2019年5月30日木曜日

《箸墓古墳の軸線》のことなど

 ○ 昨年の夏(2018年7月28日土曜日)、『古墳の方位と太陽』から、「箸墓古墳:日輪の祭壇」のページに、次のように引用しました。

『古墳の方位と太陽』

「第 5 章 大和東南部古墳群」

 1.(6)前方後円墳の主軸方位と太陽の運行

 ① 纒向石塚古墳 …… 箸墓古墳の軸線と弓月岳 409 m ピークは 0.1° (6′) の誤差をもち、西山古墳の軸線と高橋山 704 m ピークは 0.4° (24′) の誤差をもつ。これが資料の実態であるから、この誤差ゆえに私の主張する事実関係には厳密さが伴わないとの批判もありうることである。しかしこの程度の誤差は許容される範囲内だと私は判断するが、そのいっぽうで、纒向石塚古墳の場合には検討が必要である。その前方部は三輪山山頂を向くと判断できるか否かであるが、本古墳にたいする私の築造企画復元案では、3.2° の振れ幅をもって三輪山山頂方向に軸線を向けることになり、それを意味のある事実とみなすか単なる偶然とみなすべきかの判断は微妙である。
〔北條芳隆/著『古墳の方位と太陽』 2017年05月30日 同成社/発行 (p. 159)

 ○ またそのおよそ 10 日前には、『理科年表』から次のデータを引用しています。

『理科年表』

「暦44 (44)」

各地の日出入方位 北緯 34°

夏至    + 29.3 (°)
立夏・立秋 + 20.5 (°)
春分・秋分 + 0.6 (°)
立春・立冬 - 19.2 (°)
冬至    - 28.0 (°)
〔『理科年表』第91冊(平成30年) 自然科学研究機構 国立天文台/編 平成29年11月30日 丸善出版/発行〕


 ○ いま一度『古墳の方位と太陽』から、最近の研究を参照して、次へのステップとしたいと思います。


『古墳の方位と太陽』

「第 3 章 弥生・古墳時代への導入」

 1. 検討すべき課題

 (p. 60)
 とりわけ夏至や冬至の日の出と日の入りに向けて、人類は古今東西を問わず特別な感情を抱いたようで、その期日に合わせた祭祀が各地で同時多発的に開催されてきた。
 なぜ夏至や冬至が知覚されやすいのかといえば、一日の日照時間が最長であるか最短であるかといった次元とは別に、それぞれ前後 5 日間程度は日の出も日の入りも、みかけ上は同じ場所から登り、同じ場所に沈むからである。日の出や日の入りの場所が日ごとに移動する現象はほぼ年間を通じて観測される。それが日常的な感覚である。ところがその移動が止まるわけだから、その到来は過去の人びとに強い印象を与えたはずである。いわば非日常的感覚を促す現象だとみてよい。

 2. 日の出の方位角

 (1) 作業の経緯
 (p. 61)
 では現在の年間の日の出方位と過去のそれとはどのような関係にあるのかを検討したい。地表上から観測されるみかけの太陽の軌道は、主に歳差現象によって約 26,000 年の周期で変動しており、現在の日の出や日の入り方位と過去のそれとは異なっている。さらに現在の黄道傾斜角は 23.4 度であるが、過去 9000 年間は着実な減少局面にある。それが日の出の方位にどの程度の影響を与えるのかが判明すれば、およその理解は可能になる。

