2018年7月10日火曜日

〈印賀鋼〉最強伝説

 その記録は、鳥取県による資料からは、明治四十五年以来、姿を消した。
 残されている最後の文献は、『鳥取県産業案内』〔鳥取県内務部、明治 45 年 5 月 18 日発行〕という。
―― 明治 45 年は西暦で 1912 年である。今年は 2018 年なので 100 年以上前のものとなる。

100 年忘れられていた〈印賀鋼〉にまつわる物語


 この貴重な資料は、鳥取県立図書館の司書のかたが地下書庫から探し出してきてくださったものだ。
 ○ その 98 ページに「合資会社米子製鋼所」の項を設けて、こう書いてある。

 合資會社米子製鋼所 …… 而して本所に於て製造する鋼鐵は、硬度非常に高く、本邦生産の鋼鐵中之れに比すべきものなし、故に大阪造幣局は、貨幣刻印用地金として、之を採用せり。製品は、海軍工廠、砲兵工廠、造兵廠、造幣局、其他鐵道工業用に使用せらる。
〔『鳥取縣産業案内』 (p. 98) 〕

 鳥取県が刊行した文献のなかに、このような大阪造幣局の刻印用地金に関する記録があるだろうと確信したのは、先月『日野郡史』〔日野郡自治協会、大正 15 年 3 月 1 日発行〕の復刻版(前篇)を読んでいて、久米邦武博士による『裏日本』〔大正 4 年 11 月 30 日発行〕という本が、引用参照されていたのがきっかけだった。

 復刻版『日野郡史』(前篇)は、昭和 47 年 4 月 28 日に発行されているけれど、その「第三章 第五節 原史時代概括」(pp. 39-43)に、『裏日本』の 222~383 ページが抄録されていた。
 ○ 抄録された内容にも興味深いものがあるのだけれども、今回は、引用参照された、その直後の記述による。

 今度米子の博覽會に陳列したる鐵の説明を聞に、石見の江ノ川上より安藝備後備中の諸谿はみな鐵の産地なれど、伯州より出す鋼鐵は非常の硬度にて諸國の鐵中に之に比すべき物なし、大阪造幣局は是を以て貨錢に打込む刻印[こくいん]用となし、今は海陸軍の砲廠[はうしやう]にも採用せられ、世界の特産に數へらるといへり。
〔『裏日本』 (p. 383) 〕

 実に、この段落の直前の段落の最後は「從つて叢雲の劍は伯州鐵にて鍛成したるものと見るを適當と判定したり。」と結ばれており、そこまでが『日野郡史』(前篇)「第三章 第五節」に抄録されていた。―― 鳥取県立図書館に『裏日本』の蔵書があったので、参考までに、と閲覧していたところ「大阪造幣局」云々の記述を発見したわけである。

 久米博士の記した「米子の博覽會」というのは、明治 45 年の 5~7 月に米子町で開催された「山陰鉄道全通記念全国特産品博覧会」が該当する。この博覧会に関しては、なにゆえにか公的な記録が何も残されてないという(『米子博覽會の想い出』〔野坂寬治、昭和 26 年 12 月 1 日発行 (p. 67) 〕より)。
 そしてこれまた鳥取県立図書館の司書のかたに教えていただいたのであるが、『鳥取縣産業案内』と久米邦武『裏日本』はともに、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能なので、随時インターネット上で原文を確認することができるという次第なのだった。

 ○ 大阪造幣局が米子製鋼所の製品を高く評価していたということは、戦後に編集された『鳥取県史』「近代 第三巻 経済篇」〔鳥取県、昭和 44 年 4 月 30 日発行〕にも記載されている。―― が、それは、明治期の記述と較べて相当に控えめな表現となっている。実はこの記載も、鳥取県立図書館の司書のかたに見つけていただいたものだ。

 坂口は明治三十七年、合資会社米子製鋼所を設立し、広島県の比婆・双三・山県の三郡内に計十五か所の分工場をおいて原料の鉄鋼を生産し、本工場の米子では、三十八年十一月以降イギリスの技術を導入したルツボ法により工具鋼の生産に当たった。そして四十三年六月には、大阪造幣局から「本局従来使用ノ英国製鋼ニ劣ラザル成績」との証明を得た。
〔『鳥取県史』 近代 第三巻 経済篇 (p. 479) 〕

