ホームページを作成していて、過去のテキストに <BR> タグをつける作業に思いのほか手間のかかることを思い知らされました。
Visual Basic 2013 で、それ専用のアプリを最初作ったのですが、「これは Web page で自動挿入は可能だろう」と思いつき、ローカル環境でも動作する、JavaScript のページを作ってみました。
これも先人の作業を参考にしようと、探してみたのですが、寡聞にして、オンラインモードのものしか見当たりませんでした。
今回のものは、そのページさえ表示させていれば、動くしろものになっているはずです。
クリック一発で、<BR> もしくは <br> を改行マークにつけ加えます。
JavaScript だけの簡単なコードですので、軽快に動作します。
本日、アップしました。
よろしければ、お試しください。
Br Script のページ
2015年3月7日土曜日
2015年3月5日木曜日
Apollo ; Lost Moon
昨日、今までの内容を整理して、ホームページとしてアップしました。
http://theendoftakechan.web.fc2.com/
本日に更新した内容は、次の通りです。
or
☆ このシチュエーションは、以下のようになっています。
Darkest Hour :
The American space program is on the brink of one its major disasters, but it's successfully inverted.
Chris Kraft :
This could be the worst disaster NASA's ever faced.
Gene Kranz :
With all due respect, sir, I believe this will be our finest hour.
☆ このほかのバリエーションも記録しておきましょう。
ヘンリー・ハート:
私たちは、パラシュートの状況、熱シールド、軌道と台風の角度を(軌道の角度と台風)持っている。
ただ非常に多くの変数があります、私は途方に暮れてよ…
クリス・クラフト:
私は問題が何であるかを知っている、ヘンリー。これは、NASAがこれまで経験した最悪の災害の可能性があります。
ジーン・クランツ:
すべて原因に関しては、先生、私はこれが私たちの最高の時間になりそうだと考えています。
◎ NASAの記録 によると、こう残されています。
Apollo 13 transcription [PDF] 〔約 20MB〕 要注意:ダウンロードに時間がかかります
――が、勉強不足のため、該当箇所が見当たりませんでした。
各自でご確認ください。
ちなみに (P. 764) に、以下の記述がありました。
05 22 50 26 S-2
Iwo Jima Control, this is Swim 2. I have a visual bearing 182.
〔参考資料〕
October 2009 Diamond Harvard Business Review
DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー 2009年10月号 ダイヤモンド社/発行
‘Cognitive Fitness’
Roderick W. Gilkey
Clint D. Kilts
エモリー大学 医学部 教授 クリント D.キルツ
鈴木泰雄/訳
(PP. 107-108)
さらに、目新しいことやイノベーションに理解のある人は、危機に強い。なぜなら、たとえ最悪の状況でも、チャンスを見出そうとするからだ。アポロ一三号に緊急事態が発生した最悪の瞬間、管制塔飛行主任のユージーン・F・クランツが示した反応はまさしくその典型である。その時、彼はこう述べた。「最大の栄光の瞬間になるよ」
クランツは長年にわたって、NASA(アメリカ航空宇宙局)のしきたりや方針、やり方に異議を唱えてきた。そして、従来の縦割り組織から有能な人材を引き抜き、組織の壁を超えて特別チームを編成した。
また、専門知識を吸収し、リレーションシップを築くために、自分のいる建物のなかに外部ベンダーの事務所を用意した。ペンシルバニア大学ウォートン・スクール教授、マイケル・ユシームの『九つの決断』(注3)のなかで、彼は有能かつ創造的リーダーの鏡として描かれている。
(HBR 2007年11月号より)
【注】
3)
Michael Useem, The Leadership Moment: 9 True Stories of Triumph & Disaster & Their Lessons for US All, Crown Business, 1998. 邦訳は1999年、光文社より。
“APOLLO 13”
(P. 95)
“Hey,” Swigert shouted down to Houston, “we've got a problem here.”
“This is Houston, say again please,” Lousma responded.
“Houston, we've had a problem,” Lovell repeated for Swigert. “We've had a main B bus undervolt.”
“Roger, main B undervolt. O.K., stand by, 13, we're looking at it.”
―― First Mariner Books edition 2006 ――
Mission Control to bring the crew back in what many consider
NASA's finest hour.
第三章 最善をつくす
(PP. 90-91)
「こちらに問題が生じた」
一九七〇年四月十三日。声の主は宇宙飛行士のジャック・スワイガートで、宇宙船〈オデッセイ〉からの交信だった。
アメリカ航空宇宙局(NASA)のミッション・コントロール(飛行管制センター)はただちに聞き返した。「こちらヒューストン。もう一度、願います」
今度は船長のジェームズ・ラベルが答えた。「ヒューストン、こちらに問題が生じた」
首席飛行実施責任者のユージーン(ジーン)・クランツにとって、アポロ13号からのこのメッセージは、彼の人生における最大の試練を予告していた。
わずか九ヵ月前の一九六九年七月二十日にアポロ11号が月面に着陸し、 ニール・アームストロングとバズ・オルドリンが〝静かの海〟に降り立った。一九六〇年代の終わりまでに人類を月面に着陸させるというジョン・F・ケネディの公約が実現したのである。さらに、五ヵ月前にはアポロ12号のピート・コンラッドとアラン・ビーンが〝嵐の大洋〟に着陸した。そして、五五時間前の一九七〇年四月十一日(土曜日)午後一時十三分、ケネディ宇宙センターからアポロ13号が打ち上げられた。そのときは何の問題もない宇宙飛行に見え、月面のフラ・マウロ高地を目指していた。しかし、それがにわかに不運な旅に変わったのである。
NASAの技術者のジョージ・ブリスは、管制センターの奥の部屋でコンソールのコンピュータ画面に釘付けになり、肝[きも]を冷やしていた。「問題どころではない」と、ブリスは同僚のサイ・リーバゴットに言った。モニターがその理由を物語っていた。オデッセイにある二個の酸素タンクのうち一個が空になっていたのである。さらに、酸素を使って電力を生成する燃料電池は、三個のうち二個の圧力が急激に落ちていた。
ジーン・クランツのもとに異常の報告が集まるにつれて、状況は深刻になっていった。宇宙飛行士と船体はダメージを受けていないが、生命維持に必要な装置になんらかの爆発が起こって損傷したことは明らかだった。
(PP. 110-112)
どの分野でも、ほぼ確実に失敗するだろうと予測したマネージャーは、悪い予感が次々に実現する悪循環にあっさりとおちいり、悪い可能性が事実に変わっていく。 ユージーン・クランツは本能的に、精神的な危機の存在を理解した。「全員、冷静になろう」と、クランツは爆発の直後に強調した。「問題を解決しよう」。そして、管制チームのメンバーに、うまく機能していないことに気をとられず、むしろ機能していることに集中するようにと警告した。サイ・リーバゴットや他の管制官が次から次にこわれたシステムについて報告するのを聞いて、クランツは部下に対し、まだグラスに半分も残っていると考えさせた。「宇宙船で、まだ正常に機能しているところはどこだ?」
やがて、 エンジエアたちが飛行土の生命を救うシナリオを書けないようだとわかると、クランツは自分が希望をもっていることを再度、主張した。われわれは「敗北を認めていないし、決して降参するつもりはない。搭乗員たちは地球に向かっている」。ロン・ハワード監督の映画『アポロ13』でクランツを演じる俳優のエド・ハリスは、クランツの姿勢を完璧に要約している台詞をつぶやく。「失敗は選択肢にない」
~~。問題は解決されるだろう。「宇宙船と飛行士を生還させられないだろうと考えたことは一度もない」と、クランツは振り返っている。彼は記者会見でも大胆に言ってのけた。「彼らを帰還させられるかどうかの問題ではない。彼らをどう帰還させるかという問題だ」(クランツは、ある記者が隣りの同僚にこうささやくのを耳にしたという。「まったく、傲慢な奴だな」)
そうした断固たる楽観主義は、根拠のない信念ではなく、訓練された自信の賜物[たまもの]である。「いったん、降伏や条件つきの降参を考えたら、その坂道を転げ落ちる」と、クランツは警告する。「そのように考えはじめたとたんに、実際に失敗するのだ……とぎすまされた、ぎりぎりの精神をもってこそ、こうした生死を分ける状況に取り組むことができ、成功へと導ける」
(P. 113)
クランツが自信をもって予測したとおり、彼のチームはこの問題を解決したのである。
教訓
ともに働く人びとに最高のパフォーマンスを期待することは、成功への必要条件である。高い基準と楽観的な見通しから、好ましい結果が得られるという保証はない。しかし、確実に言えることは、そうした心構えが欠如していれば、反対の結果しか生まれないということである。 積極的な期待が人びとを行動にかりたてることは、研究からも、経験からも、明らかである。例として、二つの新しい勤務習慣が製造業の生産性におよぼす影響を調べた研究を見てみよう。一つの製造工場群では、従業員が複数の仕事をローテーションして、つねに新しいことに挑戦する気持ちをもてるようにした。もう一つの工場群では、挑戦する気持ちを浸透させる別の方法として、仕事の幅を広げた。そして、工場によっては、上級管理職が新しい勤務計画がうまくいくと期待しているところもあれば、ほとんど進歩はないだろうと思っているところもあった。その結果、仕事をローテーションさせたか、幅を広げたかにかかわらず、上級管理職の態度が続果を左右していたことがわかった。特定の勤務習慣ではなく、高い期待が高い生産性を実現し、低い期待のもとでは生産性も低かったのである。つまり、リーダーであるあなたに成功する自信がなければ、一緒に働く人びとはもっと自信がないということだ。
ユージーン・クランツはアポロ13号のことを振り返って、次のように述べている。「リーダーは動じてはならない。周囲で何が起こっていても、徹頭徹尾、冷静で聡明でなければならない」
(P. 116-117)
周囲の声をよく聞いて得た情報は、経験という枠組みを通して吟味される。「あらゆる情報源から情報を集めたら、自分の知識を活用する」と、クランツは言う。「送られてくる情報を受け入れたら、その妥当性を確認して、それからすべての断片を一つにまとめ、全体像を描くのだ」
効果的な意思決定には、相反する主張の是非を判定することも必要だ。クランツは、すべての意見が賞賛に値し、かつすべてが上司からの意見であるときも、この判定を避けなかった。
(P. 120)
つまり、大きな計画ではチームワークという意識が不可欠になる。苦境に立たされても楽観主義を維持することができ、さらにはそれぞれの実力の総和以上の行動を生み出せるのは、チームワークだけなのである。
(P. 121)
クランツのチームは必要なものを獲得した。すなわち、「最低限の時間で、基本的に百パーセント正しい判断を下す」能力である。こうして強力なチームができあがり、個人のもろさを超越することができた。「個人では失敗することもあるが、チームは失敗しない」と、クランツは言う。しかし、どんなに些細な欠点も防がなければならない。クランツはこうつけ加える。「チームのメンバーはそれぞれが潜在的にヒーローで、ヒーローたちが集まって働いている」。自分がヒーローになるときがきたら、準備はできているというわけだ。
http://theendoftakechan.web.fc2.com/Apollo.html
http://theendoftakechan.web.fc2.com/
本日に更新した内容は、次の通りです。
映画 “Apollo 13” に、有名な言葉があります。
- Gene Kranz :
- With all due respect, sir,
I believe this will be our finest hour.
