2019年1月18日金曜日

神魂の神 / 赤猪の神話

◎ 鳥取県の大山(だいせん)の火山活動が、コンパクトにまとめられた一節に、約 3000 年前の溶岩の記述がある。

『鳥取県農業と土壌肥料』

 Ⅱ 鳥取県の自然と土壌

1. 気候、地形、地質(元鳥取大学農学部 飯村康二)
 現在最も古い溶岩として側火山の鍔抜山で 0.96 ± 0.03 Ma という K-Ar 年代が得られており、同じく側火山の孝霊山では 0.30 ± 0.03 Ma が得られている。また最も新しいとされる弥山火砕流中の炭化木片について 17.2 ± 0.2 千年前という 14 C 年代が得られている。
〔鳥取県土壌肥料研究会/発行『鳥取県農業と土壌肥料』(p. 16)

―― 国立研究開発法人産業技術総合研究所「地質調査総合センター (GSJ)」の公式ページ
日本の火山(https://gbank.gsj.jp/volcano/) 内の  volcano ― Daisen
にも、およそ 3000 年前とされている火砕流噴火の記録が補足事項として掲載されている。

火山の概要・補足事項:
奥野・井上(2012、連合大会予稿集)によって、約3000年前の火砕流噴火(噴出火口は烏ヶ山と弥山の中間付近か?)が指摘されている。
(URL : https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/volcano_data/H17.html )


○ 上記報告の記録に、PDF で一般公開されている内容があるので、そこから抜粋すれば次のごとくとなる。

Japan Geoscience Union Meeting 2012
(May 20-25 2012 at Makuhari, Chiba, Japan)

大山火山の完新世噴火
Holocene Eruptions in Daisen Volcano, Western Japan
奥野充、井上剛(福岡大学理学部)
 …………
地点 1 の炭化木片から 3110 ± 60 BP が、地点 2 の火山灰層直下の土壌からは 3290 ± 40 BP の 14 C 年代が得られた。両者の年代値はほぼ一致しており、火砕流とその降下テフラであると考えられる。この火砕物の給源は、火砕流地形の分布から烏ケ山と弥山の中間付近である可能性が高い。なお、本研究の AMS 14 C 年代の測定は、(独)日本原子力研究開発機構の施設供用制度を利用したものである。
(URL : http://www2.jpgu.org/meeting/2012/session/PDF_all/S-VC53/SVC53_all.pdf )

◎ この〝約 3000 年前とされている大山の火砕物〟は、人類の記憶として刻まれているのだろうか?

The End of Takechan

いわゆる〝赤猪の神話〟の物語が、古事記に記録されている。
 この〝赤猪の神話〟がテーマとなった、青木繁の作品「大穴牟知命」(石橋美術館蔵、1905 年)のことは、前回の最後にも触れた。

 この神話でオホクニヌシの名は、オホナムヂと記されているのだけれど、八十神の下っ端扱いを受けていた彼はその直前の物語〝因幡の白兎〟の展開で、八十神の怒りを買うこととなった。そして〝赤猪の神話〟で八十神はオホナムヂの抹殺をたくらみ、赤く焼けた大石を大山のふもとに落としてそれをオホナムヂに受けとめさせ殺害に成功するのである、が ……。ところがどっこい、さすがは神話の世界! 母神の要請を受けた天上の介入によりオホナムヂはたちどころに生き返ってしまうのだった。
 すっとこどっこいとばかりにその後もオホナムヂは八十神に殺されては生き返りを繰り返したあげく、こともあろうについには生きたまま根の国に逃亡することとなる。
―― そのオホナムヂ最初の復活劇に絡むのが、カミムスヒに派遣されたキサガヒヒメとウムギヒメなのだ。

○ 出雲国風土記に描かれた〈神魂命〉の子〈支佐加比売命〉と〈宇武加比売命〉の説話をこれも、前回に確認した〔「出雲国風土記」嶋根郡(加賀郷・ 法吉郷)参照〕。カミムスヒは、カモスの神と同一であるとされているのだけれども、古事記では、それらの神々は上記のシーンに登場することとなる。

○ 伯耆大山の地元鳥取県内の自治体から 1975 年に発行された『西伯町誌』に〝赤猪の神話〟の項があり、その記述内容の一部には『伯耆志』からの引用文がある。
――『伯耆志』は幕末の頃に書かれた地誌である。なお安政五年 (1858) の完成であるともいわれる『伯耆志』の編集者、景山粛(字は雍卿・号は仙嶽・通称は立碩)は、安永三年 (1774) に生まれ、文久二年 (1862) に没したと伝えられる。

『西伯町誌』

第二編 歴史「第一章 原始・古代の社会」

赤猪の神話  神話は事実そのものではない、郷土の神話には古事記と旧事本紀に取りあげられた「手間の赤猪」があり、その内容は史実そのものではない。しかしそれは全然仮空といってよいものか、解釈はどうあろうとも古事記などには「そのように書かねばならない」理由があり素材があったとみねばならない。又古事記の編集された奈良時代以前にその素材ができていたことも疑いない。その上赤猪神話の場が「伯耆国の手間の山本」とあることにも注目せねばならぬ。八世紀以前に郷土に「書かねばならぬ理由と素材」のあったことも無視できない。手間とはいうまでもなく隣町会見町の旧郷名であり、赤猪神話の伝承地が本町の清水川にもあることは重視せねばならぬ。
…………
 (清水川の伝説)伯耆志に次のようにかいているから幕末にも伝説はのこっていたとみていい。

 「清水川村、おば御前、社はないが村の中の山につゞいた小さな林の名である。昔は社もあったか、「きさがいひめ」「うむがいひめ」を祭るという伝説は次のようである、泉があるがそれはおば御前の隣で人家に近く、周り五間ばかりの浅い井である。上に椋の木ありこの村の名はこの泉によってできた。土地の人々の話では「きさがいひめ」「うむがひめ」が「おおなむちのみこと」を蘇生させ給いし時あの貝の粉を此水に和して塗られたという。この話を知らないものも名水とたたえるのはもともと神話の地だからである。水の色が少し白味をおびていて蛤水に似ている。この話は古事記にある。一説ではこの水でねったのでなく蛤の水の余りを捨てたのがこゝの井だという。百日の旱魃にもかれることがない、その故に隣に「おばごぜん」を祭るのである。ああ、一掬してみると大古の事がしのばれる。美しく、不思議なことであるのに、村民は便利にまかせて洗いものに使っている歎げかわしい」と。
〔『西伯町誌』(pp. 48-49)

◎ この伝承が〝約 3000 年前とされている大山の火砕物〟の、人類の記憶であるとしても、検証は不可能だ。

The End of Takechan

〈カモス〉と〈ヘモス〉


 出雲の〈カモス〉を含めて朝鮮語の日本語への影響はさまざまな文献で指摘されている。
 次に見る全浩天氏の『キトラ古墳とその時代』は、〝朝鮮半島と古代出雲〟の関係性について「高句麗と新羅の東海に開かれた古代出雲の表玄関である美保関」とも述べられているのだけれど、〝神魂神社とカモス神〟について考察された個所を今回、ここで引用しておきたい。

○ 日本語の〝〟は朝鮮語の〝カムカル〟と音韻が通じるのだし、また日本語の〝〟は朝鮮語の〝コモ〟であったのだろう。このことと、当時は〈カモス〉と訓まれていた「解慕漱」の語の、朝鮮半島での現在の発音が〈ヘモス〉に変化したのだとする説は、矛盾しない。これも有力な仮説のひとつと思われる。

『キトラ古墳とその時代』

Ⅴ 古代出雲と妻木晩田遺跡
 3 古代出雲にみる朝鮮文化の重層 ―― 高句麗と新羅関係を中心にして ――

 一 神魂神社とカモス神
 古代出雲における新羅と高句麗文化の累積・重層化をさぐるために、出雲東部の意宇郡・大庭にある神魂[かもす]神社とカモス神を従来の理解から離れて検証する必要がある。というは、高句麗からの神話・信仰を基底に敷くものと解釈するからである。
 神魂神社のカモス神については、これまでさまざまな見解が加えられてきたが、そのカモス神とは一体何であるのだろうか。
 神魂神を『古事記』では神産巣日[かみむすび]神、『書紀』では神皇産霊尊としてカミムスビと仮名をふって訓[よ]んでいるが、神魂神のカモスはカモスであって他にならないはずである。
 門脇禎二氏は、このカモス神の「カモスの称が残りつづけたのは、朝鮮に発したコモスの始祖霊信仰によるとみられる(1)」と興味深い理解の仕方をしめしている。能登の珠洲市に式内社として登記された古麻志比古[こましひこ]神社がある。この神社については、神社名の古麻志比古から高麗(コマ)・魂(シ)・彦とみて、高句麗系渡来人の神社とみる解釈があった。
 ところが門脇氏は、古麻志比古神社の本来の祭神は、日子座王[ひこますおう]命であるから、祭神じたいをより重視すれば問題が残ってくるとして、「古麻志のコマは、コモ(熊)が呪術と修業によって天神の子を生むという朝鮮の平壌地方にあった呪術的な民間信仰のひとつでコモ(熊)・ス(霊)であった」という説をとりいれ、このコモ・スが神魂(カモス)信仰として出雲神話にみえるカモス信仰へと発達し、こうした始祖霊信仰が、つぎの始祖的人格信仰の前提、例えば彦坐王信仰になると解釈した。つまり、能登の古麻志比古神社の原像や出雲の神魂神社の原像を、「朝鮮の土着的な呪術信仰」にもとづくカモス(シ)信仰に求めたのであった。
 筆者はカモス神と神魂神社の原像を「朝鮮の土着的な呪術信仰」に求めるのではなく、すでに修飾化され、人間化された始祖的な人格信仰として、高句麗建国神話に登場してくる天帝の子・解慕漱(朝鮮語ではヘモス)から由来していると解釈している。解慕漱[ヘモス]とは言うまでもなく『旧三国史』や『三国史記』が伝えているように河伯の娘・柳花と結ばれた「天帝子」である。その天帝の子が高句麗始祖王の朱蒙である。
 『三国史記(2)』と『三国遺事(3)』が記載している解慕漱の解(ヘ)の古い読みは「カ」であるから、古代朝鮮語のように読めば解慕漱=カモスである。このカモスが出雲の神魂神社のカモス神の原像であると考える。
 柳烈氏は『三国時代の吏読についての研究』において『三国史記』と『三国遺事』に記載された解慕漱の解(ヘ)についてふれ、「『解[ヘ]』字の『ヘ』は、古い形態である『解[カ]』字の『カ』の音韻変化である(4)」と指摘している。
 このようにカモス神を理解すれば、出雲のカモス神と同時に、能登の古麻志比古神社の原像もふくめて高句麗的性格が解明されるのではないだろうか。
 カモス神は出雲国の本拠地である意宇の地にあって、この地の「土着信仰のカモス神」として根強かったが、本来の姿は高句麗渡来のカモス神であった。ところで意宇平野の元来の地主神・農業神は熊野大神であったが、出雲東部の政治経済的発展にともなって、より政治的なカモス神として生みだされていったものと思われる。門脇禎二氏が指摘しているように、畿内大和朝廷による出雲最初の支配者、すなわち最初の国司である忌部首小首[いんべのおびとこおびと]が、自らの祖先神とカモス神を結びつけて崇拝したものと思われる。こうして神魂神社は出雲国造の館におかれるようになった。
 カモス神が高句麗神話から創出された出雲在地の信仰であるとすれば、当然のことながら、それをもたらした高句麗からの直接の渡来か、出雲と朝鮮、この場合は日本海を介しての対岸交流の結果によるものであろう。この高句麗からの渡来と交流をより直截的に証しうるのは、考古学上の遺物・遺跡であろう。
 この点で注目されるのは、出雲意宇の東部の安来平野であるが、この地域の横穴古墳から「高麗剣」とよばれる双竜環頭大刀などが出土して高句麗系移民の来着をうかがわせる。

