2016年11月30日水曜日

弱いからこそ ひとは強くなれる

 まよいがなければ、きっとさとりもなく、闇がなければ光も輝けない。
 仏教の煩悩即菩提というのは、煩悩の自覚がそのまま救済への道標となることを、いう。
 なれば。まよいはさとりの一里塚あたりといったところか。

 道に迷わなければ、道を探す必要すら感じられないだろう。
 孤独すらも、他人にであわなければ、意識されない。
――光なくして闇もなく、正覚なくして迷妄なし、と標語のように妄語してみる、と。
 過去にも、次のタイトルで、このことはすでに言い及んでおりました。

 ジョン・ウェズリ 「悪魔なければ、神もなし」 (2016年2月3日水曜日)
ジョン・ウェズリ(一七〇三-九一年、オクスフォード大学教授、メソジスト派の祖)のことばを借りれば「悪魔なければ、神もなし」というわけであるが(16)
(16) Rudwin 1931 : 106. The Trial of Maist. Dowell (1599, p.8) の「悪魔なければ神もなし」という表現 ( K. Thomas 1978 : 559 で引用されている ) と比較せよ。
ニール・フォーサイス/著『古代悪魔学』序章「悪魔の物語」より
どうやら、1600 年頃にはすでに、そういうことが言われていたようです。
つまり、
――闇がなければ、光も認識できない、ということなのですね。

 ……と、そのときの文章は、そう締めくくっています。
 さて。いっぽうでパスカルは、自覚する人間の生命の尊厳を「考える葦」として語っていました。

 人間はひとくきの葦 (あし) にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
『世界の名著 24』パスカル「パンセ」 (p.204)

 そして……西田幾多郎の哲学においては、たとえば次の如くです。

何処までも否定即肯定、肯定即否定的に、即ち矛盾的自己同一的に、創造的なものがなければならない。
新版『西田幾多郎全集』第十巻「場所的論理と宗教的世界観」 (p.329)

自己の自己矛盾的存在たることを自覚」〔同上 (p.313)
することが、生きていることの自覚であり、
上記の如き〈矛盾〉の自覚はそのまま〈迷い〉の自覚なのでしょう。

 ……そのような西田哲学というのは。
 西田幾多郎の説き明かす〈矛盾〉は彼自身の〈迷い〉の歴史を物語っているようです。
 発見しつつ、〈矛盾的自己同一〉だと、宣言していくのです。
 結局、何を言っているのかわからないというおおかたの評価でした。
 難解である――というのは、理解し難いことの、別表現でしょう。
 まともな試金石が与えられなかった悲しみがここにあるとは、戦前から指摘されていることでした。

 西田氏は、ただ自分の誠実というものだけに頼って自問自答せざるを得なかった。自問自答ばかりしている試実というものが、どの位惑わしに充ちたものかは、神様だけが知っている。この他人というものの抵抗を全く感じ得ない西田氏の孤独が、氏の奇怪なシステム、日本語では書かれて居らず、勿論外国語でも書かれてはいないという奇怪なシステムを創り上げて了った。氏に才能が欠けていた為でもなければ、創意が不足していた為でもない。
講談社文芸文庫『小林秀雄全文芸時評集 下』昭和十四年「学者と官僚」より

 生きていることの後ろめたさのようなものが、西田幾多郎の哲学の根源にあります。
 自己否定と。そしてそこから派生する使命感と。
 …………
 自己矛盾の自覚と、不安、戸惑いや恐れがひとを強くしました。
 遺伝子的には爬虫類が最大の〔生存〕能力を具えているようです。
 哺乳類としての、人類は、遺伝子から数々の生存能力を削ぎ落して、身軽になり、それらを道具というオプションとして、身に着ける能力を備えます。
 弱くなったからこそ、ひとはそれぞれの強さを求めることができたのです。
 生きていることの自覚と、弱さの自覚が、ひとの得た最大の能力かも知れません。

2016年11月28日月曜日

神の呼声に神を見ることの意味を考える

 もう何か月も前のことになりますが、
「哲学的自我と身体論としての境界線」(2016年7月29日金曜日)
というタイトルでブログに書いた、その最後の部分の問いが、どう説明できるのかを、以来ずっと知りたく思っておりました。
 該当個所をここに再度掲載しますと。

――〔再掲開始〕――

 一方、西田幾多郎は、「場所的論理と宗教的世界観」〔新版『西田幾多郎全集』第 10 巻〕で語る。
外に神を見ると云ふならば、それは魔法に過ぎない。 (pp.323-324)
我々の自己の根源に、かゝる神の呼声があるのである。私は我々の自己の奥底に、何処までも自己を越えて、而も自己がそこからと考へられるものがあると云ふ所以である。 (p.334)

 ここで、疑問が生じる。
 西田幾多郎は「内即外」かつ「外即内」等と、「即」の大盤振る舞いを繰り返してきたはずだ。
 ここへきて、「外に神を見ると云ふならば、それは魔法に過ぎない」というのであれば、
「内に神を見ると云ふならば、それは魔法に過ぎない」とも同時にいえるはずではないのか?