 (2) 過去と現在の日の出方位角の変遷
 (p. 64)
 上記の経緯のもと、吉井の手によって約半年間の検討作業がおこなわれた結果、完成されたものが表 3?1〔引用注:表はこのあとで一部を引用〕である。経度については唐古・鍵遺跡の古相大型建物の中心付近(東経 135 度 50 分 00 秒)に固定した。緯度については北緯 23 度を南限とし、北緯 65 度を北限とした。南限は北回帰線付近での様相を知るために設定しており、北限はストーンヘンジ近辺(北緯 51.7 度)より高緯度地帯の様相を比較する目的で設定した。途中に割り振った北緯 32 度は九州南部に、34 度は近畿地方に、36 度は関東地方に、40 度は東北地方北部にそれぞれ対応させる意図をもたせている。
 (p. 65)
 計算結果から導かれる所見を説明すると、紀元前 3000 年の夏至の日の出方位角は北緯 23 度-北緯 57 度の間で 23.84° (50.56° - 26.73° ) の差をもつが、西暦 2016 年の夏至の日の出方位角は北緯 23 度-北緯 57 度の間で 22.86° (48.86° - 26.00° ) の差となり、過去 5016 年間に 0.97° の減少であることがわかる。
 重要なのはここからだが、北緯 34 度地点でみた場合、夏至の日の出方位角は紀元前 3000 年から西暦 2016 年までの間に 0.83° (30.16° - 29.33° ) 減少したことがわかる。いっぽう北緯 57 度地点でみた場合、紀元前 3000 年から西暦 2016 年までの間には 1.70° (50.56° - 48.86° ) 減少となる。
 ようするに高緯度地帯ほど、黄道傾斜角の減少による日の出方位角への影響は高くなり、低緯度地帯ほどその影響は低くなるわけであるが、北緯 34 度地点の場合には 5000 年間で 1° 未満の減少だと見込めることになる。また同様の計算を北緯 32 度地点でおこなえば 0.81° (29.38° - 28.57° ) の減少、北緯 36 度地点では 0.86° (31.02° - 30.16° ) の減少、北緯 40 度地点では 0.93° (33.05° - 32.12° ) の減少、北緯 46 度地点では 1.07° の減少 (37.08° - 36.01° ) となる。

 (3) 学史にたいする若干の考察
 (pp. 70-71)
 カルナック神殿については、…… 夏至の日の出方位角は過去 5016 年間で 0.74° 前後の減少となる。
 ちなみに太陽の視直径は夏至と冬至とでわずかに異なり冬至(近日点)の方が大きくなるが、平均は 0.53° といわれている。したがって日の出方位角が 0.53° 違う場合に、みかけ上の太陽はちょうど 1 個分のズレを生じることになる。カルナック神殿における過去 5000 年間の夏至の日の出方位の変化は、西側から見たとき太陽 2 個分の右方向へのズレに届かず 1.43 個分のズレということになろうか。数字に置き換えると判断は微妙であるが、実際の太陽は視直径の 3 倍程度の範囲に光彩を放つから、視覚上は顕著な差でないともいえる。さらに春分は 0.15° の差、秋分は 0.27° の差となり、視覚上はほとんど動いていない。したがって年間の日の出方位の様相と遺跡の軸線との関係について、相当な絞り込みは可能であった。
 だからこれらの神殿遺跡やピラミッド遺跡において、二至二分の日の出や日の入り方位との深い結びつきが指摘され、それぞれの文化が育んだ暦や祭祀の季節性にかかわる問題が早くから指摘されてきた背景には、こうした地理的環境要因も絡んだからだと理解することが許されるのではあるまいか。
 そして悩ましいのは日本考古学界の動向であることはいうまでもない。縄文時代については、たとえば秋田県大湯環状列石と太陽の運行とが結びつく事実について、比較的早くから指摘されてきた。近年では青森県三内丸山遺跡や石川県真脇遺跡などについても積極的な検討がおこなわれている。さきに紹介した『縄文ランドスケープ』などは、こうした学界動向を代表する著作だといえるだろう。