(1) 門脇禎二『日本海域の古代史』 東京大学出版会 一〇一~二頁。
(2) 『三国史記』巻一三 高句麗本紀 『始祖東明聖王 姓高氏 諱朱蒙』「自称天帝子解慕漱」。
(3) 『三国遺事』紀異第一 古朝鮮「以唐高即位五十年庚寅」紀異第二 高句麗「解慕漱私洞伯之女而後産朱蒙」。
(4) 柳烈『三国時代の吏読について』平壌 科学・百科事典出版社 二〇九~一〇頁。
〔全浩天/著『キトラ古墳とその時代』(pp. 223-225)


 次回は、〝カガミの舟に乗って〟やって来たという、スクナビコナの記録を参照する予定なのだが、古事記でスクナビコナは、カミムスヒの子とされている。
 食物の種を蒔き歩くスクナビコナは、各地の風土記にも多数の記録が残されている。―― スクナビコナのこの全国的展開はすなわち古事記の伝によれば、親が回収した〝五穀の種〟を、子が蒔くというシチュエーションなのであるが、ただしそれとは異なって、日本書紀ではスクナビコナはタカミムスヒの子と伝承される。
 一般に、カミムスヒは出雲系の神話に登場するので出雲神話の神とみなされているのだけれど、いっぽうでタカミムスヒは出雲系の神話以降もしばしば描かれており継続して天神の中心的役割が与えられるという、それぞれの立場の相違がある。

 スクナビコナを、古事記がカミムスヒの子としたのも、日本書紀がタカミムスヒの子としたのも、いずれもそれなりの理由に基づいて記録されたに違いないとは推察できるけれども、さてどのような事情が絡んでいたのだろうか、もはや、知るすべはないようだ。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

神魂(カモス)の神 / 赤猪の神話
https://sites.google.com/view/emergence2/tsuge/kamosu

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

神魂(カモス)の神 / 赤猪の神話 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/kamosu.html

2019年1月9日水曜日

加賀の郷 / 三穂の埼

―― 日本海文化の交流という視点から
 古代の出雲と高志(越の国)とは文化的な交流があったことが「出雲国風土記」から読み取ることができた
「トリカミの峰 / ヒノカハの上」のページ 参照 )
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/torikami

 特記すべき事項として「出雲国風土記」の嶋根郡には、天の下造らしし大神の命、高志の國に坐す神、意支都久辰爲命のみ子、俾都久辰爲命のみ子、奴奈宜波比賣命にみ娶ひまして、産みましし神、御穗須須美命、是の神坐す。故、美保といふ。の記述が見える。

 この「出雲国風土記」の記述は、古事記にある「此の八千矛の神、高志の國の沼河比賣を婚はむとして」云々の、原形となった説話であろうと思われる。

○ 八千戈神(やちほこのかみ:大国主神すなわち大穴持命)が、〈高志國之沼河比賣〉に言い寄るシーンが、古事記に描かれていた。日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』によって原文を改めて確認しよう。

「大国主神 4 沼河比売求婚」

[原文]
 此八千矛神、將婚高志國之沼河比賣、幸行之時、到其沼河比賣之家、歌曰、
[訓み下し文]
 此の八千矛の神、高志の國の沼河比賣を婚はむとして、幸行でましし時、其の沼河比賣の家に到りて、歌ひたまひしく、
(このやちほこのかみ、こしのくにのぬなかはひめをよばはむとして、いでまししとき、そのぬなかはひめのいえにいたりて、うたひたまひしく、)
〔日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』 (pp. 100-101)

○ 一方で、出雲国風土記の嶋根郡の地名起源譚で語られていたのは、次の内容だった。

「出雲國風土記」嶋根郡

[原文]
 美保鄕 郡家正東廾七里一百六十四歩 所造天下大神命 娶高志國坐神 意支都久辰爲命子 俾都久辰爲命子 奴奈宜波比賣命而 令産神 御穗須須美命 是神坐矣 故云美保
[訓み下し文]
 美保の鄕 郡家の正東廾七里一百六十四歩なり。天の下造らしし大神の命、高志の國に坐す神、意支都久辰爲命のみ子、俾都久辰爲命のみ子、奴奈宜波比賣命にみ娶ひまして、産みましし神、御穂須須美命、是の神坐す。故、美保といふ。
(みほのさと こほりのみやけのまひむがし27さと164あしなり。あめのしたつくらししおほかみのみこと、こしのくににいますかみ、おきつくしゐのみことのみこ、へつくしゐのみことのみこ、ぬながはひめのみことにみあひまして、うみまししかみ、みほすすみのみこと、このかみいます。かれ、みほといふ。)
(頭注)
美保鄕 島根半島の最東部。美保関町、森山附近以東にあたるのであろう。
意支都久辰爲命 クシヰはクシビ(霊)の音訛か。遠(おきつ)近(へつ)に分けて父子の二神の名としたもの。
奴奈宜波比賣命 古事記に大国主命が婚した越の沼河比売とある女神に同じ。
御穂須須美命 下の美保社に鎮座。
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (pp. 126-127)

◎ 美保神社ゆかりの美保関(みほのせき)近辺の地名譚には、さらに注目すべき記述がある。


「出雲國風土記」嶋根郡 : 加賀鄕 / 法吉鄕


加賀の鄕 郡家の北西のかた廾四里一百六十歩なり。佐太の大神の生れまししところなり。御祖、神魂命の御子、支佐加比賣命、「闇き岩屋なるかも」と詔りたまひて、金弓もちて射給ふ時に、光加加明きき。故、加加といふ。〔神龜三年、字を加賀と改む。〕
(かがのさと こほりのみやけのいぬゐのかた24さと160あしなり。さだのおほかみのあれまししところなり。みおや、かむむすびのみことのみこ、きさかひめのみこと、「くらきいはやなるかも」とのりたまひて、かなゆみもちていたまふときに、ひかりかがやきき。かれ、かがといふ。〔じんきさんねん、じをかがとあらたむ。〕)

法吉の鄕 郡家の正西一十四里二百卅歩なり。神魂命の御子、宇武加比賣命、法吉鳥と化りて飛び度り、此處に靜まり坐しき。故、法吉といふ。
(ほほきのさと こほりのみやけのまにし14さと230あしなり。かむむすびのみことのみこ、うむかひめのみこと、ほほきどりとなりてとびわたり、ここにしづまりましき。かれ、ほほきといふ。)
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (pp. 126-129)

―― ここに、訓み下し文を抜粋した個所は〈神魂命〉の子、〈支佐加比売命〉〈宇武加比売命〉の説話である。これらの神々は、古事記の物語の一部にも組み込まれているのだが、説話の成立としては、古事記よりも出雲国風土記のほうが先ではないかと予想される。なぜなら、推察するに、地方の文献があえて中央で語られた内容と異なるシチュエーションで神々を語るというのは、古来それぞれの土地に伝承されてきた神話そのものだったからなのだろう。土地の伝承を語るうえで、中央政府の都合に迎合する理由がなかったからだと思われるのである。

 ところで、

『出雲国風土記註論』(嶋根郡・巻末条)

では、

 まだ一例に過ぎないがかつてこの地域を「みほ」ではなく「副良」と呼んでいた事実は重要である。…… どちらにしても注目すべきは「みほ」の地名が前面に登場したことである。そこに『古事記』『日本書紀』の大国主神の国造り、国譲り神話の影響を読み取ることが出来る。
〔関和彦/執筆『出雲国風土記註論』(嶋根郡・巻末条) (p. 15)

と逆向きの影響が語られているけれど、この影響というのは、いつの時代に発生した影響なのであろうか。考察のヒントとしては、その直前の説明において、

 『出雲国風土記』が「今も前に依りて用ゐる」としたのは『播磨国風土記』が言及する「庚寅年(六九〇年)」における郷名変更を意識したものであろう。すなわち「美保郷」の古名は藤原京時代の六九〇年までは「副良里」であり、同年に「美保里」と改名され『出雲国風土記』編纂段階では「前に依り」、「美保」の名を継承したというのである。
〔関和彦/執筆『出雲国風土記註論』(嶋根郡・巻末条) (p. 13) 〕