――〔再掲終了〕――

 疑問の要点を、もう一度書いてみますと、次の 2 行になります。。
「外に神を見ると云ふならば、それは魔法に過ぎない」と、主張するのであれば、
「内に神を見ると云ふならば、それは魔法に過ぎない」とも、同時にいえるはずでしょう。

 そうすると、ただ、
「神を見ると云ふならば、それは魔法に過ぎない」
という、表現でこと足りるのではないかと。
 すると、「我々の自己の根源」にある「神の呼声」など無意味にしか思われなくなって……。
 しかしながらよもや、西田幾多郎の最終完成論文が、そんなナンセンスとも思われず。
 全体として、このことに関しては、どう論述されているのか?
 それ以前に語られたことに、ヒントがあると推測して、溯って読んでみました。
 そうしてようやっと、一応の落としどころを、自分なりにみつけました。
 説明としての、そのまとまった文章は、やはり昭和 20 年 (1945) の当該の論文にありましたので、引用いたします。

仏教に於て観ずると云ふことは、対象的に外に仏を観ることではなくして、自己の根源を照すこと、省みることである。外に神を見ると云ふならば、それは魔法に過ぎない。
新版『西田幾多郎全集』第十巻「場所的論理と宗教的世界観」 (pp. 323-324)

禅宗では、見性成仏と云ふが、かゝる語は誤解せられてはならない。見と云つても、外に対象的に何物かを見ると云ふのではない、又内に内省的に自己自身を見ると云ふのでもない。自己は自己自身を見ることはできない、眼は眼自身を見ることはできないと一般である。然らばと云つて超越的に仏を見ると云ふのではない。さう云ふものが見られるならば、それは妖怪であらう。
新版『西田幾多郎全集』第十巻「場所的論理と宗教的世界観」 (p. 336)

 ここで西田幾多郎は、西洋的な〈神〉を語る際にも、仏教においての〈仏(ぶつ)〉を〈観ず〉がごとくに、観想しているようです。
 禅宗には「摩訶止観(まかしかん)」という用語がありまして、「摩訶」は「偉大な」とかいうような意味の〈マハー〉というサンスクリット語の音訳であります。
 一方「止観」は、『佛教語大辞典』の記述を要約しますれば、
「乱れぬ心で特定の対象に心を注ぐ」ことをいう「止」と、
「その止によって正しい智慧を起こして対象を観る」という「観」とから成り立ちます。
 天台宗の「止」は「定(じょう)」で「観」は「慧(え)」の意味とされているようです。
 さらに辞書を繙けば。
「定」は「禅定(ぜんじょう)」の「定」で、「瞑想」を意味を意味し、「三昧(さんまい)」ともいいます。
 そもそも「禅」も「禅定」も、同じ「瞑想」という意味であって、言葉が違ってもそれらは大きく区別されるほどの違いはなさそうです。「三昧」も「禅定」と同じ意味なので、ですから「禅三昧」と書けば、仏教的には「禅禅」ということを表現しているわけです。
 現代日本語的に翻訳してみますれば、「禅三昧」とは、
「瞑想また瞑想」の境地を指すこととなりましょう。

 話がそれたようで、実は、このあたりが核心と思われるのです。
 西田幾多郎の論を「止観」というキーワードをもとに再構成すると、
〝内にも外にも、神仏を自分以外の何物かとして対象的に見る、ということは迷いである〟
のであって、そうではなく、
〝対象として見るというのは、姿形(すがたかたち)を追い求めるのではなく、まさに〈観〉ずることなのである〟
ということと、なりましょうか。
 昭和 18 年 (1943) の論文に、
物来つて我を照らすと云ふ。
新版『西田幾多郎全集』第九巻「知識の客観性について」 (p. 426)
とあります。
 対象としての「何物か」というのは、世界の根源にあって〈わたしを照らし出す〉超越的存在者をいうようです。
 そこには〈照らし出されたわたし〉が、在るのみです。

