2018年2月15日木曜日

生物体(モノ) と 生命体(コト)

 ようやく科学で認められたのは「全体は構成要素の足し算では表現できかねる場合がある」ということだ。
 分解の時点で失われるモノやコトがあるのだ。
 たとえば生物は要素に分けて図示できても、生命は分解できない。
 ここで日本語の、生物という単語には端的に「物(モノ)」という語が含まれている。
 てっとりばやくいうなら、生物体は「生きている物体」というところであろう。
 いっぽう生命体とは「生命を有する体」とでもなるのだろうけれど、ここで「生命」というのは抽象的な概念でありモノではありえない。
 これもまたてっとりばやくいおうとすれば、「生命現象」ということになろうか。

 科学的な対象であるにもかかわらず〈生命〉の定義がいまだにはっきりしない。
 国語辞典的な表現では「生命」とは〝生物が生物として存在するための本質的な属性〟のようになるだろう。ここで「属性」をもっと一般的な言葉にすれば「特徴」といえようか。
 すなわち「生命」というのは「生物の特徴」となる。
 ここまで何をいっているのかよくわからん気もするが、つまりは生命はモノではなく〝生命は現象である〟ということなのだ。生物の機能であるともいえる。
 ようするに、生物が〝複雑な物体〟であるなら、生命は〝複雑な現象〟ということになる。

 先にも書いたことだけれども、生物という〈複雑なモノ〉であれば、バラバラにしていけば〈単純なモノ〉に分解もできるであろう。
 そういうわけで、デカルト以来の「機械論的世界観」においては還元論が主流であった。それは世界のすべてを〈モノ〉として理解する唯物論的には問題なかっただろうが、いかんせん自然現象を〈コト〉として捉える理念に欠けていた。
 いっぽうで〈複雑系〉の理念のひとつは「全体は構成要素の足し算では表現できかねる場合がある」ということにある。
 これも冒頭に書いた内容と一緒だ。ただ問題なのは、〈生命〉と同様に〈複雑系〉もその定義がはっきりしないことだ。

 どうやら〈複雑系の科学〉は、その定義を求める研究でもあるようだ。この視点において〈複雑系の科学〉の意味が個人的な感想だけどようやくかすかに見えてきた気がする。
―― そういえば前回にも触れた、金子邦彦と津田一郎の共著『複雑系のカオス的シナリオ』の冒頭には、はっきりとこう書かれている。

 今や多くの人々が複雑系を標榜している。さらに複雑系研究は始まったばかりである。科学者によっては「複雑系とは何か」を明確にしないで個々の研究を行った方がよいと主張する人もいる。なぜなら複雑系を何らかの形で規定することは、複雑系研究の広がりを阻害する恐れがあるからである。しかし、われわれはこのシリーズを通して複雑系の輪郭をはっきりさせたいと望んでいる。
〔『複雑系のカオス的シナリオ』1996年 朝倉書店 (p.1)

 前回はそこで展開される主張を「複雑系を複雑な要素の集合ではなく、複雑な現象として、記述しようとする試みだ」と表現してみたのだった。
―― そのことは金子邦彦と池上高志の共著となったシリーズの第 2 巻で、次のように語られていた。

言いかえると生命とは何か、という問いに対して、ある生命状態を定義するのではなく、相手を「生命」として相互作用する「生命」という過程として生命を再帰的に決めようという立場をとる。つまり生物が、われわれの観測の仕方も含めて、生物システムとしてわれわれの前に出現しているという事実を認識し、「現象としての生命」を出発点とするのである。
〔『複雑系の進化的シナリオ』1998年 朝倉書店 (p.4)

 やっぱりというべきか。
 複雑系の科学とは何であるかを探求することが、複雑系の科学の目的のひとつなのかもしれない。
 そうなれば、複雑系の科学そのものが、自己言及的ともなる。
―― 生命現象が自己言及的であるということは、次のような事例で説明されていた。

 もし、ある環境にできるだけ適した種ということだけを考えるのであれば、その適した種はできるだけ複製のエラーを押さえ、自分に近いコピーを残す方向に向かうと考えられる。変異率が低い種ほど、その適した種を維持できるからである。たとえば、変異率の変異について、以下のような状況を考えてみよう。上述の校正のように、複製エラーの大きさが自分の遺伝子上にコードされているとする。すると、エラーの大きさを決めている部分もまた自分自身の変異率によって突然変異にさらされる。そこで、変異率をコードする部分が自分に言及するということになる。それは、「ルールを(どのくらい)変える」というルールなので、もし、それがそのまま残っているとそれ自体のルールを変え続けるという逆説的な状況が生じる。もし、このルールがそれ自身に適用されて「ルールを変えない」というルールになれば安定に残り、逆説は解消されてよいはずである。言いかえれば、突然変異率を 0 にするという解決策をとればよいわけである。生物学的に言えば、固定された環境の中に適応するという問題を考えた場合、最終的には突然変異率は減少していくであろうということである。
〔『複雑系の進化的シナリオ』 (pp.79-80)

―― さらには現象学にも絡めて、次のように語られている本もある。

 たとえば、構成論的アプローチに代表されるコンピュータを使った仮想世界の考察は、現象学的還元の科学版ともいえよう。その本質は双方とも、現実を理解するためにいったんは現実を「カッコに入れる」ことにある。そして、現象学的還元の最大の教訓が、完全な還元は不可能であるという認識にあったという事実は、複雑系の科学にとってもきわめて示唆的である。すなわち、現象学的還元がそこへの還帰をめざした超越論的主観性という玉座が、あらかじめ王の不在を約束されていたように、複雑系の科学がめざす単純な究極の真理といったものも、結局は存在しないのかもしれない。
〔吉永良正著『「複雑系」とは何か』1996年 講談社現代新書 (p.238)

 不意に思った。
 モノとしての生物から、コトとしての生命の探究へと、そして、さらなるステージへと。
 生命は〝意思をもった時空〟的存在だともいえる。
 これは、トキ(時間)の終焉まで続く、宇宙の自己言及の道程(みちのり)なのかもしれない、と。


複雑性/複雑系
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/systems/complex.html

0 件のコメント:

コメントを投稿