2018年7月25日水曜日

箸墓古墳の中軸線が示す方角

箸墓古墳の中心軸と夕月岳


 今回も、小川光三氏の大和の原像の参照から始まるのだけど、箸墓復元想定図(附:日の出の方向)(p. 195) には、箸墓古墳の中心軸の向きは「至斎槻岳」―― 東西線に対して 22 度 ―― と、書かれている。これは箸墓古墳の築造時、夕月岳いわゆる穴師山 ―― 基準点名「穴師」標高 409 m 地点 ―― に向けて設計されたという推察につながるものだ。
 古代の祭祀および建造技術者は、意図的にそれを行なったのか。それともたまたま、そうなったということなのか。そのどちらでもありうる。
 この角度について調べていると、北條芳隆氏の古墳の方位と太陽(pp. 159-160) では、22.3 度と示され、夕月岳 409 m ピークに向かうラインとは0.1 度の誤差をもつと、文章と表によって記述されていることがわかった。
―― この文献の記述も、鳥取県立図書館の司書のかたがたの協力によって、見つけることができたのだということをここに補足しておきたい。

 ○ さて、北條芳隆氏の古墳の方位と太陽の 159 ページには、次のように書かれている。

箸墓古墳の軸線と弓月岳 409 m ピークは 0.1° (6′) の誤差をもち、西山古墳の軸線と高橋山 704 m ピークは 0.4° (24′) の誤差をもつ。これが資料の実態であるから、この誤差ゆえに私の主張する事実関係には厳密さが伴わないとの批判もありうることである。しかしこの程度の誤差は許容される範囲内だと私は判断するが、そのいっぽうで、纒向石塚古墳の場合には検討が必要である。その前方部は三輪山山頂を向くと判断できるか否かであるが、本古墳にたいする私の築造企画復元案では、3.2° の振れ幅をもって三輪山山頂方向に軸線を向けることになり、それを意味のある事実とみなすか単なる偶然とみなすべきかの判断は微妙である。
〔『古墳の方位と太陽』「第 5 章 大和東南部古墳群」(p. 159) 

―― 実はこれまでは、おおよそ 1,500 年前の歴史について検証するということから、角度の 1 度未満は誤差の範囲内として、あまり気にしていなかった。
 それで、桜井市周辺の、検証する地域的には〈神武天皇陵〉(N 34.49751) で北緯 34 度 30 分あたりから始まるにもかかわらず、東西線にかかわる長さの修正値も、cos35° ≒ 0.819152 の数値を用いてきたのである。
 北緯 35 度というのは、当初に、おおよそ西日本全体をカバーする北緯線として、想定したものだ。
 しかしながら、ここで 0.1 度の誤差が問題なのかどうかが、議論されている。
 今後はこの議論を踏まえたうえで、〈箸墓古墳〉の中軸線 22.3 度の数値を使わせていただきたく思うので、そういう次第で、これからは、奈良県桜井市の周辺地域の北緯線としては 34.55 度と想定を改めたい。
 北緯 34.55 度というのは天理市にある〈景行天皇陵〉(N 34.55071) のあたりの数値となる。夏至の観測ラインは、これから、北東方向に延びていく予定なのである。

―― 今後は、cos34.55° ≒ 0.8236316 の数値を用いることになる。

 ちなみに、上の修正値 (JavaScript の値では 0.823631592193872) を用いた修正版の計算式で、「箸墓古墳-弓月岳」のラインの角度は、22.38° であった。テスト版の地図上の線では、〝箸墓古墳の中軸線〟として引いた 22.3° のラインに、ほぼ重なっているように見える。

 それと、これも修正値を書いておかなければならないだろう。

 ● 修正版の計算式で、〝三輪山を東の頂点とする正三角形〟の数値は、次に示す値となった。

(新) ラインの座標       角度     水平距離

神武天皇陵 - 三輪山の山頂     29.99 °   8.374 ㎞
鏡作神社 石見 - 三輪山の山頂   29.74 °   8.371 ㎞
神武天皇陵 - 鏡作神社 石見    90.11 °   8.338 ㎞


 ● どれほどの誤差が生じるものなのか、参考のために、以前の計算式による値も書いておこう。

(旧) ラインの座標       角度     水平距離

神武天皇陵 - 三輪山の山頂     30.12 °   8.340 ㎞
鏡作神社 石見 - 三輪山の山頂   29.87 °   8.337 ㎞
神武天皇陵 - 鏡作神社 石見    90.11 °   8.338 ㎞


神武天皇陵についての いち考察


―― その神武天皇陵は、畝傍山東北陵という名称があるように、畝傍山の北東部に位置するのだけれども、その場所が定まったのは、そう古い話ではない。
 江戸時代、ペリー来航の 10 年後にあたる幕末期、文久三年( 1863 年)に神武陵の場所はようやく決定されたのだという。
 つまりその幕末期以降に、かなり近代的な技術を伴った、築造工事が行なわれたのである。

『大系本 古事記』を見れば、137 歳で亡くなって、御陵在畝火山之北方白檮尾上也。(p.166)
――御陵(みはか)は畝火山の北の方の白檮(かし)の尾の上に在り。と記されている。

大系本 日本書紀(上)では 127 歳で亡くなり葬畝傍山東北陵。(p.217)
――畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのみさざき)に葬(はぶ)りまつるとある。

 各種文献によればしかしながら、というわけだ。そののち年ふるにつれ、7 世紀ごろにはあったかもしれない神武天皇陵も、中世には確かな所在地がわからなくなったらしいのだ。

 幕末の危機の時代に、この正三角形が、設定された。
 偶然なのか、入念な測量がなされた上でなのか。
 偶然にせよ、意図的にせよ、どちらにしてもなんだか凄い。

―― もしこれが〝意図的な正三角形〟だとするなら、

三輪山と石見の鏡作神社を結ぶラインを設定基準のひとつとして、神武天皇陵の場所は定められたことになる。

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