- Gene Kranz :
- With all due respect, sir,
I believe this is going to be our finest hour.
☆ このシチュエーションは、以下のようになっています。
☆ このほかのバリエーションも記録しておきましょう。
- NASA Director :
- This could be the worst disaster NASA's ever faced.
- Gene Kranz :
- With all due respect, sir, I believe this is gonna be our finest hour.
- Henry Hurt :
- We've got the parachute situation, the heat shield, angle of the trajectory and the typhoon.
There's just so many variables, I'm at a loss -- - Chris Kraft :
- I know what the problems are, Henry. This could be the worst disaster NASA's ever experienced.
- Gene Kranz :
- With all due respect, sir, I believe this is gonna be our finest hour.
ただ非常に多くの変数があります、私は途方に暮れてよ…
◎ NASAの記録 によると、こう残されています。
Apollo 13 transcription [PDF] 〔約 20MB〕 要注意:ダウンロードに時間がかかります
――が、勉強不足のため、該当箇所が見当たりませんでした。
各自でご確認ください。
ちなみに (P. 764) に、以下の記述がありました。
05 22 50 26 S-2
Iwo Jima Control, this is Swim 2. I have a visual bearing 182.
〔参考資料〕
October 2009 Diamond Harvard Business Review
DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー 2009年10月号 ダイヤモンド社/発行
‘Cognitive Fitness’
Roderick W. Gilkey
Clint D. Kilts
「脳は死ぬまで鍛えられる」
エモリー大学 医学部 教授 ロデリック W.ギルキーエモリー大学 医学部 教授 クリント D.キルツ
鈴木泰雄/訳
(PP. 107-108)
さらに、目新しいことやイノベーションに理解のある人は、危機に強い。なぜなら、たとえ最悪の状況でも、チャンスを見出そうとするからだ。アポロ一三号に緊急事態が発生した最悪の瞬間、管制塔飛行主任のユージーン・F・クランツが示した反応はまさしくその典型である。その時、彼はこう述べた。「最大の栄光の瞬間になるよ」
クランツは長年にわたって、NASA(アメリカ航空宇宙局)のしきたりや方針、やり方に異議を唱えてきた。そして、従来の縦割り組織から有能な人材を引き抜き、組織の壁を超えて特別チームを編成した。
また、専門知識を吸収し、リレーションシップを築くために、自分のいる建物のなかに外部ベンダーの事務所を用意した。ペンシルバニア大学ウォートン・スクール教授、マイケル・ユシームの『九つの決断』(注3)のなかで、彼は有能かつ創造的リーダーの鏡として描かれている。
(HBR 2007年11月号より)
【注】
3)
Michael Useem, The Leadership Moment: 9 True Stories of Triumph & Disaster & Their Lessons for US All, Crown Business, 1998. 邦訳は1999年、光文社より。
“APOLLO 13”
(P. 95)
“Hey,” Swigert shouted down to Houston, “we've got a problem here.”
“This is Houston, say again please,” Lousma responded.
“Houston, we've had a problem,” Lovell repeated for Swigert. “We've had a main B bus undervolt.”
“Roger, main B undervolt. O.K., stand by, 13, we're looking at it.”
Mission Control to bring the crew back in what many consider
NASA's finest hour.
『九つの決断』
第三章 最善をつくす
(PP. 90-91)
「こちらに問題が生じた」
一九七〇年四月十三日。声の主は宇宙飛行士のジャック・スワイガートで、宇宙船〈オデッセイ〉からの交信だった。
アメリカ航空宇宙局(NASA)のミッション・コントロール(飛行管制センター)はただちに聞き返した。「こちらヒューストン。もう一度、願います」
今度は船長のジェームズ・ラベルが答えた。「ヒューストン、こちらに問題が生じた」
首席飛行実施責任者のユージーン(ジーン)・クランツにとって、アポロ13号からのこのメッセージは、彼の人生における最大の試練を予告していた。
わずか九ヵ月前の一九六九年七月二十日にアポロ11号が月面に着陸し、 ニール・アームストロングとバズ・オルドリンが〝静かの海〟に降り立った。一九六〇年代の終わりまでに人類を月面に着陸させるというジョン・F・ケネディの公約が実現したのである。さらに、五ヵ月前にはアポロ12号のピート・コンラッドとアラン・ビーンが〝嵐の大洋〟に着陸した。そして、五五時間前の一九七〇年四月十一日(土曜日)午後一時十三分、ケネディ宇宙センターからアポロ13号が打ち上げられた。そのときは何の問題もない宇宙飛行に見え、月面のフラ・マウロ高地を目指していた。しかし、それがにわかに不運な旅に変わったのである。
NASAの技術者のジョージ・ブリスは、管制センターの奥の部屋でコンソールのコンピュータ画面に釘付けになり、肝[きも]を冷やしていた。「問題どころではない」と、ブリスは同僚のサイ・リーバゴットに言った。モニターがその理由を物語っていた。オデッセイにある二個の酸素タンクのうち一個が空になっていたのである。さらに、酸素を使って電力を生成する燃料電池は、三個のうち二個の圧力が急激に落ちていた。
ジーン・クランツのもとに異常の報告が集まるにつれて、状況は深刻になっていった。宇宙飛行士と船体はダメージを受けていないが、生命維持に必要な装置になんらかの爆発が起こって損傷したことは明らかだった。
(PP. 110-112)
どの分野でも、ほぼ確実に失敗するだろうと予測したマネージャーは、悪い予感が次々に実現する悪循環にあっさりとおちいり、悪い可能性が事実に変わっていく。 ユージーン・クランツは本能的に、精神的な危機の存在を理解した。「全員、冷静になろう」と、クランツは爆発の直後に強調した。「問題を解決しよう」。そして、管制チームのメンバーに、うまく機能していないことに気をとられず、むしろ機能していることに集中するようにと警告した。サイ・リーバゴットや他の管制官が次から次にこわれたシステムについて報告するのを聞いて、クランツは部下に対し、まだグラスに半分も残っていると考えさせた。「宇宙船で、まだ正常に機能しているところはどこだ?」
やがて、 エンジエアたちが飛行土の生命を救うシナリオを書けないようだとわかると、クランツは自分が希望をもっていることを再度、主張した。われわれは「敗北を認めていないし、決して降参するつもりはない。搭乗員たちは地球に向かっている」。ロン・ハワード監督の映画『アポロ13』でクランツを演じる俳優のエド・ハリスは、クランツの姿勢を完璧に要約している台詞をつぶやく。「失敗は選択肢にない」
~~。問題は解決されるだろう。「宇宙船と飛行士を生還させられないだろうと考えたことは一度もない」と、クランツは振り返っている。彼は記者会見でも大胆に言ってのけた。「彼らを帰還させられるかどうかの問題ではない。彼らをどう帰還させるかという問題だ」(クランツは、ある記者が隣りの同僚にこうささやくのを耳にしたという。「まったく、傲慢な奴だな」)
そうした断固たる楽観主義は、根拠のない信念ではなく、訓練された自信の賜物[たまもの]である。「いったん、降伏や条件つきの降参を考えたら、その坂道を転げ落ちる」と、クランツは警告する。「そのように考えはじめたとたんに、実際に失敗するのだ……とぎすまされた、ぎりぎりの精神をもってこそ、こうした生死を分ける状況に取り組むことができ、成功へと導ける」
(P. 113)
クランツが自信をもって予測したとおり、彼のチームはこの問題を解決したのである。
教訓
ともに働く人びとに最高のパフォーマンスを期待することは、成功への必要条件である。高い基準と楽観的な見通しから、好ましい結果が得られるという保証はない。しかし、確実に言えることは、そうした心構えが欠如していれば、反対の結果しか生まれないということである。 積極的な期待が人びとを行動にかりたてることは、研究からも、経験からも、明らかである。例として、二つの新しい勤務習慣が製造業の生産性におよぼす影響を調べた研究を見てみよう。一つの製造工場群では、従業員が複数の仕事をローテーションして、つねに新しいことに挑戦する気持ちをもてるようにした。もう一つの工場群では、挑戦する気持ちを浸透させる別の方法として、仕事の幅を広げた。そして、工場によっては、上級管理職が新しい勤務計画がうまくいくと期待しているところもあれば、ほとんど進歩はないだろうと思っているところもあった。その結果、仕事をローテーションさせたか、幅を広げたかにかかわらず、上級管理職の態度が続果を左右していたことがわかった。特定の勤務習慣ではなく、高い期待が高い生産性を実現し、低い期待のもとでは生産性も低かったのである。つまり、リーダーであるあなたに成功する自信がなければ、一緒に働く人びとはもっと自信がないということだ。
ユージーン・クランツはアポロ13号のことを振り返って、次のように述べている。「リーダーは動じてはならない。周囲で何が起こっていても、徹頭徹尾、冷静で聡明でなければならない」
(P. 116-117)
周囲の声をよく聞いて得た情報は、経験という枠組みを通して吟味される。「あらゆる情報源から情報を集めたら、自分の知識を活用する」と、クランツは言う。「送られてくる情報を受け入れたら、その妥当性を確認して、それからすべての断片を一つにまとめ、全体像を描くのだ」
効果的な意思決定には、相反する主張の是非を判定することも必要だ。クランツは、すべての意見が賞賛に値し、かつすべてが上司からの意見であるときも、この判定を避けなかった。
(P. 120)
つまり、大きな計画ではチームワークという意識が不可欠になる。苦境に立たされても楽観主義を維持することができ、さらにはそれぞれの実力の総和以上の行動を生み出せるのは、チームワークだけなのである。
(P. 121)
クランツのチームは必要なものを獲得した。すなわち、「最低限の時間で、基本的に百パーセント正しい判断を下す」能力である。こうして強力なチームができあがり、個人のもろさを超越することができた。「個人では失敗することもあるが、チームは失敗しない」と、クランツは言う。しかし、どんなに些細な欠点も防がなければならない。クランツはこうつけ加える。「チームのメンバーはそれぞれが潜在的にヒーローで、ヒーローたちが集まって働いている」。自分がヒーローになるときがきたら、準備はできているというわけだ。
http://theendoftakechan.web.fc2.com/Apollo.html
2015年3月2日月曜日
ヒルベルト 「無矛盾性」の追求
【ヒルベルトが追求したもの】についての資料です
『ヒルベルトの挑戦 世紀を超えた23の問題』
(P. 11)
ヒルベルトは、問題は数学の生命だと信じていた。ある論題から問題が生まれなくなったなら、その分野は死んだも同然だ。
(P. 15)
一九〇〇年八月八日水曜日、ダヴィド・ヒルベルトは、パリで開かれた国際数学者会議の演壇に上がった。 これから、数学の問題にかんする講演を行うのだ。~~。
「その向こうに未来が隠れているベールを、進んで持ち上げようとしない人がいるでしょうか」とヒルベルトが口を開いた。~~。
(P. 16)
ヒルベルトが問題を提示したのは、問題を解くことによってこそ数学が進展すると信じていたからだ。問題はその分野が生きていることの証なのだ、と聴衆に説いた。
『ヒルベルト -現代数学の巨峰』
(P. 129)