 この大阪造幣局による「本局従来使用ノ英国製鋼ニ劣ラザル成績」という評価は、日本一という表現とは一致しない。明治末年には「大阪造幣局は、貨幣刻印用地金として、之を採用」したという、鳥取県の資料があるにもかかわらず、戦後の資料はそれを採用していないのである。1912 年から、1969 年の間に何があったというのか。

―― 県編集の文献・資料としてあまりにも不自然なので、鳥取県立公文書館に問い合わせることにした。
 先週のことだ。7 月 5 日に訪問して、戦後の『鳥取県史』の「大阪造幣局」にまつわる記述がどのような資料に基づくものなのか、調査を依頼したところ、翌 7 月 6 日に、さっそく文書による回答があった。

「鳥取県立公文書館による回答文書」より抜粋
――
 調べましたところ、アジア歴史資料センターが所蔵する史料で、次のような記述がありました。

明治 43 年 10 月 21 日付 鳥取県知事 岡喜七郎が外務省通商局長に宛てた照会文の中に、米子製鋼所が「佐世保・横須賀・舞鶴ノ各海軍工廠及大阪造幣局・大阪砲兵工廠等ヘモ納品シタル」と書かれており、さらに「該鋼ノ英国製鋼ニ劣ラサルコトハ大阪造幣局ニ於テ別紙写ノ通り証明セラル」(別紙は当該史料に綴られているのを確認できず)とあります。

 同史料に綴られている合資会社米子製鋼所の沿革に「大阪造幣局ニテハ貨幣極印用トシテ四十一年以降引続キ買上ノ命」があったこと、また「造幣局貨幣極印下地金ハ最モ優良ナル品質ヲ精撰セラレ、外国品ト雖モ一二会社ノ外容易ニ採用セラレタルコトナシ」と書かれていることから、

 ●米子製鋼所の鋼は、少なくとも明治 41 年から大阪造幣局の貨幣極印用として買上げられてきた。
 ●明治 43 年 10 月には「英国製鋼に劣らず」という評価があった。
ことが分かります。

「清国造幣局貨幣極印用ノ鋼鉄買上方出願ノ件 明治四十三年十月」
 (レファレンスコード:B11091682100)インターネットで閲覧できます
――
〔ここまで「鳥取県立公文書館による回答文書」より抜粋〕

ということであったので、
―― 資料名もしくは資料コードの入力でファイルが閲覧できると、説明されていた ―― ので、
 国立公文書館 アジア歴史資料センター
 https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/default
にアクセスして、PDF ファイルをダウンロードし、その内容を読もうとしたのだけれど、公開されている資料は画像でおまけに活字でないため、上記の回答文書がなければどのあたりの記述なのかもわからない始末である。

 鳥取県立公文書館に問い合わせた際、調査を担当してくださったかたは、「大阪造幣局の貨幣極印用」の件は知らなかったとまったくもって正直におっしゃられたが、さすがにプロである。翌日までには、ほぼ解決に等しい資料を提示してくださったのである。―― ほぼ解決に等しい、というのは、『鳥取県史』「近代 第三巻 経済篇」の記すところでは明治「四十三年六月に」大阪造幣局から「本局従来使用ノ英国製鋼ニ劣ラザル成績」とされているわけだから、明治 43 年 10 月の資料に基づいたのではないことが明らかだからだ。しかしながら、本来の目的は当時の『鳥取県史』編集担当者に対する疑念の解決ではなく、〈印賀鋼〉最強伝説の証明であった。

 ちなみに、大蔵省造幣局・編集兼発行『造幣局百年史 資料篇』〔昭和 49 年 3 月 15 日発行 (p. 189) 〕では、

a の欄「創業当時」の 3 行目に「極印材は英国製炭素鋼」との記述はあるが、4 行目以降に、明治年間に極印材変更の記述はない。

 ○ 次の資料は、7 月 5 日に、鳥取県立図書館の司書のかたが見つけたものだ。
(インターネット検索で「大阪朝日新聞 山陰の事業 米子製鋼所」と入力すれば、該当のサイトが見つかるだろう。さらにページ内検索で「大阪造幣局」とすれば簡単に目的の記述が見つかるはずだ。)

神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00481967&TYPE=HTML_FILE&POS=1

