2019年8月8日木曜日

解慕漱:《カモス》の神と《クマソ》の神

 ◯ 熊は《山の神》でもありますが、地名研究の書には、熊本はもと隈本であったという説が、述べられています。
〔金沢庄三郎/著『日韓古地名の研究』平成06年09月01日 草風館/発行「第三部 地名の研究」(pp. 399-400)

 ◯ また、クマは「おくまった」場所を指すことが、古い記録(『出雲国風土記』「飯石の郡 熊谷 [くまたに] の郷」など)に残されています。

―― いっぽう、クマだけでなく「こもる」に通じるコモについて、以前に資料を参照したことがありました。


 今年の初め(2019年1月18日金曜日)に、「神魂の神 / 赤猪の神話」と題して書いた内容から、抜粋します。

○ 日本語の〝〟は朝鮮語の〝カムカル〟と音韻が通じるのだし、また日本語の〝〟は朝鮮語の〝コモ〟であったのだろう。このことと、当時は〈カモス〉と訓まれていた「解慕漱」の語の、朝鮮半島での現在の発音が〈ヘモス〉に変化したのだとする説は、矛盾しない。これも有力な仮説のひとつと思われる。

『キトラ古墳とその時代』

Ⅴ 古代出雲と妻木晩田遺跡

 3 古代出雲にみる朝鮮文化の重層 ―― 高句麗と新羅関係を中心にして ――

 一 神魂神社とカモス神
 古代出雲における新羅と高句麗文化の累積・重層化をさぐるために、出雲東部の意宇郡・大庭にある神魂[かもす]神社とカモス神を従来の理解から離れて検証する必要がある。というは、高句麗からの神話・信仰を基底に敷くものと解釈するからである。
 神魂神社のカモス神については、これまでさまざまな見解が加えられてきたが、そのカモス神とは一体何であるのだろうか。
 神魂神を『古事記』では神産巣日[かみむすび]神、『書紀』では神皇産霊尊としてカミムスビと仮名をふって訓[よ]んでいるが、神魂神のカモスはカモスであって他にならないはずである。
 門脇禎二氏は、このカモス神の「カモスの称が残りつづけたのは、朝鮮に発したコモスの始祖霊信仰によるとみられる(1)」と興味深い理解の仕方をしめしている。能登の珠洲市に式内社として登記された古麻志比古[こましひこ]神社がある。この神社については、神社名の古麻志比古から高麗(コマ)・魂(シ)・彦とみて、高句麗系渡来人の神社とみる解釈があった。
 ところが門脇氏は、古麻志比古神社の本来の祭神は、日子座王[ひこますおう]命であるから、祭神じたいをより重視すれば問題が残ってくるとして、「古麻志のコマは、コモ(熊)が呪術と修業によって天神の子を生むという朝鮮の平壌地方にあった呪術的な民間信仰のひとつでコモ(熊)・ス(霊)であった」という説をとりいれ、このコモ・スが神魂(カモス)信仰として出雲神話にみえるカモス信仰へと発達し、こうした始祖霊信仰が、つぎの始祖的人格信仰の前提、例えば彦坐王信仰になると解釈した。つまり、能登の古麻志比古神社の原像や出雲の神魂神社の原像を、「朝鮮の土着的な呪術信仰」にもとづくカモス(シ)信仰に求めたのであった。
 筆者はカモス神と神魂神社の原像を「朝鮮の土着的な呪術信仰」に求めるのではなく、すでに修飾化され、人間化された始祖的な人格信仰として、高句麗建国神話に登場してくる天帝の子・解慕漱(朝鮮語ではヘモス)から由来していると解釈している。解慕漱[ヘモス]とは言うまでもなく『旧三国史』や『三国史記』が伝えているように河伯の娘・柳花と結ばれた「天帝子」である。その天帝の子が高句麗始祖王の朱蒙である。
 『三国史記(2)』と『三国遺事(3)』が記載している解慕漱の解(ヘ)の古い読みは「カ」であるから、古代朝鮮語のように読めば解慕漱=カモスである。このカモスが出雲の神魂神社のカモス神の原像であると考える。
 柳烈氏は『三国時代の吏読についての研究』において『三国史記』と『三国遺事』に記載された解慕漱の解(ヘ)についてふれ、「『解[ヘ]』字の『ヘ』は、古い形態である『解[カ]』字の『カ』の音韻変化である(4)」と指摘している。
 このようにカモス神を理解すれば、出雲のカモス神と同時に、能登の古麻志比古神社の原像もふくめて高句麗的性格が解明されるのではないだろうか。
 カモス神は出雲国の本拠地である意宇の地にあって、この地の「土着信仰のカモス神」として根強かったが、本来の姿は高句麗渡来のカモス神であった。ところで意宇平野の元来の地主神・農業神は熊野大神であったが、出雲東部の政治経済的発展にともなって、より政治的なカモス神として生みだされていったものと思われる。門脇禎二氏が指摘しているように、畿内大和朝廷による出雲最初の支配者、すなわち最初の国司である忌部首小首[いんべのおびとこおびと]が、自らの祖先神とカモス神を結びつけて崇拝したものと思われる。こうして神魂神社は出雲国造の館におかれるようになった。
 カモス神が高句麗神話から創出された出雲在地の信仰であるとすれば、当然のことながら、それをもたらした高句麗からの直接の渡来か、出雲と朝鮮、この場合は日本海を介しての対岸交流の結果によるものであろう。この高句麗からの渡来と交流をより直截的に証しうるのは、考古学上の遺物・遺跡であろう。
 この点で注目されるのは、出雲意宇の東部の安来平野であるが、この地域の横穴古墳から「高麗剣」とよばれる双竜環頭大刀などが出土して高句麗系移民の来着をうかがわせる。