 それで、〝物として見るんじゃない、観じるんだ〟という、妙な表現に落ち着いてしまいました。
 ちなみに「内即外」と「外即内」という記述は西田幾多郎の論文に、それほど多くはなく、もう少し文字数の多い語法が多用されていることがことのついでに確認できた次第です。

2016年11月26日土曜日

ハイゼンベルクの選択と連合軍の大義

 ドイツ人ハイゼンベルクが亡命せず、母国にとどまったことは、連合国軍を震撼させた。
 彼らは、「ウラン核分裂」を人為的に操作することで原子爆弾の製造が可能になったとき、ハイゼンベルクに恐怖したかもしれない。暗殺の計画もあったといわれる。
 アメリカ合衆国で共同して原爆開発にたずさわった科学者たちはきっと、ハイゼンベルクを非難したい気分だったろう。なにしろ量子力学を最初に確立した天才なのだから。
 ハイゼンベルクさえ、彼の祖国ドイツを選ばなければ、それほどまで慌てずにすんだろう。

 ところが。ドイツよりも先に原子爆弾を完成させるという大義は、1945 年 5 月にはドイツの敗戦とともに失われ、代わって、そのドイツに侵攻・撃破した「ソ連の脅威」が、次なる大義となる。
 そうして、ドイツ敗戦から二ヵ月余、その年 7 月に〈量産型プルトニウム原爆〉の実験が成功した。
 8 月には、実戦で、原爆が二発続けざまに投下された。
 現実として、原子爆弾を戦争で使ったのは、大義ある連合国側なのだ。実際には――。

 ハイゼンベルクの著書には、彼が講演で、ユダヤ人アインシュタインの相対性理論を肯定的に語った記録がある。
 1934 年、すでにドイツはナチス政権下にあった。
 ハイゼンベルクは国内では、〝白いユダヤ人〟としてゲシュタポの尋問さえ受けている。

「精密自然科学の基礎の最近における諸変革」
 一九三四年九月一日ハンノーヴァーでのドイツ自然科学者および 医師協会の総会にあたり最初の一般会議において講演された。『自然科学』 (Naturwissenschaften) 一九三四年、四〇号においてはじめて印刷された。
「古典物理学のこうした基礎的前提は、それの当然の帰結が一九世紀自然科学の世界像だったのだが、アインシュタインの特殊相対性理論においてはじめて反駁を受けた。それの根本思想について、ここでは方法の上での立場を理解するのに必要な程度のことだけを示すにとどめておきたいと思う。」
W.ハイゼンベルク『自然科学的世界像』 第 2 版 田村松平訳
という個所など。

 またハイゼンベルクの回想録には、彼が祖国を選んだ理由のひとつに、
〝原子爆弾が完成するまでにドイツは負けているだろう〟と予想していた記述がある。

しかし移住しさえすれば、そうしたことからのがれられるでしょうか? 今のところ私はその開発は、たとえ政府がすべてに優先させて推進しようとしたとしても、時間を必要とするでしょうし、したがってそれが原子エネルギーの技術的な応用にまで達する以前に、戦争は終るだろうと、はっきり感じています。
W.ハイゼンベルク『部分と全体』山崎和夫訳 (p.274)

 だからドイツに残れば、原爆の完成を見ることはないだろうし、
それが彼にとっては、プランクに提示された課題の、結論でもあった。
 ただ予想外だったのは、ドイツが負けても戦争がまだ終わっていなかったことだ。

人は破局の後に来る時代のことを考えなくてはならない、とプランクは言い、そのことは私にもよくわかった。それは破局の間を通して不変の島をきずき、若い人々を集め、そして彼らをできる限り生き生きと破局を切り抜けさせ、そして破局が終焉した後で、もう一度新しくやり直すのだ、と言うのがプランクによって述べられた課題であった。そのためにはおそらく妥協をし、後になってから当然のこととして罰せられるか――あるいは悪くすればもっとひどいことになること――も不可避的に付随してくるであろう。しかし、それは少なくとも明白に設定された課題であった。
『部分と全体』 (p.248)

 ハイゼンベルクの選択をどう理解、評価・判定するか。
 それぞれの解釈も、各々のひとに与えられた自由な選択のひとつに他ならないだろう。
 そして自由は立場によって異なる。


