子を失ったのは、難事業を遂行するために犠牲にささげた迷信的行為であろうとも解釈されたが、ここではとにかく二人の子を失ったことはヨシュアが誓ったのろい(ヨシ六・二六)が、実現したものと解釈されている。
〔『口語 旧約聖書略解』 p.351 〕

ヨシュ六・二六を見ると、ヨシュアは
 《この町エリコを再建しようとする者は
 主の呪いを受ける。
 基礎を据えたときに長子を失い
 城門を建てたときに末子を失う》
 と誓っている。この誓いが、アハブの治世に成就したというのである。
〔『新共同訳 旧約聖書注解Ⅰ』 p.620 〕

 どうやらこれは、人身御供譚ではなく、《神》の呪いの物語のようです。
 ――そもそもは「ヨシュア記」 6 章 26 節を引用したものなのですね。

 繰り返しますと、アブラハムの場合は未遂で終わりました。
 その後は、長男は「贖(あがな)われる」ようになったということになりますが、「あがない」には「買い戻す」という意味があります。


アブラハムの燔祭の物語と……
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/quest/burntOffering.html

2016年4月28日木曜日

ヨシュアの木

 旧約聖書の最後のほうに配置されている「ゼカリヤ書」では、ヨシュアがオリーブの木に象徴されています。
 メシアには「油そそがれた者」というもともとの意味がありますが、メシアにそそがれるその油は、オリーブオイルなのですね。その、オリーブの木の枝と油そのものに、ヨシュアはなぞらえられているわけです。
 そこではヨシュアと、もうひとりゼルバベルという人物が、両者ともに、メシアの候補となっているようです。
 ちなみに、ゼルバベルというのは、「バビロンの裔(バビロン生まれ)」という意味らしいです。

 その、ヨシュアの罪を訴える検察側の「告発者」が〈サタン〉であり、それは「検察側の証人」のような役割りを果たしています。その役職名が、人格的存在に対する名称となって用いられている、最初の例が、この「ゼカリヤ書」ということのようです。
 成立の年代は「ヨブ記」とほぼ同時期ですが、「ゼカリヤ書」のほうが少しだけはやいようなのですね。

 そもそもは、「妨げるもの(道をさえぎるもの)」という意味で登場したサタンですが(「民数記」 22 章 22 節)、それが「敵対者」という意味でもっぱら使われるようになり(「サムエル記下」 19 章 22 (23) 節など)、その後、人格的存在となってからは、人類を告発する者として、また《神》の使い、すなわち天使として、そしてダビデを誘惑する者として、旧約聖書には、三度、その名を刻んでいます。しかし旧約聖書では〈サタン〉はついに、《神》の古くからの「敵対者たち」とは、合体することはありません。
 その意味で、〈敵対者〉という固有名詞としての観点からは、この時点では未だ〈サタン〉は発展途上にあるといえるでしょう。

 ダビデを誘惑するという、最後の例(「歴代誌上(歴代志上)」 21 章 1 節)では、もともとは〈サタン〉ではなく《神》によるものとされていた伝承(「サムエル記下」 24 章 1 節)が、ダビデを動かしたのは敵対者〈サタン〉なのだと、そう置き換えられてしまったといういきさつがあります。
 信仰の深い(?)新しい記録者によって、それが真実であると、書き換えられたのです。

 そしてその聖書における信仰の最初は、「契約」にほかなりません。
 力ある、真実の《神》を畏怖し――おそれ――従うがゆえに、《神》はその信仰者を保護してくれるという、古来からの契約に基づいたものなのです。その古くからの――そう、旧くからの――契約を記した書が、『旧約聖書』というわけです。

 敵対者〈サタン〉が人格的存在と化して、《神》は「正義」の神へと、こちらも変貌を遂げていきます。
 ようするに悪いことは全部悪魔のせい、というのは、《神》は「すべての神」から「善なる神」に矮小化されてしまったからなのでしょうか。


the Joshua Tree
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/quest/JoshuaTree.html

2016年4月25日月曜日

オン・ザ・ロード

 〈SHOGO HAMADA ON THE ROAD〉 というのは、ミュージシャン浜田省吾のツアー・タイトルであり、また 〈ON THE ROAD〉 は彼自身の初のライブ・アルバムでもある。
 アルバムは、1982 年 2 月 25 日に発売されたが、スタジオ録音であるタイトル曲の “ON THE ROAD” も、また、シングル盤として同時発売されている。
〔参考: ON THE ROAD (アルバム) - Wikipedia 〕

 おそらくは、そのツアー・タイトルは「巡業中」という意味を含んでいるだろう。
 辞書によれば、“on road” で「〔野球などの〕巡業」という意味となり、“on the road” で「巡業中」となる。
 また、“off-road” は「〔道から離れた〕荒れ地の」という意味の語句となるので、“on-road” はわれわれ日本人には、「一般道路」よりも「舗装路(の)」という意味合いが強くなっている――。

 “ON THE ROAD” は数年前にフランシス・コッポラ総指揮のもと製作された映画でもある。
 原作の同タイトルの小説は、1957 年に発表されたベストセラーだ。
 そこには「放浪」という意味が入ってくる。
 新しいアメリカを求めて旅した作者は「ビート・ジェネレーション」という言葉を生み出した。

 一方、日本にも旅のロングセラーがある。沢木耕太郎著『深夜特急』だ。
 その「第十三章」に、「ビーイング・オン・ザ・ロード」という言葉がある。
 ユーラシア大陸を西に向かう旅の途中の安宿で、禅について問われ、彼はこう答えるのだ。

