2018年7月7日土曜日

七夕と鳥取にまつわる「タナ」の話

鳥取の祖: 天湯河板挙(アメノユカハタナ)


―― 鳥取部の伝承について次のような論述がある。
(『谷川健一全集 14』所収の『日本の地名』〔初出:岩波新書 1997年4月21日刊〕からの引用)

 鳥取部のはじまり (pp. 139-140)
 …… 『古事記』によると、垂仁天皇の条に「印色入日子[いにしきいりひこ]命、鳥取の河上宮に坐して、横刀一千口[たちちふり]を作らしめ、是れを石上[いそのかみ]神宮に納め奉り、即ち其の宮に坐して、河上部を定めたまひき」とある。
 この鳥取は『和名抄』の和泉国日根郡鳥取郷で、現在大阪府泉南郡阪南町に鳥取中[ととりなか]の地名が残されている。『新撰姓氏録』に和泉国神別として「鳥取、角凝命三世孫天湯河桁命[あめのゆかわたなのみこと]の後なり」と記されており、和泉の鳥取氏はアメノユカワタナの後裔である、とされている。アメノユカワタナが鵠を捕らえて天皇にたてまつるとホムツワケが物を言うようになったので、天皇はそれを賞して、アメノユカワタナに鳥取造[ととりみやつこ]という姓[かばね]を与え、それにちなんで鳥取部、鳥養部[とりかいべ]、誉津[ほむつ]部を定めたと『古事記』は記している。これらのことから和泉の鳥取の河上宮で印色入日子命が一千本の太刀を鍛えたというのも鳥取造であったアメノユカワタナに関わりがあるのではないかと考えられる。和泉国日根郡鳥取郷には大阪府泉南郡岬町多奈川も含まれている。多奈川は『土佐日記』には「田無[たな]かは」と出てくる地名であり、もと谷川[たなかわ]と記していた。『地名辞書』は谷川は桁川[たながわ]に由来するとし、鳥取連の祖である天湯河桁はこの地の人ではなかったか、と言っている。したがって鳥取の河上宮は鳥取郷の桁川のほとりに作られた宮と解せられる。
 折口信夫は湯河は斎河[ゆかわ]であって、川の淵や池や湖などの水の上につき出したタナの上に神の嫁となるべき村の処女がすわって機を織りながら来訪神のおとずれを待つという習俗があったとし、ユカワアミ(ユアミ)する場所にタナを作って坐っている乙女がタナバタヒメである、と言っている。たしかにユカワ(湯河、斎河)というのは潮水と真水のまじりあった河口のように生あたたかい水のある場所を指すことがある。しかしその一方では、鉄や銅や鉛などが高温で溶解した状態を「湯」と呼ぶことは、たたら炉や鋳物工場にたずさわる人々の常識である。このことを考慮に入れると、天湯河桁(天湯河板挙)の名前の解釈がまるきりちがってくるのはやむを得ない。

―― 鳥取部の由来については、日本書紀にも、細部は異なるけれど似たような記述があり、このあと続いて引用する個所では日本書紀からの参照を含めて、物部氏と鳥取氏の関係についての興味深い論述がある。

 物部氏と鳥取氏 (pp. 141-142)
 五十瓊敷命[いにしきのみこと]が菟砥川上宮[うとのかわかみのみや]で鍛えた一千口の剣は石上神宮に神宝として納められ、物部十千根大連[もののべのとをちねのおおむらじ]がながく管理したと『日本書紀』は記している。このことから物部氏と鳥取氏の関係が推測されるが、それを示す記事が『日本書紀』の崇峻天皇即位前記にある。
 それによると物部守屋が滅亡したとき、その側近に捕鳥部万[ととりべのよろず]という人物がいて、奮戦したが力及ばず、難波から逃げて、茅渟県[ちぬあがた]の有眞香[ありまか]邑にいった。そこは彼の妻の実家のあるところであった。彼はその近くの山中で討ち死にした、とある。捕鳥部万が逃げたさきの茅渟県の有眞香邑は、阿理莫[ありま]神社のある大阪府貝塚市久保のあたりと見られている(一説に岸和田市八田[はった]という)。『新撰姓氏録』に安幕首[あんまくのおびと]は物部十千根大連の後裔であるとしているが、安幕は阿理莫[ありま]のことで、阿理莫神社はニギハヤヒ、あるいは物部十千根を祀ると言われている。これからして物部氏が鳥取(捕鳥)部を配下に置いていたことが分かる。

―― さて。
 日本書紀では、垂仁天皇三十九年の十月に「菟砥川上宮」の記載がある。『大系本 日本書紀 上』の頭注に「川上宮は記に鳥取之河上宮とあるのも同じ」(p.276) と解説されている。
 日本書紀の「崇峻天皇即位前記」については、山本昭氏の著書『謎の古代氏族 鳥取氏』〔1987年12月5日 大和書房刊 (p.47)〕でも紹介されており、物部氏との強い関係性が、同様に語られている(『新撰姓氏録』の和泉国神別 天神 に「鳥取 角凝命三世孫天湯河桁命之後也」と記されていることについての説明文中で)。
 山本昭氏は『謎の古代氏族 鳥取氏』(p.100) で谷川健一氏の説に言及しているが、谷川健一氏もまた山本昭氏の『謎の古代氏族 鳥取氏』を肯定的に紹介している(『谷川健一全集 21』所収の『四天王寺の鷹』(p.78))。

―― 鷹というのは、古事記で、物いわぬ皇子のために鳥を追い「和那美の水門」で捕えた「山辺之大鶙(ヤマノベノオホタカ)」に関係する話でもある。こういうこともあって、鳥取部とか鳥取氏とかには、物部氏や石上神宮の武器庫に加えて製鉄と鷹・白鳥(鵠)の話題などが自然と絡んでくるわけだ。
 ちなみに、「天湯河桁」は新撰姓氏録での表記であり、日本書紀では「天湯河板挙」となっている。
 その新撰姓氏録の記述によれば天湯河桁が鵠を捕獲したのは「出雲国宇夜江」とされているが、その地は現在の「荒神谷遺跡」がある場所といわれる。荒神谷遺跡からは昭和 59 年に銅剣 358 本などが発掘された。
 出雲の国のその場所で鳥を捕獲したという伝承は、おそらくその地域で祭祀などの行事に成功したという物語の暗喩であろうけれど、説話の表現そのままに〝鳥取は鳥を捕獲する民である〟という伝説はいまだに、昔と変わることのない形で幅を利かせている。

 日本書紀では、垂仁天皇の 23 年に鳥取部が定められた記述がある。
 五十瓊敷命が菟砥(鳥取)川上宮で 1000 振りの剣を鍛えたのは、垂仁天皇の 39 年だ。
 その間、垂仁天皇の 26 年には天皇の詔勅により物部十千根大連を出雲に遣わして、神宝の検校を行なわせている。
 背景としては、このころに政治力と軍事力の増強が急ピッチで進み、まさに富国強兵の時代へと突入したのだろう。

―― この先、鉄とたたらと鳥取にまつわる物語を少しずつでも追っていきたい。

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