「純粋数学の発展は、古い諸問題が新しい手法をもって解決される時に可能になる」とクラインはよく学生たちに語った。「新しい手法の適用によって古い諸問題に関するより進んだ理解が可能になると、自然に新しい諸問題が現われる」
クラインのこの言葉を例証するものとして、ヒルベルトが新たにとりかかった研究計画に優るものはおそらくあるまい。
(PP. 146-147)
「ある種の問題が、数学的科学全般の進展に関して持つ深い意義と、それらが個々の研究者の仕事において持つ重要な役割とを、われわれは否定し得ない。科学の特定の分野が豊富な問題を持つ限り、その分野は生き続ける。問題の欠除は、そのような分野の独立的発展の消滅あるいは終焉の前兆に他ならない」
(PP. 155-156)
「ここで、数学的問題が時として提供する諸困難と、それらをいかに乗りこえるかということについて、若干の注意をしておくことが適当だと考える」
「もし、われわれが数学的問題を解くことに成功しないとすれば、~~」
14 空間、時間そして数
(PP. 218-219)
ヒルベルトとは対照的に、一九〇八年の夏には、ミンコフスキーは想像力にあふれていた。九月には、彼は電気力学に関する最近の結果を、~~報告した。この講演の題目として彼は「空間と時間」を選んだ。
彼はゲッティンゲンの彼の学生たちによくいったものである、「アインシュタインの深い理論の論述は数学的にはぎこちないものです。こういえるのは、彼がチュリヒで私から数学をならったからです」
その特殊相対性理論の中で、アインシュタインは力学的なできごとを時計と物差しによって記述する際に、その内容は、その計器がその中において用いられる実験室の運動に依存することを示し、さらに、同一の物理現象の異なった記述相互間の数学的関係を述べた。
そしていま、~~「偉大な幾何学化の瞬間」が訪れた。数分間の間に、ミンコフスキーは特殊相対性理論に、彼自身のきわ立って簡明な空間―時間 (Space-Time) の数学的アイディアを導入し、それによって、一現象の異なる記述が数学的に極めて簡明に表わされ得ることを示した。
「三次元の幾何学は、四次元幾何学の一章になります」
(P. 248)
「物理学は」とヒルベルトはいった、「物理学者には難しすぎる」
これはいささか高慢な言葉のように思えるが、物理学者たちは彼の言わんとするところを理解した。
(PP. 275-277)
ゲッティンゲンで、毎週のヒルベルト-デバイのセミナーにでていた数少ない学生たちは、物理学の「生きた脈搏」がその指先に感じられるような思いをした。アインシュタインによる一般相対性理論の展開される模様は大いに興味を持って学ばれた。他の人々による同じ目的のための仕事についても学習がなされた。ヒルベルトが特に印象を受けたのは、グスタフ・ミーのアイディアであったが、当時彼はグライフスヴァルトにいて、相対論の原理に基づいて物質論を展開することを試みていた。~~。
両人とも、ほとんど同時にゴールに到着した。冬に入って西部戦線の状況が落ちついたのでアインシュタインは「一般相対性理論について (Zur allgemeinen Relativitatstheorie) 」と題する二部の論文を一一月の一一日と二五日にベルリン・アカデミーに提出した。ヒルベルトは一方、彼の物理学の基礎 (Grundlagen der Physik) についてのノートを一九一五年一一月二〇日にゲッティンゲンの王立科学協会に提出した。
~~。アインシュタインはもともと物理学の基本的諸法則を記述するためにはもっとも初等的な数学があればそれで十分であるという考えであった。事態がそれとは異なることを彼が理解し~~彼が見出したことは、~~ミンコフスキーこそが、空間-時間に関する数学的概念を構成し、それによって彼の一般相対性理論の定式化が可能にされるということであった。
(PP. 330-332)
一九二二年以降、ヒルベルトは最早物理学者ではなくなった。~~。
物理学における彼独自の業績は彼を落胆させるようなものでしかなかった。~~。彼がミンコフスキーとの共同研究にとりかかって以来の目標であった物理学の公理化はつねに彼の手からすり抜けた。
ヒルベルトによる物理学への寄与の本質的なものは、一つには彼の積分方程式論についての成果を通して生みだされた数学的方法であり、もう一つには、この方法によって可能になった理論の統一化であった。
(P. 425)
ヒルベルトの死後ゲッティンゲンのその墓に置かれた碑文……
Wir mussen wissen.
Wir werden wissen.
われわれは知らねばならない。
われわれは知るであろう。
〔再掲〕
(P. 146)
「科学の特定の分野が豊富な問題を持つ限り、その分野は生き続ける。問題の欠除は、そのような分野の独立的発展の消滅あるいは終焉の前兆に他ならない。すべての人間的働きが特定の目標をもつのと同様に、数学的研究はその対象となる問題を必要とする。」
◆ この表現と似たような感じのアインシュタインの言葉を探してみました ◆
〝あらゆる困難の真ん中に機会がある。〟
という一文は前に紹介しましたが、まずはその同じ書籍から。
『増補新版 アインシュタインは語る』
(P. 17)私には特別な才能などありません。ただ好奇心が激しく強いだけです。
アインシュタイン伝の著者カール・ゼーリッヒへの手紙、1952年 3月11日。「アインシュタイン・アーカイヴ」39-013.
『あなたにもわかる相対性理論』
茂木健一郎[もぎ・けんいちろう]/著
(PP. 003-004)
人間の脳というのは不思議なもので、たった一つの経験が大きな影響を残し、人生の行く末を変えることがある。
私にとっては、小学校五年生くらいの時に読んだアルベルト・アインシュタインの伝記がそうであった。~~。
アインシュタイン自身、「感動するのをやめた人は、生きていないのと同じである」という言葉を残している。ここでアインシュタインが言っている「感動」とは、この宇宙を支配している法則にふれることで私たちの心に起きるさざ波のことであろう。それは、発見する歓びであり、創造へと向かう衝動である。
科学が明らかにするこの世界の真実にふれて、私たちの心は戦慄[せんりつ]する。生きることの意味が、より深いところで確認できるようになる。少々の困難ではへこたれない、前向きに生きる力が湧[わ]き上がってくるのである。
☆ こちらはどうやら、流布している和訳は「感動しない人生を送るのは、生きていないことと同じである」のようで、《教えて!goo》のサイト に、詳しい説明がありました。
◎ この言葉に関する主な英文資料を次にあげておきます。
Albert Einstein (Wikiquote)
The most beautiful experience we can have is the mysterious. It is the fundamental emotion that stands at the cradle of true art and true science. Whoever does not know it and can no longer wonder, no longer marvel, is as good as dead, and his eyes are dimmed. It was the experience of mystery ― even if mixed with fear ― that engendered religion. A knowledge of the existence of something we cannot penetrate, our perceptions of the profoundest reason and the most radiant beauty, which only in their most primitive forms are accessible to our minds: it is this knowledge and this emotion that constitute true religiosity. In this sense, and only this sense, I am a deeply religious man.
......
The most beautiful thing we can experience is the mysterious. It is the source of all true art and science. He to whom this emotion is a stranger, who can no longer pause to wonder and stand rapt in awe, is as good as dead: his eyes are closed.
......
The most beautiful emotion we can experience is the mysterious. It is the fundamental emotion that stands at the cradle of all true art and science. He to whom this emotion is a stranger, who can no longer wonder and stand rapt in awe, is as good as dead, a snuffed-out candle. To sense that behind anything that can be experienced there is something that our minds cannot grasp, whose beauty and sublimity reaches us only indirectly: this is religiousness. In this sense, and in this sense only, I am a devoutly religious man."
......
PRINCETON ALUMNI WEEKLY
VOLUME LXV. NO. 1 SEPTEMBER 22, 1964
SPECIAL ISSUE WITH "UNIVERSITY" MAGAZINE
(P. 31)
Perhaps Albert Einstein has put it as succinctly as any one: “The most beautiful thing we can experience is the mysterious. It is the source of all true art and science. He to whom this emotion is a stranger, who can no longer pause to wonder and stand rapt in awe, is as good as dead: his eyes are closed. This insight into the mystery of life, coupled though it be with fear, has also given rise to religion. To know that what is impenctrable to us really exists, manifesting itself as the highest wisdom and the most radiant beauty our dull faculties can comprehend only in their most primitive forms―this knowledge, this feeling is at the conter of true religiousness.”
つまり は
◆ 問題のない人生[の時間]は、そのとき死んでいたとしても、たいして違わない。 ◆☆ 繰り返しになりますが、問題の発生をただの「トラブル」と捉えるか、それとも「トラブル・シューティングのチャンス」と捉えるかは、ひとそれぞれの問題に相違ありません。――事実として「問題[trouble]が発生した」のです。それが当事者にとって、《 “Problem” or “No problem” 》のいずれであるかは、まさにその当事者 = 私たち次第なのでしょう。
◇ 西欧の『バイブル』には試練についての記述があります ◇
『聖書 新共同訳』
「コリントの信徒への手紙 一」 10. 13
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
◇ また有名な “Apollo 13” の映画があります ◇
このことについては、項を改めたいと思います。
2015年2月26日木曜日
アインシュタインが追求しようとしたこと
Wir müssen wissen.
Wir werden wissen.
