2019年1月9日水曜日

加賀の郷 / 三穂の埼

―― 日本海文化の交流という視点から
 古代の出雲と高志(越の国)とは文化的な交流があったことが「出雲国風土記」から読み取ることができた
「トリカミの峰 / ヒノカハの上」のページ 参照 )
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/torikami

 特記すべき事項として「出雲国風土記」の嶋根郡には、天の下造らしし大神の命、高志の國に坐す神、意支都久辰爲命のみ子、俾都久辰爲命のみ子、奴奈宜波比賣命にみ娶ひまして、産みましし神、御穗須須美命、是の神坐す。故、美保といふ。の記述が見える。

 この「出雲国風土記」の記述は、古事記にある「此の八千矛の神、高志の國の沼河比賣を婚はむとして」云々の、原形となった説話であろうと思われる。

○ 八千戈神(やちほこのかみ:大国主神すなわち大穴持命)が、〈高志國之沼河比賣〉に言い寄るシーンが、古事記に描かれていた。日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』によって原文を改めて確認しよう。

「大国主神 4 沼河比売求婚」

[原文]
 此八千矛神、將婚高志國之沼河比賣、幸行之時、到其沼河比賣之家、歌曰、
[訓み下し文]
 此の八千矛の神、高志の國の沼河比賣を婚はむとして、幸行でましし時、其の沼河比賣の家に到りて、歌ひたまひしく、
(このやちほこのかみ、こしのくにのぬなかはひめをよばはむとして、いでまししとき、そのぬなかはひめのいえにいたりて、うたひたまひしく、)
〔日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』 (pp. 100-101)

○ 一方で、出雲国風土記の嶋根郡の地名起源譚で語られていたのは、次の内容だった。

「出雲國風土記」嶋根郡

[原文]
 美保鄕 郡家正東廾七里一百六十四歩 所造天下大神命 娶高志國坐神 意支都久辰爲命子 俾都久辰爲命子 奴奈宜波比賣命而 令産神 御穗須須美命 是神坐矣 故云美保
[訓み下し文]
 美保の鄕 郡家の正東廾七里一百六十四歩なり。天の下造らしし大神の命、高志の國に坐す神、意支都久辰爲命のみ子、俾都久辰爲命のみ子、奴奈宜波比賣命にみ娶ひまして、産みましし神、御穂須須美命、是の神坐す。故、美保といふ。
(みほのさと こほりのみやけのまひむがし27さと164あしなり。あめのしたつくらししおほかみのみこと、こしのくににいますかみ、おきつくしゐのみことのみこ、へつくしゐのみことのみこ、ぬながはひめのみことにみあひまして、うみまししかみ、みほすすみのみこと、このかみいます。かれ、みほといふ。)
(頭注)
美保鄕 島根半島の最東部。美保関町、森山附近以東にあたるのであろう。
意支都久辰爲命 クシヰはクシビ(霊)の音訛か。遠(おきつ)近(へつ)に分けて父子の二神の名としたもの。
奴奈宜波比賣命 古事記に大国主命が婚した越の沼河比売とある女神に同じ。
御穂須須美命 下の美保社に鎮座。
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (pp. 126-127)

◎ 美保神社ゆかりの美保関(みほのせき)近辺の地名譚には、さらに注目すべき記述がある。


「出雲國風土記」嶋根郡 : 加賀鄕 / 法吉鄕


加賀の鄕 郡家の北西のかた廾四里一百六十歩なり。佐太の大神の生れまししところなり。御祖、神魂命の御子、支佐加比賣命、「闇き岩屋なるかも」と詔りたまひて、金弓もちて射給ふ時に、光加加明きき。故、加加といふ。〔神龜三年、字を加賀と改む。〕
(かがのさと こほりのみやけのいぬゐのかた24さと160あしなり。さだのおほかみのあれまししところなり。みおや、かむむすびのみことのみこ、きさかひめのみこと、「くらきいはやなるかも」とのりたまひて、かなゆみもちていたまふときに、ひかりかがやきき。かれ、かがといふ。〔じんきさんねん、じをかがとあらたむ。〕)