大阪朝日新聞 1913.8.30-1913.9.5 (大正2) 
(二) 米子製鋼所
 販路は枝光製鉄所、海軍工廠、砲兵工廠等が重なるもので出来るのを待ち兼ねてサッサッと飛んで行くそうな、大阪造幣局の貨幣刻印用として茲の鋼が買上げを受けた事は余程の御自慢らしく「余程堅くなければ納まりませんのですから」と

―― 以上が、〈印賀鋼〉最強伝説を追った顛末だ。
 さまざまなかたがたの本気の協力によって、短い期間で本当に多くの資料が発見されたのである。
 〈印賀鋼〉は、明治以前より、素材の品質については高い評価を得ていたという。それが、明治の末にいたってようやく〝技術が素材のポテンシャルに追いついた〟のだろう。
 米子製鋼所の製品に関しては、国産の製品が、世界レベルで戦えるようになったということでもある。
 それが〈印賀鋼〉なのかどうかは、公式の資料ではわからない。原料までも含めて鳥取県産だと書き残した文献は『裏日本』で、「米子の博覽會に陳列したる鐵」のうち、「伯州より出す鋼鐵は非常の硬度にて、諸國の鐵中に之に比すべき物なし、大阪造幣局は是を以て貨錢に打込む刻印用となし」た、と記録されている。
 この文章の妥当性は、以上の調査から、そこそこ認められるのではなかろうか。

〈玉鋼(たまはがね)〉最強伝説


 最強伝説の締めくくりに、〈たたら製鉄〉関連の文献に残された、こぼれ話などを紹介しておきたい。
 たたら製鉄に従事した者たちにかかわる現代の文献を集めた『民衆史の遺産』 第九巻「金属の民」〔以下『民衆史の遺産 9 』と表記〕には、それらの記録が編集収録されている。
 ○ 窪田蔵郎氏による『鉄の文明史』(抄)のなかから引用させていただく。

 ロンドン・ケンジントン公園の科学博物館に、日本の復元たたらによって造られた玉鋼(鉧塊)が、他の原始製鉄の製品とは別格の扱いで丁重に展示されている。同館のグリナウエイ副館長から一九四五年に見学した折、著者にこれが(名刺箱一杯分)ほしいと言われた時には、記念にするためぐらいの軽い気持にとっていた。ところがタタラスチールは日本刀の原料になる鉄ということで、外人の間では超貴重品だったのである。今日の科学的研究によって、低温還元による純粋の炭素鋼であることがはっきりし、鍛造時の鉄鋼の組合わせと熱処理の妙によって、くろがねの芸術にまで昇華したものであるが、岩を切ったの鎧甲を切ったのと言うことが余りにも強調され過ぎ、途方もなく過大評価されてしまいさらには神秘的な認識へと至っている。
〔『民衆史の遺産 9 』所収『鉄の文明史』(抄)窪田蔵郎 (p. 223) 〕

 島根県仁多[にた]郡横田町大呂(現出雲町大呂)の鳥上木炭銑工場の構内では、昭和五二年に日本美術刀剣保存協会の事業として、靖国高殿の施設を改修して造られた日刀保たたらが毎年一二月から一月にかけて操業されている。第二次世界大戦の終了とともに廃滅した、伝統の玉鋼[たまはがね]製造法を復活させこの技法を後世に伝えるべく、秘伝書の記述や伝承を現場で復原実験しつつ技能保持者の養成に苦心を払っている。
〔同上 (pp. 231-232) 〕

 聞くところによれば、日刀保たたらで使われている原料となる砂鉄は、大菅峠あたりの島根県と鳥取県との県境の両側から採取されているという。
 大菅峠の県境を鳥取県側に入れば「阿毘縁(あびれ)」という地区で、阿毘縁は〈印賀鋼〉で有名な「樂樂福神社(ささふくじんじゃ)」の所在地である「日南町印賀」のちょうど西側にあたる。
 大菅峠の北側の県境にはまた、古事記に記された〝イザナミの葬られた出雲国と伯伎(伯耆)国との堺の比婆山〟であるともいわれる〈御墓山(おはかやま)〉〔標高 758.3 ㍍〕が位置しており、阿毘縁側からの登山口がある。〈御墓山〉近隣の山並みは〈日向山(ひなやま)〉とも称されるらしい。

―― 孝霊天皇の山陰での鬼退治にまつわる樂樂福神社ゆかりの伝承などを含めて、またの機会に調べたい。


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EMERGENCE II : 〈印賀鋼〉最強伝説
https://sites.google.com/view/emergence-ii/home/hagane

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