われわれは知らねばならない。
われわれは知るであろう。
ヒルベルトの墓標 ―― 墓に置かれた碑文 ―― に刻まれた言葉です。
アルバート・アインシュタイン 相対性理論関連の文献発表時期
1905年 特殊相対性理論 発表
1915年 一般相対性理論 重力方程式の最終形
1916年 『特殊および一般 「相対性理論」について』執筆
1917年 『特殊および一般 「相対性理論」について』初版発行
1938年 『物理学はいかにして創られたか』初版発行
アインシュタインが何を知ろうとしていたのか。
―― ヒルベルトについての資料を詳しく見る前に、アインシュタインの相対性理論について文献を調べて見ました。
『神は老獪にして… ―アインシュタインの人と学問―』
(P. 311)
1915年11月25日に、プロシア科学アカデミーの物理-数学部会で、アインシュタインは、「最終的に一般相対性理論は一つの論理構造として完結する」という内容の論文を発表した[E1]。
⇀ (P. 342) 〔文献〕 E1. A. Einstein, PAW, 1915, p. 844.
⇀ (P. 14) 〔引用文献について〕 PAW:プロシア科学学士院会報。
■ この本では、【アインシュタインの日本講演】の記録 について言及してあります。■
(P. 142)
さて、アインシュタインがまだほとんど無名だった時期に戻り、マイケルソンがアインシュタインの特殊相対性理論にどのように反応したか、そしてマイケルソン‐モーリーの実験が、アインシュタインの1905年のあの理論の体系化にどんな影響を与えたかをたずねよう。
(P. 148)
最後に京都講演がある。それはドイツ語で話され、石原純によって日本語に訳された†[I1]。日本語原文の一部が英語に再訳された[O1]。この英語訳から数行引用する:(この訳文は原著『アインシュタイン講演録』東京図書(1971)p. 81より該当部分をそのまま引用する。)
† 1912年から1914年まで、石原はドイツおよびスイスで物理学を学んだ。彼は当時からアインシュタインを個人的に知っていた。彼はまた多数のアインシュタインの論文を日本語に翻訳した。
⇀ (PP. 171-174) 〔文献〕
I1. J. Ishiwara, Einstein Kōen-Roku, Tokyo-Tosho, Tokyo, 1977.
O1. T. Ogawa, Jap. St. Hist. Sci. 18, 73 (1979).
I1. 石原純『アインシュタイン講演録』東京図書, 1971.
『アインシュタイン講演録』
原著解題 〔1971年 4月 広重徹〕
(PP. 195-196)
アインシュタインは1922年(大正11年)の末、約1ヵ月半にわたって日本を訪れて各地で講演し、熱狂的な歓迎を受けた。本書はそのときの講演の内容を、通訳としてアインシュタインに同行した石原 純が紹介し、解説したものである。と同時に、日本における人間アインシュタインの横顔を伝える記録でもある。石原のいくつかの文章のほか、岡本一平の漫画とそれにそえた小文とが、生き生きとアインシュタインの風貌を描きだしている。
[慶応大学での講演は、] ところどころを、原文のままでなく、石原の解説文でつないでいるのも、読者の理解を容易にするであろう。
もうひとつ特に興味深い文章は、京都大学で学生を相手に語った「いかにして私は相対論を創ったか」である。
(七) 京都大学演説
=いかにして私は相対性理論を創ったか=
(P. 81)
しかし私がまだ学生としてこれらの思考を自分にもっていたときに、このマイケルソンの実験の不思議な結果を知り、そしてこれを事実であると承認すれば、おそらくはエーテルに対する地球の運動ということを考えるのは私たちの誤りであろうと直覚するに至りました。つまりこれが私を今日特殊相対性原理と名づけているものに導いた最初の路であったので、このとき以来私は、地球が太陽のまわりを回っているけれども、その運動は光の実験によっては認知し得ないものであることを思うようになったのでした。
『物理学はいかにして創られたか 上巻』
(PP. 4-5)
自然という書物を「読む」ことによって私たちはいろいろなことを知りました。~~。科学はその発達の途上にしばしば行詰りの来ることがありますが、そんな時「読む」ことは喜びと刺激との源泉となりました。私たちは随分多く自然界を読んでこれを理解するようになりました。しかしながら真の解決――そういうものがあり得るものとしても――はまだ程遠いのです。~~。一見完全と思われる理論も、更に「読ん」で行くと不完全なのがわかったことも非常に多いのです。その理論に矛盾する、あるいはそれでは説明の出来かねる新しい事実が現われて来るのです。読めば読む程、「自然の書物」の構成には非の打ちどころのないのがわかります。もっとも私達が進むにつれて真の解決は却って遠ざかって行くようにも思われますけれども。
コナン・ドイルの名作以来、どの探偵小説にも大概は、探偵が少なくとも問題のある方面に関しては、必要なだけの事実をことごとく集めてしまう時期があります。これらの事実は多くの場合に、全く異様な、支離滅裂な、何の関係もないもののように見えます。しかし名探偵は、その時はもうそれ以上の調査は不必要で、ただ思索のみがその集められた事実を関係づけるものだということを知っているのです。~~。
科学者が「自然という書物を読む」――まずい言い方を繰り返すことになりますが――にあたっては自分で解決を見出さなければなりません。というのは、他の物語を読む場合など性急な読者はよく書物の終りをめくって見るものですが、「自然の書物」を読む場合にはこんなことは出来ないからです。
(P. 35)
物理学の概念は人間の心の自由な創作です。そしてそれは外界によって一義的に決定せられるように見えても、実はそうではないのです。
(P. 86)
科学には、永遠に変らない理論はありません。理論によって予期せられた事実のどれかが実験で否定されるのはいつも見られることです。どの理論も最初にはそれが漸次に発展して凱歌を挙げますが、その後では急激な没落を経験するかも知れないのです。~~。科学の上で大きな進歩の見られるのは、殆んどいつも理論に対していろいろな困難が起り、危機に出遇った際にこれを脱却しようとする努力を通じてなされるのであります。私たちは、古い観念や、古い理論を検討してゆかなくてはなりません。過去にはそれでよかったものの、同時にその検討によって新しいものの必要を理解し、かつ前のものの成立する限度を明らかに知ることが大切です。
『物理学はいかにして創られたか 下巻』
(P. 36)
科学ではいつもそうである通りに、私たちは深く根づいてはいるものの、これまでしばしば無批判に繰り返されて来た偏見から離れることが何よりも大切です。
(PP. 48-49)
すなわち、もし光の速度がすべての座標系で同じであるならば、動いている棒はその長さを変え、動いている時計はそのリズムを変えなければならないのであって、かつこれらの変化を支配する法則は厳密に決定されます。
これだけの事柄には何も不思議はなく、また不合理もありません。古典物理学では、動いている時計も静上している時計も同じリズムをもち、動いている棒も静止している棒も同じ長さをもつと、いつも仮定していました。しかし光の速度がすべての座標系において同じであるなら、すなわち相対性理論が成り立つならば、私たちはこの仮定を犠牲に供しなくてはならないのです。~~。相対性理論から発展した所のその後の科学的進歩から見ますと、この新しい見方は一つの必要な果実としてのみ見なすべきではないことがわかります。なぜならこの理論の功績はそれ以上更に顕著であるからです。
(P. 152)
科学は新しい思想や、新しい理論を創るように私たちを強要します。それらの目的は、しばしば科学の進歩の道を阻むところの矛盾の牆壁を破壊することであります。科学におけるあらゆる本質的な思考は、実在とこれを理解しようとする私たちの企図との間の劇的な争闘において生まれて来ました。
(P. 185)
簡単のために、ここでは量子物理学以外のすべてを古典物理学と呼ぶことにしましょう。そうすれば、この意味での古典物理学と量子物理学とは根本的に異なっています。古典物理学は、空間に存在する対象の記述と、時間の経過によるそれらの変化を支配する法則を立てることを目的としています。
(P. 186)
科学は決して完結した書物ではなく、またいつになっても、そうでありましょう。重要な進歩はいつも新しい問題を起して来ます。どんな発展にしても、それは長い間には、新しいかつ一層深い困難を現わして来ます。
『NHKアインシュタイン・ロマン 第1巻 黄泉の時空から』
(PP. 70-71)
アインシュタインは一般相対性理論で、幾つかの予言をした。この理論の最大の特徴は、実験や観測で集められたデータを矛盾なく説明するために作られたものではないことだ。アインシュタインは何度も述べている、「経験をいくら集めても理論は生まれない」。データから帰納的に理論を構築する道はアインシュタインは採らない。そうではなく、揺るぎがないと考えた原理にのっとって、既成の理論に潜む形式上の矛盾を解決していくことが、彼にとっての理論形成だった。
『ペンローズの〈量子脳〉理論 心と意識の科学的基礎をもとめて』
「ツイスター、心、脳――ベンローズ理論への招待」 茂木健―郎の解説
(PP. 271-273)
量子力学を最初に理解したのは誰か?
「ニュートンカ学を最初に完全に理解したのは誰か?」
というなぞなぞがある。その答えは、アインシュタインなのである。なぜならば、アインシュタインが相対性理論を構築して初めて、ニュートンカ学が前提にしていた「絶対時間」や「絶対空間」という概念の問題点、限界が明らかになったからだ。 一般に、ある理論を私たちが完全に理解したと言えるのは、その理論の限界、欠点が明示的に明らかになったときである。~~。
誰も、まだ、量子力学を理解した人はいないのである。なぜならば、誰も、その不完全さをきちんと把握した人はいないからだ。私たちは、量子力学を超える理論体系を手に入れて、はじめて量子力学を理解することになるだろう。ニュートンカ学を最初に理解したのはアインシュタインだった。量子力学を最初に理解するのは、誰なのだろうか?
