2016年4月14日木曜日

正統と異端 —— 新たなる闘争

 今回の引用文献では、かのオリゲネスが 〈レビヤタン〉 と 〈ディアボロス〉 を「ヨブ記」のなかで同一視する様子がうかがえました。〈ディアボロス〉というのは、ヘブライ語の〈サタン〉をギリシャ語に翻訳した際に用いられた語句です。
 つまりここから、敵対者 〈サタン〉 は、ついに「古き竜」と同一視される道を辿る というか、合体していくことになるわけです。

 また、イエスの活動以降は聖書の闘争神話に新たなる局面が加わったようで、それは、異教の神との闘争のみならず、キリスト教内部での「正統」と「異端」の論争にまで発展していきます。

 そこまでを、ひと区切りとして、漠然としてはいますが感想めいたものをひとつの問いかけとして記しましたので、次にコピペします

――
 なんだか、〈Lucifer〉 というキーワードで、思考停止に陥っているような気がしないでもない。
 つまり、「いうまでもなく」というのは、日本語にもよくある思考停止のキーワードなのだが、海外でも同様に、「みなさんよくご存じの」〈ルシファー〉という次第であるような気がするのだ。
 そして、もしかすると、その延長上に、「正統」と「異端」の論争があるのではなかろうか。
 無論――「いうまでもなく」、「正統」とは自説のことであり、「異端」とは自説に対立する他の諸説のことであって、最終的に勝者が「正統性」を勝ち取りその他は「異端」として世間から排斥されることになる。

 学者・研究者であれば、自説の正統性などではなく、何が正しいのか、を論証すべきであろうことは誰しも認めることに違いないのだ。
 ところが、結局は、自己の正当性のみをふりかざして、それが「唯一の真理」であると主張して、歴史は、そのように繰り返されてきた。
 すなわち西欧の多くには、「唯一の神」が論拠の大前提としてあるのだから、そこに「唯一の真理」がなければならないのだろう。
 ところが旧約聖書には複数の可能性が記述されていることは、すでに見てきたとおりだ。そのことは、新約聖書でも、同様なのである。
 彼らの『聖書』のもとに選択肢はひとつではないことが、そこに示唆されているのだ。
――

 さて……。
 この数か月間、『聖書』に関して日本人には不案内であろう〔と推測される〕ことがらを、列挙し、原典やら学説やらを調べつつ書き連ねてきたのではあります、が……。
 ここに至り、どうやら「本当のこと」は西欧の(少なくともアメリカの)キリスト教徒でも、ほとんどの大衆は知らないようだと、そういうことが書いてある書籍に遭遇してしまいました。
 それを読めば、まるで、本当のことを伝えれば、信徒たちの信仰が揺らぎかねないような、教会の態度ではありませぬか。
 この世の王とは、やはり教会のことなのですか?


正統と異端 ―― イエス以後・新しい闘争の時代
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2016年4月8日金曜日

〈イエス〉と〈インマヌエル〉

 イエスは、インマヌエルである、という聖書の記述についてです。

 ラテン語聖書では〈インマヌエル〉は 〈Emmanuhel〉 もしくは 〈Emmanuel〉 であり、これはギリシャ語に音写したヘブライ語をラテン文字表記したものなのです。
 ちなみに、ラテン語表記の違いは次のようになります。

VULGATA 聖書では、〈Emmanuhel〉
NESTLE-ALAND 聖書では、〈Emmanuel〉

 この〈インマヌエル〉、もしくは〈エンマヌエル〉ですが、ヘブライ語の冒頭の音が、ギリシャ語では「イ」から「エ」に変化した音で習慣化して発音されて、定着したようなのです。そういう次第でなのかどうか、ギリシャ語研究者によるカタカナ表記は〈エンマヌエル〉となっているようです。
 もうひとつちなみに、日本語訳聖書での表記は主だったところで「口語訳」「新共同訳」「新改訳」のいずれも〈インマヌエル〉となっています。原典であるヘブライ語から翻訳すると、そういうことになるのだと思われます。
 そいうわけで、このたびは基本的に〈インマヌエル〉と表記することにしました。

 その、〈インマヌエル〉の意味は英語では “God with us”、これを日本語に訳すと「神は我らとともにありとなりまして、上記のどの日本訳聖書もそういうような意味の訳文となっています。
 そして、〈イエス〉の意味は『新カトリック大事典』第 1 (p.305) によりますと YH(主なる神)は救いである」ということのようです。
 このことは『新共同訳 新約聖書注解Ⅰ』(p.36) では、
  神名「 YHWH 」と「救う」(ys‘) を結びつけたもので、「主は救い」を意味する
と記述されています。
 また、『旧約新約 聖書大事典』(p.102) には、その意味について「フィロン『改名』121 参照」とありますが、田川健三氏は『新約聖書 訳と註』 第一巻 (p.512) で、次のように述べておられます。