と、されているのが参考となろう。690 年には古事記 (712) も日本書紀 (720) も、成立していないことは明らかで、藤原京時代の 690 年に「美保里」と改名された当時には、古事記と日本書紀の影響を受けていないことは、歴史時間を考えれば明白なのである。可能性として、その後に古事記と日本書紀に記録されることとなった神話の影響は、それ以前にあったかも知れないけれども。―― さらには。出雲国風土記が中央政府をおもんばかって朝鮮半島との関係性(親和性)を前面に出していないという説は、各種文献で説得力をもって語られているけれども。
 関和彦氏により『出雲国風土記註論』で論じられた解釈では、出雲国風土記が中央の神話の影響を受けて、その土地に伝承されてきた神話の地名を安易に改竄したということになってしまう。

 国引き神話で國來々々と引き來縫へる國は、三穗の埼なりと、高らかに宣言されているではないか。
 この神話が、中央政府の影響を受けた結果だとする説には、賛同できかねる。

堅め立てし加志は、伯耆の國なる火神岳、是なり。


 鳥取県内、伯耆大山の山麓が舞台となって展開する古事記に記録された物語は、〝赤猪の神話〟として絵本にもなっているけれども、有名なところでは、日本神話をテーマとした洋画家青木繁の作品「大穴牟知命」(石橋美術館蔵、1905 年)がある。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

加賀の郷 / 三穂の埼
https://sites.google.com/view/emergence2/tsuge/miho

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

加賀の郷 / 三穂の埼 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/miho.html

2018年12月27日木曜日

穴師塚は 横枕火葬墓群の 約 600 メートル西にある

 夏ごろに検討を開始してもはや年末なのだけれど、「穴師塚」の場所について推定座標の決着をつけたい。
 まず地名辞書にも出てくる「穴師山」なのだがこれは「巻向山」なのだと、書いてある。

『角川日本地名大辞典』 29 奈良県

 あなしじんじゃ 穴師神社〈桜井市〉

桜井市穴師字宮浦にある神社。旧県社。当社は「延喜式」の神名上に見える穴師坐兵主神社・穴師大兵主神社・巻向坐若御魂神社の 3 社を合祀したもので、穴師神社はその総称である。当社はもと上社と下社に分かれ、下社が穴師大兵主神社で現在地に鎮座、上社は穴師坐兵主神社で巻向山中にあったが、応仁の乱の頃に焼失したので、御神体を下社に合祀し、同時に同じく山中に鎮座していた巻向坐若御魂神社も下社に合祀されたという(穴師坐兵主神社明細帳・大和志料)。現社殿 3 棟の中央社殿が穴師坐兵主神社、左殿が穴師大兵主神社、右殿が巻向坐若御魂神社。穴師坐兵主神社はもと巻向山(穴師山)にあり、垂仁天皇 2 年に鎮祭されたと伝える(穴師坐兵主神社明細帳)。……
〔『角川日本地名大辞典』 29 奈良県 (p. 96)

 この穴師山とは、現在は三角点が設定されている〈基準点名「穴師」標高 409m 地点〉と推定される。また、同じく巻向山中にあり応仁の乱の頃に焼失したと伝えられる巻向坐若御魂神社のかつての所在地は、小川光三氏の『大和の原像』に記された、穴師塚のある場所なのであろうと思われるのである。
 小川光三氏の『大和の原像』の 127 ページに、こう記述されている。

 このあたりには、現在大兵主神社に合祀されている「若御魂[わかみむすび]神社」があったという伝承がある。

―― 小川氏がその伝承に基づいて現地を歩き、そして地元のひとびとに取材した記録が、続いて次のようにつづられている。

 以前に面識のあった元区長の N 氏を訪れると、私の目差すあたりの山中に詳しいという T 翁を紹介された。幸い在宅中の翁は突然の申し出に快く応じて、座敷に広げた地図に私が指差す地点をしばらく見守っていたが、「ふうん、横枕[よこまくら]の先の方やと穴師塚やな」。低いがはっきりした声でそう言い切った。地図を覗き込んでいた同行の O 君が、思わずニヤッとして私の顔を見上げたが、私は期待していた言葉とはいえ、こうはっきりと開かされると思わずハッとして翁の口元を見詰めた。しばらくして再び口を開いた翁は、この山の南山麓に「都谷[みやこだに]」の地名がありこれは穴師社のあったことに由来すること、そこに小祠があってこの山の方角を拝むようになっていたこと、元檜原は都谷のあたりらしいこと、更にこの山の東方約六百メートルに横枕という所があり、ここから石帯・和同開珎のつまった壺、そのほか多数の土器類・骨壺等が出土したことなどをゆっくりした口調で話してくれた。これで B 点には穴師上社(兵主神社)の父神という若御魂社があったらしいことがほぼ明らかにすることが出来たわけだが、考えてみると、御食津神の父神という伝承はまことに奇妙ではないか。これが何を意味し、何に由来するのかという手がかりは全く無く、大兵主神社にその伝承について尋ねてみたが、ただそのように伝えられているというのみで、古文書がすべて散逸した今は詳しいことがわからぬとのことであった。父神というのは、新宮[にいみや]に対する本宮[もとみや]の意味なのか、単なる奥の院的なものなのかは不明である。だが、もし前者の意味があるとすれば、この上の郷一帯に注目する必要がある。
〔小川光三/著『大和の原像』 (pp. 128-130)


―― さてこの内容から推定される座標を記録しておこう。東から、次の通り。

横枕火葬墓群」標高 500.5 m 地点 (34.556720, 135.884930 )
巻向坐若御魂神社跡穴師塚」標高 500.0 m 地点 (34.556459, 135.877737)

穴師山と思われる山頂は、基準点名「穴師」標高 409m 地点 (34.548149, 135.867378 )

である。これらの所在地が、以前(2018年7月23日月曜日)に検討した「箸墓古墳」と「天神社」および「天神山」とを結んだ〝ほぼ直角三角形〟とどのような位置関係にあるのかも、以下に書いておこう。
 ちなみに、「箸墓古墳の中軸線が示す方角」(2018年7月25日水曜日)では、次に示す引用文を説明の一部に用いていた。

 ○ さて、北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』の 159 ページには、次のように書かれている。

箸墓古墳の軸線と弓月岳 409 m ピークは 0.1° (6′) の誤差をもち、西山古墳の軸線と高橋山 704 m ピークは 0.4° (24′) の誤差をもつ。これが資料の実態であるから、この誤差ゆえに私の主張する事実関係には厳密さが伴わないとの批判もありうることである。しかしこの程度の誤差は許容される範囲内だと私は判断するが、そのいっぽうで、纒向石塚古墳の場合には検討が必要である。その前方部は三輪山山頂を向くと判断できるか否かであるが、本古墳にたいする私の築造企画復元案では、3.2° の振れ幅をもって三輪山山頂方向に軸線を向けることになり、それを意味のある事実とみなすか単なる偶然とみなすべきかの判断は微妙である。
〔『古墳の方位と太陽』「第 5 章 大和東南部古墳群」 (p. 159)

 北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』(pp. 159-160) では、箸墓古墳の中軸線は 22.3 度と示されているので、自前の計算による弓月岳に向かうラインの角度 22.38 度とは、約 0.1 度の誤差が発生することになる。
 そして、その日の出の角度というのはおおよそ五月の中旬頃になるのであるが、奈良県のホームページなどでも、それは「田植えの始まる時期」だと記述されていることを、「箸墓古墳から夕月岳へのライン」(2018年7月28日土曜日)で確認したのだった。

 今回、改めてそれらの座標を示しておこう。

箸墓古墳」(34.53929, 135.84125)
天神社」(34.57365, 135.91587)
基準点名「天神山」標高 455.06 m 地点 (34.539126, 135.914891)


―― 自前の計算式で座標間の計算を行なったその他の結果は次の通り。

● ここで「横枕火葬墓群」(34.556720, 135.884930) を A 地点として、
● さらに「穴師塚」(34.556459, 135.877737) を B 地点として、

設定すれば、A 地点は角度にして 2.52 度、 B 地点よりも北にあって、

○ A - B 間の〔水平〕距離は、0.659 ㎞ と、計算された。

 これらの数値が何を意味するのかそれとも何も意味しないのかは、さっぱりわからない。

「箸墓古墳」から東北東に 29.21 度で「天神社」に到達し、その距離は、7.824 ㎞ である。
「箸墓古墳」から東北東に 29.74 度で「穴師塚」に到達し、その距離は、3.846 ㎞ であるので、
「箸墓古墳」から「天神社」に至るほぼ中間点に「穴師塚/巻向坐若御魂神社跡」は所在するといえる。

 また一方で、横枕の火葬墳墓は、龍王山 (34.561491, 135.874389) から東南東、約 30 度で天神山に向かうライン上に、ほぼ位置する。

「龍王山」から、東南東に 33.84 度で「天神山」に到達し、その距離は、4.462 ㎞ である。
「龍王山」から、東南東に 28.79 度で「横枕火葬墓群」に到達し、その距離は、1.101 ㎞ である。

 これらの数値が何を意味するのか何も意味しないのかは、やっぱりわからない。


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穴師塚: 夕月岳 / 穴師坐兵主神社
https://sites.google.com/view/geshi-lines/hijiri/anashi

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座標間の水平距離と角度は、以下のページの座標データに基づいて計算しています。

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2018年12月14日金曜日

若草山に見られる野火の記憶

火は、土地を豊穣にし、やがて、鉄を精錬するに至る。

〈草薙剣〉の説話は国家権力によって、〈天叢雲剣〉へと変貌していき、
その剣の記念碑は、鳥取県と島根県の県境に聳える〈船通山〉の山頂に建っている。

―― と、前回の最後に書いた。
 製鉄以前の火の操作にかかわる、野焼きと、土器の製作は、日本ではともに縄文時代からの文化とされる。

◎ 人類にとっておそらく、発展的な火を制御する技術は、土器に始まったのではなく、もっと大規模な、山火事から派生した野火だったろう。

 現在でも「野火(のび)」の日本語は、「春に野山の草を焼く火」のことであり、古来それは年ごとに行なわれる「野焼きの火」であった。
―― 奈良市東部の春日山北西の丘にある、若草山嫩草山(わかくさやま)で、現在は毎年 1 月に行なわれている山焼きは、1950 年以前は 2 月 11 日の行事であったという。