(1) 門脇禎二『日本海域の古代史』 東京大学出版会 一〇一~二頁。
(2) 『三国史記』巻一三 高句麗本紀 『始祖東明聖王 姓高氏 諱朱蒙』「自称天帝子解慕漱」。
(3) 『三国遺事』紀異第一 古朝鮮「以唐高即位五十年庚寅」紀異第二 高句麗「解慕漱私洞伯之女而後産朱蒙」。
(4) 柳烈『三国時代の吏読について』平壌 科学・百科事典出版社 二〇九~一〇頁。
〔全浩天/著『キトラ古墳とその時代』(pp. 223-225)


 ◯ 今回、日置氏について調べていたところ、《クマソ》も「解慕漱」の語からの転訛であるという論説に遭遇しました。


『トンカラ・リンと狗奴国の謎』

 狗奴国(肥の国)を建てた高句麗族「二 肥の国に遺る高句麗の痕跡を探す」

 3 固有名詞に見られる高句麗的特色

 クマソの正体は何者か
 (p. 176)
 ⑵ 族名 ―― 熊襲と解慕漱、狗古・火の君・日置
a 熊襲と解慕漱 古代史の多くの謎の中で、今なお不明のままになっている問題の一つに「クマソ」がある。その成分や性格などについては何ひとつ解明されていない。記紀の中に見えるクマソ関係記事は、多分に伝承的な説話であって、史的要素は皆無である。ではいったいクマソというのは何であろうか。実は、このクマソこそほかならぬ九州中西部へ移住してきて定着していた高句麗族なのである。したがって狗奴国を建て、長年にわたって女王卑弥呼と不和、対立、相戦った張本人である。つぎにクマソの語義や、それを族名にしたわけを説明しよう。

 クマソとは最高神の名
 (pp. 179-180)
 クマソは、高句麗、夫余、沃沮などの北方諸族が、彼らの信仰上の最高の神の名号、「解慕漱[カモソ]」ᄀᆡᆷ소[갬소]・kʌjm-so←kʌ-mï-so)と同意語の異写である。九州の中西部一帯に勢力をもっていた高句麗族の集団は、自分らの居住地を「肥[コマ]の国」と呼び、自分たちの集団(種族)を「クマソ・カムソ」と自称していたのである。では、つぎにこの「解慕漱」の語義と、この「解慕漱」が熊襲と一致するわけを述べることにする。
 朝鮮側の史書、『三国史記』(高句麗本紀・始祖東明聖王)と『三国遺事』(「北夫余・高句麗」)にはいずれも高句麗の建国神話がのっており、それによると、天帝の子(「北夫余」条には「天帝」となっている)である解慕漱(一名、天王郎)が河伯の女と結婚して朱蒙をうんだとある。一方、『三国遺事』や『帝王韻記』、『世宗実録』(地理志条)に引用されている『古記』の記録には、檀君神話がのっている。それによると、天帝の子である桓雄が太伯山のうえにあった神壇樹に降りてきて、熊女と結婚し、檀君をうんだというのである。この両神話は同じ構造と内容のものである。

