2016年2月3日水曜日

ジョン・ウェズリ 「悪魔なければ、神もなし」

〈サタン〉の語源がもともと、「〔道を〕さえぎる者」にせよ「〔道を〕さまたげる者」であるにせよ、
敵する者――「敵対者」としての役割は、そもそも、対立する概念を想定しているのです。

それ――サタンの対立概念――は最初、「ひと」であったのが、「キリスト」へと移り変わります。
これが、新約聖書で完成を見た、〈キリスト〉対〈サタン〉の図式となります。
ここで、
キリストであるイエスは、神の子でありますから、《神》対〈サタン〉の図式も同時に成立します。

このように〈サタン〉は独立しては存在し得ないのですが、それと同時に、
創造者である善なる《神》も、悪の原理を〈サタン〉に依存することになりました。

そいうわけで、今回の、上の標題のような展開とあいなります。

先月末に最初の紹介をさせていただいた、『古代悪魔学』には、

ジョン・ウェズリ(一七〇三-九一年、オクスフォード大学教授、メソジスト派の祖)のことばを借りれば「悪魔なければ、神もなし」というわけであるが(16)

(16) Rudwin 1931 : 106. The Trial of Maist. Dowell (1599, p.8) の「悪魔なければ神もなし」という表現 (K. Thomas 1978 : 559 で引用されている ) と比較せよ。

とあります。
どうやら、1600 年頃にはすでに、そういうことが言われていたようです。

新約聖書で描かれる有名なユダの裏切りも、それによって、
イエスの十字架上での死が、いっそうの栄光に包まれることになるわけですので、
『ユダの福音書』も説得力をもつのです。
――つまり、もっともイエスに忠実な使徒がもっとも辛い役目を負った、という。
そういう方向性の解釈では、
サタンもユダも、その使命により、地獄に落ちたのです。

果たして《神》は、彼らに、
――よろしく頼むよ。

と、言ったのでしょうか? そういえば、
ミルトンの『失楽園』でも、サタンにそういう役割の陰翳(かげ)が見え隠れしているようです。
つまり、
――闇がなければ、光も認識できない、ということなのですね。


Enemy : 敵対者の神話
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Messias/myths.html

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