なお念のため、「イエス」という名前は「主(神)が救い給う」という意味だ、という説明は、語義的には間違いである。単に「救う者、救いに関わる者」といった程度の意味。単語そのものには「主が」という意味は含まれていない。しかし宗教的な意味づけを好む人たちが、フィロンの例からもわかるように、これに「主の救い」という宗教理念を読み込んだのである。語義と、意味づけは違う事柄だから、混同してはいけない。

 どちらの説を支持してよいものやら、まったくもって、さっぱりわかりませぬが、なんとなく、「主が救う」ほうが、「マタイ福音書」の文脈としては、うまくまとまりそうです。

マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。
…………
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
 その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
『聖書 新共同訳』「マタイによる福音書」第 1 章 21, 23 節

 こういうことも、各自の判断が、それぞれに、重要なのだと思われます。


Emmanuhel :「イザヤ書」と「マタイ福音書」
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2016年4月4日月曜日

〈ティアマト〉と〈テホーム〉ないしは〈ラハブ〉

今回は、〈ラハブ〉と〈ラハム〉が同一視されない理由について、
調べておこうと、思ったのだ。それは簡単に解決した。
 次のように、調べがついたので、コピペする。

〈海の怪獣ラハム (the monster Lahamu)〉を造った〈ティアマト(フブル)〉は、以下の解説文に見るように、〔「エヌマ・エリシュ」の〈ティアマト〉は〕聖書の〈ラハブ〉と同じであるという解釈さえある――のだけれども、〈ラハブ (Rahab)〉が〈ラハム (Lahamu)〉と同一視されることはない。なぜか?――と、いう問いはここに至れば愚かともいえようか。それはたとえば、英語で「光・軽い (Light)」は同じ語句といえようが、「右・権利 (Right)」とは異なる語句なのだということなのである。
〔参照:英文「エヌマ・エリシュ」

以下の解説文」というのは、今回引用させていただいたもので、↓ のページにあるもの。

かように、あっけない話だったので、次に、
〈ティアマト〉と〈ラハブ〉が同一視される理由について、調べてみた。
 結論だけ、コピペする。

 さまざまな起源をもつヘブライの怪獣たちが、海獣という「くくり」で、〈ラハブ〉と同一視される過程があったようだ。
 そうして、バビロニアの〈ティアマト〉はヘブライの〈テホーム〉から〈ラハブ〉へ、そこから〈ヤム〉さらには〈タンニーン〉や〈レビヤタン〉と同一視されていくことになった、と思われるのである。
〔経緯も含めて→ まとめとして――。 参照〕


ちなみに〈ヤム〉というのは「海」のヘブライ語だ。
〈テホーム〉というのは、前回にも少々触れたが、ヘブライ語の「深淵」という単語で、
「創世記」第 1 2 節に早くも登場する。

〈レビヤタン〉の訳語としても用いられる、ギリシャ語の〈竜〉は、
そもそもは、海の怪物〈タンニーン〉であり、その初登場は、「創世記」第 1 21 節であった。
聖書の〈レビヤタン〉は、「鰐(わに)」になったり「鯨(くじら)」になったりもするが、
念を押しておくと、その英語読みが〈リヴァイアサン〉なのである。

「エヌマ・エリシュ」の〈ティアマト〉は、いわゆる〈海〉の化生 (けしょう) した怪物なのであるが、
ヘブライ神話でも、その〈海(ヤム)〉の制圧が、「出エジプト記」で具体的に語られる。
――「出エジプト記」で二分されたのは、〈テホーム〉だが、それはつまり〈ヤム〉であり、
「ヨブ記」などでは、〈ラハブ〉という表現ともなり、〈レビヤタン〉ともなる。
〈ティアマト〉が海であるということは、辞書に次のように記述されている。

バビロニアの叙事詩エヌマ・エリシュでは、ティアマト(塩水の海)とアプスー(淡水の海)から神々が誕生する。
『旧約新約 聖書大事典』(p.1023)

聖書では、「創世記」第 1  6 節で、
「大空」の上下に二分された〈水〉の間に世界が形成される。

 どうやら、聖書の闘争神話も、ここから始まっているようだ。

もとのヘブライ語の表記などは、このたびアップしたページで、確認してくだされ。
 ↓

レビヤタンとラハブ 2
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Messias/Rahab.html