 3. 天の北極と「北極星」

 (1)「北辰」に星なし
 (pp. 75-77)
 真北の方位を見定めるとき、通常の感覚では夜空に輝く「北極星」の位置を見れば決まると考えるはずである。たしかに現在の北極星(小熊座の α 星)は天の北極に最も近い星であり、赤緯 89 度 15 分に位置している。しかし過去を問題にするとき、このような認識は実態とかけはなれてしまう。夜の星空もまた歳差現象のもと 26,000 年周期をもって変動中であり、地上から北の空をみつめても、不動の「北極星」など存在しなかったからである。
 とはいえ天文学界では常識であっても、それが人文科学に定着するには時間がかかり、歴史学にも深刻な影響があることへの認識が広まるきっかけとなったのは、おそらく福島久雄(物理学・北海道大学)の著作ではないかと思われる。『孔子の見た星空』との表題どおり、福島は古代中国における星空の時代別変遷を再現し、孔子のいう北辰とは特定の星を指したものではなく、ましてや現在の「北極星」ではありえないことを具体的に論証した(福島 1997〔福島久雄 1997『孔子の見た星空 ― 古典詩文の星を読む ―』大修館書店〕)。
 この著作は、ともすれば不動の北極星だと勘違いしている私たちの常識に大幅な修正を迫るものであった。〈ステラナビゲーター〉の存在を私が知ったのは、福島の著作において本ソフトをもちい再現された天体図が数多く掲載されていたことによる。
 そのため本書でも福島の作業にならうこととし、〈ステラナビゲーター (10)〉を使用して歳差現象による極の変動を概観する。その状況を示したものが図 3?3〔引用注:図は省略〕である。図中の半円が歳差円である。半径約 23.4° の円を描いている。そのために、たとえば紀元前 200 年の北天には星がなく、別の星が最近似点に輝いていた。
 (p. 77)
 つまり弥生時代から古墳時代にかけて、天の北極には示準点となる「北極星」は不在だったのであり、空白の極を現在のこぐま座とおおぐま座がはさみつつ、その周囲をめぐる北天の情景だったことがわかる。歳差現象が夜空の情景に与えた作用の一端である。
 なお古代中国では周代から天体の運行が観察された記録があり、諸王朝に仕えた天官のもとで、長い天文観測の蓄積があった。だから北辰信仰とよばれる思想の拠り所となった「北辰」とは、あくまでも天の北極を指すものであって、特定の星を意味する名称ではないことも周知されていた。それゆえのちの時代になっても「北辰に星なし」と指摘されたのである。
〔『古墳の方位と太陽』(pp. 60-77)


 ○ 今回の引用文中〔『古墳の方位と太陽』(p. 65) 〕には、

 重要なのはここからだが、北緯 34 度地点でみた場合、夏至の日の出方位角は紀元前 3000 年から西暦 2016 年までの間に 0.83° (30.16° - 29.33° ) 減少したことがわかる。

と書かれていて、その一覧表 (pp. 66-67)西暦 250 年(p. 66) の箇所には、次の数値が記載されています。

表 3‑1 過去と現在の日の出方位(吉井理作成)
西暦 250 年 北緯 34 度
夏至 + 29.61694791
秋分 + 0.555183842
冬至 - 28.30393068
春分 + 0.257253002


 ◎ これらの数字を四捨五入して小数点以下第一位までを、現在の値と比較計算すれば、

夏至 29.6 - 29.3 = 0.3
冬至 28.3 - 28.0 = 0.3

となって〝夏至〟と〝冬至〟で、いずれも、0.3° の差が見られます。
―― これに、70 ページの記述、

ちなみに太陽の視直径は夏至と冬至とでわずかに異なり冬至(近日点)の方が大きくなるが、平均は 0.53° といわれている。

を合わせて考えると、箸墓古墳築造時と現在とで、おおよそ、太陽の見た目半分程度のズレが生じている、ということになります。
 先に再引用した記述では、専門家の見地から 1° 未満の誤差を許容範囲とするかどうかが論じられていましたけれど、しかしながら現代のカレンダーと比較するという範囲であれば、農作業のカレンダーは、太陽半分程度のズレであれば大きく異ならない、ともいえましょう。

◈ 昨年「箸墓古墳:日輪の祭壇」のページにはまた《箸墓古墳の 中軸線 22.3 度》の意味合いについて、自身の見解としてこう書いていました。


 ようするに、現代のカレンダーには五月中旬頃にその日が書き込めるはずだ、というわけだ。
 では、五月の中旬に、そのあたりで何があるかというとこれもインターネット上の情報で、奈良県のホームページなどでも、「田植えの始まる時期」だということが、確認できるのである。
 そういう次第で、おおまかな話としてだけれども、〝箸墓は五穀豊穣の祭祀に用いられていたのではないか〟という課題が、机上の推論の結果、提案できることとなる。


◉ この内容に対する、大きな変更点は、いまのところなさそうに思われます。


0 件のコメント:

コメントを投稿