『あなたにもわかる相対性理論』
(P. 91)
ニュートンによって発見された重力つまり万有引力の法則は、地球上だけでなく、天体の運動をも正確に説明できる。だから、この法則を疑おうとする科学者は誰一人いなかった。
しかし、アインシュタインは、ここにも疑いの目を向けた。
そういう根源的な問いかけができる人は、実際にはほとんどいない。エルンスト・マッハはできたが、量子論の創始者であるドイツの物理学者マックス・プランクでも、できていたか疑わしい。
『相対性理論の矛盾を解く』
(P. 67)
現在の相対論に出てくる「ローレンツ収縮」は、ローレンツたちとはまったく違う考え方からアインシュタインが導いたものですが、先人に敬意をあらわして、同じ名前を使っています。
☆ 特殊相対性理論では、運動する物体は、運動方向に縮んで見え、また時間と空間の座標は、「ローレンツ変換」により相互に入れ替えが可能となっています。
◎ さて、アインシュタインの「特殊相対性理論」を数学的に整理したのは、アインシュタインの数学の師である、ミンコフスキー[*1]なのですが、アインシュタインの理論に「ローレンツ変換」を組み込んだのは、他ならぬそのミンコフスキーです。「時空」[*2]とは特殊相対性理論で「ローレンツ変換」の成立する「四次元時空(時空世界)」でありそれを「ミンコフスキー空間」ともいいます。 ローレンツ[*3]は、アインシュタインよりも先に「空間が縮む」ことを提唱した人物で、そこで「ローレンツ変換」が示されているのです。アインシュタインは独自の計算式で、ローレンツの理解と同じ結論に達したようなのですが、ミンコフスキーにとってはアインシュタインの計算式よりも、ローレンツ変換のほうが親しみやすかったのでしょう。ミンコフスキーは数学者であり、彼の友人にヒルベルト[*4] がいます。―― 『ヒルベルト』という本の「14 空間、時間そして数 (PP. 217-226)」にはミンコフスキーについての記述があります。
[*1] ミンコフスキー、ヘルマン Minkowski, Hermann [1864.06.22-1909.01.12]
[*2] 時空 = スペース・タイム [英 space-time, 独 Raum-Zeit]
[*3] ローレンツ、ヘンドリク・アントーン Lorentz, Hendrik Antoon [1853.07.18-1928.02.04]
[*4] ヒルベルト、ダヴィッド Hilbert, David [1862.01.23-1943.02.14]
アインシュタインの『特殊および一般 「相対性理論」について』では《時空連続体》に言及してあります。「第17章 ミンコフスキーの四次元空間」の冒頭でも、それに触れてあります。
――また、第三版(1918年05月)に追加された、付記 「2 ミンコフスキーの四次元世界」では、ローレンツ変換について簡便な説明をもってして、稿を締めくくっています。
『特殊および一般 「相対性理論」について』
「第17章 ミンコフスキーの四次元空間」
(P. 74)
数学者でないものが〈四次元〉と聞くと、ある神秘的な戦慄、舞台の幽霊が生むそれに似ていなくもない感情に捉えられる。にもかかわらず、われわれの住む世界は四次元の時空連続体であるということほど、陳腐な言明もないのである。
付記 「2 ミンコフスキーの四次元世界」
(PP. 159-160)
ミンコフスキー的世界は、形式的に一つの四次元ユークリッド空間(虚数の時間座標をもった)と見なすことができる。すなわちローレンツ変換は、四次元〈世界〉における座標系の一つの〈回転〉に相当する。
【用語について】
『物理学辞典』三訂版
(P. 2531, l)
ローレンツ変換 [英 Lorentz transformation, 独 Lorentz-Transformation, ......]
慣性系の間の時間・空間の座標変換。最も一般的には、座標軸の原点の移動、原点のまわりの回転、空間・時間のそれぞれの反転、時刻 t = 0 で原点が重なるような一つの空間軸の方向への等速度運動、およびこれからの重ね合せである。~~。
『科学大辞典』第2版
(P. 1615, r)
ローレンツ [Lorentz, Hendrik Antoon] 〔1853~1928〕
オランダの物理学者。物質の中に電子ありとして、光の屈折率と密度の関係、磁場と偏光の関係を論じ、ゼーマン効果の理論によってその存在を立証、金属電子論を基礎づけた。高速度で動く物体に関しローレンツ収縮やローレンツ変換を導いたが、エーテルの概念を捨てきれなかった。1902年ノーベル物理学賞受賞。
(P. 1616, l)
ローレンツしゅうしゅく ――収縮 [Lorentz contraction]
特殊相対論によると、速度 v で運動する物体は運動方向に長さが | √1-( v / c )2 | ( c は光速)倍に縮んで見える。これをローレンツ収縮とよぶ。光速度不変の原理、またはそれから導かれるローレンツ変換によって説明される。
(P. 1616, r)
ローレンツへんかん ――変換 [Lorentz transformation]
特殊相対論における時間・空間座標の変換。~~。一般に四次元ベクトルは同一の変換に従い、テンソルはベクトルの積の変換に従う。
(P. 1468, l)
ミンコフスキーくうかん ――空間 [Minkowski's space]
1908年、H. Minkowski によって導入された時間と空間の四次元空間。時空世界と同じ。
(P. 594, r)
じくうせかい ――時空世界 [world of space and time]
三次元の空間に時間を加えた四次元空間。1908年、H. Minkowski によって導入され、ミンコフスキーの時空世界ともいわれる。相対論では、事象はこの四次元空間の一点で、物理量や物理法則は四次元空間のスカラー、ベクトル、テンソル量で表される。
☆ 時空連続体 [ space-time continuum ] についての記述ですが、1916年のアインシュタインの論文でも、英訳で確認できます。またその次に揚げた、1909年の文献では、目次にその用語が用いられています。
(1916)
by Albert Einstein, translated by Satyendra Nath Bose
German original: Die Grundlage der allgemeinen Relativitätstheorie, Annalen der Physik 354 (7), 769-822, Online
BY J. L. SYNGE
H. Minkowski, Raum und Zeit [Physikalische Zeitschrift 10 (1909)104]
Chapter I.
THE SPACE-TIME CONTINUUM AND THE SEPARATION BETWEEN EVENTS
◇ “Oxford English Dictionary” のデータでは、次の情報がありました。◇
(こちらのサイトは、表示可能なタイミングとそうでない時とがあるようです。)
B. n.
1927 S. Ertz Now East, now West viii. 117
I've got quite drunk on theories about the space-time continuum.
アインシュタインの著書には、次のようにありました。
Geometrie und Erfahrung
by Albert Einstein
(P. 20)
As to the part which the new ether is to play in the physics of the future we are not yet clear. We know that it determines the metrical relations in the space-time continuum, e.g. the configurative possibilities of solid bodies as well as the gravitational fields; but we do not know whether it has an essential share in the structure of the electrical elementary particles constituting matter.
☆ 「問題の発生」とは「前進の機会だ」、という話をヒルベルトがした、という問題について、次回。
2015年2月14日土曜日
《アインシュタインが述べたとされる言葉》
問題解決のレベル その2
◎Webで、次のような気になる文章を見つけました。
名言ナビ☆名言データベース
[ 名言 ]
今日我々の直面する重要な問題は、その問題をつくったときと同じ考えのレベルで解決することはできない。
[ 出典 ]
アインシュタイン
[アルベルト・アインシュタイン]
(20世紀の理論物理学者、ノーベル物理学賞受賞、1879~1955)
[ 別表現/別訳 ]
(ver.1)
この世の重要な問題は全て、それを作りだした時と同じ意識レベルで解決することはできない。
(ver.2)
今日世界に存在する問題は、それを作った考えのレベルでは解決できない。
(ver.3)
いかなる問題も、それを作りだした時と同じ意識レベルで解決することはできない。
[英文]
The problems that exist in the world today cannot be solved by the level of thinking that created them.
◎書籍では、次の文章が確認できました。
『ストーリー思考 ――「フューチャーマッピング」で隠れた才能が目覚める』
神田昌典[かんだ・まさのり]/著2014年12月05日 ダイヤモンド社/発行
「第2章 あなたの中に眠っているストーリーの力」
ストーリー思考がもたらす5つの仕事力――その③
「ストーリーは、真の問題をあぶりだす」
(P. 39-40)
「我々の直面する重要な問題は、その問題をつくったときと同じ考えのレベルでは解決することはできない」――アインシュタイン
要は、目の前の問題は、自分が創りだしたのだから、自分の考え方を変えない限り、また同じ問題を創りだしてしまう。だから「考え方」自体を根本的に変えなければならないのだ。しかし、しかし……、
思考の習慣を変えるのは、日常生活の繰り返しの中では、簡単ではない。
◎さらに“Google books”では、次のような文章を見つけました。
では、どうすればいいのでしょうか。
私は、難しい問題に遭遇するたびに、アインシュタインの次の言葉を思い出します。
「今日我々の直面する重要な問題は、その問題をつくったときと同じ考えのレベルで解決することはできない
(Problems cannot be solved by the same level of thinking that created them.)」
『こんなに働いているのに、なぜ会社は良くならないのか?: 人と組織がパワフルに生まれ変わる方法』
森田英一/著
2012年09月 PHPエディターズ・グループ PHP研究所/発行 (国立国会図書館データより)
☆このアインシュタインの言葉は、同じ本の中で再掲されています。
◎この言葉の原典を求めていくと、次のような文章に遭遇することができました。
“Healing and Transformation Through Self-Guided Imagery”
by Leslie DavenportCopyright ? 2009 by Leslie Davenport
(P. 46)
Alice Calaprice’s The New Quotable Einstein attributes Einstein with saying,“The significant problems we face cannot be solved at the same level of thinking we were at when we created them. ” How can you shift levels? One way is to shift the framework entirely.
☆このことに力を得て、斜体で引用した箇所を検索すると、同様の記述が、次のサイトにありました。該当箇所を、またも斜体にします。
Wikiquote
Albert Einstein
・ A new type of thinking is essential if mankind is to survive and move toward higher levels.
......
・ In The New Quotable Einstein (2005), editor Alice Calaprice suggests that two quotes attributed to Einstein which she could not find sources for, "The significant problems we face cannot be solved at the same level of thinking we were at when we created them" and "The world we have created today as a result of our thinking thus far has problems which cannot be solved by thinking the way we thought when we created them," may both be paraphrases of the 1946 quote above. A similar unsourced variant is "The world we have created is a product of our thinking; it cannot be changed without changing our thinking."
......
【上記の引用文献について】
“THE NEW QUOTABLE EINSTEIN”
Edited by Alice Calaprice.c 2005 by Princeton University and The Hebrew University of Jerusalem
Forewordc 1996, 2000, 2005 by Freeman Dyson.