2016年3月28日月曜日

世の始めからの 〈δράκων (drakon)〉— Dragon —

 旧約聖書「創世記」第 1 2 節は、このように書かれている。

地は混沌であって、闇が深淵の面 (おもて) にあり、神の霊が水の面 (おもて) を動いていた。

 で、もって、旧約聖書「創世記」第 1 21 節には、「第五の日」の仕事として次のようにある。

 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。

 そして聖書の《神》は、「第六の日」の仕事として、人を創造する。
 だから、「第五の日」の 〈大きな怪物〉 は、人より先に造られている。
 風の噂では、この 〈大きな怪物〉 が、かのホッブズの著作タイトルとしても名高い 〈リヴァイアサン〉 であるともいう。
 その、もとのヘブライ語はここにはカタカナ表記するが、〈タンニーン〉 である。
〈タンニーン〉のヘブライ語はこちらのリンクを参照されたし『旧約聖書 ヘブル語大辞典』(p.1404)

上の参照箇所(リンク)の引用を続いて見るなら、『新聖書大辞典』(p.1501) には、
「りゅう 龍 Dragon 」のヘブライ語は 〈タンニーン (tannin) が該当し、
それが「七十人訳ギリシャ語聖書」などのギリシャ語訳では、〈δράκων (drakon)〉
すなわち英語の 〈 Dragon 〉 なのだと、そのように記述されている、と私見する。

 つまり、ヘブライ語 〈タンニーン〉 はギリシャ語 〈 drakon 〉 となり、それが英語の 〈 Dragon 〉 となった。
 それを日本語訳では、〈龍〉 という。
 そういうことであれば、〈龍〉は「第五の日」に創造されたといえるかもしれないが、もしかすると、この場合の〈タンニーン〉は〈海の巨獣〉という意味では、リアルに「鯨」を指すのかもしれない。
 そして聖書では、「鯨」を表現するのに、「レビヤタン」すなわち〈リヴァイアサン〉を用いたりするようだ。
 そういうことをつなげていけば、「鯨」という〈リヴァイアサン〉は、「第五の日」に創造されたといえよう。

しかしながら、次回に、そのあたりを辞書で詳しく見る予定なのだが、
聖書の「レビヤタン」は、〈リウィヤーターン〉のようなカタカナ表記になりそうなヘブライ語が、
別にちゃんとあるのである。

また「創世記」第 1  2 節にある 〈深淵〉 のヘブライ語 〈テホーム〉 は、
『エヌマ・エリシュ』 の 〈ティアマト〉 に関連するらしいが、それもただちに 〈リヴァイアサン〉 となるわけではない。
〈リヴァイアサン〉 は以前に見たように「ウガリット」の神話に由来するようだ。

――再度、しかしながら。実は、
今回は、そのことよりも、ヘブライ語 〈タンニーン〉 がギリシャ語 〈 drakon 〉 となったのなら、
新約聖書「ヨハネ黙示録」第 12 9 節にある、次の一文と関連づけて考えてみたかったのであった。

この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。

〔以上の聖書の引用文はすべて『新共同訳 聖書』によった〕


レビヤタンとラハブ 1
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2016年3月22日火曜日

「唯一の神」である聖書の《神》は
『聖書』を離れて 無関係に存在しうるのか?

 2003 年に設立された同志社大学一神教学際研究センター( CISMOR )発行の〔オンラインで刊行されている〕電子ジャーナル『一神教学際研究 9』 2014 3 月発行)の論文に、次のように、書かれている。

 アッシリアが西方に勢力を拡大した紀元前 8 世紀には、古代イスラエルでは偉大な戦士なる王、ヤハウェが国民の神として崇められていた。この男性神は他の神々の上に君臨し、他の神々はヤハウェに較べると取るに足りない存在でしかなかった。この頃にはヤハウェとエルが同一視されていたと考えられる(出エジプト記 6:2‐3 参照)。エルにはアシラという妻がいたため、ヤハウェとエルが一体化した結果、ヤハウェ-エルとアシラは夫婦とみなされるようになった。
マーク・S・スミス「古代イスラエルにおける一神教と神の再定義」(p.12)


 また、岩波講座 宗教 第 3 『宗教史の可能性』 2004 2 26 日 岩波書店発行)所収の「読書案内」の解説には、次のようにある。

複数の遺跡で発見されたヘブライ語碑文などからは、王国時代、イスラエルの神ヤハウェにアシェラと呼ばれる配偶女神がいたことも判明した。
月本昭男「一神教の成立をめぐって」(p.292)


 このような新しい研究によると、聖書の《神》が「唯一の神」であると主張されるようになったのは、旧約聖書「イザヤ書」の第二部に当る〈第二イザヤ書〉が大きなきっかけであるらしい。
 果たして、「唯一の神」としての聖書の《神》は〈第二イザヤ(書)〉が創造したものなのか?
 もしそうであるのなら、「聖書に創造された『聖書』の《神》」は、その『聖書』を離れて、それとは無関係に存在できるのか?――という疑問が浮かび上がってくるのだ。