ハイゼンベルクの哲学と認識論:哲学と原子物理学の課題
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/Heisenberg.html

2016年11月24日木曜日

1938年 オットー・ハーン「ウラン核分裂の発見」

一九三三年ナチス政権が確立するや、一夜にして英語が研究所での主要外国語になった。
〔西尾成子『現代物理学の父 ニールス・ボーア』第五章 (p.161)

 デンマークのコペンハーゲンにあるボーア研究所では、それまで、
原子物理学の分野ではドイツ語が国際語であったといいます。

 1932 年 12 月、アインシュタインはドイツを出国して、そのままアメリカに亡命しました。
 その後ナチス政権下でドイツがヨーロッパを席巻していくなか、ドイツ人オットー・ハーンは 1938 年、共同研究者である、リーゼ・マイトナーを亡命させた後に、シュトラスマンと二人で、ウラン原子が核分裂したことをつきとめ、さらにその年内には、マイトナーに研究の結果を知らせています。
 1939 年に、核分裂の最初の検証実験を行なったのは、マイトナーだったということです。
――資料から、引用しますと。

 マイトナーの亡命後は、助手のシュトラスマンと研究を続け、マイトナーがドイツを去った年の暮れに、中性子が衝突したウラニウムからバリウムが生成されることを明らかにした。これは核分裂の発見であり、核兵器の開発につながるものであった。ハーンはこの技術をナチスに応用させまいと努力したと言われている。1944 年、ノーベル化学賞がハーンに贈られることが決定したが、皮肉にもハーンは戦犯の嫌疑をかけられ、連合軍の手でイギリスに監禁されていた。ハーンが実際にノーベル賞を授与されたのは、46 年のことである。
〔東京書籍編集部『ノーベル賞受賞者人物事典 物理学賞・化学賞』 (p.310)

 そういえば自分の科学的業績が、戦争に応用されることを想像して、「これで戦争はなくなるだろう」と楽観的だったのは、ダイナマイトを発明して莫大な財を成したノーベルのことであったと、風の噂に聞いたことがあります。
 が、伝記(ケンネ・ファント 『アルフレッド・ノーベル伝』 )を読めば、444 ページに、
この世の中には、悪用されないものは一つもない」という、考えを持っていたことが綴られています。
 年月を経て、科学者たちは「戦争に人道は考慮されない」ことを痛感します。
 戦争はなくなるどころか、ますます苛烈を極め、むごたらしさを増していくのでしたから。
 そして 1939 年 9 月、科学者の社会的責任 がみずからに問われる、第二次世界大戦がはじまったのです。

2016年11月22日火曜日

アインシュタインとガリレオ 無理解と偏見

 1935 年は、アインシュタインたちのいわゆる EPR 論文、
物理的実在の量子力学的記述は完全だと考えることができるか?
A. Einstein, B. Podolsky and N. Rosen,
“Can quantum‐mechanical description of physical reality be considered complete?”,
Physical Review 47, 777-80 (1935).
という、決定的な量子力学への批判論文が発表された年でもあります。

 そこに至るまでのアインシュタインの、ボーア理論に対する論難・批判は、量子力学にとって最適な〈試金石〉でもありました。
 その前後のいきさつは、次の資料にも記されています。

 第五回ソルヴェイ会議では、会場の内外で、アインシュタインは次々と巧妙な思考実験を示して、ボーアの解釈の内部矛盾をあばくような鋭い批判をあびせたが、ボーアはそのつど答え、反論していった。二人の討論に終始立ち合った共通の親友エーレンフェストは、その模様を、ライデンのホウトスミット、ユーレンベック、G・H・ディーケに宛てた一一月三日付の手紙で次のように書いている。
「…………。アインシュタインとボーアの話し合いにずっと立ち合えて嬉しかった。まるでチェス・ゲームのようだった。アインシュタインは絶えず新しい例をもってきた。ある意味では、不確定性関係をうちやぶるための第二種永久機関のようなものだった。ボーアは哲学的なもやもやした煙の中から、それらを次から次へとたたきつぶす道具を探し出してきた。アインシュタインはびっくり箱のようで、毎朝新しいものがとび出した。それは非常に貴重なものだ。しかし私はほとんど文句なくボーアを支持し、アインシュタインに反対する。彼のボーアに対する態度は、彼に向かって絶対的同時性を擁護する人々がとった態度に酷似している。……」
 アインシュタインはさらに、一九三〇年第六回ソルヴェイ会議においても、新たな思考実験を用意してきた。…………。アインシュタインはボーアの議論が論理的に可能であることを認めた。しかし、「私の科学的直観にあまりにも反するがゆえに、私はさらに完全な概念を探し求めることをやめるわけにはいかない」と書いた。ボーアはこの行きづまりを非常に悲しんだという。
西尾成子/著『現代物理学の父 ニールス・ボーア』中公新書 (pp.154-156)