 中国の歴史書に〝火耕〟という言葉がある。
 野焼き・山焼きのあとに採取される山菜は、まさに実践された火耕の成果ともいえようか。
 火が、土地を活性化することを知った人類はやがて、山地に農耕のため開墾地を求めた際にまず火耕 ―― 伐採の後の山焼き ―― を行なっただろうことは、容易に想像できる。
 そして記録に残るところでは、休耕地に、榛木(はんのき)が植樹された事例は多いようだ。ハリノキが転訛してハンノキと呼ばれたらしい。

 ○ ハイバラとも読まれる「榛原」は、もともと「榛原(ハリハラ)」であったろうし、また、野本寛一氏の著作である次の文献によれば「榛の木」は「墾の木」であるともいわれる。

『焼畑民俗文化論』

Ⅱ 焼畑系基層民俗文化の実際
 8 焼畑の循環と植物移植

 (pp. 151-152)

  1 榛

 中尾佐助氏は、ネパールでは「焼畑のあとにハンノキを植えますが、これは、空中窒素の固定をやり、土地を肥やすんです。ヒマラヤからアッサムまでの焼畑は、ハンノキ(ネパールハンノキ、ネパール名はユッティス)を使うというかなり高度な技術に達していた。台湾山地民もタイワンハンノキを使う」と述べておられる(『続・照葉樹林文化』中公新書)。
 榛の根に共生する根瘤菌が空中の窒素を蛋白質と化し、それが肥料となるともいわれ、多くの放線菌は細菌・カビ・原虫などにたいする抗生物質を生産するともいわれている。わが国の焼畑農民も経験的に榛の効用を伝承しており、榛の生えているところは焼畑に適していると伝えている。たとえば、石川県白峰村では、太い榛の木(オバル)があれば、その周囲一〇〇メートル四方は土が肥えているといい伝え、杉の植林にさいしても、初期には榛の木を伐らずに杉を植える習慣があった。……
 (pp. 153-154)
   (1) 榛と猪垣
 榛の木の苗を他の山から取ってきて、焼畑輪作の終了したところに二間間隔ほどに植え、二〇年から三〇年放置し、「アラス」と称した。二~三〇年たってふたたび焼畑にするときには、太いものは径一尺にも及んでいた。秋、木の葉のあるうちに木に登り、まず枝をおろし、幹はそのまま立てておいて焼いた。この残った幹のことを「ツモッ木」と称した。ツモッ木は春伐って、椎茸小屋で椎茸を乾燥させる燃料として利用した。さらに興味深いことに、この地では、秋、焼畑の収穫物に害を与える猪を防ぐために「せき」と呼ばれる木柵で焼畑地を囲んだのであるが、それをこの榛の木で作ったのである。……
 (p. 155)
   (2) 榛[ハリ]と墾[ハリ]
引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに(『万葉集』五七)
白菅の真野の榛原心ゆも思はぬわれし衣に摺りつ(『万葉集』一三五四)
などと「榛原」は歌にも詠まれ、大和の榛原、遠州の榛原など古い地名として残っている。「榛」は、「はん」または「はり」と読まれており、静岡市大間ではいまでも「はり」といっている。「新墾[にいはり]」「墾間[はりま]」「墾道[はりみち]」など、わが国では開墾のことを「はり」と呼んでいるのであるが、榛の木の生えているところを好んで農地として開墾し、また、時に、新開の焼畑地の輪作を終えてアラす場合、榛の木を植える習慣があったことを考えると、「榛の木」が「墾の木」であったことが考えられるのである。榛は開墾と深くかかわった植物であった。
 静岡市日向では茶畑のなかに榛の木を植え、その説明として、昔、山犬(狼)に追われたとき、この榛の木に登って難を逃れるよう工夫したものだと語り伝えられている。『古事記』に、雄略天皇が葛城山で大猪に追われたとき、榛の木に登って難を逃れたという伝承が記されている。静岡市大間で猪垣に榛の木が用いられたことと脈絡があるのだろうか。大地を肥やし、染色の原料ともなるこの木に、一種の呪力をみてきたことはたしかであろう。

 14 野焼きの民俗
  二 野焼きの実際

  1 若草山の山焼き

 (p. 236)
 一月十五日は奈良若草山の山焼きである。この日、午前中から若草山の麓にある、春日大社摂社の野上神社をはじめ、山の周囲では山焼きの準備がすすめられる。野上神社の祠の背後には高さ一メートル、径一・五メートルほどの真ん中が割れた石があり、この石が野上神社の磐座であることがはっきりとわかる。野上は「野神」で、野焼きの行われる野の神であったことが推察される。……
 (p. 237)
 標高三四二メートル、三三万平方メートルの若草山にいっせいに点じられた火は瞬時に紅蓮の炎となり、蛇のように這い、驚くべき早さで闇のなかにひろがっていった。そして約三〇分後に火は鎮まっていた。昼みると、白味を帯びた黄土色に蔽われた萱山が炎となり、やがて夜が明ければ黒褐色に変じているのである。
 一般に、若草山の山焼きの起源は、興福寺と東大寺の境界争いに由来すると説かれているが、実際の起源は食用野草の採集や草の獲得にあったものと考えられる。そして、この山焼きは大和盆地周辺の草山焼きの象徴的残存でもあった。「若草山」という名もゆかしく、遠く菜摘みの習俗とのかかわりをも思わせる。奈良公園の茶店で売られている「ワラビ餅」の発生も、広大な若草山の野焼きと無関係ではなかったはずである。
〔野本寛一/著『焼畑民俗文化論』より〕

 ○ 山口隆治氏による『加賀藩林野制度の研究』では、焼畑用地が「あらし」等と呼ばれることに関しても詳細な研究がなされている。その考察がまとめられて記述された個所から参照してみたい。

『加賀藩林野制度の研究』

第七章 白山麓の「むつし」

 一 白山麓の焼畑

 加賀藩の焼畑名称について、前記「耕稼春秋」には金沢付近の山間部で「薙畑」と称したことを記す。…… 能登国羽咋郡続きの越中国射水郡三尾・床鍋両村では「薙畑」または「ノウ(11)」、飛騨国境に位置した新川郡東猪谷村や礪波郡五箇山では「薙畑」と呼称した(12)。つまり、加賀国の山間部では焼畑を「薙畑」、能登国鳳至・羽咋両郡および越中国射水郡の一部では「薙野」または「ノウ」とそれぞれ呼称していた。このように、焼畑を「薙畑」「薙」と呼称したのは、雑木・柴草を薙ぎ倒して焼くためであったという。したがって、焼畑のため雑木・柴草を伐採することを「薙苅り」といい、火入れすることを「薙焼き」といった(13)。……
…………
白山麓では焼畑を「薙畑」または「山畑」、その用地を「むつし」または「あらし」と呼称した。前述のごとく、「薙畑」の名称は山地斜面の草木を「薙ぐ」ことから始まったもので、草木の伐採を「薙刈り」、火入れを「薙焼き」と称した。また、火入れ初年目の畑地を「新畑[あらばた]」、地力が減退したそれを「古畑[ふるばた]」と呼称した。薙畑には稗を初年目作物とする「稗薙」、蕎麦を初年目作物とする「蕎麦薙」、大根を初年目作物とする「菜薙」の三種類があり、伐採や火入れの時期、二年目以後に栽培される作物の種類、経営される面積などに若干の差異がみられた(19)
 焼畑は入会山を原則とした百姓持山で行われたが、これは農民の持高に応じて山割し、個人所有として利用する場合もあった。白山麓の村々では、各村近くの山林に大なり小なり私有地を有していた。……

(11) 『とやま民俗・24号』(富山民俗の会)四七頁
(12) 『旧白萩村の民俗』(東洋大学民俗研究会)五二頁および『越中五箇山の民俗』(富山県教育委員会)六二頁
(13) 野本寛一氏は、焼畑呼称を「火・焼地名」「輪作地名」「循環地名」「伐採形状地名」「その他」に分類し、「薙畑」とは「薙ぐ」という動詞の連用形「薙ぎ」が名詞化したもので、「伐採形状地名」に属すると考えた(前掲『焼畑民俗文化論』三〇三~三〇九頁)。
(19) 『尾口村史・資料編第二巻』一七九~一八一頁。
〔山口隆治/著『加賀藩林野制度の研究』(p. 313, p. 317) 〕

The End of Takechan

◎ 人類は、草を焼き、土を焼き、やがて土塊(つちくれ)から、金属を得た。

 日本で縄文時代から弥生時代へと移行する頃、大陸では、すでに鉄の時代が始まっていたようだ。
 稲作と、青銅と鉄の文化が、日本列島に同時に入ってきたのだ。

 それから数世紀を経て、日本で〔全文が現存する〕歴史書が成立した西暦 700 年代。
 なぜ、古事記と日本書紀はともに、伯耆国と出雲国の国境にある鳥上の峰 ―― 鳥上之峯 ―― すなわち船通山(せんつうざん)を舞台とする戦闘神話を記録に残し、その地からの戦利品として、日本書紀にいう〈天叢雲剣〉すなわち〈草薙剣〉―― 古事記原文では〈草那藝之大刀〉―― をスサノヲによって、獲得させるという、出雲国重視の物語構成にいたったのか。
 のみならず、古事記には「其所神避之伊邪那美神者、葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也。」という記述があって、

其の神避りし伊邪那美の神は、出雲の國と伯伎の國との堺の比婆の山に葬りき。
(そのかむさりしいざなみのかみは、いづものくにとははきのくにとのさかひのひばのやまにはふりき。)

ここにも、出雲国と伯耆国との国境が登場し、大地母神の墓所として〈比婆之山〉が記録される。

 船通山の北東に位置する伯耆大山の山麓には、鳥取大学の山本定博氏によって、「鳥取県内の黒ボク土腐植もその黒さはわが国でも第一級である」と評される黒ボク土がある。

 その黒ボク土は、おそらく数千年にわたって毎年焼かれ続けた、野火の記憶だろうと、推察されるのである。
 そして、そもそも戦闘は、新墾(あらき)もしくは、すでに開墾された土地を巡って繰り返されたはずだ。
 播磨国風土記によって、渡来の神との戦闘の神話が、現代にまで伝承されている。自然の災害に強い、豊饒な大地が、権力者の求めたものであったろう。
 敵対者や、反乱軍に遭遇することのない、広大で豊かな土地を、我が物と宣言したかったのだ。
 必然として。―― 権力者は、同時に、武力を欲したのだった。