 (p. 182)
 梁柱東博士は、「解慕漱」を「カム・ス」(ᄀᆞᆷ[감]・수、kʌm-su)の音借字であると解し、「カム」は「神」、「ス」は「雄」とみている。つまり「男神」のことで、「神雄」(桓雄)と書いたのは「カム・ス」の朝鮮語を漢文で訳した表記だという。
 解慕=熊、漱=襲となる。
 (あるいは、曾=tsö、漱=tso であって、甲・乙類の相違を問題視するかも知れないが、上古の表記はのちの奈良朝の万葉仮名表記のように厳格でもなく、例外も多い。これは上古時代の人々の発音の不安定にもよるし、また漢音ですべての外国人の発音を正確に全部を表記できなかった事情にもよるのである。)

 豪族名も高句麗系を証明する
 (pp. 184-186)
b 狗古・火の君・日置 菊池川流域から八代平野にかけて、勢力をもっていたいく人かの豪族の名が伝わっており、それらもみな高句麗系である。その中から後世まで影響力をおよぼした豪族名についてみることにする。
狗古氏 狗奴国における行政上の最高責任者であった狗古智卑狗の狗古は、高句麗の貴族の称号である「古離加」と同じであることはすでに前に説明したとおりであるが、この「狗古」があとになって「菊」また「古閑」という字におきかえられて、地名、人名に使われている。「菊」の字のつく例は、「菊池川・菊池郡・鞠智[くくち]城」などの水名や名称があり、古閑は地名として玉名郡の菊水町に多い。大字の中の用水・蜻浦・内田・久井原・竈門一帯に集中している。古閑を名のる姓もある。菊・古閑の地名はみな狗古氏の後孫の居住地である。
火の君 この豪族は、「城南町付近に発生し、四世紀に宇土地方に本拠をおき、五世紀末には八代平野に移っていた」(松本雅明編『熊本の装飾古墳』)ようである。火の君系の古墳として知られているのは大野窟古墳(八代郡竜北村大字大野芝原所在)であるが、封土墳の構造形式は典型的な高句麗の二室墓制を備えており、九州最大の規模のものである。「火[ひ]の君」は、前の 「肥の国条で述べたとおり、「肥[コマ]の君」と読むべきである。「肥[コマ]の国」があとで火(肥)の国」 と読み方が変ったように、「火の君」もすでに説明したとおり四世紀ごろからすでに存在していたのが事実であるならば、当然「肥[コマ]の君」と呼ばねばならない。この正しい呼び名が、何時の時代から誤読され、そのまま今日におよび、あげくのはては、根拠のない「火の君」という「火」にこだわる異説まで派生する始末になったのは心外である。地下の「肥[コマ]の名」はさぞ失笑しているにちがいない。「火(肥)の君」の葬地が「芝原[セバル]」であるのも、船山古墳の清原[セバル]と同名で、これは「肥の君」の身分が船山古墳被葬者の身分と同格であったことを示唆している。宇土を根拠地にしていたことは、この地点が高句麗へ向けて大船団が出航したり入航したりした地点と思われ、したがって「肥(火)の君」は輸送のことをつかさどる最高責任者であったろう。
日置氏 菊池川流域に大勢力を持っていた豪族の一人に日置[ヘキ]氏がいた。そして日置氏の職分は製鉄の専門技師であったらしいことを、*井上辰雄教授は述べている。井上によると、菊池川流域は古代から砂鉄の産地であり、緒方勉氏によって発掘された菊水町の諏訪原遺跡から、弥生時代に原始的な製鉄が行なわれていたことが証明されているし、玉名市に接する伊倉の地には鍛冶と関係の深い宇佐社が進出するのは、この地の砂鉄に着目したからだと述べている。

* 日置はヒオキ→ヒキ→ヘキとその名を変えて呼ばれるが、その中心勢力は玉名の立願寺あたりにあったらしい。ここには延喜式の神名帳に記されている疋野[ひきの]神社が祀られているが、疋野は「日置野」乃至「日置の」の意味であろう。「玉名郡人、外少初位下、日置卸(郡)公、権擬少領」と記した火葬骨蔵壺の墓誌銅板が発見されており、菊鹿町にも「疋田[ひきた]」という地名が残されている。さらに菊池川の中流域の山鹿市付近にも「日置[へき]」という地名もあり、菊池川全流域は日置氏の領域下にあったのである(「菊池川流域の古代祭祀遺跡」・『東アジアの古代文化』第五号)。