 アインシュタインのこの最終的(?)な態度は、彼の〝哲学〟の枠組みを示しているでしょう。
 いかなる天才といえど、当面の立脚点なしでは、立っていることすらもできません。
 立花隆氏は、それを「図式」という言葉を用いて、
図式(シェーマ)は脳のソフトに埋めこまれた最も大事な認識装置といっていいんです
と語り、アインシュタインの例を挙げて、シェーマが固定化する弊害を説きます。
――若かりしアインシュタインは、マッハの無理解を残念に思っていたのです。

 ここでアインシュタインが述べている、どのようにすぐれた人でも、その人の持つ哲学的偏見によって正しい事実の解釈が妨げられてしまうということは、実によくあることなんです。
 …………
 人間の脳は基本的にある事実(感覚所与)を解釈しようとするとき、それを何らかのシェーマに従って解釈しようとするものです。……
 ……。柔軟性の最大の敵は偏見(先入見)です。なかでも哲学的偏見というやつは一番のやっかいもので、頭の中身を硬直化させる最大の元凶になります。
 そのような偏見は年齢とともに、どんな人の頭の中にもオリのようにたまっていきます。そのようなものがあまりないのが若者の有利なところで、どのような知の世界でも、その世界全体が閉塞状況に陥ったときに、そこにブレークスルーを切り開いていくのは、若者の柔軟な頭です。
 一九〇五年に特殊相対性理論をはじめとする三大論文を書いていたとき、アインシュタインはわずか二六歳、マッハは六七歳でした。マッハは相対性理論の基本アイデアを作った人だというのに、終生相対性理論が理解できませんでした。
 しかし、そのアインシュタインも、自分が年をとったとき、神がサイコロをもてあそぶとは信じられないといって、量子力学の不確定性を最期まで認めようとしなかったことはよく知られている通りです。
立花隆/著『脳を鍛える』第十回 (pp.293-295)

 ひとつの直観・理解が先入見となる、その他の関連する文献を参照しますと。

一六一八年に天に三つの彗星が観測されたとき、ガリレイには、それを自分では「眺める」ことをしない十分な理由があった。すなわち、それらの彗星に認めなければならないであろう軌道は、彼がそもそも天体を天体として承認したとすれば、あらゆる天体が描く軌道は円形だという、彼が頑強に堅持する教義に矛盾したからである。ガリレイの光学も彼自身の教義学に屈服したのであり、彼は、自分にとって不都合な現象を錯視として説明することによって、敵対者たちが木星の月に使ったのと同じ言い逃れを用いて切り抜けたのである。
ハンス・ブルーメンベルク/著『コペルニクス的宇宙の生成 Ⅲ』第六部「第三章」 (p.186)

 でもって、このふたりの天才の対比のほか、これ以上の語句は不要かと。

2016年11月21日月曜日

1935年 湯川秀樹 「中間子理論」

 戦前の日本の物理学界が必ずしも世界に遅れを取っていたわけではなかった。
 ただ、帝国大学といえども予算が不足していた事実は否めないようだ。
 第二次世界大戦直前に、湯川秀樹が海外からの招待に応じて洋行しようとした際のことだ。
 京都大学には、その旅費が捻出できなかった。それで東京の理研が旅費を出した。
 その経緯を、湯川秀樹本人が、著書で語っている。

 ノーベル賞関連の資料によると、湯川秀樹の「中間子の予言」に関する英語論文は、科学誌 『ネイチャー』 から、掲載を拒否されたという。次の文中では有力な学術雑誌とあるのが、それであろう。

 あくる昭和十年(一九三五年)の二月に、予定どおり論文が掲載された。この時には、まだ中間子の存在を直接証明する事実は何ひとつ知られていなかったのであるが、私は不思議と強い自信をもっていた。そこで私は、ヨーロッパのある国の有力な学術雑誌のひとつに、中間子論の要点だけ書いて送った。すると間もなく原稿は送り返されてきた。私の考えを支持する実験的証拠がないから、雑誌に掲載できないという返事が、それに添えられていた。遠いアジアの一国の無名の研究者の妄想と片づけられたわけである。もっともなことである。
『湯川秀樹著作集 7 』「遍歴」 (p.58)