「禅とは……途上にあること……だと思う」

 最高な、フレーズだ。
Where is the street has no name
と、頭に浮かんで。

今回アップ・ロードしたページは、次のように結んだ。

 1987 年に発表された U2 の名盤 “The Joshua Tree” は、アイリッシュ・アメリカンである彼らが見た「神の国」アメリカの原風景を「魂の叫び」に昇華したアルバムだ。
 その一曲目のタイトルが、〈Where The Streets Have No Name〉 である。
 その〈名もなき街〉は、「地図にない」場所なのか、それとも「地図がない」場所にあるのか……。

 旧約聖書に「ヨシュアの木」を見つけた、と思った。
 オリーブの木が、ヨシュアの象徴として表現されている。


on the road …… 途上、のこと
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/quest/ontheRoad.html

2016年4月20日水曜日

大口をたたくサタンのツラ(顔)は輪郭からハミ出ても表現可能であるか?

 ――ようするに、絵を描けないから、文字で勝負しようということになる。
 すると、映像表現不可能な描写を編み出したくなってくる。

 ということで、その一例が「輪郭をはみ出すデカいツラ」なわけだ。
 誰の顔でもよかったのだが、ここは名のあるところで、口から出まかせいいたい放題しそうなサタンにモデルになってもらうことにした。

 旧約聖書のあいだは、ただの化け物ごときに象徴されていた神の敵も、サタンと合体することで、人語を解し、発するようになる。
 ――すると、やにわに、例えば、新約聖書冒頭の「マタイ福音書」第 4 章で、さっそくイエスを試みはじめたりする。
 サタンを拝めば、全世界の栄華すらも、イエスの思いのままだという。
 サタンは、偽りの父であり、またこの世の王であるから、イエスに地上の権力を与えることも楽勝に可能なのだ。
 なんだか、ここは嘘をついていないような気がするが、サタンにもある程度の説得力は必要なわけで……

 そういう次第で、サタンの態度は、横柄とはいえないけれども、とにかくデカいのである。
 そういう態度に対しては、一般に「大口をたたく」という。「大きな顔をする」ともいう。
 そういうわけで、どんどん顔が大きくなっていくのである。
 よくカタカナで書かれる「つら」、というのはそういう顔のことだが、漢字では「面」という字になる。
 その理でことわざの「カエルのツラにションベン」を漢字で書くと、「蛙の面に小便」となる。

 その一方で、サタンのツラはどんどん大きくなっていくのである。
 デカいにもほどがあろうと、よく見れば、その外縁は明らかに枠をはみ出ていた。
 輪郭からはみだしつつも機能する顔というのは、あるいはサタン特有の超常現象であろうやも……?

2016年4月14日木曜日

正統と異端 —— 新たなる闘争

 今回の引用文献では、かのオリゲネスが 〈レビヤタン〉 と 〈ディアボロス〉 を「ヨブ記」のなかで同一視する様子がうかがえました。〈ディアボロス〉というのは、ヘブライ語の〈サタン〉をギリシャ語に翻訳した際に用いられた語句です。
 つまりここから、敵対者 〈サタン〉 は、ついに「古き竜」と同一視される道を辿る というか、合体していくことになるわけです。

 また、イエスの活動以降は聖書の闘争神話に新たなる局面が加わったようで、それは、異教の神との闘争のみならず、キリスト教内部での「正統」と「異端」の論争にまで発展していきます。

 そこまでを、ひと区切りとして、漠然としてはいますが感想めいたものをひとつの問いかけとして記しましたので、次にコピペします。

――
 なんだか、〈Lucifer〉 というキーワードで、思考停止に陥っているような気がしないでもない。
 つまり、「いうまでもなく」というのは、日本語にもよくある思考停止のキーワードなのだが、海外でも同様に、「みなさんよくご存じの」〈ルシファー〉という次第であるような気がするのだ。
 そして、もしかすると、その延長上に、「正統」と「異端」の論争があるのではなかろうか。
 無論――「いうまでもなく」、「正統」とは自説のことであり、「異端」とは自説に対立する他の諸説のことであって、最終的に勝者が「正統性」を勝ち取りその他は「異端」として世間から排斥されることになる。

 学者・研究者であれば、自説の正統性などではなく、何が正しいのか、を論証すべきであろうことは誰しも認めることに違いないのだ。
 ところが、結局は、自己の正当性のみをふりかざして、それが「唯一の真理」であると主張して、歴史は、そのように繰り返されてきた。
 すなわち西欧の多くには、「唯一の神」が論拠の大前提としてあるのだから、そこに「唯一の真理」がなければならないのだろう。
 ところが旧約聖書には複数の可能性が記述されていることは、すでに見てきたとおりだ。そのことは、新約聖書でも、同様なのである。
 彼らの『聖書』のもとに選択肢はひとつではないことが、そこに示唆されているのだ。
――

 さて……。
 この数か月間、『聖書』に関して日本人には不案内であろう〔と推測される〕ことがらを、列挙し、原典やら学説やらを調べつつ書き連ねてきたのではあります、が……。
 ここに至り、どうやら「本当のこと」は西欧の(少なくともアメリカの)キリスト教徒でも、ほとんどの大衆は知らないようだと、そういうことが書いてある書籍に遭遇してしまいました。
 それを読めば、まるで、本当のことを伝えれば、信徒たちの信仰が揺らぎかねないような、教会の態度ではありませぬか。
 この世の王とは、やはり教会のことなのですか?


正統と異端 ―― イエス以後・新しい闘争の時代
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Messias/newCombat.html