 (p. 187)
「日」の朝鮮語の訓は「へ」(ᄒᆡ[해]、hʌj)である。「ヘキ」は「日官」の意をあらわし、天文、気象などのことをつかさどり、上で言及した製鉄の専門技術師でもあったようである。
〔金思燁/著『トンカラ・リンと狗奴国の謎』〕



 ◯ 日置氏の謎は、あらためて考えるとして、日置氏の勢力圏とされる〈疋野神社〉の北東部にある、江田船山古墳出土の太刀の「大王」名は、昭和 53 年 (1978) に、稲荷山古墳出土の鉄剣銘の解読で「雄略天皇」仮説が登場し、どうやら、ひとまずは落ち着いたようです。


『東アジア世界における 日本古代史講座』 第 3 巻

「九 江田船山古墳出土大刀の銘文 ― 付・隅田八幡宮画像鏡銘関係文献目錄 ―」

佐伯有清 [さえき・ありきよ]

 6 稲荷山鉄剣銘文の発見

 このように江田船山古墳出土大刀銘の研究が混沌としている状況の中で、あらたに埼玉県行田市稲荷山古墳の鉄剣銘文が発見されたのであった。それは金象嵌された百十五文字からなる銘文であり、江田船山の大刀銘の解読に資するところ大なるものがあると判断された。いまここに私見をまじえて判読した銘文を掲げるとつぎのごとくである。

辛亥年七月中記乎[犭隻[獲]]居直上祖名意冨比垝其児多加利足尼其児名[丂―[弖]]已加利[犭隻]居其児名多加[爿皮[狓]]次[犭隻]居其児名多沙鬼[犭隻]居其児名半[丂―]比其児名加差[爿皮]余其児名乎[犭隻]居直世々為杖刀人首奉事来至今[犭隻]加多支[占九[卤]]大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根[原]也

 この新銘文を読み下し文にしてみると、

辛亥の年七月中、記す。乎獲居直[をのわけのあたひ]の上祖[かみつおや]の名は、意冨比垝[おほひこ]、其の児は多加利足尼[たかりのすくね]、其の児の名は弖已加利獲居[てよかりのわけ]、其の児の名は多加狓次獲居[たかひしのわけ]、其の児の名は多沙鬼獲居[たさきのわけ]、其の児の名は半弖比[はてひ]、其の児の名は加差狓余[かさひよ]、其の児の名は乎獲居直[おのわけのあたひ]。世々、杖刀人の首[おびと]と為[な]り、事[つか]へ奉[まつ]り来りて、今に至る。獲加多支卤大王[わかたけるのおほきみ]の寺[つかさ]斯鬼宮[しきのみや]に在[あ]る時、吾[われ]天下を治むることを左[たす]け、此の百練の利刀を作ら令[し]めて、吾事[つか]へ奉[まつ]る根[原]を記す也。

 江田船山古墳出土の大刀銘との関連で、新銘文の記載の、注目されるところを指摘すれば、すでに言及されているように、それは「獲加多支卤大王」の部分である。
 「獲加多支卤大王」は「ワカタケルノオホキミ」であって、最初に新銘文を判読した岸俊男・田中稔・狩野久の諸氏によって、雄略天皇の諱、『古事記』の大長谷若建命の「若建」、『日本書紀』の大泊瀬幼武天皇の「幼武」に比定されたように雄略天皇とみなしてよいであろう。
 …………
 最後に江田船山古墳出土の大刀銘の私見による釈文と読み下し文を掲げて、今後の参考に資したい。

〔釈文〕
治天下獲[加多支]鹵大王世奉事典曹人名无[利]弖八月中用大錡釜幷四尺[辶手[逓]]刀八十練六十捃三寸上好利刀服此刀者長寿子孫注〻得三恩也不失其所統作刀者名伊太[於]書者張安也