『増補新版 アインシュタインは語る』
2006年08月23日 増補新版 大月書店/発行
「アインシュタインが言ったとされる言葉」
アインシュタインのものである可能性がある、あるいは可能性が高い言葉
(PP. 314-315)
私たちが直面する重大な問題は、私たちがそれを生み出したときと同じレベルの考え方では解決できない。(バリアント――私たちが思考の結果生み出した世界には、それを生み出したときと同じような考え方をしていたのでは解決できない問題がある。)
これもよく問い合わせがあるもの、アインシュタインが1946年に言った言葉、「人類が生き延び、さらに高いレベルに向かって進むには新たな種類の考え方が不可欠だ」の言い換えかもしれない。(ネイサン/ノーデン-383ページ。)
☆この本に、アインシュタインの「ノーベル賞受賞」について記述がありました。
【アインシュタインが前年度分のノーベル賞を受賞した件】
「年表」
1922 年 統一場理論についての最初の論文を仕上げる。10月から12月にかけて、日本に旅行し、極東に行く途中、他にも何か所かに立ち寄る。11月、上海で、自分が1921年度ノーベル物理学賞を受賞したことを知る。(「アインシュタインについてもっともよく聞かれる、科学以外の疑問にたいする答え」を参照。)
(PP. 365-366)
ノーベル賞
1922年11月、アインシュタインは雑誌『改造』(日本)に招かれて極東にいたとき、自分が1921年のノーベル物理学賞を受賞したという正式な知らせを受け取った。授賞理由は「理論物理学への貢献、とくに光電効果の発見」だった。受賞の知らせにどう反応したかについては記録がなく、旅日記もこれに触れていない。(パイス・1982年-503ページ。)~~。
☆他にもいくつかの言葉を、この書籍から紹介したいと思います。
(P. 245)
主なる神は老獪だが、意地悪じゃない。
もともと、1921年5月にプリンストン大学の数学教授、オスカー・ヴェブレンに向かって言った言葉。~~。
学部のラウンジ、ジョーンズ・ホール(この名称のプリンストンの数学科の新しい建物が建つまでは、ファイン・ホールと呼ばれていた建物)の202号室の暖炉の上の石には、もとのドイツ語“Raffiniert ist der Herr Gott, aber boshaft ist Er nicht”が永久に刻みこまれている。(“Herr Gott”は“Herrgot”が正しい。)この言葉はさまざまな翻訳で広く引用されている。パイス・1982年、フランク(英語版)-285ページ、ホフマン・1972年-146ページなど。
考え直したよ。もしかすると神は意地悪かもしれないね。
ヴァレンタイン・バーグマンに、現実には理解しているどころではないのに、神は私たちに、何かを理解したと信じこませるという意味。セイエン-51ページ。
(P. 300)
私たちの思考が大体、記号(言葉)を使わずに、それどころか、相当程度、無意識に進行していることに疑いはない。そうでなかったとしたらどうして、ある体験について、まったく自発的に「不思議に思う」などということが、ときどき起こるだろうか? この「不思議に思う」ということは、ある経験が、われわれの内部ですでに十分に不動のものになっている多数の概念と衝突するときに起こるように思われる。
シルプ・1979年-8-9 ページに引用。
(P. 318)
あらゆる困難の真ん中に機会がある。
アインシュタインよりはるかに古いものである可能性が大きい自明の理。
(P. 414)
参考文献
シルプ編 『哲学者・科学者としてのアインシュタイン』 [Schilpp, Paul, ed. Albert Einstein: Philosopher-Scientist. Evanston, III.: Library of Living Philosophers, 1949.]
――編・訳 『アインシュタイン――自伝的ノート』 [――. ed. and trans. Albert Einstein: Autobiographical Notes. Paperback ed. La Salle, III.: Open Court, 1979. (この「ノート」は上掲書にも収録されているが、ページ数が異なっている)]
【参考として:上記の引用文献 (パイス・1982年)】
“'Subtle is the Lord...'
The Science and the Life of Albert Einstein”
Abraham Pais『神は老獪にして… ―アインシュタインの人と学問―』
昭和62年01月30日 産業図書/発行(P. 140)
「神様は老獪である、しかし悪意があるのではない ††」
†† Raffiniert ist der Herr Gott, aber boshaft ist er nicht.
【上記(パイス・1982年-503ページ。)の邦訳箇所】
「30 アインシュタインは如何にしてノーベル賞を手にしたか」
(PP. 666-667)
1922年の11月10日、ベルリンのアインシュタインの住居に電報が配達された。それには‘Nobelpreis fur Physik ihnen zuerkannt naheres brieflich [署名]アウリヴィリウス’†とあった。その同じ日に全く同じ内容の電報がコペンハーゲンのボーアの所にも届いた筈であった。また同じその日、スウェーデン科学アカデミーの幹事クリストファー・アウリヴィリウス教授はアインシュタインに手紙を書いた。「すでに電報でお知らせ致しましたように、昨日開催されました王立科学アカデミーの会合では貴下に昨年度[1921年]のノーベル物理学賞を授与することに致しました。それは、貴下の理論物理学における業績、とりわけ光電効果の法則の発見を考慮致したわけですが、将来に、確認された後で価値を与えられることになるであろう貴下の相対論や重力理論は考慮に入れておりません」[A1]。ボーアは1922年の物理学賞を授与された。
アインシュタインは電報や手紙を受け取るべき家にはいなかった。彼とエルザは日本への旅行の途次にあった。~~。受賞の知らせは彼の旅行の途中に届いたに違いなかった。しかし、いつ、どこで彼がその言葉を受けとったか私は知らない。旅行中彼がつけていた旅日記はこのことについて何も触れていない。††
† ノーベル物理学賞が貴下に授与される。詳しくは手紙で。
†† (訳注) 金子務は電報が11月10日に船にとびこんできたとしている(『アインシュタイン・ショック』Ⅰ巻、河出書房新社、1981、p. 12)。ホフマン・ドゥカスは神戸着(11月17日)の数日前としている。
(P. 678)
文献
A1. C. Aurivillius, letter to A. Einstein, November 10, 1922.
「アインシュタインの伝記についての追記」
(P. 63)
A.アインシュタイン「自伝的覚書き」、Albert Einstein : Philosopher-Scientist (P. Schilpp, Ed.) (『アルバート・アインシュタイン:哲学者‐科学者』(P.シルプ編))に含まれる、Tudor, ニューヨーク、1949。以下Eと引用。アインシュタインの自叙伝に近い、不可欠。(中村誠太郎・五十嵐正敬訳『自伝ノート』。東京書籍、1978。)
資料【上記引用文献 (シルプ・1979年)】について
『自伝ノート』
A. アインシュタイン/著中村誠太郎[なかむら・せいたろう] 五十嵐正敬[いがらし・まさたか]/訳
1978年09月25日 東京図書/発行
(P. 121)
訳者あとがき
この本は、P・A・シルプ博士の編による『アルベルト・アインシュタイン――哲学者・科学者』に寄せられた、アインシュタインの『自伝ノート』(Albert Einstein “Autobiographisches” in “Albert Einstein: Philosopher-Scientist.” edited by P.A. Schilpp)の訳と、アインシュタイン財団の好意によるアインシュタインの写真とを載せたものである。~~。(P. 8)
私にとっては、われわれの思考がかなりのあいだ、記号(言語)なしで進み、それ以後もかなりの程度意識されないでいることは疑いもない。というのは、そうでなければ、ときにある経験についてわれわれがまったく同時に〝驚く〟ということが起こるはずがないではないか。この〝驚き〟というのはある経験がわれわれの内面にすでにしっかりと固定されている概念の世界と矛盾するときに起こるように思われる。このような矛盾がはっきり強烈に経験されたときはいつでも、それはわれわれの思考の世界に決定的な方法で反応をおよぼす。この思考世界の展開はある意味では〝驚き〟からのつづけさまの飛翔である。
☆ アインシュタインと同様に、「矛盾」を乗りこえる「無矛盾性」を追求した同時代人として、ヒルベルトがいます。ヒルベルトは、アインシュタインの数学の師であるミンコフスキーの友人でもありました。
「失敗学」と「創造学」
問題解決のレベル その1
まだ日本が「昭和」だったころ、半村良の『妖星伝』に、その問題解決のヒントが「黄金城」への夢の中に隠されていました。
その一部をご紹介したいと思います。
『妖星伝』
第五部=天道の巻
半村良[はんむら・りょう]/著
昭和54年01月24日 講談社/発行
「逆襲黄金城」 二
(P. 8)
夢助はそのとき、妙な焦燥感の伴なう夢を見ていた。
どこかにとじこめられているようなのだ。目の前に五分角ほどの桟が並んだ格子の扉があり、その格子の隙間から外の道を見ているのだった。格子の扉は片側が一間ほどの大きで、それが対になった両開きの扉であった。
門かも知れない。
夢助はそう思った。格子に触れると冷たい。鉄格子であった。桟を握ってためして見るが、押せども引けどもびくともしなかった。
これは出られぬ。
夢助はくやしく思いながら両側を見ると、その門扉は両側の巨大な石柱にとりつけられていて、石柱の先は左右とも高い石の塀がつらなっている。
地面には短い草が生え、それがびしょびしょに濡れている。空を仰げば陰鬱な雲が重苦しくたれこめている。風はまったくない。
「出してくれ……」
その重苦しさが焦りを掻きたて、夢助はつい大声で叫んだ。両手に力をこめて鉄格子をゆさぶるが、頑丈な鉄格子は力タリともしない。
「出してくれえ……」
おのれの夢の観察者である夢助は、その様子を村のはずれに立って眺めていた。白樺の林が夢助の背後にあり、少し風が吹いているようだった。
夢助は鉄格子の門扉の内側で外に出たがっている自分を、もどかしく眺めていた。その門扉と林を背にした夢助の間には、幅の広い道が左右に坦々と続いていて、その両側には短い草が生えているのだ。
草は立っている夢助の足もとにもある。つまり、夢助は門扉の真正面の道をはさんだ反対側に立っており、道にそって石の塀と平行に林がつらなっているのである。
「向こうへ行け。左だ、いや、右だ」
夢助は一度言い間違え、いっそうもどかしくなって門扉の中の自分に、右手の指で左のほうを示して教えている。
向かって右側の石の塀は、えんえんと道ぞいにはてしなく続いているが、左側の塀は門扉の中の夢助から、ほんの四、五間のところで欠け崩れ、そこから先、門の内と外を区切るものは何ひとつないのだ。
☆以上、問題を俯瞰する立場を身に着けることの重要性をつくづく思い知らされた次第であります。
◎ さて、より高いレベルでの問題解決法を、「上位概念」に登る、という表現で記述した文献として、『創造学のすすめ』という単行本がありますが、まずは、その数年前に刊行された『失敗学のすすめ』という本の内容から見ていきたいと思います。