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榛原(ハリハラ)・墾間(ハリマ)
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榛原(ハリハラ)・墾間(ハリマ) バックアップ・ページ
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2018年12月4日火曜日

焼畑の伝承と〈草薙剣〉

 前回参照した山野井徹氏による『日本の土』の書評が掲載された
GSJ 地質ニュース Vol.4 No. 10(2015 年 10 月)(https://www.gsj.jp/data/gcn/gsj_cn_vol4.no10_309-310.pdf)
の書評ページが PDF 化されてインターネット上にあった。それによれば、嚆矢となった論文は 1996 年に発表され、日本地質学会から表彰されている。

山野井徹「黒土の成因に関する地質学的検討」
(URL : https://ci.nii.ac.jp/els/contents110003013763.pdf?id=ART0003437151 )
(地質学雑誌 第 102 巻 第 6 号 526?544 ページ、1996 年 6 月)

 そのような新しい視点を含む、伯耆大山の土壌についての研究論文が、一冊の文献にまとめられて『鳥取県農業と土壌肥料』(1998) として発行されており、その中に次の論述が見られる。

 ○ ここでは引用に際して、「図 4」の〝図〟は省略するがその説明文は図 4 全国各地の火山灰土壌腐植層中の腐植酸の光学的特性(埋没腐植層は除く。黒印は大山起源)腐植酸型の分類は熊田の方法による。」とあり、その図の前後の本文中において、火山灰土壌を黒ボク土として特徴づける化学的理由についての考察が述べられ、火山灰土壌=黒ボク土であるかというと必ずしもそうではないと、ひとつの結論が出されている。

『鳥取県農業と土壌肥料』 Ⅱ 鳥取県の自然と土壌

「3. 鳥取の黒ボク土」(鳥取大学農学部 山本定博)

3 ) 鳥取県の黒ボク土のおいたち
 (2) 黒ボク土の腐植とその生成条件
 火山灰土壌を黒ボク土として特徴づけるのは、多量に集積した黒色腐植である。多量の腐植の集積は世界の陸成土壌のうちでは最も顕著であるが、黒ボク土の腐植はその集積量もさることながら黒色味の強さという点で、他の土壌の腐植とは質的に大きく異なる。一般に土壌からアルカリ性の溶液で抽出された腐植のうち酸で沈殿する画分を腐植酸、沈殿しない画分をフルボ酸と呼ぶ。腐植の黒味は腐植酸に起因する。黒ボク土では腐植酸は量的にフルボ酸を上回り、その黒色味は非常に強い(数ある土壌の中で最も黒い)。いわゆる熊田による A 型腐植酸である。鳥取県内の黒ボク土腐植もその黒さはわが国でも第一級である(図 4 )。
 ところで、火山灰土壌の中には、腐植が多量に集積し、活性アルミニウムにも富み、一人前の火山灰土壌の特性を持っているにもかかわらず、黒ボク土のものとは全く異なる黒色味の弱い腐植(非 A 型腐植酸)を含む土壌がある。身近な例では、大山山麓のブナ林下にもみられる。炭素含量は 10% 程度あり、真っ黒な土壌断面をしているが、腐植は黒ボク土とは化学構造的にも全く異なるものである。図 4 に示すように、含まれる腐植酸は A 型以外の腐植化度の低い B, P, Rp 型である。このような土壌は火山灰土壌ではあるが黒ボク土とはいえない。火山灰土壌=黒ボク土であるかというと必ずしもそうではない。腐植の量ではなく質が問題なのである。
〔鳥取県土壌肥料研究会/発行『鳥取県農業と土壌肥料』 (p. 28) 〕

 ○ 焼畑に関する近年の資料としては次のものがあり、冒頭で日本三代実録(貞観九年三月)の記事が紹介され、また、41 ページでは焼畑のオッタテビと記紀神話との関連が指摘されている。

『焼畑民俗文化論』

Ⅰ 焼畑系民俗文化論の視座
「1 焼畑系民俗文化論の経緯」

 かつて、焼畑は八重山諸島から北海道に及ぶ空間的な広がりの中で行われていたのであった。それは、時間的にも稲作以前から行われていた可能性が指摘され、近代に至るまで連綿と続けられてきたのだった。『三代実録』貞観九年三月二十五日の条に、「令大和国禁止百姓焼石上神山播蒔禾豆」とあり、石上の聖域近くにまで焼畑が及んでいたことがわかる。『万葉集』東歌には、「足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを逢はなくも恠し」(三三六四)と歌われ、『拾遺和歌集』巻十六に「片山に畑やくをのこかの見ゆるみ山桜はよきて畑やけ」という藤原長能の歌がある。焼畑は都近くにおいても、地方においても属目の風景だったのである。
 こうして、昭和二十年代までは焼畑が生業として営まれていた地も多かったのであるが、三十年代に入り衰退の歩を早め、高度経済成長期に入り完全に終焉を迎えたのであった。

Ⅱ 焼畑系基層民俗文化の実際
「1 焼畑の名称」

 富山県・石川県・福井県・岐阜県では焼畑のことを「ナギ」と称した。ここでも夏焼きの焼畑のことを「菜ナギ」「蕎麦ナギ」など、作物を冠して呼ぶ風があった。福井県大野市の中洞では、菜ナギ・蕎麦ナギは草山畑、稗や粟を作る春焼きナギは木山畑という仕分けをしていた。「ナギ」も、北陸・中部のみではなく、遠く、大分県国東半島の富来に「ナギノ」という呼称があった。「ナギ」は「薙ぐ」という動詞の連用形の名詞化で、「刈り払う」という意味である。こうしてみると、焼畑呼称の一類型として<刈る>という意味を示すものが大きな勢力を占めていたことがわかる。「カノ」も「ナギ」も、発生的には、草地や叢林を「刈り」「薙ぐ」ことから始まったものと見てよい。…………

「2 焼畑の技術伝承」 二 火の技術伝承

  1 防火帯の技術と名称
 焼畑の火の延焼に関する話は各地で耳にする。…… 山の火は上へ上へとのぼり、横にもひろがるのである。
……………………
  3 火入れの技術
 焼畑地の火入れにはことのほか神経を使った。風のない日を選び、暦のまわりのよい日を選んだ。…………
 焼畑の火入れ方法として全国的に共通していることは、傾斜地の上部から火を入れるということである。土佐池川町椿山では上部を「ホクチ」(火口)と呼び、静岡市大間では、焼畑上部の右端を「ホサキ」(火先)、左端を「テシタ」(手下)と呼んだ。大間では、焼畑組の長老を「行司」と言い、行司が全体の火を見て、「ホサキをさげよ」「テシタをさげよ」などと号令をかけて作業を進めた。
……………………
 …… 椎葉では、春焼きは「オロシ風」が吹くのを見はからって火を入れるので夜になることが多かったという。
 こう見てくると、火入れは上から下へが原則であったことがわかる。下から火を入れることを避けた理由は、延焼の防止とともに、火が上走りをして焼け残りが出ることを避けたからである。静岡市中平には「ウシが残る」という言葉がある。火が表面を走って焼け残りが出ることである。しかし、上から火をつけて三分の二から四分の三焼けたところで下から火を入れるという方法は各地にあり、静岡県榛原郡川根町、同磐田郡水窪町などではこれを「オッタテビ」(追い立て火)と呼んだ。神奈川県山北町箒沢では「ムカエビ」と称しており、途中で火と火がぶっつかって消えることになり、まさに『古事記』の「ヤマトタケル」「迎え火」と一致しているのである。
 上下の原理は、左右の風速が激しい時には左右にも適用された。南風が強い時には四分の三ほど北側を焼いておいてから南からも火を入れたのであった。
〔野本寛一/著『焼畑民俗文化論』 (p. 3, pp. 26-27, p. 37, p. 40, p. 41) 〕

 ○ 注目すべき言葉として「颪(オロシ)」の語を国語辞典で見ておこう。

『日本国語大辞典 第二版』 第三巻

おろし【下・卸・颪】〔名〕

(動詞「おろす(下)」の連用形の名詞化)
① 高い所から下の方へ移すこと。おろすこと。「雪おろし」「神おろし」「たなおろし」などのように、名詞に付けて造語要素として使う場合が多い。
② 神仏の供え物をとりさげたもの。また、貴人の飲食物の残りや使い古しの品物のおさがり。御分(おわけ)。……
③ 家来に食糧を支給すること。……
④(颪)山など高い所から下へ向かって風が吹くこと。また、その風。秋冬の頃、山腹の空気が冷えて吹きおろす風。おろしのかぜ。……
…………
おろしの風(かぜ) 山から吹きおろす風。山おろし。*類従本元良親王集(943頃か)「惜みつつなげきのかたき山ならばおろしの風のはやく忘れぬ」
〔小学館『日本国語大辞典 第二版』 第三巻 (pp. 64-65) 〕

―― また、焼畑で用いられる「向火」は、国語的には「むかえび(ムカヘビ)」よりも「むかいび(ムカヒビ)」の訓みのほうが、どうやら意味が通じやすいようだ。

The End of Takechan

 ○ 文字構成として〈畑〉は〝火田〟であり、〈畠〉は〝白田〟となる。これらの語は和名抄にも載る。

『諸本集成 倭名類聚抄〔本文篇〕』を参照すれば、それぞれの語の冒頭で、

火田は夜歧波太(ヤキハタ)、
白田は陸田・波太介(ハタケ)、

と説明されている。

 ○ 紀元前に成立した中国の『礼記』に「火田」という言葉が出てくる。さらに、「火耕水耨」という語も紀元前成立の『史記』にすでに見られることもまた、次の文献で指摘される。

地球研ライブラリー 17『焼畑の環境学』

史料論1 中日火耕・焼畑史料考(原田信男)