〔読み下し文〕
天下を治[しろ]しめす獲[加多支]鹵大王の世に、事[つか]へ奉りし典曹人、名は无[利]弖[むりて]、八月中、大錡釜幷びに四尺の逓刀を用ひ、八十練六十捃三寸せし上好の利刀なり。此の刀を服せば、長寿にして子孫注々として三恩を得る也。其の統[す]ぶる所も失はず。刀を作りし者、名は伊太[於]、書く者は、張安也。
〔佐伯有清「江田船山古墳出土大刀の銘文」『東アジア世界における 日本古代史講座』 第 3 巻 (pp. 268-270)



 ◯ 記紀の記録に雄略天皇の宮は「長谷朝倉(泊瀬朝倉)」とされていて、それは〝シキの宮〟とはなっていないのですけれど、それをたとえば〝ヤマトのシキのハツセのアサクラの宮〟のように理解することで、まったくもって矛盾はないというのが、主流派の論であるようです。
―― 蛇足ながら、稲荷山古墳の南方約 40 km に位置する、埼玉県志木市とも、関係がないようです。


『倭王と古墳の謎』

「三 斯鬼宮と朝倉宮 ―― 雄略の宮所 ――」

高野政昭 [たかの・まさあき]

 朝倉宮と斯鬼宮

 朝倉宮  雄略天皇の和風諡号[わふうしごう]は大泊瀬幼武[おおはつせわかたける]天皇といいますが、最初の「おお」は立派とか素晴らしいといった美称です。「はつせ」は地名で、そのあたりに宮を定めたからといいます。「わかたけ」は若々しくて力強いといった意味あいでしょうか。
 その宮の名が『日本書紀』では泊瀬朝倉宮、『古事記』では長谷朝倉宮と記されています。泊瀬は現在の奈良県桜井市初瀬町から、出雲・黒崎町あたりといわれています。近鉄の大阪線の電車で行きますと桜井のひとつ先に朝倉という駅がありますが、そこから次の長谷寺までの谷筋にあたります。
 泊瀬という地名は、川の上流域を意味する地名といわれていまして、初瀬・長谷も同じです。長谷は、「飛鳥[とぶとり]の明日香」と同じ使い方で、「長谷の初瀬」という枕詞になっています。また、山に取り囲まれた谷間を意味する「隠国[こもりく]」も初瀬にかかる枕詞です。『万葉集』巻一三の雄略天皇の歌に「隠国の 泊瀬小国[はつせをくに]に よばひ為[せ]す …」とみえる泊瀬小国は現在の桜井から宇陀郡に至る渓谷の総称です。

 斯鬼宮  一方、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、「辛亥年七月中記す …」で始まる銘文が、表裏合わせて一一五文字、金象嵌されて発見されました。そこには、雄略天皇を指す「獲加多支鹵の大王の寺、斯鬼の宮に在る時、…」と続いています。
 ここに出てくる寺とは、朝廷とか役所の建物を意味します。そして、その寺の名はシキ宮と書いてあるわけです。では、朝倉宮とシキ宮との関係はどうなっているのでしょうか。
 実はこの二つの宮の名は同じものを指しているとみられます。それは、鉄剣銘のシキ宮については、泊瀬朝倉宮の所在地が広義の磯城の地域に含まれていますので、当時は斯鬼宮と呼ばれていたと考えられるからです。
 『古事記』の垂仁天皇の段に「名を曙立王[あけたつのおう]に賜いて、倭[やまと]は師木[しき]の登美[とみ]の豊朝倉[とよあさくら]の曙立王[あけたつのおう]と謂ひき」という記載があります。曙立王というのは開化天皇の曾孫にあたります。このことから、倭の中にシキがあり、さらにその中に登美があって、そこに朝倉と呼ばれるところがあることがわかります。つまり、朝倉を含めた地域がシキなので、泊瀬朝倉宮はより地域を限定した呼び方だといえるわけです。
〔高野政昭「斯鬼宮と朝倉宮」『倭王と古墳の謎』(p. 87, pp. 89-90)


◎ 肥の熊本から出土した太刀の銘を追っていて、どういうわけだかまたしてもクマだけでなく「こもる」に通じる「隠国[こもりく]」の語が、雄略天皇の記事に登場しました。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のページを公開しました。

トンカラリンと船山古墳
https://sites.google.com/view/hitsuge/arcus/triangle


―― 内容をそれよりもやや詳しくしたページを、以下のサイトで公開しています。

九州の三角形 / トンカラリンと船山古墳
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/triangle.html

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