【失敗学サイト参照リンク】
『失敗学のすすめ』 書籍紹介 (CiNii)
失敗知識データベース
【失敗学と創造学】
『失敗学のすすめ』
畑村洋太郎[はたむら・ようたろう]/著2000年11月20日 講談社/発行
(P. 216)
そうなると、実際の異常の発生にも、どうしても反応がにぶくなりがちです。同時に、日ごろから「考えないこと」に慣らされているため、本来、異常を起こさないようにするためのTQCが逆に、発生した異常を前にして、担当者を思考停止状態に陥れる危険性があることはすでに述べたとおりです。
(P. 220)
TQCの問題で見られるように、現実に読者のあなたがいる組織でもいろいろ失敗を誘発し、創造力をそぐ仕組みや人間が存在しているかもしれません。
俗に「せんみつ」などといわれるように、新しいことに挑戦するときには、千のものを手がければ、そのうちの三つ程度がかろうじてうまくいくといわれます。~~。
(P. 221)
ダメ上司の典型例は、「そんなことをやってもうまくいかない」「自分も過去にやったけど、ムダだったからやめておいた方がいい」などと軽薄な失敗談を語って部下のやる気をそいでいる人です。実際は、考えられるあらゆる問題を想定して徹底的に試したことなどなく、適当にちょっとかじった程度の体験談に基づいて話していることがほとんどですから、この種の失敗体験談のほとんどは信用するに値しません。
いわゆる偽ベテランに多いダメ上司が軽薄な失敗体験談を話す背景には、多くの場合、それまで慣れ親しんだ方法を変えられるのが面倒だという身勝手な感情があります。とくに老齢化の著しい組織でよく見られるパターンで、その中で真剣に改革を提案していこうとする人は、ダメ上司の説得に時間を浪費し、心を疲弊させられることになりかねないので本当に困った存在です。
『創造学のすすめ』
畑村洋太郎[はたむら・ようたろう]/著2003年12月20日 講談社/発行
(P. 53)
共通概念で括ることの大きな意義のひとつは、括ることで個別の要素の概念が「上位概念」の登ることです。~~。
上位概念に登ることの意義は、実際に創造作業を進める際、最初に集めた要素が自分が求めている機能に必要なものかどうかをまず検討できることです。これが「使う概念(要素)を取捨選択する」ということであり、そして「必要な下位概念を探し出す」ということです。
(P. 56)
~~使おうとする概念(要素)がそのままではうまくいかないとわかった場合は、一度上位概念に登って選択し直すという作業をすると創造の幅は確実に広がります。
『畑村式「わかる」技術』
講談社現代新書 1809畑村洋太郎[はたむら・ようたろう]/著
2005年10月20日 講談社/発行
(P. 90)
現代社会で本当に必要とされていることは、与えられた課題を解決する「課題解決」ではなく、事象を観察して何が問題なのかを決める「課題設定」です。課題解決と課題設定のちがいは、「HOW」と「WHAT」のちがいと言ってもいいでしょう。
『図解雑学 失敗学』
畑村洋太郎[はたむら・ようたろう]/著2006年08月10日 ナツメ社/発行
(P. 118)
~~。課題は問題意識という言葉でも置き換えられます。
(P. 119)
◇課題設定とはどんなものか◇
ある事柄を見たとき、それのどこに問題があるかを発見するのは、ちょっと頭のいい人なら誰でもできる。これは「問題発見能力」というが、それらの問題のなかから自分がやるべきことを課題として選定するのが「課題設定能力」だ。身につけるべきは、問題発見より課題設定の能力である。
☆ しかしながら、畑村洋太郎氏の「失敗学」等を紹介した文献の中にも、「問題発見能力」の大切さを主張の中心に置いているように疑えるものがあるのは、私の非力さゆえの読み間違いなのでしょう。
2015年2月2日月曜日
〈巨人の肩の上に乗っている矮人〉
“Nani gigantum humeris insidentes”
柴田平三郎 『中世の春 ソールズベリのジョンの思想世界』 より
この言い回しは、ニュートンも使用した比喩である。
ということの根拠を過去の文献等に求める。――と、いうこと。
資料・参考文献の参照
すなわち、つまりは今から「巨人の肩に乗る」。
◎Web
「巨人の肩の上」 Wikipedia
「参照文献はなぜ必要か : その目的と機能」
◎文献
〔特装版〕 岩波新書 評伝選
『ニュートン』
島尾永康[しまお・ながやす]/著
1994年06月20日 岩波書店/発行
《本書は 1979年06月20日に岩波新書(黄版)として刊行されたものです。》
「Ⅲ 巨人の肩にのって」
2 フックとニュートンの光学論争
(PP. 82-83)
「~~。デカルトがやったことは、よき一歩でした。あなたは種々の点で、とくに薄膜の色の考察で多くを付け加えられました。もし私が、より遠くを眺められたとすれば、それは巨人たちの肩にのったからであります。………(以下略)」(フック宛、一六七五/六年二月五日)
~~。
「巨人の肩にのって」の句は、ニュートンが使ったことで有名になったが、ニュートンが創り出した表現ではない。巨人の肩にとまる小人という比喩は中世以来のものである。われわれが先人よりも多くを見ることができ、遠くまで眺望できるのは、われわれの視力が優れているからでも、背が高いからでもない。巨大な先人たちの肩にのっているからである。そういう意味に使われた。文字通りにとれば、それはニュートンの非常な謙虚さの表現である。しかし果してそうだろうか。両者のこの手紙のやりとりは、和解とみてよいのだろうか。
~~。圧倒的な影響をうけたデカルトについても、「デカルトのやったことは、よき一歩だった」と軽くあしらったにすぎず、フックが、「種々の点で、多くを付け加えた」ことは認めても、それは薄膜だけのことだとする。
【この(往復)書簡の邦訳文献】
「知の再発見」双書 139
『ニュートン ――宇宙の法則を解き明かす』
ジャン=ピエール・モーリ/著
田中一郎/監修
遠藤ゆかり/訳
2008年08月10日 創元社/発行
「資料篇」
(PP. 118-122)
1 巨人たちの肩
フックからニュートンへの手紙
ケンブリッジ、トリニティ・カレッジ
敬愛なる友人、アイザック・ニュートン氏へ
1676年01月20日 ロバート・フック
ニュートンの返信
ケンブリッジ、1676年02月05日 アイザック・ニュートン
――「巨人の肩にのって」の句は、ニュートンが使ったことで有名になったが、ニュートンが創り出した表現ではない。
とあるように、つまりその言葉は古くからの言い回しなのでした。
『引用する極意、引用される極意』
林紘一郎[はやし・こういちろう] 名和小太郎[なわ・こたろう]/著
2009年04月15日 勁草書房/発行
「第1章 学問における引用の役割」
3.引用と学問の発展 (P. 11)
この点をより良く理解するために、「私が遠くを見ることができたのは、巨人の肩に立つことによってである」という文章に関する逸話を、紹介するのが有益でしょう。通常この言葉は、ニュートン自身が最初に発したと信じられていますが、坂本[2008]によれば、12世紀のシャルトルのベルナールに始まっており(P.169)、ニュートンはその後継者に過ぎないといいます。
【上記の根拠を「坂本[2008](P.169)」以外の文献に求める】
『中世の春 ソールズベリのジョンの思想世界』
柴田平三郎[しばた・へいざぶろう]/著
2002年05月20日 慶應義塾大学出版会/発行
第Ⅰ部 文芸思想
第1章 〈巨人の肩の上に乗る矮人〉 ――ソールズベリのジョンの思想世界―― (PP. 13-14)
序
十二世紀西欧世界が生んだ、傑出した人文主義者ソールズベリのジョン(John of Salisbury, ラテン名 Johannes Saresberiensis, 1115/20-80)は齢四〇歳頃に執筆した『メタロギコン]』(Metalogicon, 1159)のなかで、若き日の自分の修業時代を振り返り、次のように述べている。
シャルトルのベルナルドゥスはわれわれをよく巨人の肩の上に乗っている矮人に準えたものであった。~~。(Ⅲ,4.)
〈巨人の肩の上に乗っている矮人〉(Nani gigantum humeris insidentes)――シャルトル学派の総帥ベルナルドゥスの語ったこととして、ジョンによって伝えられたこの言葉は、~~。
【『メタロギコン』の邦訳】
『中世思想原典集成 8 ――シャルトル学派――』
上智大学中世思想研究所|岩熊幸男[いわくま・ゆきお]/編訳|監修
2002年09月17日 平凡社/発行
「メタロギコン…………ソールズベリーのヨハネス」 (P. 581 ~)
甚野尚志+中澤務+F・ペレス/訳
第三巻第四章
(PP. 730-731)
シャルトルのベルナルドゥスは、われわれはまるで巨人の肩に坐った矮人のようなものだと語っていた~~(訳註 302)。
(訳注 302)――――「巨人の肩に乗った矮人」の比喩はすでに、ヨハネスの師であったコンシュのギヨームが『プリスキアヌス註釈』(Glosae super Priscianum)の中でも述べている。ヨハネスはおそらくこの比喩をギヨームから学んだと思われる。だがギヨームの場合、それはシャルトルのベルナルドゥスが語ったものとはされておらず、一般に古代の著作家が同時代人より偉大であることを称えるために、この比喩を用いている。~~。
かなり遠くまで見えてきたと思うので、ここでいったん「巨人の肩」から降ります。
が――。
☆ ちなみに、巨人の肩の上の巨人、ニュートンは次のような言葉も残しているのです。
Isaac Newton
OPTICKS, 3rd ed. 1721
『光学』
ニュートン/著
島尾永康/訳
岩波文庫〔青 904-1〕
1983年11月16日 第1刷発行
(P. 302)
疑問 1
物体はある距離をおいて光に作用し、その作用によって光の射線を曲げるのではないか。そしてこの作用は(他の事情が同じならば)最小の距離において最も強いのではないか。
☆ ニュートンのこの言葉は、1919年5月29日の日食観測を行った、イギリスのエディントンによって証明されることになります。そのことをきっかけとして、アインシュタインにノーベル賞が授与される気運が高まります。――ようするに、このことは、よく言われているように、ニュートンの「古典力学」を完成させたのはアインシュタインであり、それは「一般相対性理論」に結実されたということのようです。
この件でまた、さっそく巨人の肩によじ登りましょう。
【一般相対性理論とニュートンの関係について】
Subrahmanyan Chandrasekhar
“TRUTH AND BEAUTY Aesthetics and Motivations in Science”
c1987 University of Chicago Press
『真理と美 科学における美意識と動機』
叢書 ウニベルシタス 585
スブラマニアン・チャンドラセカール/著
豊田彰[とよだ・あきら]/訳
1998年07月28日 法政大学出版局/発行
(P. 222)
ニュートンは事実まさにこの点〔物体の作用により光線が曲げられること〕を『光学』の疑問1でほのめかしたのでありまして、彼の提案からは半分の値が導かれるでありましょう。
【アインシュタインに関して】
『科学の世紀を開いた人々 (上)』
「ニュートン」編集長 竹内均[たけうち・ひとし]/編
1999年04月10日 ニュートンプレス/発行
「日食と一般相対性理論とエディントン」 (PP. 348-349)