 (1) 中国の火耕・焼畑
…… もちろん焼畑は日本語で、中国文献には、火田・火耕として、いくつかの文献に登場する。
 まず紀元前三世紀以前成立の『礼記』王制第五に、天子・諸侯・百姓の田猟の記事があり、火田を禁じている。

獺祭魚、然後虞人入沢梁、豺祭獣、然後田猟、鳩化為鷹、然後設罻羅、草木零落、然後入山林、昆虫未蟄、不以火田、不麛、不卵、不殺胎、不殀夭、不覆巣、(竹内照夫『礼記 上』新釈漢文大系二九、明治書院、一九七九年)

 田には、田猟すなわち狩猟の意味もある。「かり」の訓をもつ畋の文字も同様で、耕作と狩猟は近しい行為であった。
 そして『爾雅』釋天第八「祭名」も、火田を狩猟とする。

春猟為蒐。夏猟為苗。秋猟為獮。冬猟為狩。宵田為獠。火田為狩。(長沢規矩也編『和刻本 経書集成』正文之部 第三輯、古典研究会、汲古書院、一九七六年)

 つまり「火田」とは火を用いた焼狩りと理解すべきで、この場合にも焼畑が伴っていたと考えてよいだろう。
 なお火田に関する記事としては、『宋史』志大一二六食貨上一に、大中祥符四年(一〇一一)の詔があり、先の『礼記』を承けて宋代には、火田が明確に禁止されている。

火田之禁、著在礼経、山林之間、合順時令、其或昆虫未蟄、草木猶蕃、輒縦燎原、則傷生類。(脱脱等撰『宋史』第一三冊、中華書局)

…………
 なお火耕の語については、五世紀に成立した『後漢書』文苑列伝第七〇上の杜篤伝に、

田田相如、鐇钁株林、火耕流種、功浅得深、(范曄撰『後漢書』第九冊、中華書局)

とあり、おそらく後漢すなわち一~二世紀ごろには用いられていたものと思われる。この「火耕流種」とは、まさしく林を切り開く焼畑を指すものであろう。
 さらに唐代の欧陽詢撰『芸文類聚』巻二六人部十言志所載にも、以下のようにある。

夾江帯阡、布濩井田、通逵交迸、高門接連、人腰水心之剣、家給火耕之田、爾乃樹之榛栗、椅桐梓漆、(欧陽詢撰『芸文類聚 上』中華書局、一九六五年)

 ただ、江蘇という地域的な問題からすれば、これは次に述べる火耕水耨の田を意味する可能性が高い。

火耕水耨 古代中国の農業史研究では、長江南部における火耕水耨に関する論争が行われてきた。火耕水耨の語については、紀元前九一年ごろの成立とされる『史記』の二ヶ所に登場する。

平準書第八:
是時山東被河菑、及歳不登数年、人或相食、方一二千里。天子憐之、詔曰、江南火耕水耨。令飢民得流就食江淮間、欲留之処、遣使冠蓋相-属於道護之、下巴蜀粟、以振之。(吉田賢抗『史記 四』新釈漢文大系四一、明治書院、一九九五年)
貨殖列伝第六九:
楚越之地、地広人希、飯稲羮魚、或火耕而水耨。果陏臝蛤、不待賈而足。地勢饒食、無饑饉之患、以故呰窳偸生、無積聚而多貧。是故江淮以南、無凍餓之人、亦無千金之家。(重野安繹『史記列伝 下』増補漢文大系七、冨山房、一九七三年)
〔『焼畑の環境学』所収、原田信男「中日火耕・焼畑史料考」(p. 522, p. 523) 〕

 ○ 最後に、後漢書「火耕」についての注釈を、邦訳文とともに参照しておきたい。

『全譯後漢書』 第十七册

文苑列傳第七十上(范曄「後漢書卷八十上」)

 杜篤傳
【原文】
火耕流種、功淺得深[九]。
[李賢注]
[九]以火燒所伐林株、引水漑之而布種也。

《訓読》
火耕流種し、功は淺くして得ることは深し[九]。
[李賢注]
[九]火を以て伐る所の林株を燒き、水を引きて之に漑ぎて布種するなり。

[現代語訳]
田畑の雑草を焼いて種をまきますと、わずかな手間で多くの稔りを得られます。
[李賢注]
[九]火で伐採した株を焼き、水を引いてこれに注いで種をまくのである。
〔渡邉義浩・髙橋康浩/編『全譯後漢書』 第十七册 (pp. 759-764) 〕


―― 今回の内容は、錯綜している。
 整理すれば、まず「富山県・石川県・福井県・岐阜県では焼畑のことを「ナギ」と称した」という一文に、ヤマトタケルの〈草薙剣(くさなぎのつるぎ)〉の原型を見たように思った。
 すなわち、ヤマトタケルの神話に、焼畑で用いられる「向火」の技術が伝承されたのだと思われた。
 また、日本の「焼畑」の語は中国の「火耕」を元とするようである。
―― 野焼き・山焼きを、火耕と称してかまわないのなら、農耕の以前に、人類は、土地を火で耕すことから始めたのだとも、いえようか。

火は、土地を豊穣にし、やがて、鉄を精錬するに至る。


〈草薙剣〉の説話は国家権力によって、〈天叢雲剣〉へと変貌していき、
その剣の記念碑は、鳥取県と島根県の県境に聳える〈船通山〉の山頂に建っている。


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草薙ぎ / 狩り野 / 煆野畑
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2018年11月22日木曜日

伯耆大山噴火後の黒ボクの土壌

 日本神話に描かれた焼畑農業を連想させる神々の物語があった。
 ここで、鳥取県〈大山(だいせん)〉の黒い土(黒ボク土)は焼畑の名残りを連想させるという事柄に目を向ければ。
―― その、黒ボク土の話題の導入として、まずは「甲子園の土」が黒い理由には、鳥取県民として興味深いものがある。

◎「阪神甲子園球場」( http://www.hanshin.co.jp/koshien/ ) のサイトに、次の説明が掲載されている。

Q & A | 阪神甲子園球場

(URL : http://www.hanshin.co.jp/koshien/qa/answer06.html )

・黒土の産地
 岡山県日本原、三重県鈴鹿市、鹿児島県鹿屋、大分県大野郡三重町、鳥取県大山 などの土をブレンドしている。(毎年決まっているわけではない。)


 ○ さて黒ボク土は地質学上の用語であるが、詳しい解説を、まず次の資料から参照する。

『土壌の事典』

 黒ボク土 Andosols
(井上恒久)
 黒ボク土の名称は、黒い表土と、ぼくぼくと砕けやすい性質を言い表したわが国の農民によるこの土壌の呼称に由来する。国際的には日本語の「暗土」を音訳した Andosols と呼ばれ、アメリカの土壌分類では、Andisol 目(→アンディソル)にほぼ含まれる。
 わが国の黒ボク土の腐植層はよく発達し、腐植含量が高く、黒色味の強い腐植酸の割合が多い。土壌中の炭素とイネ科草本のプラントオパールの量には正の相関があり、腐植はススキ、ササなどイネ科草本から多量に供給され、活性アルミニウムと安定な複合体を形成して集積する。他の国々の黒ボク土は、わが国のものほど腐植層が発達していない。
 黒ボク土は主に火山灰を母材に生成するため火山灰土とも呼ばれる。火山灰は比表面積が大きく、火山ガラス等の易風化性鉱物は急速に風化する。風化の際に溶出するアルミニウムは、植物遺体の供給が十分な表層では腐植と複合体を形成するが、下層では和水ケイ酸アルミニウムであるアロフェンやイモゴライトが生成する。風化がいちじるしく進むとアロフェン等は消失し結晶性粘土が主となる。……。
〔『土壌の事典』(pp. 104-105) 〕

 さてさて、縄文時代は、縄文式土器の製作を特徴とする時代区分であり、約 1 万年前に始まったとされている。
 そして、その時代と、黒ボクの地層が重なるのである。
 伯耆大山の火山灰も、黒ボクの土壌を形成する基盤となっているようだ、しかしながら。
 黒ボク土が 20 世紀にいわれていたように一般的な火山活動の成果なのであれば、かつて繰り返された〈間氷期〉の最後の時期 ―― すなわち、おおよそ 1 万年前以降 ―― にのみ、それが残されている事実と一致しない。
 最後の 1 万年間にそれ以前とは異なる何があったのか?

 火山の大爆発で流され、焼き尽くされた山腹に、なだらかな斜面が残されることもあろう。
 実際、大山には現在に至るまで、広い高原が残っている。―― ではなぜ、現在そこは野原であり木が生えていないのか。大山の噴火後に戻ってきた人類が、繰り返し、高い山の草原を焼いてきたからではないのか?
 黒ボク土の分布に人類の営為が関与することに言及した論文は、20 世紀にもあった。

焼畑農耕以前 の 黒ボク土


 ○ 次に参照する論文には東海地方の非火山灰性の黒ボク土地帯では人為的な森林の破壊が行なわれたかもしれない。という記述がある。

『科学』 1987 Vol. 57 No. 6

「黒ボク土文化」(阪口豊)
 …… 日本に分布する大部分の黒ボク土の母材は火山灰である(27)。したがってその分布は火山の分布とほぼ一致し、北海道、中部地方以北の本州と九州に集中する。…… 黒ボク土の分布地域を黒ボク土地帯と呼ぶことにしよう。ただし、わずかながら火山灰を母材としない黒ボク土も東海地方に分布する(28)。この黒ボク土も黒ボク土地帯に含める。
…………
 …… 筆者は縄文文化は黒ボク土に根ざし旧石器時代からの焼狩の伝統を受け継いだ文化であると考える。旧石器時代を含め森林・草原混交地帯(黒ボク土地帯)で展開された野焼を生業の手段とする文化を黒ボク土文化と呼びたい。黒ボク土文化は火山活動の産物といえよう。黒ボク土文化は火山灰を母材とする黒ボク土の地域から近隣地域へと広がった。東海地方の非火山灰性の黒ボク土地帯では人為的な森林の破壊が行なわれたかもしれない。旧石器時代には浜名湖周辺で発見された三ケ日人、浜北人とその仲間がこの行為の担い手であったのではないだろうか。
(27) 加藤芳朗: 農業土木学会誌、46, 11 (1978)
(28) 加藤芳朗: 第四紀研究、3, 212 (1964)
〔『科学』 1987 Vol. 57 No. 6 (p. 358, p. 360) 〕