 つまり、たとえば、キリスト教の神は、地上にキリスト教が存在しなくても、存在するのか? と、いうことなのだ。

その《神》が疑うことなき、創造神であり、唯一の神であるのなら、無論、人類の有無とは無関係に、存在するのであるから。

そう考えれば、
「その人」が守るべきは、彼の信仰であり、彼の《神》ではないことが理解されるようになる。
他人を犠牲にしなければ守れない信仰を持つ「その人」とは、いったい誰なのか?
――疑問は、いつも新たに浮かび上がってくる。


〈第二イザヤ〉 と 唯一の神
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2016年3月14日月曜日

〈ヘレル・ベン・シャレム〉という仮説

 エレツ・イスラエル――イスラエルの地は、地中海の東岸に位置し、そのすぐ西方には人類黎明期からの強国エジプトがあった。
 東のメソポタミアを含めそれら、地理的な位置関係は、無論旧約聖書の時代を通じてそのままなのだが、その昔、エジプトから脱出したイスラエルの民は、その後、バビロン捕囚という時代をも迎えることになる。
 当時、その一帯は、(新)バビロニア帝国の領土の一部となり、現在は、パレスチナと呼ばれるが、それは「ペリシテ人の地」を意味するギリシア語に基づく名称だ。

 現在のイスラエルの首都となっている〈エルサレム〉の語源は、最近の定説では、「イェルゥ(礎)」+「シャレム」であるらしく、それは「黄昏 [たそがれ] の神の都」を意味する言葉となる。
 そこから遙かバビロンへの道は、「夜明けの星が輝く」まさに、〈暁 [あかつき] の星〉に至る方角にある。

 イスラエルの民が建てた都市は、エジプトとバビロンを往来する、行程の途上にあった。
 したがってそこは戦火を避けられない運命にあった。だから、いまもそうなのか?
 いまも〈エルサレム〉は世界の中心にある。

 その場所を示す地図に、〈エルサレム〉の意味を重ねると、「イザヤ書」の句を思い出した。
 〈ヘレル・ベン・シャハル〉――これは、バビロンの王をなぞらえた語句とされているが、それは「夜明けの星の子」を意味する。
 ならば〈ヘレル・ベン・シャレム〉――それは、エルサレムの王が「黄昏の星の子」であったためではなかったか。

つまり、
「夜明けの星(国)の王」は「黄昏の星(国)の王」を基準にして、語られた言葉では、なかったろうか。

 しかしながら、〈ヘレル・ベン・シャレム〉と、ググってみても、いまのところあまり多くは見つからない。ちなみに――。
 上の句〈ヘレル・ベン・シャハル〉は「イザヤ書」14 12 節にあるものだが、同じ「イザヤ書」には世界を表現して次のようにある。参考までに……

日の昇るところから日の沈むところまで
人々は知るようになる
〔『新共同訳 聖書』「イザヤ書」45 6 節より〕


Canaan(乳と蜜の流れる地) と〈エルサレム〉の神
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2016年3月7日月曜日

現象としての「七転八起」

 世に、
七転八起――しちてんはっき――といい、
七転八倒――しちてんばっとう――という。

昔から、「七転八倒」はわかるが「七転八起」は理解不能であった。

だが、今年になって、突然気づいたのである。
これは「二泊三日」の旅を「七泊八日」とすることで容易に考えることができる、と。
最初の状態を「転んでしまっているという現在完了形」から始めれば、
たちどころに実現可能なものとなることは、世に明らかなことであったのだ。

――つまり?
 これをさらに「ゼロ泊何日」の規模で考えるなら、今後一度も転ばなくとも複数回にわたって起き上がることすら可能であるかもしれない、という話になるかも知れない。

 超常現象としてではなく、「七転八起」――これは実際に可能である。
 少なくとも、「七転八倒」するよりは、望ましいと思われる。

現在は打ちのめされていないという都合のいい話で始めようとするからその話が見えなくなる。

――そういえば。
決して諦めない話として、
「アポロ」というウエブページを作ってほぼ一年が経過した。

これはリアルとフィクションが混乱すると、
高名な学者によって〔実話のように〕書かれた例題から、
「〔実は、〕夢だけど、夢じゃなかったっ! 映画だった!!
というお粗末な結果が導き出されるという教訓でもありました。

そういうわけで、今回は過去ページから、以下抜粋します。
(こんな感じの内容が、当時、記述されていました、とさ!)
最初の、「現在のホームページ」公開宣言でもありますので、一周年というわけで……。
 ↓


2015年3月5日木曜日

Apollo ; Lost Moon

昨日、今までの内容を整理して、ホームページとしてアップしました
http://theendoftakechan.web.fc2.com/

本日に更新した内容は、次の通りです。
http://theendoftakechan.web.fc2.com/Apollo.html