アインシュタインがいうように、太陽のような重い物質の引力によって光が減速されてその進路が曲げられるとすれば、日食のときに撮った空の写真には、普通のときの位置とは少しちがう位置に見える星がいくつかあるはずである。たまたま一九一九年五月二九日に日食があり、それはこの推論を確かめる絶好の機会であった。イギリスはエディントンを隊長とする観測隊を西アフリカのギニア湾にあるリンシペ島へ送り、もう一つの隊をブラジルのソブラルへ送った。この二つの場所では、日食が五分以上つづくはずであった。観測の結果は、アインシュタインの推論を完全に証明した。
世界大戦の直後に、それまではたがいに敵国だったドイツの科学者が考えた理論を、イギリスの科学者たちの観測が確かめた。一般の人にはとても理解できない抽象的で数学的な理論が、日食という天空でのドラマによって確かめられた。この演出は完璧[かんぺき]であり、人々は熱狂した。一九一九年一二月二日にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジのホールで、一般相対性理論についてのエディントンの講演会が開かれた。~~。
〔同等内容の資料〕
『宇宙は科学の宝庫』 (PP. 157-159)
竹内均/編
2002年07月10日 ニュートンプレス/発行
【その他/問題解決の手法について】
「ビッグワード」という言葉があるようです。
『グロービズ MBA ビジネス・ライティング』
嶋田毅/監修
グロービズ経営大学院/著
2012年03月08日 ダイヤモンド社/発行
(PP. 65-66)
◎――ビッグワードを避ける
ビッグワードとは、何か正しいことを言っているようで、実際にはほとんど中身がない言葉である。~~。
~~。中身がないので、「具体的にどういうことですか?」と突っ込まれると答えに窮してしまう。口の悪い人などは、ビッグワードのことを「思考停止ワード」と呼ぶこともある。
柴田平三郎 『中世の春 ソールズベリのジョンの思想世界』 より
この言い回しは、ニュートンも使用した比喩である。
ということの根拠を過去の文献等に求める。――と、いうこと。
資料・参考文献の参照
すなわち、つまりは今から「巨人の肩に乗る」。
◎Web
「巨人の肩の上」 Wikipedia
「参照文献はなぜ必要か : その目的と機能」
◎文献
〔特装版〕 岩波新書 評伝選
『ニュートン』
島尾永康[しまお・ながやす]/著
1994年06月20日 岩波書店/発行
《本書は 1979年06月20日に岩波新書(黄版)として刊行されたものです。》
「Ⅲ 巨人の肩にのって」
2 フックとニュートンの光学論争
(PP. 82-83)
「~~。デカルトがやったことは、よき一歩でした。あなたは種々の点で、とくに薄膜の色の考察で多くを付け加えられました。もし私が、より遠くを眺められたとすれば、それは巨人たちの肩にのったからであります。………(以下略)」(フック宛、一六七五/六年二月五日)
~~。
「巨人の肩にのって」の句は、ニュートンが使ったことで有名になったが、ニュートンが創り出した表現ではない。巨人の肩にとまる小人という比喩は中世以来のものである。われわれが先人よりも多くを見ることができ、遠くまで眺望できるのは、われわれの視力が優れているからでも、背が高いからでもない。巨大な先人たちの肩にのっているからである。そういう意味に使われた。文字通りにとれば、それはニュートンの非常な謙虚さの表現である。しかし果してそうだろうか。両者のこの手紙のやりとりは、和解とみてよいのだろうか。
~~。圧倒的な影響をうけたデカルトについても、「デカルトのやったことは、よき一歩だった」と軽くあしらったにすぎず、フックが、「種々の点で、多くを付け加えた」ことは認めても、それは薄膜だけのことだとする。
【この(往復)書簡の邦訳文献】
「知の再発見」双書 139
『ニュートン ――宇宙の法則を解き明かす』
ジャン=ピエール・モーリ/著
田中一郎/監修
遠藤ゆかり/訳
2008年08月10日 創元社/発行
「資料篇」
(PP. 118-122)
1 巨人たちの肩
フックからニュートンへの手紙
ケンブリッジ、トリニティ・カレッジ
敬愛なる友人、アイザック・ニュートン氏へ
1676年01月20日 ロバート・フック
ニュートンの返信
ケンブリッジ、1676年02月05日 アイザック・ニュートン
――「巨人の肩にのって」の句は、ニュートンが使ったことで有名になったが、ニュートンが創り出した表現ではない。
とあるように、つまりその言葉は古くからの言い回しなのでした。
『引用する極意、引用される極意』
林紘一郎[はやし・こういちろう] 名和小太郎[なわ・こたろう]/著
2009年04月15日 勁草書房/発行
「第1章 学問における引用の役割」
3.引用と学問の発展 (P. 11)
この点をより良く理解するために、「私が遠くを見ることができたのは、巨人の肩に立つことによってである」という文章に関する逸話を、紹介するのが有益でしょう。通常この言葉は、ニュートン自身が最初に発したと信じられていますが、坂本[2008]によれば、12世紀のシャルトルのベルナールに始まっており(P.169)、ニュートンはその後継者に過ぎないといいます。
【上記の根拠を「坂本[2008](P.169)」以外の文献に求める】
『中世の春 ソールズベリのジョンの思想世界』
柴田平三郎[しばた・へいざぶろう]/著
2002年05月20日 慶應義塾大学出版会/発行
第Ⅰ部 文芸思想
第1章 〈巨人の肩の上に乗る矮人〉 ――ソールズベリのジョンの思想世界―― (PP. 13-14)
序
十二世紀西欧世界が生んだ、傑出した人文主義者ソールズベリのジョン(John of Salisbury, ラテン名 Johannes Saresberiensis, 1115/20-80)は齢四〇歳頃に執筆した『メタロギコン]』(Metalogicon, 1159)のなかで、若き日の自分の修業時代を振り返り、次のように述べている。
シャルトルのベルナルドゥスはわれわれをよく巨人の肩の上に乗っている矮人に準えたものであった。~~。(Ⅲ,4.)
〈巨人の肩の上に乗っている矮人〉(Nani gigantum humeris insidentes)――シャルトル学派の総帥ベルナルドゥスの語ったこととして、ジョンによって伝えられたこの言葉は、~~。
【『メタロギコン』の邦訳】
『中世思想原典集成 8 ――シャルトル学派――』
上智大学中世思想研究所|岩熊幸男[いわくま・ゆきお]/編訳|監修
2002年09月17日 平凡社/発行
「メタロギコン…………ソールズベリーのヨハネス」 (P. 581 ~)
甚野尚志+中澤務+F・ペレス/訳
第三巻第四章
(PP. 730-731)
シャルトルのベルナルドゥスは、われわれはまるで巨人の肩に坐った矮人のようなものだと語っていた~~(訳註 302)。
(訳注 302)――――「巨人の肩に乗った矮人」の比喩はすでに、ヨハネスの師であったコンシュのギヨームが『プリスキアヌス註釈』(Glosae super Priscianum)の中でも述べている。ヨハネスはおそらくこの比喩をギヨームから学んだと思われる。だがギヨームの場合、それはシャルトルのベルナルドゥスが語ったものとはされておらず、一般に古代の著作家が同時代人より偉大であることを称えるために、この比喩を用いている。~~。
かなり遠くまで見えてきたと思うので、ここでいったん「巨人の肩」から降ります。
が――。
☆ ちなみに、巨人の肩の上の巨人、ニュートンは次のような言葉も残しているのです。
Isaac Newton
OPTICKS, 3rd ed. 1721
『光学』
ニュートン/著
島尾永康/訳
岩波文庫〔青 904-1〕
1983年11月16日 第1刷発行
(P. 302)
疑問 1
物体はある距離をおいて光に作用し、その作用によって光の射線を曲げるのではないか。そしてこの作用は(他の事情が同じならば)最小の距離において最も強いのではないか。
☆ ニュートンのこの言葉は、1919年5月29日の日食観測を行った、イギリスのエディントンによって証明されることになります。そのことをきっかけとして、アインシュタインにノーベル賞が授与される気運が高まります。――ようするに、このことは、よく言われているように、ニュートンの「古典力学」を完成させたのはアインシュタインであり、それは「一般相対性理論」に結実されたということのようです。
この件でまた、さっそく巨人の肩によじ登りましょう。
【一般相対性理論とニュートンの関係について】
Subrahmanyan Chandrasekhar
“TRUTH AND BEAUTY Aesthetics and Motivations in Science”
c1987 University of Chicago Press
『真理と美 科学における美意識と動機』
叢書 ウニベルシタス 585
スブラマニアン・チャンドラセカール/著
豊田彰[とよだ・あきら]/訳
1998年07月28日 法政大学出版局/発行
(P. 222)
ニュートンは事実まさにこの点〔物体の作用により光線が曲げられること〕を『光学』の疑問1でほのめかしたのでありまして、彼の提案からは半分の値が導かれるでありましょう。
【アインシュタインに関して】
『科学の世紀を開いた人々 (上)』
「ニュートン」編集長 竹内均[たけうち・ひとし]/編
1999年04月10日 ニュートンプレス/発行
「日食と一般相対性理論とエディントン」 (PP. 348-349)
アインシュタインがいうように、太陽のような重い物質の引力によって光が減速されてその進路が曲げられるとすれば、日食のときに撮った空の写真には、普通のときの位置とは少しちがう位置に見える星がいくつかあるはずである。たまたま一九一九年五月二九日に日食があり、それはこの推論を確かめる絶好の機会であった。イギリスはエディントンを隊長とする観測隊を西アフリカのギニア湾にあるリンシペ島へ送り、もう一つの隊をブラジルのソブラルへ送った。この二つの場所では、日食が五分以上つづくはずであった。観測の結果は、アインシュタインの推論を完全に証明した。
世界大戦の直後に、それまではたがいに敵国だったドイツの科学者が考えた理論を、イギリスの科学者たちの観測が確かめた。一般の人にはとても理解できない抽象的で数学的な理論が、日食という天空でのドラマによって確かめられた。この演出は完璧[かんぺき]であり、人々は熱狂した。一九一九年一二月二日にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジのホールで、一般相対性理論についてのエディントンの講演会が開かれた。~~。
〔同等内容の資料〕
『宇宙は科学の宝庫』 (PP. 157-159)
竹内均/編
2002年07月10日 ニュートンプレス/発行
【その他/問題解決の手法について】
「ビッグワード」という言葉があるようです。
『グロービズ MBA ビジネス・ライティング』
嶋田毅/監修
グロービズ経営大学院/著
2012年03月08日 ダイヤモンド社/発行
(PP. 65-66)
◎――ビッグワードを避ける
ビッグワードとは、何か正しいことを言っているようで、実際にはほとんど中身がない言葉である。~~。
~~。中身がないので、「具体的にどういうことですか?」と突っ込まれると答えに窮してしまう。口の悪い人などは、ビッグワードのことを「思考停止ワード」と呼ぶこともある。
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