 ○ 新しい研究では、次の論文がインターネット上で公開されていた。

『第四紀研究』(The Quaternary Research) 54 (5) p. 323-339 2015 年 10 月

( URL : https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua/54/5/54_323/_pdf )

「黒ボク土層の生成史:人為生態系の観点からの試論」(細野衛・佐瀬隆)

 黒ボク土層はテフラ物質を主体とした無機質素材を母材として、湿潤かつ冷温・温暖な気候と草原的植生下で生成してきた土壌である。酸素同位体ステージ (MIS) 3 以降の黒ボク土層の生成史には人為生態系の観点から 2 つの画期が認められる。最初の画期(黒ボク土層画期Ⅰ)は MIS 3 後半、後期旧石器時代初頭における〝突発的な遺跡の増加期〟に連動し、後の画期(黒ボク土層画期Ⅱ)は MIS1 初頭の急激な湿潤温暖化により人類活動が活性化した縄文時代の始まりと運動する。いずれの画期も草原的植生の出現拡大にヒトが深く関わったと考えられるので、黒ボク土層は人為生態系のもとで分布を拡大してきたといえる。


The End of Takechan

 ○ 最後に、クロボク土とは、微粒炭を一定の高密度で含み、多量の腐植の含有により黒色化した乾陸成の表土との定義を、研究の成果として構築するに至った文献を参照する。

『日本の土』 第 8 章 クロボク土の正体

広くクロボク土を観る

 (p. 170)
 クロボク土の様々な疑問を解くために調査した十和田東域では、クロボク土は火山灰ではなく、風成層の中に形成されていることが明らかになった。この際、風成堆積物が母材(堆積母材)として一般化できるのかという課題が出た。検討の結果、堆積母材こそが土壌の母材として普遍的であることがわかった。それがゆえに身近な地表でも、堆積母材による土壌の形成が観察され、それが旧土壌を含む表土の形成に及ぶことをみてきた。さらに、そのような表土を日本列島において分布の広い山地にまで広げて考えてきた。こうした表土に関する様々な視点はクロボク土の形成を考える背景としては十分に広がり、深まったと思われる。……
 (p. 171)
 十和田東域以外の一般的な風成層の調査地域としては、もはや火山灰が分布する火山の風下側を意識する必要はない。むしろ、火山灰とは関係が少ない地域のほうがクロボク土の本質に迫れるかもしれない。そんな期待もあって、次なる調査範囲は日本海側の山形県と新潟県を主体に、秋田県、宮城県、福島県、長野県、それに富山県に移した。
 (pp. 173-174)
 …… 測定数は必ずしも多くはないが、測定した限りでは、クロボク土の形成の始まりは七〇〇〇年代前から急に多くなり、三〇〇〇年代前以降は増え方が少なく、一〇〇〇年前より新しい箇所はない、という傾向が認められる。この調査の範囲では八〇〇〇年以前のものは見つからないが、十和田東域では八六〇〇年前の南部火山灰より下にもクロボク土の形成があった。また、後述する阿蘇の外輪山では九九八〇年前頃にクロボク土の形成が始まっている。
 以上のことからクロボク土の形成は完新世と考えるのが妥当であるが、形成開始時期と地域には関連性が認められない。つまり、クロボク土ができはじめる時期は地域的にバラバラなのである。十和田東域の中間層で見られたクロボク土化の層準が一律でないことは、他地域の調査範囲でも同様である。このことは、クロボク土形成のきっかけは気候変化のようなグローバルな現象ではなく、それぞれの地点に起こったローカルな事象の反映とみるべきなのである。それは一体何か?

微粒炭は活性炭

 (p. 183)
 ともあれ、私が扱ってきた台地や丘陵地などのクロボク土には必ず多くの微粒炭が含まれるという事実がある。これはクロボク土の最も重視すべき特徴なのである。すなわち、クロボク土の形成には微粒炭の存在が必要条件なのである。そうなると、「クロボク土とは、微粒炭を一定の高密度で含み、多量の腐植の含有により黒色化した乾陸成の表土」との定義が適切である。この基準では、黒土であっても微粒炭を含まないか、もしくはその密度が低いものは別の黒土土壌として区分される。こう規定することが今後の黒土全般の再区分により合理性を与えるであろう。……

『日本の土』 第 9 章 クロボク土と縄文文化

縄文時代と微粒炭

 (p. 192)
 微粒炭の堆積は一万年前以降(完新世)の大地では、乾陸地のみならず、沿岸、砂丘地、氾濫原、地すべり沼、湿地、湖の地層から普遍的であることは前述のとおりである。完新世の時代にのみ微粒炭の堆積が増加することは自然の山火事などによるものではなくて、人為的な火の使用によるものと考えられる。完新世の初期からの日本の古代人といえば縄文人である。火の使用に関して、縄文人は、土器を焼き、食物を料理していた。しかし、そうした火の使用だけで、広く大地に微粒炭が高密度で堆積するであろうか。否である。もっと大規模な火の使用、すなわち、「野焼き・山焼き」のような行為があったはずである。しかも、厚いクロボク土層の発達には、その行為が一時的ではなくて継続的でなければならない。野焼き・山焼きは長く続けられたのである。
 (p. 194)
 一九八七年、東京大学の阪口豊教授は、火山活動で草原化した野を旧石器時代から焼くことによる焼き狩り・焼き畑の仮説を出され、これを「クロボク土文化」と提唱した(阪口、一九八七)。その野焼きの「灰」(筆者註:正しくは「炭」)が微粒子として堆積しているらしいことを述べている。ただ、火山活動とクロボク土を切り離せなかったため、「灰」とクロボク土との関係が不明で、クロボク土が縄文期特有の産物であるとはしなかった。しかしクロボク土が古代人と関わることの指摘は卓見と思われる。

山形県小国の山焼き

 (pp. 204-205)
 山焼きをして一週間も過ぎると、焼けた植物の炭が黒く残る斜面にはぞくぞくとワラビが出てくる。……
 このように野焼き・山焼きをすると、樹木は焼かれて草原(疎林)になるが、火入れが繰り返されるとススキやササなどが優占する草原になる。そこには原生林の林床には見られない各種の草本・灌木類が交じるようになり、その中には食料として良好なワラビ以外の植物も豊富なのである。
 以上のように、野焼き・山焼きによる草原(疎林)の形成は、食料となる多様な植物を生育させ、より安定した生活を可能にしたはずである。クロボク土が厚く発達していることは、縄文人が野焼き・山焼きをずっと続けてきたことを意味する。こうした行為の継続は縄文文化の基盤に関わったに違いない。

縄文土器と植物食

 (pp. 205-206)
 …… 縄文文化とは何か、を探るにはこの時代を通して一貫して出土するあの縄模様のある土器、すなわち「縄文土器」の理解が必要に思える。「土器の出現をもって縄文時代とする」とさえいわれ、縄文土器は縄文文化の象徴であるばかりか、その内容の語り部でもある。

縄文遺跡と微粒炭

 (pp. 220-221)
 また、縄文期では、微粒炭とともにゼンマイの胞子が多産する。これは火入れでできた草原にゼンマイが生育し続けていたことを意味する。……
 今後、花粉分析では生産量の多いゼンマイの胞子は草原化の指標の一つとして、重要になるであろう。さらに花粉分析では、微粒炭は得体の知れない「黒い粒子」であり、邪魔者でもあった。しかし、微粒炭は基礎研究を重ねれば、花粉や胞子などの植物器官の微化石の一員として、当時の環境復元などに寄与する可能性がある。微粒炭を専門とする若い気鋭の研究者も現れたので、その成果が期待される。

日本のクロボク土の意味

 (pp. 221-222)
 日本の表土の最上部にあるクロボク土は、火山灰ではなく堆積物中の微粒炭が腐植の保持に関与したもので、その微粒炭は縄文期の野焼き・山焼きで発生したことを導いた。この野焼き・山焼きは、縄文人のニッチ(生活空間と食料)の確保のための草原(疎林)作りであったと考えた。こうした人為的なニッチ作りは、ヒトが自然を変える第一歩でもあった。縄文時代の自然の改変は台地や丘陵地の一部にとどまったが、弥生時代からは低地にも及んだ。そして、その後の人類は、ほかの生物のニッチなどは念頭に置かないヒトのためのニッチ作りへと暴走し、今日に至っている。こうした自然とヒトの関わりにおいて、縄文時代に始まった草原(疎林)作りは、ヒトが初めて自然を変えたという意味での画期でもある。
 (pp. 224-225)
 また、原始的農耕とされる焼き畑の有無であるが、これも火入れをする。しかし焼き畑は、焼かれた木を主体とした灰を肥料として作物を栽培し、数年続けると地力が消耗するので放置し、森林への回復を待って再び火入れを繰り返す農法である。クロボク土の微粒炭は、イネ科などの草本を主体とした燃焼で生じたものであることから、森林の燃焼によるものとは考えがたい。すなわち、クロボク土の微粒炭からは(今のところ)当時の焼き畑のための火入れを肯定することはできない。ただし、ハラの野焼きが予期せずにヤマに飛び火し、山林が燃えつきたあとの効果に焼き畑のヒントを得たかもしれない。ともあれ、縄文時代に植物栽培による農耕の萌芽はあって当然と考えられる。それにもかかわらず、縄文人はその芽を大きく伸ばそうとせず、火入れを繰り返し、もっぱら草原(疎林)を再生して生活の場を確保し、かつそこから食料などを採集する道を選び続けていたと考える。そうすることが、後氷期の温暖・湿潤な日本の気候のもとで、最も安定した生活を続けられたに違いないからである。このように日本列島特有の自然環境下で出現し、永続した縄文文化は「世界の縄文文化」に値するユニークさをもつものではあるまいか。
 以上のような縄文文化の特性は、一万年以降の風成堆積物に微粒炭が交じり、それが黒く着色する腐植を集め、相応に厚いクロボク土ができていることから導いた。日本の環境下での一般的な土壌、すなわち成帯性土壌はローム質の「褐色森林土」である。この「褐色森林土」に特殊性が加わったことでクロボク土ができた。その特殊性を与えたのは自然ではなくて縄文人であったという結論を得るに至った。
〔山野井徹/著『日本の土』より〕


