2018年2月20日火曜日

自己言及するクレタ人の伝説

 必ずというわけではないけれど、〈ラッセルのパラドックス〉といえば〈自己言及する嘘つきクレタ人〉が顔を出す。そもそも〝クレタ人が嘘つき〟という説話は、古来より語り継がれていたようだ。
 フランシス・ベーコンの学問の進歩(“THE ADVANCEMENT OF LEARNING” 1605) の第二巻 (22-5) に、次のような記述がある。

聖パウロは、「クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけものの食いしんぼう」といわれている、その国の人びとの気質のゆえに、「クレテ人をきびしく責めよ」といって、クレテ人にきびしい訓練を施すべきだときめている〔『テトスへの手紙』一の一三〕
〔『学問の進歩』服部英次郎・多田英次 訳 1974年 岩波文庫 (p.291)

―― このように伝承される聖書の、該当の節を参照するならば。

クレテ人のうちのある預言者が
  「クレテ人は、いつもうそつき、
  たちの悪いけもの、
  なまけ者の食いしんぼう」
と言っているが、この非難はあたっている。
〔口語訳『聖書』新約聖書「テトスへの手紙」第 1 章 12-13 節 (p.338)

 なるほど、完璧な〈自己言及のパラドックス〉の見本といえる。というわけで図書館で〈ラッセルのパラドックス〉に関する資料をひもとけば、記された「預言者」というのは、「エピメニデス」という人物とされていて、評判のいいクレタ人なのだそうな。
 その評判のクレタ人エピメニデスが、クレテ人は、いつもうそつきだといっているのだから、これはもう大嘘に違いないのである。
 少しは、わかった気になる。しかしながら、どういういきさつで〈自己言及するクレタ人〉が、〈ラッセルのパラドックス〉に関わるようになったのか。
 簡単にいえばラッセルの示したパラドックスにエピメニデスを登場させたのは誰か。―― ここで、エピメニデスのパラドックス(Wikipedia) を参照すれば、それはバートランド・ラッセル自身だと、あっさり書かれていた。

この論文の中でラッセルはエピメニデスのパラドックスを様々な問題を論じる出発点とした。

ということである。
 ダグラス・ホフスタッターは大著ゲーデル、エッシャー、バッハ ―― あるいは不思議の環(“GODEL, ESCHER, BACH”1979, 1999) でこれらのパラドックスについて述べているが、その序論エピメニデスのパラドクスは、ゲーデルの〝不完全性定理の証明〟に関わるものとして登場する。

ゲーデルの発見は、核心部分についていえば、古代の哲学的なパラドクスを数学的な言葉に翻訳したものにかかわっている。そのパラドクスとは、いわゆる「エピメニデスのパラドクス」、あるいは「うそつきパラドクス」である。
…………
ゲーデルの仕事の場合、「証明」という言葉が前提としている数論の論証の一定の体系は、一九一〇年から一九一三年にかけて出版された、バートランド・ラッセルとアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの巨大な著作『プリンキピア・マテマティカ』(P・M) の体系であった。
…………
 『プリンキピア・マテマティカ』にまつわる最後の皮肉は、ゲーデルの不完全性定理の証明が、不思議の環の攻撃に対する確固たる要塞と思われていた『プリンキピア・マテマティカ』の心臓部分に、エピメニデスのパラドクスをもちこむことになった、ということである。
〔『ゲーデル、エッシャー、バッハ』[20周年記念版]野崎昭弘(他)訳 2005年 白揚社 (p.32, p.35, p.41)

 どうもその書に示されている内容では、〈ラッセルのパラドックス〉と〈自己言及するクレタ人のパラドックス〉は、同じレベルのものではないような気がする。
 ラッセルが数学的な問題として提示したのは、〝自己を要素として含まない集合のすべてが要素となるような集合〟についてであることは疑いない。
―― そのことについては。

 最も有名なのはラッセルのパラドクスである。多くの集合は、それ自身の要素ではないように思われる。たとえばセイウチの集合はセイウチではないし、ジャンヌ・ダルクだけを含む集合はジャンヌ・ダルクではない(集合は人ではない)―― という調子である。この点について、たいていの集合はごく「平穏無事」で、とくに変った点はない。しかしある「自分自身を呑みこむ」集合は、自分自身を要素として含んでいる。たとえばすべての集合の集合とか、ジャンヌ・ダルク以外のすべてのものの集合などがそれである。明らかに、どんな集合も平穏無事であるかまたは自己呑みこみであって、その両方ではありえない。そこで、平穏無事な集合の集合を考えてもさしつかえあるまい。
〔同上 (pp.36-37)

 ここで、平穏無事な集合の集合が考察され、それは平穏無事でもないし、自己呑みこみでもない。なぜなら、どちらを選んでもパラドクスが生じる」〔同上 (p.37)と、結論づけられる。
 上記の〝自己を要素として含まない集合すべてを要素とする集合〟は、R として表現されるようだ。
 もし R が R の要素であれば、〝自己を要素として含まない集合〟ではなくなるので矛盾する。
 また R が R の要素でなければ、〝自己を要素として含まない集合〟なので、その集合の要素として必然的に集合の一部を構成するために、R は R の要素であろうこととなっていっそう矛盾する。
 R は R の要素であるのか否か。

 いっぽうで、自己言及するパラドックスには、二段階バージョンが示され、さらにややこしくなる。
 1 枚のカードの両面に文字が書かれていて、それぞれ 1 行ずつ次の言葉が読み取れる、とする。

   求めよ! この裏には真実が書かれている。
   この裏に書かれていることはいつわりなのだ。


 さて、クレタ人の伝説をイギリス人ベーコンで始めたけれども、同じころ、大陸にはガリレオ・ガリレイがいた。
―― そうして、ガリレオが偽金鑑識官(“Il Saggiatore” 1623) を著して以来、数学は自然を記述する言語としての定評を持つけれど、

哲学は、眼のまえにたえず開かれているこの最も巨大な書〔すなわち、宇宙〕のなかに、書かれているのです。しかし、まずその言語を理解し、そこに書かれている文字を解読することを学ばないかぎり、理解できません。その書は数学の言語で書かれており、その文字は三角形、円その他の幾何学図形であって、これらの手段がなければ、人間の力では、そのことばを理解できないのです。
〔『偽金鑑識官』山田慶兒・谷泰 訳 2009年 中公クラシックス (p.57)

あいにくなことには、通常の言語が曖昧さを特徴とするがごとくに、ゲーデルはその数学をも、〝不完全〟なものと証明してしまった。

 言葉では、すべてを表現することはできない。
 現実を完全に表現した言葉が、もしあるならば、それはもはや言葉ではなくすでに現実そのものであるだろう。
 なんだか、完全に現実を再現した実験モデルは、すでに現実であって、シミュレーション・モデルとはいえないという想定を思い出した。
 考えてみればきっと現実は、リアルタイムの、シミュレーション・モデルといえるのだし。

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