法吉の鄕 郡家の正西一十四里二百卅歩なり。神魂命の御子、宇武加比賣命、法吉鳥と化りて飛び度り、此處に靜まり坐しき。故、法吉といふ。
(ほほきのさと こほりのみやけのまにし14さと230あしなり。かむむすびのみことのみこ、うむかひめのみこと、ほほきどりとなりてとびわたり、ここにしづまりましき。かれ、ほほきといふ。)
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (pp. 126-129)

―― ここに、訓み下し文を抜粋した個所は〈神魂命〉の子、〈支佐加比売命〉〈宇武加比売命〉の説話である。これらの神々は、古事記の物語の一部にも組み込まれているのだが、説話の成立としては、古事記よりも出雲国風土記のほうが先ではないかと予想される。なぜなら、推察するに、地方の文献があえて中央で語られた内容と異なるシチュエーションで神々を語るというのは、古来それぞれの土地に伝承されてきた神話そのものだったからなのだろう。土地の伝承を語るうえで、中央政府の都合に迎合する理由がなかったからだと思われるのである。

 ところで、

『出雲国風土記註論』(嶋根郡・巻末条)

では、

 まだ一例に過ぎないがかつてこの地域を「みほ」ではなく「副良」と呼んでいた事実は重要である。…… どちらにしても注目すべきは「みほ」の地名が前面に登場したことである。そこに『古事記』『日本書紀』の大国主神の国造り、国譲り神話の影響を読み取ることが出来る。
〔関和彦/執筆『出雲国風土記註論』(嶋根郡・巻末条) (p. 15)

と逆向きの影響が語られているけれど、この影響というのは、いつの時代に発生した影響なのであろうか。考察のヒントとしては、その直前の説明において、

 『出雲国風土記』が「今も前に依りて用ゐる」としたのは『播磨国風土記』が言及する「庚寅年(六九〇年)」における郷名変更を意識したものであろう。すなわち「美保郷」の古名は藤原京時代の六九〇年までは「副良里」であり、同年に「美保里」と改名され『出雲国風土記』編纂段階では「前に依り」、「美保」の名を継承したというのである。
〔関和彦/執筆『出雲国風土記註論』(嶋根郡・巻末条) (p. 13) 〕

と、されているのが参考となろう。690 年には古事記 (712) も日本書紀 (720) も、成立していないことは明らかで、藤原京時代の 690 年に「美保里」と改名された当時には、古事記と日本書紀の影響を受けていないことは、歴史時間を考えれば明白なのである。可能性として、その後に古事記と日本書紀に記録されることとなった神話の影響は、それ以前にあったかも知れないけれども。―― さらには。出雲国風土記が中央政府をおもんばかって朝鮮半島との関係性(親和性)を前面に出していないという説は、各種文献で説得力をもって語られているけれども。
 関和彦氏により『出雲国風土記註論』で論じられた解釈では、出雲国風土記が中央の神話の影響を受けて、その土地に伝承されてきた神話の地名を安易に改竄したということになってしまう。

 国引き神話で國來々々と引き來縫へる國は、三穗の埼なりと、高らかに宣言されているではないか。
 この神話が、中央政府の影響を受けた結果だとする説には、賛同できかねる。

堅め立てし加志は、伯耆の國なる火神岳、是なり。


 鳥取県内、伯耆大山の山麓が舞台となって展開する古事記に記録された物語は、〝赤猪の神話〟として絵本にもなっているけれども、有名なところでは、日本神話をテーマとした洋画家青木繁の作品「大穴牟知命」(石橋美術館蔵、1905 年)がある。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

加賀の郷 / 三穂の埼
https://sites.google.com/view/emergence2/tsuge/miho

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

加賀の郷 / 三穂の埼 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/miho.html

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