オホゲツヒメの神話 と 黒ボク土 の関連性


 長々と引用したのだけれど、重要なキーワードとして、「縄文時代の自然の改変は台地や丘陵地の一部にとどまったが、弥生時代からは低地にも及んだ。」という一文に注目したい。
 実際、日本の焼畑農業は、焼畑以前の〝野焼き・山焼き〟を発端として、次第に山裾へと降りていったのだと、推測されている。

焼畑農耕の開始は、弥生時代になる頃の出来事なのだろう。


 人類の文化は、農耕 (culture) から始まったのだと、実はこれまで考えてきた。
 けれど、火で焼くだけで、耕さない文化が、日本でおよそ 1 万年続いていた事実がある。
 世界的に見ても〝土器は完新世の農耕社会に出現した〟とされている一方で、日本の縄文時代は〝土器を持つ狩猟採集文化のひとつ〟として数えられている。九州で出土した土器は紀元前 1 万 1000 年紀にさかのぼるといわれる。そして「土器の出現をもって縄文時代とする」という立場のあることが今回の参照内容にあった。
 火で焼かれた土器の出現をもって、人類の文化の発祥とみなす立場もあり得よう。


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2018年11月8日木曜日

喪山とカナヤマビコとカガヤケリ

 前に、谷川健一氏の『青銅の神の足跡』第一章を参照したとき「伊福部氏は雷神として祀られる」(p. 63) で、アヂスキタカヒコネの斫り倒した喪屋が美濃国の喪山になった説話に関連して紹介されていたのだけれど、岐阜県不破郡垂井町には「喪山」の地名が現存する。

岐阜県不破郡 垂井町 喪山 標高:54m

  • 南に 美濃国一之宮 南宮大社 (不破郡 垂井町宮代)
  • 西に 美濃国二之宮 伊富岐神社 (不破郡 垂井町伊吹)
  • 東に 金山彦神社 (大垣市 牧野町)

が、配置されている。

南宮大社は、式内社の仲山金山彦神社で、カナヤマビコを祭神とする。
伊富岐神社は、伊吹にあり、また伊福部氏とも関係があるといわれる。

 ○ 風土記逸文として、日本古典文学大系 2『風土記』に収録されているカグツチの伝によれば、カナヤマビコ鎮座の地は同じ岐阜県の垂井町となっている。

日本古典文学大系 2『風土記』

風土記 逸文
「美濃國」
 金山彥神(參考)
[原文] 風土記云 伊弉竝尊 生火神軻遇槌之時 悶熱懊惱 因爲吐 此化神 曰金山彥神是也 一宮也(神名帳頭註)
(頭注)
金山彥神
今井似閑採択。
伊弉竝尊
以下は神代紀四神出生の章の第四の一書と殆ど同文。
悶熱懊惱
熱さになやみ苦しむ。

嘔吐。へど。
金山彥神
山の鉱を神格化した神。嘔吐物が鉱と形状の類似するによる説話。
一宮
美濃国の一宮の神社。岐阜県不破郡垂井町宮代の式内社南宮神社(仲山金山彦神社)。
(校訂注)
一宮也
神名帳頭註の筆者(卜部兼倶)の附記であろう。新考はこの一句を含めて後代の風土記とする。

[訓み下し文] 風土記に云はく、伊弉竝尊、火の神軻遇槌を生みたまふ時、悶熱ひ懊惱みますに因りて吐しましき。此れ、神と化りて金山彥の神と曰ふ、是なり。一の宮なり。

(ふりがな文) ふどきにいはく、いざなみのみこと、ひのかみかぐつちをうみたまふとき、あつかひなやみますによりてたぐりしましき。これ、かみとなりてかなやまひこのかみといふ、これなり。いちのみやなり。
〔日本古典文学大系 2『風土記』(pp. 460-461) 〕

 ○ この逸文が記録された原典は、群書類従に「延喜式神名帳頭註」として収録されている。上の記載と同一文ではあれど、該当個所を参照しておこう。

『群書類従・第二輯』 神祇部

卷第二十三「延喜式神名帳頭註」卜部兼倶

美濃不破郡。
金山彥。
 風土記云。伊弉竝尊生火神軻遇槌之時。悶熱懊惱因爲吐。此化神曰 金山彥神是也。一宮也。
〔『群書類従・第二輯』 神祇部 (p. 255) 〕

 ○ この逸文は栗田博士の「古風土記逸文考証巻三」に、「神名帳頭注美乃不波郡金山彥神條」として引用されたあと、その考察に次のような記載がある。

『古風土記逸文考證』

古風土記逸文考證卷三
○ 美濃
 金山彥神
…… 古事記傳〔五の四十四〕 に、火之夜藝速男神、夜は迦の誤ならむか、…… 火之炫毘古神、炫は迦賀と訓べし、靈異記に、炫を加々也計利[カヽヤケリ]と訓り、火之迦具土神、迦具は赫[カヾヤク]と云意、其[ソ]は迦賀とも、迦具とも、迦宜[ゲ]とも活きて同言なり、さて此神を書紀一書に、火產靈ともあり、神名帳に紀伊國名草郡香都知神社、伊豆國田方郡火牟須比命神社あり、…………
〔栗田寬/著『古風土記逸文考證』卷三 (pp. 104-105) 〕

※ 『古風土記逸文考証』は国立国会図書館デジタルコレクションで全文が閲覧できる。
初版では上下巻本が一般公開されている
( URL: http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993515/166 )
昭和に発行された一巻本〔昭和 11 年、帝国教育会出版部刊〕では 316 ページからが該当する。
( URL: http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1219675/167 )


〈火之炫毘古神〉の「炫」と

〝加々也計利〟の訓釈のこと


 ○ 本居宣長の『古事記伝』に記されたところは、おおよそ次の通りである。

『本居宣長全集 第九卷』

古事記傳五之卷
○ 火之夜藝速男 [ヒノヤギハヤヲ] ノ神、夜ノ字は迦 [カ] の誤リならむか、亦ノ名の炫迦具 [カガカグ] などと、同じ類なるべければなり、…………
○ 火之炫毘古 [ヒノカガビコ] ノ神、炫は迦賀 [カガ] と訓べし、靈異記に、炫を加々也計利 [カガヤケリ] と訓り、字書にも燿光也とも、火光也とも、明也とも注せり、【然るを舊事紀に、火々燒彥 [ホホヤケビコ] とあるに依て、延佳が、燒ノ字に改めつるは非なり、奮事紀は信 [タノミ] がたし、此記諸ノ本みな炫と作 [ア] り、又師は炫を用ひて、本能弖理 [ホノテリ] と訓れき、此レもいかゞ、】
〔『本居宣長全集 第九卷』(p. 217) 〕

 ○ 日本古典文学大系の『日本靈異記』で、該当する記述を確認してみた。

日本古典文学大系 70『日本靈異記』

「日本靈異記 上卷」

 捉電緣 第一
(雷 [いかづち] を捉 [とら] ふる緣 第一)
 (pp. 64-65)
[原文] 時電放光明炫
[訓み下し文] 時に雷[いかづち]光を放ち明[て]り炫[カカヤ]ケリ。
(頭注 二二) 「炫」は、名義抄カカヤク。
 (p. 66)
[訓釈 原文] 〔可〻ヤ介利(カヽヤケリ)〕

 信敬三寶得現報緣 第五
(三寶を信敬 [しんぎやう] し、現報を得る緣 第五)
 (pp. 84-85)
[原文] 卽到炫面
[訓み下し文] 卽ち到れば面に炫[カカヤ]ク。
(頭注 一八) 顔に照り映えた。→六五頁注二二「炫」。
 (p. 86)
[訓釈 原文] 〔加〻也久〕
〔日本古典文学大系 70『日本靈異記』より〕

 ○ 霊異記写本における「炫」訓釈の記事を、校本でさらに確認する。

『校本日本靈異記』

日本國現報善惡靈異記卷上

 捉雷緣第一 (訓釈)
 (pp. 8-9)
炫〔カヽヤケリ〕

 興福寺本訓釋
炬〔可々ヤ介利〕
(脚註)
○ 炬 ―― 本文炫。

 信敬三寶得現報緣第五 (訓釈)
 (p. 21)
 興福寺本訓釋
炫〔加々也久〕
〔武田祐吉/校訂『校本日本靈異記』より〕

◎ 確認できた限りでは、日本霊異記における「炫」の訓釈は〝可々ヤ介利〟ないしは〝加々也久〟であった。
―― このとき、〝可々〟と〝加々〟はどちらの文字を用いても片仮名にすれば同じ〝カヽ(カカ)〟でありかつ意味の違いは認められないと理解される。

 ○ 参考として、霊異記訓釈の研究から抜粋しておこう。

『訓点語と訓点資料』 第三十七輯

「日本霊異記諸本訓釈索引」 小泉道

注文索引
213 加〻也久・カゝヤケリ
214 可〻ヤ介利
〔『訓点語と訓点資料』 第三十七輯「注文索引」(p. 10) 〕

※ 『訓点語と訓点資料』は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能となっているので、詳しくは、文献を直接参照されたい。

『訓点語と訓点資料』 第三十七輯 「日本霊異記諸本訓釈索引」注文索引 へのリンク
( URL: http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10481814?tocOpened=1 )
PDF : 「日本霊異記諸本訓釈索引」注文索引 (p. 10)
( URL: http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10481814_po_ART0004667515.pdf?contentNo=1&alternativeNo= )


The End of Takechan

カグツチと食物の神 

―― さて Google サイト では、以上の記録を含めた、かかやく〈火の神カグツチ〉から展開する物語となる。


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火産霊 / 神皇産霊
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火産霊 / 神皇産霊 バックアップ・ページ
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