 つまり当時の枠組みの中では、現実的ではなく、また実験も困難であったから、もっともなのだ。
 しかし日本人の発想力は、大正時代の最後の日に、世界に先駆けて〝ブラウン管に文字を映し出した〟ことでも立証済みなうえに、湯川論文に対する国内の評価は好意的であった。
 湯川秀樹本人は、楽観的だったという。
(〔高柳健次郎/著『テレビ事始』 (p.77) 〕を参照のこと)

 敗戦後の昭和 22 (1947) に、湯川秀樹が予言した「中間子」は、イギリス人パウエルにより発見された。
 そういえば、アインシュタインの「一般相対性理論に基づく重力による空間の歪みの予測値」を非常な困難の末に観測、肯定的な結果を発表したのも、イギリスだった。
 湯川秀樹は 1949 年にノーベル賞を受賞した。


極微の世界:リアルな時間
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/Yukawa.html

2016年11月19日土曜日

物理学的認識におけるバーチャルとリアルの顚倒

 いわゆる「胡蝶の夢」(『荘子』斉物論)から得た題材ではあるようで、そうでない。
 アインシュタインの〈特殊相対性理論〉の何が画期的なのか、という話なのです。
 絶対静止系(絶対基準系)という「実在?」の根本設定を放棄したのは、アインシュタインだったのだ、という物語なのです。
 どういうことか、説明しますと。
 それまでのローレンツ変換式の〈理論〉では、「実際の」長さが変換されて、「見かけの」長さが観測される結果となるのでした。
 ところが、アインシュタインの新しい〈理論〉は、それと同等の式を提出する結果となるけれど、根本の基準とされる「実際の」長さや時間などは設定されず、どれもが「見かけの」ままに、現実だと、するのです。

すると。「見せかけの」現実が、そのまま「リアルな」現実だとすれば、
〝日常経験的に「実際の」現実だと感じられていた森羅万象から客観性が奪われる〟事態となり、
「真に客観的な」事実などは、そもそも「バーチャルな」想定であり、だたの妄想・夢想だった、
ということにも、あいなってしまうのでした。

 つまり物理的に相対的に存在する「感覚器官」あるいは「観測装置の主観的測定」が、それぞれの現実の「客観性」を保証する、だけなのです。
 このことについての先人の文献にある語り口を、参照してみましょう。

ローレンツの場合には絶対的静止系からの観測値が「実際の」長さだとされ、運動系内部での測定は(物差ごと収縮するため「収縮」という事実に気付かないのだとみなされて)格が低い。これに対して、アインシュタインの場合には、絶対的な基準系が存在せず、両観測系は同格なのであるから、〝実際の in reality 〟〝客観的な〟長さということを古典的な発想で云々することはもはや無意味になっている筈である。
『相対性理論の哲学』廣松渉「第一章 相対性理論の哲学的次元」 (pp.78-79)

決定的な一歩をふみだしたのは、アインシュタインの一九〇五年の論文であった。この論文で、ローレンツ変換の「見掛けの」時間を「現実」時間として確立し、ローレンツが現実の時間と名づけたものを放棄した。このことは物理学の基礎そのものの変更であった。これは予期されなかった極めて徹底的な変更で、若い革命的な天才の非常な勇気を要するものであった。この一歩をふみだすには、自然の数学的表現において、ローレンツ変換を首尾一貫して適用しさえすればそれでよい。しかし、その新しい解釈によって、空間と時間の構造は変わったし、物理学の多くの問題は新たな光をあびることになった。
〔W.ハイゼンベルク『現代物理学の思想』「第七章 相対性理論」 (p.106)

 観測された事象をそのまま「客観」と認識してよいなら、問題はないでしょう。しかしそれが、観測した〝時空〟によって異なるものであれば……。
 それまでの〝物理的リアル〟が大きく揺らぐのです。

――そうして。客観的な時間や客観的な大きさというものは、仮想実在であった、
という次第となれば……つまり、絶対時間・絶対空間も、想像の産物だとみなされて、
それでも、ひとは、客観的な世界にあるだろう客観的な意見というものを、期待し続けてやみません。

 ほんのいままで〝揺るぎない現実〟であったものが、架空の――いわゆる、〝仮想現実〟でしかなかったという衝撃は、受け入れるに、忍びないリアルさがあるのです。